7
「本気で行く」
そすてぃす
ヴィザリウス魔法学園がある東京に来ている間、借りているマンションで朝を迎えた青年は、洗面所で顔を洗う。青い髪に掛かった水気を振りはらいながら、タオルで拭い、鏡に映った自分の姿を見る。
青年の名前は、霧崎宗司。かつて影塚たちの前の代の特殊魔法治安維持組織の中心メンバーであった。
現役を引退しても尚、日課のトレーニングは欠かさずにしていた為、引き締まった上半身の肉体に、水滴が垂れる。
「まさか、こんな形でまた魔法学園に通う事になるなんてな」
どうせならインスタントのものよりも、噂に聞く彼のコーヒーを味わいたい。そう思った霧崎は、朝早々にマンションから出て、梅雨の時期に学生が運転した自分の車に乗り込む。
目的地を指定して自動運転に任せ、自分は端末で朝のニュースをチェックする。
ヴィザリウス魔法学園に到着すると、駐車場で車を降り、魔法学園内のとある場所に向かう。
そこは開店前の、談話室だ。
「おはようございます。柳さん」
そこのマスターであり、ヴィザリウス魔法学園の校長先生でもある、柳敏也。彼が淹れてくれるコーヒーはとても美味しいと、現役時代の特殊魔法治安維持組織のメンバーの話でもお馴染みだ。
「なるほど。とても美味しいです」
「フレースヴェルグ、だっけ。頑張っているようだね。私の大切な生徒たちを守るためにも、君の力、頼りにしているよ」
朗らかに微笑む柳の表情を見て、霧崎は頷く。
「はい。……それに何よりも、今回のこの件には、俺も関わらなくてはいけないと思っていますから――」
それが、自分の責任でもある。ほろ苦く、上質な酸味を感じるブラックコーヒーを啜りながら、霧崎は蒼い瞳を横へと向ける。
そんな中、少しだけ不思議な体験をしたのは、半分ほどコーヒーを飲み終えたときであった。
ぴょこ、ぴょこっ。
視界の隅で動く耳を見つめ、コーヒーカップにつけていた口を、霧崎は思わず離す。
狐だ、狐がいる。それも二足歩行で、水色の毛色をした、可愛らしい少女の姿で。
「あ、いらっしゃいませー」
少女はこちらを見ると、明るい笑顔を見せて、ぺこりとお辞儀をする。
「え、お、おはよう……」
しかも人の言葉を話す。
「ますたー。まだお店空いてないのに、お客さん入れているんですか?」
おまけに尻尾まである少女は、カウンターに両手をつけ、柳に向けてつま先立ちをしながら尋ねている。
「彼の名前は霧崎くん。フレースヴェルグのメンバーだから、特別だよ。昔は大阪にあるもう一つの魔法学園、アルゲイル魔法学園の魔法生でもあったんだよ」
「ふれーすべるぐ……ふれーすべるぐ……あ、せーじと一緒だ! えっと、心羽って言います! よろしくお願いします!」
改まった心羽に自己紹介をされ、この子は一体どういう子かと、霧崎は思わず心羽と柳を交互に見る。
「柳さん……。この娘は、一体……?」
霧崎に問われた柳は、ふふふと笑みを浮かべる。
「霧崎くん。君は魔法学園七不思議を聞いたことがあるかい?」
「え、ええ。確か、深夜の女子プールで奇妙な笑い声が聞こえるとか、ですよね」
「そのうちの一つ。校長先生の噂、と言うものがあってだね……」
「校長先生の、噂……?」
霧崎は思わず、前のめりとなりかける。
一方で心羽は、一体なんのことなのだろう? ときょとんとした様子で首を傾げていた。
※
そんな霧崎の特訓相手となっていたのが、夕島聡也である。同年代の中でも卓越した頭脳と魔法の実力を持つ、言わば典型的な、魔術師タイプの人間と言えよう。
しかし、運動もそこそこ出来るようで、部活動は水泳部。欠点らしい欠点であった協調性の面も、誠次たちと同じ部屋で過ごしていくうちに、克服しているようであった。
ではこの特訓で彼の何を鍛えるか? それこそが、フレースヴェルグの最年長、霧崎の最初の任務であった。
なに、動物を手懐けることは慣れている。なので、対等な会話が出来る人間相手ならば、指導もこなせることだろう。
「本日もよろしくお願いします、霧崎さん」
「よろしく頼むよ、夕島くん」
軽いジャブの撃ち合いと言わんばかりに、牽制用の攻撃魔法をお互いに撃ち合い、状況を確認する。
「ここ数日で、君の事を色々と理解した。時代が時代なら、君は他の髄を許さないほどの優秀な魔術師だったことだろう」
「お世辞ならば俺には必要ありません。俺はもっと、強くならなければ」
「……」
……と、動物を手懐ける自信はあるが、相手は幾つもの多彩な感情を抱く人間である。おまけに、ほんの少しだけ、気難しい。
「わかった。じゃあ早速、本題に入ろう」
巨大なビルとビルとがまるで渓谷のように立ち並び、その真下にいる二人の前身を影で覆う。
VR空間により作られた幻想の市街地で、年下の少年が放った雷属性の攻撃魔法が、年上の青年の頭上を駆け抜けていく。
「やる……!」
霧崎は、反撃の為に風属性の攻撃魔法を自身の真横に展開する。
「《ブレイズ》!」
緑の色をした魔法の刃が二発ほど飛んでいき、敵である聡也の立っていたコンクリートの道路を切り刻む。
聡也は素早い身のこなしで、人体を切り刻む程度には威力のある魔法の刃を躱すと、道路の上を転がりながら再び雷属性の攻撃魔法を放った。
「《エクレルシージ》!」
霧崎の周囲を電撃線が包囲する。まるで、プロレス場のリングのようだ。一見、逃げ場などないかのように思えたが、霧崎は冷静に頭上に形成魔法を発動し、そこに飛び乗る。
「――貰った!」
しかしそれこそが、聡也の狙いだった。
左手で右手を支え、右手の指先で描いた魔法式に、魔法文字を打ち込んでいく。
「《エクス》!」
聡也の放った攻撃魔法が、形成魔法の上で立つ霧崎の胴に命中する。
魔法の直撃を受けた霧崎の身体がくの字となり、空中に投げ飛ばされた。
「……勝ったか」
「――甘いよ」
上空で撃ち落としたはずの霧崎の声は、なんと真後ろから聞こえた。
聡也は眼鏡の奥の赤い瞳を見開き、咄嗟に振り向こうとするが、叶わなかった。
あっという間に後ろに回り込んでいた霧崎が、聡也の腕を後ろで組み伏せ、道路の上にうつ伏せで押し倒していた。
「っく!」
「悪いが、俺も得意な魔法は幻影魔法でね。最年長として、簡単に負けるわけにはいかないんだ」
「ならば、俺は貴男を越える!」
すぐに立ち上がった聡也は、眼鏡をかけ直すと、霧崎へ向けて幻影魔法の魔法式を展開する。
それを見た霧崎もまた、聡也と同様の魔法式を組み立てる。
「《ビジョン》!」
「《ビジョン》!」
両者が同時に放った幻影魔法。まもなく、影響を受けたのは聡也の方であった。
眼鏡越しに見える目の前の光景、直立不動しなくてはいけないはずのビルがぐにゃりと曲がっていき、こちらを微笑んで見つめる霧崎の姿でさえ、歪んで見える。
全身に激しい悪寒が奔り、全身から汗を拭きだした聡也は、頭を抱えて、悲鳴を上げて膝をついた。
「ぐ、あああああ!?」
幻覚を強制的に魅せられた聡也を見て、霧崎はすぐに幻影魔法を解除する。
「大丈夫か、夕島?」
「え、ええ……」
口でぜえぜえと息をつく聡也の顎先から汗が落ち、市街地道路の上に雫が落ちる。
「魔法戦において絶対はない。常に二手三手先を読む思考と感覚。そして時には、セオリーを外すことも重要さ」
「セオリーを外す……?」
「全てが教科書通りに事は進まないってことさ」
霧崎は人差し指をぴんと立て、微笑んでいた。
※
「特訓が上手くいっていない?」
あくる日の昼休み、肌寒い日も増えてきた九月の半ばの出来事だった。
食堂にて、昼食を食べている誠次の隣に座り、聡也が眉間にしわを寄せていた。
「ああ。俺の実力不足なのは重々承知だ。それでも、一向に霧崎さんに勝てる見込みが浮かんでこない」
「俺も含め、志藤に悠平に真だって、みんなまだまだ勝ててはいない。焦る必要はないと思うけどな」
誠次は、白い皿の上に転がっている茹でブロッコリーを、フォークでぐっと刺しながら呟く。
「いいや。俺の相手は元特殊魔法治安維持組織だ。相手を見くびっているわけではないが、それでも、まるで進展が見られないんだ」
「対魔術師に対する、魔術師の立ち回りか。それが普通のことなんだろうけど、俺は剣術士だしな。アドバイスらしいアドバイスも、出来そうにない……」
フォークに刺した茹でブロッコリーを、誠次は口元に運び、もぐもぐと咀嚼する。
「わかってる。ただ、現状を聞いておいて欲しかったんだ。正直、上には上がいることを、改めて思い知らされているようだ」
聡也はそう言って、コップの水を一気に飲み干していた。
ところで……、と聡也は、隣の席に座る誠次へ、眼鏡の奥の赤い瞳を向ける。
「なんだ?」
急に話題を変えられた誠次が、きょとんとして首を傾げる。
「……なんで、お前はずっと、目隠しをして食事をしているんだ……?」
誠次は目元に黒いタオルを巻き、懸命に見えない料理と戦っていた。
「これは、あれだ。修行、だからだ」
「……眼鏡貸すか?」
「いや、目隠しの上に眼鏡とか、意味ないだろう……」
誠次はそう言いながら、皿の上にある茹でブロッコリーを頑張って索敵し、フォークで刺しては口に運んでいく。当然、視界は真っ暗でなにも見えない。
一人で食事をしていたこちらに、聡也が声をかけてきたのだ。
「ほら誠次。こぼしているぞ……」
「ああすまない……。なるべく目隠し状態でも食べやすいものを選んだつもりだったんだけど……」
「それの答えが茹でブロッコリー山積みだったのか……?」
そんな状態のこちらに付き合ってくれる聡也に感謝ではあるが、案の定、食堂を利用する多くの魔法生によって誠次は、特殊な性癖に目覚めたのだろうかと誤解されてしまっていた。
※
しかし実際のところ、フレーズベルグのメンバーの中で、一番進展していないのは誠次であった。
空間把握能力の習得。日常生活ならまだしも、戦闘面でも扱えるようにするのであれば、その難易度は飛躍的に上がる。
朱梨に腕の力のみで投げ飛ばされ、誠次は受け身を取って床の上に倒れる。
「……次こそはっ!」
「受け身は取れるようになったようだな」
「しかし……。貴女を捉えるまでには至りません……」
誠次は背中をさすりながら、目隠しをした状態で立ち上がる。以前までならば、その動作をするのにもひと呼吸が必要であったが、今ではすんなりと行うことが出来ていた。
その点では、確実な進歩ではあるが、まだ決定的な何かが足りてはいない。今この状態で再び朱梨と実戦を行なったところで、勝てる見込みは皆無であろう。
「少し休憩するか?」
「いえ。もう少しで何かが掴めそうな気はしているのです。もう少し、やってみます」
本音を言えば休みたいほど、身体は消耗している。しかし、自分だけが後れをとってしまう事は、絶対にしたくはなかった。守るべき人々の姿を、暗闇の視界の中で思い浮かべながら、誠次は答える。
彼ら彼女らが期待の眼差しを向けるのであれば、それに応える実力を持ち合わせなければなるまい。仲間が危険に晒されるのを守るために、もっと力をつけなければ。
「良いだろう。その意気だ」
目隠しをしたままだが、誠次は一度礼をして、再び朱梨と相まみえる。
朱梨の気配を察知し、掴もうと左手を伸ばすが、手の平は空気を掴み、徒労に終わる。
「甘いな」
朱梨は誠次の背後に回り込むと、誠次の襟元を掴もうと、手を伸ばす――がしかし。
「……っ」
朱梨が微かに驚く。
誠次は、朱梨の動きを捉えて、彼女の拘束からステップをして逃れていた。
そのまま、背中から引き抜いたレヴァテイン・弐を振るうが、朱梨は携えていた不知火・蛍火の鞘で、その攻撃は受け止める。
「微かだが、着実に進歩はしている。問題はこれを実戦でどう落とし込めるか、であるが」
袴姿の朱梨は、袖を引き伸ばし、武装を解除する。
そして、ふぅと一息をつくと、何やら道場の中庭の方を、じっと見据えているようだった。その瞳に映る今の景色は、すべて作り物の光景であるのだろうが。
「誠次。そなたが良ければ、少し付き合ってくれるか?」
「え?」
誠次が思わず訊き返すと、朱梨は少し、気まずそうに微笑んでいた。
「今日は街に共に出掛けたい。それとも、私のようなババァと街中での逢瀬は嫌だろうか?」
「い、いえ。そんな事はないです」
「では、期待しても良さそうだな、剣術士?」
朱梨が愉快そうに言ってくる。
「……光栄です」
恥ずかしいが、それでも、誠次は嬉しかったのだ。まさか、遠く離れた日本の果ての島国で戦い合った女傑と、こうして共に仲良くしていられるのが。それも相手は、自分よりも倍以上の人生で経験を重ねた人だ。そんな人からは、きっと学ぶべきことが多くあるのだろう。
「よろしく頼むよ、天瀬誠次」
何よりも、彼女が嬉しそうに微笑む姿が、綾奈の笑顔に重なって見え、誠次は二つ返事を返していた。
後日。天気は晴れているが、すっかり秋模様となった為に、過ごしやすい気候だ。秋風が舞い散った緑の葉を運んでいき、アスファルトに削られ、からからと音を立てている。
そんな道路を、少年と老年の女性が横並びで歩いている。
それこそ、真夏の間に最果ての島にて壮絶な斬り合いを繰り広げた誠次と朱梨である。
「えっと……どこか、行かれてみたい場所とかはありますか?」
蛍島から帰ってきた直後、朱梨は一度だけ、本州に来たことがある。そのときはこちらへの謝罪をして、そして尚且つ、綾奈も交えての三人でのお出かけであった。行った場所と言っても、朱梨の都合もあり、魔法学園近所の公園を散歩しただけだ。
しかし、今は二人きり。朱梨の格好は外出用ではあるが、それでも風格漂う着物姿である。そのことについて朱梨に尋ねれば、「着物が一番落ち着くのだ」と返された。
当然、隣を歩くただの私服姿の誠次は落ち着かない雰囲気であるが、朱梨はそのことも承知しており、少々申し訳なさそうにしていた。蛍島ではずっと着物で外出をしていたのだろうから、ズレが起きてしまうのは致し方ないのかもしれないが。
「そなたに一任しよう。私はどこへでも、なんにでも付き合うぞ」
歩く速度もこちらと同じで、年齢を感じさせない確りとしたもの。そして何よりも、秋の陽射しに照らされる顔立ちも、小じわが申し訳程度に見えるほどでしか、年齢を感じさせない綺麗なものであった。
「一任、ですか……」
「難易度が高いか?」
「い、いえ。しかし、朱梨さんが行って喜びそうなところを考えても、すぐには思い浮かばないのです……」
「相手のことを知ることで、空間把握能力は素早く身につくことだろう。あながち、その迷いは間違ってはいないはずだ」
「相手のことと言われましても……それは実質、朱梨さんの事だけでは?」
誠次が思わずツッコミをすると、朱梨は上品に口に手を添えて、笑い声を上げる。
「確かにそうかもな。しかし、時に観察力というものも戦闘においては大いに役立つものだ。初見の敵をくまなく観察し、隙を見出す。そのことも重要だ」
朱梨の口から出るそれらしい言葉は、しかしやはりどれもが説得力があるものばかりだ。誠次はそれらの言葉に、頷いていた。
「それが……このデートをすることで身につくと?」
「それは分からない」
「え、分からないんですか!?」
前言撤回であったかもしれない。誠次が慌ててぎょっとすれば、朱梨はますます可笑しそうに笑うのであった。
「ただの息抜きだ誠次よ。それで、私をどこへ連れて行くつもりだ? それ次第では綾奈に私がそなたの悪口を吹き込んでやろう」
「思ったより陰湿な仕打ちだ!?」
大変なことになった。この逢瀬で朱梨を満足させなければ、綾奈に変な悪口を吹き込まれてしまう。
焦る誠次は、着物姿の朱梨を連れて、東京の下町へと赴いていた。
ここでは時代が進んでも尚、昔ながらの建物や雰囲気が色濃く残った、商業地帯である。
「それでは、本州に来たのはこれで本当に二回目なのですね」
「ああそうだ。前回は本当に時間がなく、すぐに島に戻ったしな。本格的に本州を楽しむのは初めてだよ」
朱梨は誠次の隣を優雅に歩きながら、にこりと微笑む。
「俺には想像が出来ません……。ずっと島での生活をしているのは、本当に凄いと思います」
いくら昔の面影を残す町並みとはいえ、流石にこてこての着物を着た人が何人も歩いていることもない。よって、現在の朱梨の容姿は道行く人の目を引き、今では少なくなってしまったが、観光に来ていた外国の人は写真を撮らせてもらおうと寄ってくる始末だ。
「剣術士よ……。流石に私も驚いたぞ。そこまで私は物珍しい佇まいなのかと」
「ご無理はなさらずに」
外国人から物珍しそうに声をかけられる都度、朱梨は要求に応じていた。七〇過ぎでもその体力には衰えもなく、むしろ、人々との触れ合いで笑顔も覗かせていた。これが本来の、女傑の姿だったのだろうか。
下町をぶらりと歩いていると、誠次と朱梨の目の前に、巨大な塔が待ち構える。
遠い昔に建設が完了し、以降この国の人々に公共の電波を流す役目を全うし続けている働き者の電波塔、東京ムサシツリーであった。
料金を支払えば、頂上付近にある展望デッキにまで登ることが出来、東京の町並みを見渡すことができる。多くの高層ビルが建てられたこの現代においても、このツリーの高さに匹敵するほどのものは作られておらず、間違いなく東京で一番高身長な建物だろう。
「ここに登ってみませんか? きっと、素晴らしい景色が見られると思います」
休日は混んでいるが、平日の午後のため、空いている。誠次は乗り気でチケット販売所まで向かうが、朱梨はむっとした表情をする。
「剣術士よ……。まさかそなたがこのような形で、私への恨みを晴らそうとするとは……。さてはそなた、中々の策士であるな?」
「な、なんのことです!?」
「……」
朱梨は口をもごもごと動かし、やがて観念したように、ふうとため息をつく。
「……私は、高いところが苦手だ」
「あ……そう言えば、そうでしたね」
うっかり忘れてしまっていたが、朱梨は綾奈と同じく、高いところが苦手なのだ。いや、綾奈が朱梨と同じく、と言うべきか。
誠次は申し訳なく、後ろ髪を手でかいていたが、朱梨は構わぬと首を横に振る。
「まあよい。私はそなたに合わせると言った。それに、このような場所もそなたに連れられなければ生涯訪れることは無かっただろう。これもまた、知らぬことを知ることができるかも知れない良い機会だ。共に行こう、誠次」
「ありがとうございます」
朱梨が了承してくれたので、誠次はチケット売り場まで向かい、大人チケットと、高校生のチケットを一枚ずつ購入していた。
「朱梨さん、これを。エレベーターを使えば展望デッキまでは一気に上がれます」
「それは便利だな。蛍島の灯台にも、取り付けたいものだ。いや……あれは火村さんの家のものだから、許可が必要か……」
上層階に向かうエレベーターに近づくに連れ、朱梨がぶつぶつと呟き、独り言が多くなる。なんだろうか、こう言ってはなんだが、本人は冷静を努めているように見えて、内心から沸き立つ高所への恐怖を紛らわせてはいないような。蛍火の女傑と呼ばれた彼女にも、このような弱みを見せるところはあるあたり、やはり同じ人なのだと思うことが出来た。
「……何かおかしいことがあるか、剣術士?」
そうと感じていたことが、顔に出ていたのだろう。朱梨に目ざとく見つけられ、ぎくりとした誠次は、首をぶんぶんと横に振る。
流石に全面ガラス張りと言った鬼畜仕様にはなっておらず、日本の技術力がふんだんに使われた重厚そうな扉をしたエレベーターに、誠次と朱梨の二人を含めた数人が乗り込む。
上を見れば、現在自分たちがどの階層におるのかが分かり、それでいて上昇する際に感じる胃がせり上がるような感覚も全く感じず、改めて技術力の高さが垣間見えた瞬間だ。
やがて、エレベーターが展望デッキに到着し、全員がエレベーターから降りる。
降りた瞬間、目の前に広がっていたのは、果てまで続く青く美しく空であった。斜め張りの分厚いガラス窓から、遮るものがない自由な空が、広がっているのである。
「うわぁ……」
誠次自身も、普段は鋼鉄の建造物に阻まれた不自由な視界から広がる空ばかりを見ていたので、ここから見渡せる空を見て、吸い寄せられるように窓枠へと近づいた。下を見れば足が竦み、心臓がきゅっと萎んでしまいそうになるが、それ以上の感動がこの空の風景にはある。
朱梨を楽しませるつもりが、自分ばかりこの景色を満喫していることを思い出し、誠次は後ろに立っている朱梨に申し訳なさ気に振り向く。
「すみません……俺の方が楽しんでしまっているみたいで……」
「逢瀬は双方が楽しんでこそではないか? 構わないよ」
朱梨はやや後ろから、そのようなことを言う。そして、その場からは動こうとはしない。
「景色、とても綺麗ですよ。どうぞお近くで」
「い、いや……。私は、ここからで良い」
朱梨は不動の佇まいで、ガラス窓の前まで向かうことを渋る。
「下を見てしまえばくらついてしまうかもしれませんが、それでもこの建物は大勢の人が日々出入りを繰り返している、頑丈な建物です。落っこちたり割れたりなんてすることはありませんよ」
誠次がそう言って、朱梨に向けて手を差し伸ばす。
差し出された誠次の手をじっと見つめていた朱梨は、誠次の言葉を聞くと、肩を竦めていた。
「まったく。これでは行かざるを得なくなるな」
観念した様子で、朱梨は誠次の手を取り、彼に導かれるようにして、窓枠にまで近づく。普段はしゅっとしている老体であるはずの身体は小刻みに震え、本当に怖がっているのだろう。
誠次は朱梨の手をとったまま、彼女を横にして、並び立つ。
「……」
朱梨は口を微かに開け、ニつの綺麗な瞳を、東京の街並みへと向ける。
誠次もまた、いくら背が高いビルが建てられようが、到底遮られることの無い特別な景色に、感動を味わっていた。
「……そうか」
ふと、すぐ隣に立つ朱梨が、何か確証を抱いたときのような、納得の言葉を漏らす。
「? どうされたのですか?」
そう問いかけた誠次の手をそっと離し、朱梨は、自分で自分の手をそっと擦っていた。もう、大丈夫なようだ。
朱梨の横顔にすでに恐怖はいなかった。それどころか、今はもう、迷いや恐れすら感じさせない、不敵な笑みすら、覗かせているようで。
「もしかしたら秋穂は、本当は私にこのような景色を見せたかったのかも知れない」
周囲の人々の雑踏や声すらも遠くに感じるほど、朱梨は切なさを漂わせて、呟いていた。
誠次もまた、彼女にとって過ぎ去って逝ってしまった人物のことを思い出し、やや俯いてしまう。彼とは蛍島の決戦の際に、幻で出会った程度であるが。
「え……」
「蛍山から見える景色も良いが、ここから見える景色もまた、良きものだ。等しく生命が生きるために手を取り合い、協力し合い、繁栄の歴史を紡いでいく。時には誰かが私のように過ちを犯すこともあれど、それすらもこの数多無蔵の景色の一部となるのだろう……」
朱梨は自分の手をさすり、ポツリと呟く。
「秋穂は常日頃から、どうにか私を島の外へ連れ出そうと躍起になっていてな。それはそれは、意味のないやり取りを繰り広げたものだよ」
「朱梨さんが、蛍島から離れるのを嫌がったのですね」
「そうだが、また随分と意地悪な聞き方をするのだな、そなたは」
「すみません……」
「構わぬさ。私がもう少し素直になっていれば、きっと、秋穂と共にもっと早くこの景色を臨めたのかも知れない」
どことない寂しさを漂わせた、隣の老婆の言葉に、誠次もしんみりとした思いで、胸に手を添える。楽しげにはしゃぐ子どもたちの声を背に、まるで時が止まったかのように、一枚の静止絵のように映る都会の街並みを見下ろす。
「貴女にとってここから見える景色と言うものは、本来は特別な意味を持つはずのようでしたね」
「謙遜するなと言ったはずだ。それでも綾奈への愛を叫んだ男の言うことか?」
朱梨に言われ、誠次はハッとなる。
周囲の人々が今の言葉を聞いていたのならばそれは恥ずかしいことだが、今の誠次にそれを気にかける余裕は無かった。
「確かにそなたは秋穂ではない。しかしそれは、秋穂のように私のような女を悲しませることはないと言うことだ」
「秋穂さんは、貴方を守るためにも勇敢に゛捕食者゛と戦った」
「勇敢と無謀は紙一重さ。結果として残されたのは、私という弱い女だった。その女は己の弱さを認められず、結果として山を焼き、孫娘を討とうともした。私の過ちの言い訳をする気はないがそれでも、剣術士。そなたには知っておいて欲しいのさ」
朱梨はそう言うと、穏やかな目をして、こちらを見る。
「……大好きであった男と突然、二度と会えなくなってしまった悲しみは、耐え難いものだ。私はそんな悲劇を、綾奈や、そなたに纏わる友人たちにも味合わせたくはない。そなたもそうだろう?」
「はい。当然、です」
大都会の風景を横に、誠次と朱梨は正面で向き合い、言葉を交わす。
「そしてそなたはあの日、私に対してこれからも戦い続けると言った。例え仲間の身に危険が及んでも、何よりも自分自身が傷つこうとも構わずに、それでも戦うと」
「はい。仲間を守るために戦う……それが俺の使命なのだと、思っています」
誠次は頷く。
ならばと、朱梨は真剣な眼差しで、剣術士を見据えた。
「ならば私は、持てる武術を全て使い、それを全てそなたに授けたいと思う。そなたがそうして少しでも強くなることこそが、私のような者を生まない為にもなるのだろう」
「ありがとうございます、朱梨さん」
篠上朱梨。彼女は最初から今に繋がるまで、自分のような辛く悲しい思いを綾奈に味合わせないように戦った、間違いなく蛍火の女傑と呼ぶに相応しい女性だった。
「やはり強情なのだな、そなたは」
「よく、言われます……」
苦笑する朱梨に、誠次は照れ臭く、後ろ髪をかいていた。
「さて、残された時間もあまり多くはない。逢瀬もしたことだし、学園に戻ってまた特訓の再開だ」
「!? は、はいっ!」
「ふ。まさか、私ともっといちゃいちゃしたかったのか?」
ふふんと、孫娘そっくりの、勝ち誇ったような笑みを浮かべる朱梨に、誠次は思わず頷きかけた首を左右にぶんぶんと振る。
「い、いえっ! あ……そういう意味ではなく、確かに、本題は特訓の筈でしたね!」
「その通りだ。今日は楽しかったよ誠次。まあ次は、ここへは私とではなく、好きな女子と一緒に来るが良い」
朱梨は穏やかに微笑みながら、そんな事を言うのであった。
「大切な人、か……」
そんな風な事を言われた誠次は、大都会の景色が広がる前面を見渡してから、目を閉じてみる。
(……っ!)
訓練の時を思い起こせば、ぞくりと、全身を何かが駆け巡っていくような気がした。同じように観光を楽しんでいる周囲の人々の喧騒は遠く何処かへ。今はただ、守るべき人たちの、声が聞こえるような気がした。
~作者が深夜にぼろ泣きした感動の物語は、ⅩⅤからⅦへ~
「そすと 薬類の買い足しは忘れずにな」
そぐにす
「はいよ」
そすてぃす
「ねえそすと! あそこで写真撮りましょうよ!」
まこんぷと
「ああいいな 撮るか」
そすてぃす
「競争でもするか?」
ゆへでぃおらす
「はあ? 子供じゃねえんだから」
そすてぃす
「負けるからってひがむなよ」
ゆへでぃおらす
「そうか 新しいレシピを思いついたぞ」
そぐにす
「楽しみー!」
まこんぷと
「なんかこうして お前らの顔見たらさ」
そすてぃす
「悪い やっぱ辛えわ」
そすてぃす
「そりゃ 辛いですよ」
まこんぷと
「ちゃんと言えたじゃねえか」
ゆへでぃおらす
「聞けてよかった」
そぐにす
「みんな どうもな」
そすてぃす
「おれ」
そすてぃす
「おまえらのこと好きだわ」
そすてぃす
「俺だけ仲間外れだ……」
せいじ
「き、興味ないね!」
せいじ




