2 ☆
トランペットの演奏が鳴り響き、横断幕が翻る。観光客の騒音を除けば比較的静かであった公園の敷地内も、ここだけはパレードの世界が広がっているようだ。
ノア・ガブリール。イギリス人の男性である彼は、魔法世界では知る人ぞ知る、魔法の博士である。ネット百科事典での年齢は、まだ一九歳だそうだ。
「ガブリール、魔法博士……!」
心羽は髪の耳と尻尾をぴんと立て、魔法の力で浮かんでいる横断幕を興味津々そうに見つめている。
「ガブリール魔法博士? 来日していたのか?」
誠次も名前と容姿、そして彼の実績はよく知っており、数々の魔法を発明した偉大な魔法博士である。本も多数出版しており、そう言えば心羽も学園の図書館で、彼の本をよく読んでいたっけかとも思い出す。
「ガブリール魔法博士? ああ、イギリス人の魔法博士ね」
やや遅れてやって来た篠上は、大して興味がなさそうに呟く。
「ガブリール? 誰、それ」
結衣に至っては、ガブリールの存在すら知らなかった様子で、きょとんとしている。
「ガブリール魔法博士、知らないの!?」
心羽がびっくり仰天しており、誠次も驚愕して結衣を見つめる。
「知らないのか!?」
「う……し、知ってるし! アレでしょ!? とにかく凄い人!」
結衣は顔を真っ赤にして、誰から見ても分かるようなむきになって、叫び散らす。
「イギリスの魔法の半数はガブリール魔法博士から生まれたと言っても過言ではない。作家でもあり、魔法教科書の作成にも尽力している。イギリスでも国内で沢山国家の賞を取っていたりしている。ガブリール魔法博士が作った魔法辞典を読めば、生きていく上で大抵必要な魔法は習得できるらしいぞ」
誠次は得意気に説明していた。
人だかりも凄い事になっている。絵に描いた英国人らしい端整なルックスと地位も相成り、女性のファンが多いようだ。
「サイン貰えるかな……」
そわそわとしている心羽の横顔をじっと見つめ、誠次は声を掛ける。
「心羽、近くに行きたいか?」
「う、うん……。……一緒に、いい?」
大勢の人だかりを前に、また、自身のわがままだと感じてしまっている様子の心羽は、誠次に訊く。
誠次は気にするな、と明るい表情で頷く。
「もちろん。ただ、人がいっぱいだからはぐれないように手を繋いで行くぞ?」
「うん! ありがとせーじ!」
心羽は嬉しそうに、誠次の左手をぎゅっと掴む。
「……あれが年下の特権ね」
「アンタも年下でしょうが……」
両サイドの髪を立たせてぼそりと呟いた結衣に、篠上がやれやれ顔でツッコむ。
「篠上と結衣はどうする? 休んでてもいいし」
ガブリール魔法博士に対し、あまり興味がなさそうである二人に、誠次は尋ねる。
「そうね。変にはぐれたくないし、一緒に行くわ」
「そうなったら、私も一緒に行くしかないじゃないですか」
篠上と結衣も心羽ほど乗る気ではないが、着いて来てくれる事になった。
「抹茶蜜公園名物、抹茶はちみつソフトクリームだと!」
「「「ソフトクリーム!?」」」
だが、誠次たちはまず、魔法博士よりも食い意地を張るのであった。魔法が使えても詳しくなっても、腹が減っては意味がない。知識と同じく、それはこの世界が魔法世界となる前から人間の変わらない行動原理である。
「渋みと甘さのバランスが絶妙だな。美味しい」
緑色のソフトクリームの上から、黄金色のなめらかな蜜が掛けられている。苦味と甘味のベストマッチのアイスクリームに舌鼓を打ち、誠次は並んでまで手にした屋台の抹茶はちみつソフトクリームを右手に、バニラソフトクリームを買った心羽と、イチゴソフトクリームを買った結衣、同じく抹茶はちみつソフトクリームを買った篠上と四人で野外公園会場の中心部へと向かう。
「えへへ。せーじとまたソフトクリーム食べれて、心羽、嬉しい」
舌を使ってバニラソフトクリームの先端を食べ、心羽は幸せそうに、また、嬉しそうにも微笑む。
前は寒い時期に食べたソフトクリームだったが、暑さを感じ始める夏前のこの時期こそ、ある意味もっとも旬なものだろう。
エネルギーも充電し、意気揚々とガブリール魔法博士の元へ向かう誠次と心羽の二人を、篠上と結衣がやや遅れてついていく。
「まるで兄妹みたいですねー」
ちろりと。舌をピンク色のソフトクリームにつけて食べる結衣が、手を繋ぐ二人の後ろ姿を見つめる。
「確かに。って言うかもう、ソフトクリーム顔につけてもう……。ちゃんと拭きなさいよね……」
前を歩く二人を見守る篠上は、まるで父子を見守る母親のようだと、結衣はジト目を向ける。
「そう言えば、帳の妹なのよね?」
桃華の義理の兄である帳悠平のクラスメイトでもある篠上は、隣を歩く結衣に訊く。
結衣からすれば、唐突な質問だったので、身体をぴくりと反応させる。
「そうですけど……」
「どうなの? 帳ってやっぱ家でもあんな感じなの?」
「……いえ。一緒に家にいた時間なんて全然ないんで、まだよくわからないんです。私のことを、応援してくれてたってことは、知っていますけど」
結衣は遠い目をして、答えていた。
気まずいとは、自分でも思う。そして、自分の我儘を聞いてくれ、自分を新たな家族として迎えてくれた帳家にも、義理の兄の悠平にも感謝している。
「そっか。まだ一か月くらいなんだもんね」
はちみつと抹茶ソフトクリームをスプーンを使って器用に食べながら、篠上は言う。燦燦と降り注ぐ日差しによって溶け始めてしまっているのか、篠上は「危ないっ」と言ってコーンを舐めていた。
「今は微妙な距離感って、感じ?」
「……そうなってしまってますね。私は、仲の良いお兄ちゃんとして、家族として接したいとは思ってるんですけど、やっぱどこか気まずくて。学園でも、会ったら軽く挨拶する程度です」
「でも、兄妹ってそんなもんなんじゃないの? 学園の中でべたべたで仲良かったら、それはそれで周りが引いちゃうと思うし」
篠上の客観的な意見に、結衣は小さく頷いた。
「私が心配なのは、お兄ちゃんに迷惑をかけてるんじゃないかって……。何かと、気を遣わせてしまってるんじゃないかって……」
「私、帳とはあんまり話したことないし、ちょっとそこはよく分からないや……ごめん」
篠上はむむむと、胸の下で腕を組んでいた。
「でも、アイツの周りには、自然となんか親しみやすい人が集まるっていうか、アイツ引き寄せるのよね、そういうの。アイツを中心に、全然仲良くなかった他人と他人が出会って仲良くなるとか、友だちになっちゃうとか付き合っちゃうとか」
篠上は前を歩く誠次の背を見つめ、そんなことを言っていた。
「ちょっと強引な考えかもだけど、アイツの友だちだったら、悪い人じゃないと思うわ。教室で何考えてるんだかって一緒になってバカやってるぐらいだし、きっとそんな気にしてないわよ」
「本当にそうですかね……」
結論を言えば、悠平は自分の境遇のことを両親から聞かされていて、元々兄として家族を応援する立場でいたという。これはその行為の延長線上にある。兄である悠平は、そう自分に桃華を妹として迎えることを納得させたと言っていた。
それでありがたいと思う自分もいるが、本当にそれで良いのだろうかと思う自分もいる。
「……お兄ちゃん、か」
結衣が呟いていると、何やら篠上が慌てていた。
「ちょっと結衣ちゃん!? アイス溶けて指に垂れてる!」
「わっ。ちょっと氷属性の魔法で何とかしてください先輩っ! どろどろのアイスを再びさらさらに!」
「出来るわけないでしょうがっ!」
結衣は急いで、どろどろに溶けてしまったイチゴのソフトクリームと、コーンアイスで実は一番美味しい部位なのかもしれないコーンの底を食べきる。
「久しぶりにアイス食べたけど、やっぱり甘いアイスって美味しいわ」
「そっか。現役時代は、やっぱり体型とか気にしてたの?」
「はい。こういう甘いもの、食べたくても我慢して、甘くないアイスとか食べてました」
なのでか、現役を退いた今は遠慮なく味わえる甘味に、結衣は幸せそうな表情を浮かべていた。
「……甘くないアイスって、なにそれ……」
「まあ、本当に身体を冷やすためだけの無味無臭の白い物体ですよね」
「きっつ……」
篠上が絶句している。
「でも、それじゃストレス溜まっちゃわない?」
「お風呂とかで歌を歌っていると、いいストレス解消になりますよ。歌いすぎて、喉壊しちゃいそうになった時もありましたけど」
「へー。私もやってみようかしら」
千尋にはいつも先端を食べられてしまう篠上のソフトクリームだが、今日は生憎、千尋は水泳部の練習で来れていない。よって篠上は、ソフトクリームを全て堪能していた。
「ソフトクリームの先端を食べられるのも、友達とは言えストレス溜まると思いますけど」
そんな篠上の千尋との小話を聞いた結衣は、横目で篠上を眺める。
それは廃墟での初対面の時も感じていた。やはり芸能界で活動していた身からしても、篠上のルックスは目を見張るものがある。
「そうだろうけど、もう私と千尋って、そんな事を小さいことに出来るくらいの仲なの。それに、悪戯なら私も何度もしてるし、それが楽しいのよね」
篠上はにこっ、と笑顔で答える。
「……羨ましいです」
「えっ?」
結衣のどこか沈んだ口調に、篠上は首を傾げる。
「夜に外に出れないから、芸能活動も日中が基本で、学校にも全然行けないから。友だちって呼べる人が、一人もいないんです。上手な接し方がよくわからなくて、今も……」
「そっか……」
元芸能人の思わぬ告白に、篠上はかける言葉を失った。
「同じ元中学かとか、何してるのかって、訊かれても答えられないよね」
「はい……」
篠上は腕を組み、真剣に考えてやる。
「私もこんな不器用な性格だから、千尋以外に友だちもあんまり出来なくて。男の子なんて、高校の天瀬が初めてよ」
「そうなんですか」
「でも、ヴィザリウス魔法学園に入って、驚くほど環境は変わったわ。恥ずかしいけど、少なくともアイツのお陰」
ソフトクリームを食べ終えた篠上は、前を歩く誠次の背中を見つめて言う。
「だから結衣も、心配しないで良いと思うわ。これからきっと出来ると思うし。何より、私みたいなお姉さん友だちは、嫌?」
「……」
はっとした結衣は、微笑む篠上の綺麗な顔を、じっと見つめる。
「とんでもないです。よろしくお願いします。一つ年上の、お姉さま?」
「ちょっと!? もう……やっぱりなんかちょっと生意気で可愛くなーい」
篠上はやれやれと、肩を竦める。
「でも、貴女も言った通り、貴女も間違いなく天瀬のレヴァテインに付加魔法をした一人。私たちが仲が悪いと困るのは、誰よりも天瀬のはず。私は天瀬の悩みの種にはなりたくないから、みんなと仲良くするのは千尋との約束でもあるの。もちろん、そんな約束とか関係なしに、みんなとは仲良く出来てるけど」
「私だって、誠次先輩のレヴァテインに付加魔法が出来るのは何て言うか、嬉しいです。これからも、誠次先輩の力になりたいです」
二人の少女は自然と、力強い目線を合わせていた。
「ところで、綾奈先輩」
「どうしたの、結衣?」
「その誠次先輩と心羽ちゃんは、何処ですか……?」
「あ……はぐれた!?」
目の前や周辺を行き交う人の群れ。篠上と結衣は、誠次と心羽とはぐれ、まるで嵐の中にぽつんと残されたかのように、佇むのであった。
※
「あれ? 綾奈先輩と、結衣先輩は……?」
「え、あれ……?」
報道用のテレビカメラや記者も大勢おり、人混みも増々多くなった野外公園会場。心羽と誠次は人混みの奥深くで、はぐれてしまった二人の存在に気付く。
「ついさっきまで後ろにいたよな? なんか話してたみたいだけど」
人と人の隙間は埋め尽くされており、もう戻る事は許されないだろう。篠上と結衣の顔を探そうにも、次々に新しい顔で視界が埋め尽くされてしまう。
「心羽とせーじ、迷子になっちゃった……?」
「……いいや。篠上と結衣の方が迷子なんだ」
「そこ重要なのかな……?」
真剣な表情で言い切る誠次に対し、心羽は苦笑する。
「でも困ったな。戻って探そうにも、人がいっぱいで迂闊に動けそうにない」
「心羽のイエティは!? 目立つよ!?」
どこかそわそわとした表情で、心羽は提案してくる。北海道で戦った心羽の使い魔の強敵は、誠次にとっては結構なトラウマの一つだ。
「そ、それは目立ちすぎだ……。パニックになる、だろ……?」
ぎょっとした誠次は、慌てて首を横に振る。
そして、このままではらちが明かないと、ズボンのポケットから電子タブレットを取り出す。
「何を隠そう、今の俺にはデンバコがある。篠上に連絡してみよう」
「あの時は本当にごめんなさい……」
しゅん、となる心羽に、誠次はまたしても慌てていた。
「い、いやいや! あれは心羽のせいでもないし、俺の管理ミスだったって。それに最終的に取り戻してくれたのは、心羽とイエティだし、むしろ感謝してるよ」
「……ありがと、誠次」
にこりと笑ってやった誠次に、心羽もまたにこりと笑う。
ほどなくして、篠上と連絡は繋がった。
「もしもし、今どこだ?」
『四人でアイス買った屋台の横まで、一旦戻ったわ。人とぶつかりそうで怖いし』
『綾奈先輩は目立ちますからねー。いろいろと大きくて』
『結衣も眼鏡外せば、目立つわよ? 小さいけども』
二人の現在地が知れてひとまずは安心する。二人とはぐれて、どこかで心細いと感じてしまっていたのだろうか。
「二人ともどうしてはぐれちゃったのー?」
心羽が誠次の手元の電子タブレット画面を覗きこみ、首を傾げる。
『天瀬のせいね』『誠次先輩のせいで』
「せーじのせいだって、せーじ?」
「いや身に覚えが無さすぎるっ!」
きょろりと振り向いた心羽の視線を受け、誠次は小さく絶叫する。
『そうだ。先輩レヴァテインその場で振り回してください。目立つのですぐ見つけられます』
結衣が閃いたように提案する。
……さては天才か、君は。
「よし分かった! この無数の人ごみの中、法律違反も臆さない俺の華麗な剣捌きをとくと見よっ! ……って、駄目だろ!?」
『ノリツッコミしてる場合……?』
画面の先で篠上がやれやれ顔でため息を溢す。
『ともかく、はぐれたこっちが悪かったわ。こっちは二人で遠くで見てるから、アンタは心羽ちゃん頼むわね?』
「分かった。終わり次第、そっちに向かう」
篠上との連絡を終え、誠次は心羽を見る。
「二人は遠くから見てるそうだ。仕方ないし、このまま二人で見るか」
「わあ二人で!? うん!」
二人でと言うところに大きく反応した心羽と手を繋ぎ、誠次は野外会場の石造りベンチの上に腰掛ける。最前列付近の芝の席は超満員で、中にはお手製のグッズを持った女性ファンが、英国の若き魔法博士の登場を今か今かと待ち侘びている。周りを見渡して見ても、女性だらけであり、まるで男性アイドルグループのコンサートに連れてこられた男の気分を味わっていた。……少なく見積もっても、ガブリールの登場による女性の歓喜の悲鳴は、間近で聞くことになるのだろう。
「あ、ああ、あ……。ヤバいヤバい……っ! ぶっ飛ぶ!」
心羽の隣の席の女性が、そうだからである。
「みんな博士の事が大好きなんだね」
「有名人だからな。魔法による新世代エネルギーの可能性を示したのもガブリール魔法博士だし。若き天才ってやつか」
間違いなく、今日にいたる魔法世界の発展に貢献した一人だ。
「何よりもあの人の信念。魔法は人の幸せと楽しいことの為に使うべき。それが俺は好きなんだ。俺からすれば、魔法世界のヒーローみたいなものだよ」
魔法を戦いのためではなく、人の笑顔のために使う。それが、ノア・ガブリール魔法博士の信念である。彼の書いた本には、そう書かれていた。
誠次は快晴の真下のステージを見つめる。それは魔法世界で成功を収めた魔術師に用意された、豪華絢爛の特別な場だ。
「……せーじは心羽を助けてくれた。だから、せーじは心羽にとってのヒーローだよ」
ハッとして横を見れば、心羽がにこりと微笑んでいる。
妙に恥ずかしくて後ろ髪をかき、誠次は「ありがとう」と言っていた。
「ヒーローか。いつかこの魔法世界で、剣を持った俺がなれるのかな……」
思い出すのは、一か月前に、水泳部に侵入した侵入者を斬った時だった。彼がこちらに向けた憎しみの目は、消えることはない。
その瞬間は、突然訪れた。鼓膜をつんざく程の、熱狂的な歓喜の悲鳴。備えはしていたが、それでも。思わず耳を塞ぎたくなるほどで、心羽に至っては髪の耳と尻尾をぺたんと、横向きにへたらせていた。
【レディース、アンド、ジェントルマン!】
ご丁寧に日本語でカタカナ表記された文字が、ステージ上に浮かび上がる。観客のボルテージはいよいよ最高潮に達する勢いで、誠次と心羽はそれに恐怖すら覚えるほどの、お祭り騒ぎだ。
心羽も、これは想定外だったことだろう、両手で髪の耳を抑えている。もしや本当に、彼女の耳はその髪の耳なのだろうか……?
「ガブリール魔法博士ーっ!」
心羽の隣に座る女性ファンが立ち上がり、一際声を張り上げる。
しかし、歓声は長くは続かず、次第に戸惑いの声に変わっていく。それもそのはずか、立体映像を駆使したステージ上の華麗な演出は、すでに彼が登場してもおかしくない、所謂サビの部分のはずだ。
にもかかわらず、肝心の魔法博士の姿はステージ上のどこにも見えない。演出にしては、外国人だらけである会場スタッフたちの慌ただしさが目につく。
「ど、どうかしたのかな?」
騒がしさにもだいぶ慣れ、心羽も違和感を感じたようで、髪の耳と一緒に首を傾げている。
「わざと遅れて登場する、演出か? もうすでにどこかにいるとか」
「せーじがガブリール博士だったりして?」
「ないない……」
幻影魔法等でなにかをしていようにも、自分の目に誤魔化しは効かないはずだ。
「あ……」
観客たちの戸惑う声が、より一層多くなったのは、スタッフたちが会場の上に駆け上がり、慌ただしく何かを話し合った時からだ。無駄に派手なバックサウンドが、今となっては虚しく響き渡り続ける。
「――ドント、ムーヴ」
動くな、とのその声は、誠次のすぐ後ろから聞こえた。小声で、しかし迫力を感じる声音だ。
「なに……?」
リュックサックを背負ったまま着席していた誠次は、金縛りにあったかのように動けなくなる。
「一目見たときから君だと分かったよ。魔法世界の剣術士?」
背後の人間は訛りのある拙い日本語で、英語も混ざっている男だった。
「貴方は……?」
誠次が振り向き、その様子を見た心羽も、振り向く。
一つ後ろの席に座っていたのは、
「ノア・ガブリール。魔法博士さ」
と、名乗る、ゴリラの着ぐるみを着た極めて異常な存在だった。
「……」
「……」
両手を大きく広げ、そんな自己紹介をしてくるゴリラの着ぐるみに、誠次はジト目を向けて、
「心羽。前を向こう」
「うん」
心羽の両肩を掴んで、前を向かせていた。
「っ!? ちょっと待てっ! 私だ、ガブリールだっ! 目の前で見てみぬふりをされるのはハートにくるだろう!?」
ゴリラの着ぐるみは手足をばたばたさせ、懸命に叫んでくる。
「人違いですよ。俺のことも……貴方のことも」
「自分が人違いなのはおかしいだろう!?」
目がバッチリと開いたままのゴリラの着ぐるみが、一心不乱に迫ってくる光景は、末恐ろしいものがある。
しかし誠次は、信じたくなかったのだ。自分も含め、心羽の憧れであった人物が、前方に広がる華やかなステージの上ではなく、こんなしようもないところでゴリラの着ぐるみを着ていると言うことを。
「分かった……。では私がノア・ガブリールであることの証明をしよう。あまり、目立ちたくはなかったのだが致し方ない……」
ゴリラの着ぐるみは、黒色の生地に包まれた両手を、ずんぐりとした頭の両サイドに添える。
「一瞬だけだぞ!? とくと見よっ!」
さっと、頭を持ち上げると、中から顔を出したのは、汗だらけの英国人であった。
……まだ信じたくはないが、ノア・ガブリールで間違いない。
「ガブリール魔法博士、まだかなー」
隣に座る心羽の横顔が、どこか悲しく見えた……。
「どうしてこんなところに!?」
「ようやく分かってくれたところで、場所を移そうじゃないか、眼帯少年?」
ゴリラの着ぐるみ改め、ノア・ガブリールは立ち上がり、誠次を手招く。
「この講演はどうなるんですか?」
誠次が腰を浮かしながら訪ねると、ノア・ガブリール改めゴリラの着ぐるみは、やれやれと首を横に振る。何故だろうか、結構ムカつく仕草だ。
そして、ばさっと音を立てて両手を掲げ、マントを翻す。
「ところがこの私、ノア・ガブリール魔法博士が思い描く講演を行うためには、行方不明の妹が必要不可欠なのだ!」
※
「あっれー。俺のゴリラの着ぐるみどこに置いてたっけな……」
GWに家族連れのお客さんを楽しませようとしていたのか、イベントスタッフが困ったように呟いて横を通りすぎていく。
誠次と心羽とはぐれてしまった篠上と結衣は、会場から遠く離れた木の木陰で芝の上に腰を掛け、一休みしていた。
「始まったみたいね」
「こうやってステージを後ろから見ることはなかったから、ちょっと新鮮かもですね」
熱気や歓声は人が小さく見えるほど遠く離れたこの場にも伝わり、二人にとってはガブリール魔法博士が想像以上の人気者なのだとの印象を受けた。
「――あれ、ここは泉?」
それは、熱狂とは真逆の、どこか気の抜けるような女性の声だった。すぐ後ろから聞こえた声の持ち主に、篠上と結衣は同時に振り向く。
「こんにちは」
透き通るような白い肌をした、ワンピース姿の少女が、二人が休んでいた巨大な木の幹に手を添えて、立っていた。ふわりとした長いブロンドヘアーに、目鼻立ちもはっきりとした顔立ちは、外国人で間違いないだろう。
「「こ、こんにちは」」
声を掛けられ、まず驚いていた二人は、少女に向けぎこちなく頭を軽く下げる。
同年代だろうが、外国人らしく背丈は高く、ワンピースの上からでも足が長く、胸が大きな事が分かる。それら魅力的な身体を隠す服は露出度が高すぎて、色々と危ない姿だ。
「泉……?」
「噴水でしたら、あっちですけど」
戸惑う篠上の隣で、結衣が指を指してやる。
「綺麗な声……。あなたは、ウタヒメ。あなたが歌えば、戦いは止まる」
少女は結衣をじっと見つめて、そんな事を言う。何を言っているのか、しかし歌や声については当たっている。不思議な少女であった。
「お、大袈裟な……。綺麗な声は、そ、そっちこそ……」
急に誉められ、結衣はぎゅっと拳を作って丸まるように小さくなっていく。
「噴水広場まで、案内しましょうか?」
窮した結衣を守るかのように、篠上が少女に言うが、少女はまず無言で首を横に振る。
「大きな木を育てているのは、もうやめたの?」
「大きな、木……?」
「泉で気持ち良さそうにしてた。みんなで仲良く」
「……?」
少女の言葉のわけが分からず、篠上は首を傾げていた。
少女もまた、篠上と同じように首を傾げる。
「……もしかして、人違い?」
「きっとそうだと思います……」
篠上が答え、困った表情で結衣と顔を合わせる。
「……迷子ですかね?」
「……そうかも。日本語はペラペラだけど、まるで会話が、成立しないわ……」
「気持ちいい風」
小声で話し合う結衣と篠上の前で、少女はそよ風を受けて微笑んでいる。
こほん、と篠上が咳払いをして、
「一人でここまで来たの? 連れの人とか、いないの?」
「ううん。お兄ちゃんと、一緒に」
「そのお兄ちゃんはどこ?」
「人がいっぱいいるところ。私は蝶々を追いかけて、ここまで来たの」
曖昧な返事をする少女は、「ほら」と青空を指差す。先ほど心羽が追いかけていた蝶々だろうか、白い羽をした蝶々が、優雅に舞っていた。
「人がいっぱいって、もしかしてガブリール魔法博士の講演会場?」
結衣が訊く。
「……うん」
少女は少しだけ、嫌そうな顔をしていた。それは、今まで不自然なほど無表情であった少女が見せた、初めての感情だった。
「蝶々みたいに、お空を自由に飛べたらな……」
「「……」」
篠上も結衣も、不思議すぎる少女を前に、どうしていいのか分からず、呆気に取られている。
「お、お兄さんのところに、戻らない?」
結衣が提案してみるが、少女は首を横に振る。
「ううん」
「そ、そう……」
「でも、お腹空いた。お金はいっぱい持ってるけど、今は持ってない。あとで返すから、出来れば代わりに払って欲しい」
「え……」
すこぶる怪しい少女に、篠上は絶句する。
「お弁当は誠次先輩が持ってますからねー……」
「わ、分かったわよ!」
そうして篠上は、立ち上がる。
奇妙な少女は、微笑むように口角をやや上げていた。今はそれが、最大限の感情表現のようで。
「ありがとう。優しい人は大好き」
「そ、そう……?」
「ちょろいですね先輩……」
まんざらでもなさそうに微笑む篠上に、結衣はジト目を向ける。
「日本の食べ物はイギリスより美味しいって聞くから、楽しみ」
「イギリスの人って事?」
結衣が訊く。
少女は、こくりと頷いた。
「名前、まだだったね。私はシアって言うの」
「私は篠上綾奈」
「私は帳結衣」
シアは食べたい物があると、二人より先にふらふらと歩いて行ってしまう。
「本当に良かったんですか、綾奈先輩。怪しさプンプンですけど……」
「お兄さんがいるって言うんだし、講演が終わるまでだったら、大丈夫よ。……たぶん」
「たぶんですか……」




