5 ☆
「さすがに夏は暑くて足が蒸れるから、履かないよ……?」
かおり
魔法学園の図書館。弁論会開催中はこの場所は特殊魔法治安維持組織によって占拠されていたが、今はその面影も名残もなく、間もなく夏休みを終える少数の生徒たちがいるだけだ。喧騒はステンドグラス風の加工が施された窓の向こうへ、本来、図書館にあるべき平穏で穏やかな空間が、広がっていた。
夏休みとは言っても学園内なので制服姿で誠次は、図書棟に一人でやって来る。
「待ち合わせ場所が図書館の目立たない奥の席か……。香織先輩らしいな」
やって来た理由は言わずもがな、香織と会って話をする為だ。
彼女の事、将来の事、自分の事。先延ばしにする時間など、一つ年上の彼女にはない。たった一つ、しかし、されど一つ。火村も言った通り、それが学生の身分であるのならば、なおさら大事な事なのである。
待ち合わせより早めに来たため、彼女が来るまで少し時間がある。誠次が何気なく周囲を見渡していると、二人の顔見知りの魔法生がいた。
二人の方も、図書棟にやって来たこちらに気がついたようだ。一人は同級生でルームメイトの友人、小野寺真。もう一人は一つ年下の後輩で女子生徒、七海凪であった。二人とも基本的に優しく穏やかな性格であるが、時々勇気ある行動をすることもある。
「やあ二人とも。珍しい組み合わせだな」
「こんにちは、天瀬先輩」
「夏休みの宿題用に借りていた本を返しに来たら偶然会いまして。男女別とはいえ同じ陸上部ですし、顔見知りでしたので」
二人は机を挟んで話していたようであり、誠次も歩み寄っていた。陸上の話題等、いつも遅くまで残って率先して後片付けをやっている者同士でもあるので、会話は弾んでいたらしい。
「誠次さんは、どのような用事でここに?」
「とある人との待ち合わせなんだ。ちょうど良かった。七海に訊いてみたいことがあったんだ。真にも聞いてほしい」
「はい。なんですか、天瀬先輩?」
この二人ならば心配はいらないと思うが、一応、香織の名は伏せる体で話をする。
「これは例えばの話だ。……例えば、誰とは言わないが、俺がとある一つ上で魔法学園の生徒会長をしている先輩と相思相愛の関係だったとする」
「え……っ」
「は……!」
なにやら赤らめた表情をする七海と、なにやら青冷めた表情をする真は、対称的であった。
「例えばの話なんだが……」
「そ、そうですよね! た、例えばの話ですよね!? あ、あはは……」
「いやそれ確実に波沢生徒会長では――」
魂が抜ける音が聞こえてきそうな声量で笑う七海と、頭に手を添えてため息をつく真。しかし、肝心なところでいちいち締まらない誠次の質問は、続いていた。
「その眼鏡と氷が良く似合う美人生徒会長……いや誰とは言わないがその人は、もうすぐこの学園を去らなければならないんだ」
「……あくまで貫き通すつもりなのですか……!?」
愕然とする真の様子に気がつかず、真剣な表情で誠次は話を続ける。
「だが俺にはすでに他にも大切な女性がいて、とあるやんごとなき事情で、その人たちとも関係を続けていきたいんだ」
「……端から聞けば想像を絶する発言ですが、果たして……!?」
真が七海の顔を窺うと、
「……それってそもそも、相思相愛なのでしょうか……?」
至極真っ当な意見を、誠次へ向けて述べていた。
ハッとなった誠次は、胸元を抑え、「かはっ!」とまるで剣で腹部を貫かれた時のようなリアクションをしていた。
「やはり俺は、香織せんぱ……いや、眼鏡がこれ以上なく似合っているあの先輩を、ただの付加魔法用の道具の一つのような目で、見てしまっているのだろうか……。言葉では違うとは言っても、結局は俺は、力を欲しているだけなのだろうか……」
思いつめた表情をする誠次の前で、七海は微笑み、顔を横に振る。
「大事なのは、誠次先輩自身がどう思っているか、だと思いますけれど」
「……」
真としても、ルームメイトであり友人の彼の戦い方については知っている。普段自由に魔法が使えない代わりに、剣を触媒として、普通の魔法以上の力を持つこと。自分も彼と同性である以上、同じ立場となって考えたとしても、それこそ、全ての人を幸せにするなど、不可能なことに思えた。この場合の幸せとはそう……男と女の、関係と言うものだろう。
それでも彼がそれを目指すと言うのあれば、友として、応援や些細な手伝いをすることは、やぶさかではなかった。
「……誠次さんがその剣で戦うのに、多くの女性が必要だという点は、きっと聡明なはずのあの人も、よく理解していることだと思います」
相手が誰だかは分かっている。多くの魔法生を束ねる生徒会長と言う立場ながら、その責務を誇りを持って全うした立派な女性だ。真は分かっておきながらも、彼と同じように、はぐらかして話してみせる。一々指摘するのも、野暮なことだろうと。
真の言葉を聞いてから、七海も頷いていた。
「天瀬先輩が戦う理由だって、正しいことのはずなんですから、自信持ってください。その……むしろ、光栄なことなんだって思いますから……女の子からしたら……」
「問題は、その年上の先輩が一足先に学園を卒業することですか……」
「そうですよね……。私も、好きな先輩が先に学園を卒業してしまうとなると、とても悲しい気持ちになると思いますし、天瀬先輩の気持ちも分かるつもりです……」
陸上部の二人も、真剣に考えてくれているようだった。
そろそろ待ち合わせの時間だ。誠次はありがとう、と言っていた。
「不埒な質問ですまなかった。けれど、自信が少し湧いたよ。これから実際に話してみて、どうするべきか、答えをだす」
誠次は改めて二人に礼を述べ、この場を後にしていた。
真と七海は、少しだけ前向きになった気がする誠次の背を見送っていた。
「今ので、少しでもあの人の荷が降ろせればよかったのですが……。やはり自分には、あの人のように全てを背負う度胸も、勇気も、足りてはいないようですね……。すごく難しい問題だと、思います」
「と、ところで小野寺先輩。……その一つ年上の先輩って、一体誰の事だったのですか、ご存知ですか?」
「え、わからなかったの、でしょうか……今ので!?」
うって変わって、きょとんと首を傾げる七海に、真は腕を掲げてどっきりしていた。
本棚と本棚の迷路の奥である、図書館の隅っこの席に、人目を避けるようにして座って待つ。相変わらずここは静かで本に囲まれて、居心地が良い。古紙の匂いも、誠次からすれば、リラックスできるような、そんな効果を感じる良いものだ。
そんな茶褐色の世界に舞い込んだのは、青い気配と、華やかで清らかな雰囲気を身に纏った、年上の女性先輩だ。
「――お待たせ、誠次くん」
「香織先輩。お時間、ありがとうございます」
「ううんこちらこそ。それで、どうしたの?」
香織が目の前の席に座りながら、尋ねてくる
「まずは、えっと……お疲れ様でした。少し早急かもしれませんが、生徒会長として任を務めた貴女の事を、心から尊敬しています」
「そう言ってくれて嬉しいな……」
「それと同時に、俺も普段からもっと貴女の為になれる行動をすべきでした……。それなのに、貴女には様々なところで助けて頂いていました。ありがとう、ございます」
「誠次くんが忙しいのは理解しているつもりだし、なによりも。私は生徒会長としても、困っている魔法生を放ってはおけないよ。……魔法が使えなくて困っている、大事な大事な後輩魔法生くんのことは、特にね……?」
やや恥ずかしそうにしながらも、香織はぼそりと、告げてきた。
こちらはこちらで、いつも以上に堅苦しい口調となってしまっている自覚がある。
一旦、深呼吸をして、誠次はどきどきと鳴る心臓の鼓動を収めようとするが、今のところ効果は薄かった。
「その、実は折り入って話したいことが……」
「勿体ぶらず、何でも言って?」
誠次はごくりと息を呑み、青い目を向けてくる香織をじっと見つめる。
「俺と、貴女の将来のことに、ついて、なのです」
「え……」
真剣な表情で言った誠次の前で、香織の目が大きく見開かれる。驚いているようだ。
誠次もまた、急激に乾いたように錯覚する口の中の感触を確かめながら、再び口を開く。
ペコリと頭を下げる誠次に、香織も呆気に取られかけながら、なぜか頭を下げ返す。
「将来のこと、って……」
顔を上げれば、眼鏡姿の香織が、不安そうな面持ちで誠次の顔を覗き込んでいた。
「その……香織先輩は間もなく、生徒会執行部としての任期を終えられます。そうすれば、いよいよ進路の事について、本格的に追い込みの時期になるのですよね……?」
「うん……。確かに、誠次くんの言う通り、生徒会としての仕事は終わって、体育祭と文化祭も終われば、三年生はもうみんな受験とか、就職のことでいっぱいかな」
香織はどこか、寂しそうにして、両手を伸ばして前に広げながら、椅子の背もたれに背をつける。それは言わなくとも、彼女にとってこの魔法学園で過ごした日々が、とても充実していた事を物語っている。
そして。まだ彼女が二年生の頃、春に戦い、彼女の中の何かを変え、生徒会長となった今に至るまで関わった自覚を感じる誠次は、真剣な表情のまま、言葉を続ける。
「香織先輩は、俺のレヴァテイン・弐に付加魔法してくれる女性のうちの一人です。言い方は悪いかもしれませんが、ご存知の通り俺は、多くの女性の魔法を借りて、戦う男です」
「うん……。誠次くんの言いたいこと、分かるよ」
香織は流し目をしてから、誠次へ向けて話す。
「私も……そのことについて、ちゃんと話しておきたかったの」
香織はそこまで言うと、やや頬を赤くして、こんなことを言い出す。
「ねえ。まずは、昨年のクリスマスイブの続き、しない?」
「昨年のクリスマスイブの続き……まさか、メーデイアに行くのですか!?」
誠次が驚いて座っていた椅子から仰け反りかけると、香織は慌てて首を横に振る。
「う、ううん。そのちょっと前……」
「前……」
「二人きりの、デートの続き。しよ? ここだと、大事な話を誰かに聞かれちゃうかもだし」
香織はそう言って、椅子から立ち上がり、誠次へ向けて顔を近づける。
「二人の、将来のことについて、話そうよ――」
※
私にとって一つ年下の彼は、今ではいなくてはいけない、大切な人となっていた。同時に、彼もまた、同じように私を必要としてくれる。
それと同時に、彼の特別な事情が、今までの私たちの関係性を、うやむやなままにしていた。
魔剣への付加魔法に、女性が必要な事。彼の話では、それが九人いると言う。もともと友だちもそこまで多くはない自分では、九人の、それも異性と親しい関係になるなど、到底無理難題な事であった。
――ましてやそこに、この年代の男女であれば生まれて然るべき、恋愛の問題も絡まるとなれば。そして、私にとって彼が一つ年下の男の子であり、彼にとって私が一つ年上の彼女であるのならば。
自分はそれでも……どうしたいのか、気持ちははっきりとしている。あとは、お互いの心と心の、答え合わせをするだけのはず。百点満点は何度も取って来た、得意なはずのテストの答えは、もう間もなく帰ってくるはずだから……。
翌日。九月一日。日曜日の、夏休みのロスタイム。テレビで夕方に流れる国民的アニメで夏休みの終わりを否応なしに実感し、明後日から始まる授業再開に備えなければならない。
暦の上では暑い夏もいよいよ終わるはずなのだが、例年通り、今年の夏の残暑もまだまだ続くようだ。
曲線の形状をした屋根が特徴的な、東京都内のとある水族館の入り口の塀に、私服姿で誠次は腰掛けていた。
香織が、雪の日の延長に指定したデートの場所。それは北海道で訪れたものと同じ、水族館。
――ただし、あの日との明確な違いは、雪があるかないかの違いではなく、もう一つ。
「――お待たせ誠次くん」
夏の私服姿で香織がやって来る。
二人きりであるという事。しかしそもそも、北海道の時点ではお互いにそのような関係性ではなかったと言う指摘も、ごもっともであるのだが。
「また水族館でごめんね……我が事ながらのお出かけスポットのレパートリーの少なさときたら……」
「いえいえ。外はまだ暑いですし、室内で涼しいのは最高です」
なによりも、と誠次は香織を見つめて、微笑む。
「香織先輩らしいですよ。水族館は何回でも楽しめると思いますし」
「……ありがとう、誠次くん。じゃあ行こっか?」
向き合う二人は、誰に言われるのでもなく、自然と手を伸ばし合い、繋いだ。
夏だと言うのに、香織の氷のように冷たいて手は、暑さと気恥ずかしさでやられかけていた誠次の熱い手を、緩やかに冷ましていくようであった。
アーチ状の屋根の下を、手を繫いだ先輩女子と後輩男子は歩いて通る。まるでクジラが大きな口を開けて来場者を呑み込むような造りで、香織が来たがっていた水族館は、二人の魔法生を迎えていた。
薄暗い照明のみの館内で、ネオンブルーの光が輝く。周囲の人々は暗いシルエットに見え、確かなのは、隣で共に水槽の中の魚を眺める彼女の綺麗な姿のみ。
「鮫だ……。一緒にいる魚は食べられたりしないのだろうか……」
巨大な水槽を見上げ、誠次は呟く。
「あの魚は大丈夫。鮫の身の回りを泳いで、綺麗に掃除してくれるんだよ。きっと鮫もきっとそれをわかっているんだろうね」
誠次のすぐ隣に立ち、同じようにして水槽を見上げる香織が、そう説明をしてくる。
誠次は「なるほど……」と呟いていた。
失礼なことではあると思うが、どうしても彼女を連想してしまう、円形の海月の水槽を前にしたときは、それは香織も同じだったようだ。――もっとも、香月のみに関わらず、誠次は他にも多くの女性と関係を持っている。その事についても、今日はきちんと話すつもりであった。
「詩音ちゃんや、他の娘にも感謝だね。こうして二人きりで、誠次くんとデートできるなんて」
「はい。みんな、俺の戦い方を理解してくれているからこそ、できることなのだと思います。みんなには、いつも感謝しています」
水槽のガラスにそっと手を添えて、誠次は呟く。
そのガラスと中に入っている水。そして、優雅に泳ぐ海月の先に、香織の姿が映ったとき、誠次は慌てて口を開く。
「勿論、香織先輩にだって、ちゃんと感謝してします」
ガラスの中で揺蕩う白いドレスの先で、香織が一瞬だけきょとんとした表情を見せると、次にはくすりと微笑んでいた。
「ありがとうはこちらこそだよ。こうして私の事を気遣ってくれて、二人きりの時間を作ってくれて」
「ええと……。とある人に、言われたと言うか、何というか」
火村には自分がそそのかしたと言うなと言われていた為、妙に誤魔化す誠次であったが、目の前に立つ彼女は、多くの魔法生の上に立つ聡明な才女。蛍光灯の明かりを反射させた、ブルーフレームの眼鏡の奥の青い瞳には、深海のような奥行きを感じ、見透かされているようだった。
「それって、火村さん……とか?」
「え……」
イソギンチャクがゆらゆらと、水中で鮮やかな花を咲かす中、香織は確証を持って言う。
水面の揺らめきのように、誠次の黒い瞳は揺れ動いていた。
「……い、いえ」
「大丈夫だよ。気を遣わせちゃってごめんね。誠次くんだって忙しいはずなのに……」
「そんなことはありません。生徒会長の執務と比べれば、この程度は」
二人はその後、色とりどりの魚が泳ぎ回る、アーチ状の水槽の下を通り、歩きながら会話をしていた。
「みんなは私に感謝してくれるけど、私はね、言われるほど賢くもなくて、しっかりもしていなかった」
「……」
香織の横を着いていくようにして歩き、誠次は彼女の横顔をじっと見つめていた。
時々香織はちらりと誠次に視線を向け、照れ臭そうに微笑み、再び前を向く。
「誠次くんは優しいから、きっとそんなことはないです、とか言ってくれそうだけど、私はそんな誠次くんに助けられて、ここまで来られたんだよ」
今まさに、自分が言おうとしていた言葉を先に言われてしまい、続く言葉を受け止めるのに、誠次はしばし時間を要した。
「そんな私の、生徒会長としての任期も、もうあと少しで終わる。そうすれば、私も他の魔法生と変わらない」
香織はそこまで言うと、どこか寂しそうに、水槽の中を優雅を泳ぐ魚を見つめていた。
「本当にお疲れ様でした、香織先輩」
香織のすぐ隣に立ち、誠次は言う。
「香織先輩は、進路はどうするつもりなのです?」
誠次は香織の横に立ち、尋ねる。これこそが、今回の大事な話の議題である。
立ち止まった香織は、しばし視線を落としてから、ブルーフレームの眼鏡の奥の瞳を、ゆっくりと誠次へと向ける。やはり彼女も、この件について頭の片隅にあったのだろう。
「じゃあ、逆に誠次くんに質問するけど、いい?」
「ええ、はい」
魚が泳ぐ巨大な水槽を背に、二人は出っ張りの台のところに腰をかけていた。
「思い浮かんでいるのは、二つ。二つの考えがあるの」
「……? と言いますと?」
きょとんとする誠次に、香織はやや頬を赤く染める。
「ま、まずは、世間から見たしっかり者の方の私の考えの方から、聞いてほしい、かな……」
誠次もまた、わけもわからない胸の鼓動の速さを自覚し、ほんのりと熱くなってきた顔で、頷く。
「しっかり者の私はね、これから一年後、海外の魔法大学に行って、さらに魔法を学ぶの」
「つまり、それは……」
「そう。だから……誠次くんとは、しばらくの間、さようならしないといけないんだ……」
ちくり、と胸の奥が確かに痛んだ。
これは予想しなくてはいけなかったことだ。そうと自分に言い聞かせても、すぐに納得はしてくれない。共に様々な困難を乗り越えて来た彼女を、そう簡単に、手放せるのだろうか……。
香織は一つ上の年代であり、当然、進む道は違っている。改めて、火村に指摘されたことの重大性を、噛み締める。
「そう、ですよね……」
一瞬にして乾いてしまった口の中から、誠次は掠れかけた声を出す。
香織は、そんな誠次の横顔を確かに見つめてから、次の考えを口に出した。
「もう一つはね、私の大好きな男の子から見た、真面目な私の真面目な考え」
「……っ」
確かに、その瞬間、視線は合っていた。水槽から放たれる水の反射光が顔の側面を淡く濡らす中、香織の潤んだ青い瞳は、誠次の揺れ動く黒い瞳を、しっかりと捉えている。
「誠次くん。私はこれからも、誠次くんの傍にいたい。誠次くんが望むのであれば、その度に、魔法の力を貸す。その為だったら、私は日本に残って、誠次くんの傍にずっといるよ」
香織はそう言いながら、なんと、硬直する誠次の手をとってぎゅっと握ってくる。かつて氷の女王ともまで呼ばれていた彼女の身体の確かな熱を感じ取り、誠次は思わず、彼女の顔から視線を逸らせなくなる。
「私はどちらかと言えば、後者の方がいいかな、なんて」
「しかし、そうしてしまうと、香織先輩自身の将来は……」
香織は微笑んで、答える。
「うん。貴方のお嫁さん、かな……」
この上なく恥ずかしそうに、また、周囲に人影がいないことを見ながら、香織は小声でぼそりと、そんなことを言ってくる。
互いに腰掛けながらも、香織の手を繋いでいた誠次の身体は、大きくよろめいてしまう。
「勿論、誠次くんには他にも大切な女の子が沢山いて、全員、誠次くんにとっていなくてはいけない娘って言うのは理解してるよ。でも、それでも誠次くんが望んでくれるのなら、私は日本に残って、誠次くんと同じ道を歩いていきたい」
最後の最後で、誠次から見て年上の女性らしい茶目っ気を見せて、香織はそんな提案をしてくる。
「香織先輩には、香織先輩の未来があるはずです……。それに魔法の才だってある。貴女のような優秀な魔術師の才を失うなんてことは、あってはいけません……」
そんな当たり障りのないようなことを言っておきながら、心はちぐはぐなままであった。出来る事ならば、香織の傍にいたい。だが、常に誠実であれと言う心が、誠次に常識的な判断を求めてくる。
そうと理解した頭の中が真っ白になりかけながらも、誠次は必死に言葉を紡いだ。
「じゃあ……誠次くんは、私のこと、必要じゃない……?」
「い、いえ、そんなことはありません! 香織先輩の事も、香織先輩の付加魔法も、俺には共に必要です……。でも、どこまで言っても俺は、戦う為に貴女を必要としてしまっている……」
「そんなこと、ないよ……。精神的な面でも私は、貴男を頼りにしているの」
「俺の戦いは、まだ続きます……。それこそ、終わりなんて見えません……。そんな不確定な俺の未来に、魔法の才ある貴女を、縛り付けてしまうわけには、いきません……」
「……」
香織の表情が、みるみるうちに、くもっていってしまう。
また、おれは間違えてしまっているのではないだろうか……。目の前の女性の真の心を推し量れるほど器用ではなく、なにが本当に正しいのかも、まだ理解は出来ていない。
誠次は、慎重に言葉を選んでいた。
「俺だって、貴女を失いたくはない……これからも傍にいてほしい……。香織先輩。俺も貴女が思っているほど、強い男なんかではありません。すでに多くの仲間がいると言うのに、それでも尚、貴女と言う一人を強く求めています。失うのが怖いから……そして、この繋がりを断ち切るのが出来ない、俺は臆病なんです……」
誠次はそう言うと、向こうから繋いで来た彼女の手をそっと、今度は自分から強く握り返していた。
目の前に座る香織の目の端に、水の雫が見えたのを、誠次は気がつく。
「ただ一つ言えるのは、そんな俺の思いは、貴女の幸せを心から望んでいるということです。香織先輩は、ご自身がどうか悔いの無い道を選んでください。貴女が海外に行ったとしても、俺は、貴女の事を応援します」
誠次はそうして、香織の青い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「……すみません。貴女が望む本当の答えを、俺は言えなくて……」
「ううん。……私こそ、また貴方に気を使わせちゃったね……。ごめんね……先輩なのに……」
香織はそこまで言うと、意を決したように、立ち上がる。
自分では心情を隠せていると思っている誠次は、香織から見ればわかりやすく気落ちしており、
「……このままじゃ、いつもの私と同じだよね……」
誠次と比べて一足先に立ち上がった香織は、胸に手を添え、口角を上げていた。
「ねえ、ひとまずは、この二人きりのデートを楽しもうよ?」
「え、し、しかし……」
「今日一日一緒に過ごしたら、何か、他にも良い考えが思いつくと思わない?」
「……わかり、ました」
香織に手を引かれるようにして、戸惑う誠次も立ち上がる。
誠次の手を引く香織は、笑顔で館内を再び散策する。
不思議だ、と感じる。親しみ易い同い年の女の子に見えるときもあれば、おっちょこちょいな年下の女の子に見えるときも、しっかり者の年上の女の子に見えるときもある。魚の影が形作る床の絨毯の上を歩きながら、誠次は水槽の中の魚ではなく、色とりどりの香織の姿に目を奪われていた。
「イルカのショーが始まるんだって。一緒に見よ? 誠次くん」
「は、はい」
なんと言えばいいのだろうか、一気に積極的になった香織の様子に戸惑いながら、誠次は香織の言われるがままに着いていく。彼女が望んだことを、叶えるための男になろうと、胸の中で思いながら。
巨大な円形の水槽の水中。そこを高速で泳ぐ巨大な灰色の影が目の前を通り過ぎていったかと思えば、水面から一気に飛び出し、魔法により空中に浮いている巨大な球形の水の中に、突っ込んでいく。
水飛沫がイルカの水の出口と入り口の二箇所で発生し、前の方の席にいた誠次と香織は、イルカが出したその水を浴びることとなる。
『水をかけられてしまった皆さん、ご安心を! 特別な水はすぐに乾いてしまうので、貴重品が濡れてしまう心配はありません! ほーら、マナちゃん、みんなにちゃんと謝って!』
マナちゃんと呼ばれたイルカが、空中に浮いている水の中から顔を出し、愛想良く(?)ぺこぺこと、なんどもお辞儀をしてくる。
誠次と香織も、確かに水を浴びたのに、決して濡れてはいない全身を不思議に思いながら、一気に涼んだ体でイルカのショーを観覧していた。
夏休み最終日とあり、周囲にも同じようなカップルや、子連れの家族が多くおり、一斉に歓声を上げている。その中で、誠次の隣に座る香織も感動しているように、胸元まで持ち上げた両手でパチパチと、小さな拍手を送っていた。
「あはは。ちょっと寒いかも」
「上着貸しましょうか?」
「ううん。大丈夫。ありがとう誠次くん」
頭上にいくつも浮かぶ球形の水の塊の中を、他にも三匹のイルカが無数に行き来をする。その都度頭上から落ちてくる水を浴び、子どもたちは嬉しそうな声を上げている。
『なになにー? イルカさんたちが、一緒に泳ぎたがってるみたいだ! そーれっ!』
今度はスイムウエア姿の男性ドルフィントレーナーが、そんなことを言いながら、宙を漂う球形の水の中へと飛び込んでいく。
球形の水の中をイルカと共に泳ぎ回り、ドルフィントレーナーが水中から手を振ってきて、誠次と香織はそれに答えて笑顔で手を振り返す。
「そうだ誠次くん!」
周囲の人々の歓声の為、すぐ隣に座っていても話し声は大きくなり、香織が大きな声をかけてくる。
「なんでしょうか!?」
「このデートの間、お互いに呼び捨てで名前、呼び合わない!? 流石に普段の学園の中じゃ、みんなに変な目で見られちゃいそうだけど、今だけは特別期間!」
「そんな! それは失礼です!」
そう言った誠次の意固地さを、どこか嗜めるかのように、頭上からピンポイントで水が降り注いでくる。やはり特別な水のようで、ずぶ濡れになったと思ったらそんなこともなく、ただただ誠次はびくりと身体を震わせる。
そんな誠次のずぶ濡れの姿を見て、香織は手を口に添えて、堪え切れずに爆笑していた。
「う……」
この上ない恥ずかしさを感じながら、しかし対象的に冷える身体。
まるでイルカにビシッと言われたような気分で誠次は、頭上に浮かぶ水の塊の中を優雅に泳ぎ回るイルカを見上げる。
「誠次……っ」
意を決したように、顔を真っ赤に染めた香織がそのように名を呼び、ハッとなった誠次は、真正面で香織と見つめ合う。途端、再び熱くなる身体。体温が急激に上昇したり下がったり、落ち着かない思いのまま誠次は、期待するような表情をする香織を見つめたまま、口を開く。
「香織……さん……っ」
「ううん。香織」
首を横に振り、香織はこちらを咎めるようにして、頬を軽く膨らませる。
「かお、り……」
この上なく恥ずかしい思いを抱きながら、誠次はようやく、言い切る。年上の女性を呼び捨てにする行為が、これほどまでに困難なことなのかと、内心で感じながら。
「すごく言い辛そうだね……?」
「当然です……」
「及第点、かな」
「すみません……香織……」
ちぐはぐな言葉遣いを始める誠次を見て、香織はくすりと微笑み、そっと手を握ってくる。
――どうしても男である自分がリードしなくてはと、誰に言われたでもなく思ってしまう誠次の自尊心を、決して悪い意味ではなく、香織は解していくようだった。
イルカのショーはその後も続き、やがて終わりを迎えていた。
『それじゃあみんな、またねーっ!』
ご愛嬌とばかりに、イルカがお別れの水飛沫を浴びせて来て、ショーは閉幕する。
次々と笑顔で席を立っていく人たちに混じり、誠次と香織も席を立って、座席横の階段を上がっていく。
途中、「ウチもイルカと一緒に泳ぎたかったんじゃーっ!」と悔しがるような声と、「無理だから諦めなよ」とそれを宥めるような少女の声が聞こえたような気がするが、きっと気のせいだろう。
「うにって、痛そうだけど、触られるの……? 刺されない……?」
「わ、わかりません……」
続いてやって来た、サンゴ礁を模したジオラマ水槽に、直接水に手を入れてうにやヒトデに触れられるコーナーにて、香織と誠次はおっかなびっくりに言い合う。
そうしていると、水族館のスタッフがやって来て「優しく掬い上げるようにすれば痛くないですよー」と言ってくれる。
試しに誠次が、言われた通りにしてうにを掬い上げると、隣で香織が興味津々そうに顔を寄せてくる。
「あ……本当だ。少し、こそばゆい感じです」
誠次は両手で慎重にうにを持つと、香織の方に水中で持っていく。
「香織も、持ってみますか……?」
「う、うん」
水中で手を合わせ、誠次は香織の手のひらの上に、うにを泳がせるようにして乗せてやっていた。
「ちょっとチクチクしてて、でもふわふわしてるみたい……」
香織は不思議そうにしながら、自分の手のひらの上で浮かぶうにをじっと見つめていた。
その後、二人は手をきっちりと洗い、昼ごはんを食べると言う話になった。
「お腹、空いてる?」
香織がそっと、どこかそわそわしながら、上目遣いで尋ねてくる。
「ええ、空きました」
「あの……誠次は、人が作ったお弁当とか、平気?」
「勿論。全然食べられますけど」
どうしてそんなことを訊くのだろうかと、誠次は首を傾げる。
香織もまた、恥ずかしそうに、眼鏡の奥の青い瞳を、逸らしていた。
「あの……頑張って作って来たんだ……。氷入れて、ちゃんと傷んでないはずだから……食べて、ほしいな」
そう言いながら香織は、肩掛け鞄から、手のひらが隠れるほどの大きさのお弁当箱を取り出していた。
「特殊魔法治安維持組織の柚子さんに、料理を色々と教わったんだ。男の子の栄養バランスとか、ちゃんと考えて作ったの」
「香織らしい、です……」
「褒められてるのかな、それ……」
香織は思わず手作り弁当を引っ込めてしまいそうなほど、自信がないようだ。
誠次は慌てて、「褒めてます!」と叫ぶ。二人して顔を赤く染め、水族館内のフードコートへと場所を移す。ここは全方位を、円形で繋がった境目の無い水槽に囲まれた、まさしく海の中に魚とともいるような雰囲気の場所だ。持参した物は勿論、普通にここで食べて良いことになっている。
「はい、開けるね。……流石に、篠上さんやクリシュティナさんには敵わないと思うから、ハードル低めでお願いね……?」
蓋に手を添え、香織は忠告とばかりに、言ってくる。
「とんでもありません。自分が作れないので、他の人のと比べることも出来ませんよ」
それに、と誠次は椅子に座りながら、姿勢をぴんと伸ばす。
「香織先輩が、こうして自分の為に作ってくれただけでも、充分に嬉しいですし……」
「もう、すぐ先輩ってつける。呼び捨てで大丈夫だって」
「あ、すみません……香織……」
情けなく後ろ髪をかく誠次を見つめ、香織は「まあ、無理もないよね」とくすりと微笑む。
香織が手作りしてくれた弁当は、古き良き王道中の王道、海苔弁当とも呼ぶべき、シンプルにしてベストと言うべきものであった。本人も山梨県で一年前に作っていた唐揚げや、きんぴらゴボウ。卵焼きにプチトマトと、大きな海苔が乗っかったお米。
「男の子が喜ぶお弁当……でネットで調べたら、こう言うのが一番だって……」
ある意味香織らしく、当たり障りのないものを、頑張って作ってきてくれたようだった。
「ありがとうございます……本当に……」
「……あっ」
目の前にある手作り弁当に誠次が感動していると、何やら香織が、あわわと顔を青冷めていた。
「お箸、入れ忘れちゃった……」
「あ……」
おっちょこちょいなところは、相変わらず。誠次が急いで席を立ち、周辺にあった飲食店に頭を下げ、箸を拝借していた。
「うう……肝心なところで、ミスするんだから……」
「そんなところも含めて、香織は皆から慕われている、理想的な生徒会長だったのだと思いますよ」
誠次はフォローするように、そっと声をかける。
「兵頭生徒会長とはまた違っていて、これも多くの魔術師のトップに立つ、生徒会長としてのあり方の一つだと、俺は思います」
「ありがとう誠次……。貴男に言われて、本当に嬉しいよ」
香織はもじもじと俯き、しかし、軽い深呼吸をした後、前を向き、にこりと微笑む。
誠次もまたそんな彼女の姿を見ると、嬉しく思い、そんな顔がまた見たくなる。
魔法学園で過ごす二年目も、思えば戦い続きだった中で、このように誰かの笑顔を見ることで、安らぎも感じることが出来る。それを守るために、この身で戦うのであれば、それは等しく間違ってはいないことなのだろうと、誠次は改めて実感していた。
「さ、頂きます、しよ?」
「はい。頂きます」
きちんとレシピを見て、調味料の量もきちんと計り、間違いなく正しい作り方をしたのだろう。メガネをかけ、エプロンを着た香織がキッチンでうむむとあごに手に添えて難儀している姿は、想像に難くない。
「美味しいです。俺、卵焼きは甘いのが好きなんですよ」
「きっと誠次はそうだと思ったから、喜んでくれて良かった」
香織は左手で箸を握り、こちらが食べる様をじっと見つめていた。
やはり異性に食事中をじっと見られ続けるのは恥ずかしく、誠次は赤面しながら、何か、食事の感想以外の話題はないだろうかと必死に考える。
「この後、どうします? また、もう一回りしますか?」
誠次がそんなことを言い出せば、香織はまたしても笑う。
「ずっと水族館はいくらなんでも、レパートリー不足すぎない?」
「すみません……」
「ううん。ちゃんと教えて貰って……じゃあなくて! ちゃんと考えてあるよ。この後は、別のところに行こうと思うの」
「何処へでも着いていきます」
もぐもぐとお米と海苔を食べながら、誠次が告げると、香織はどこか安心するように、胸を撫で下ろす。しかし、なぜか言いづらそうに、同時に口元をきゅっと結んでもいた。
「次は何処に行きたいのですか?」
ごくんと、咀嚼したものを飲み込んでから、誠次は香織に尋ねてみる。
香織は小さく身体を揺すり、そして、上気した顔の口元を、微かに動かした。
「明日から、学校が始まるんだよね……?」
「え、ええ。今日で夏休みは終わりますけど……?」
そんな分かりきったことを、何故、確認するように訊いてきたのだろうか。ましてや向こうは、しっかり者の生徒会長だ。
そんな事を内心で疑問に思い、また表情でも香織に問いかけ返すと、香織は堰をきるようにして、すっかり赤く染まった顔で、告げてきた。
「魔法生の見本になるべき生徒会長ももうすぐ終わりだから、少しいけないこともしていいと、思うんだ……」
「え……」
「だから、帰りは二人とも明日の朝ぎりぎりでも、大丈夫だよね……?」
一つ年上の彼女に、先ほどから心を揺らされ続けている誠次はこの時、すでに感じていた。
おそらく絶対に自分は、この女性を失うわけにはいかないのだろうと。さよならなんて、出来そうになかった。
~なにか、違う気がするよ……~
「そうか誠次。僕と君は、同じ剣術士、か……」
かずき
「そうだよね。君の言う通り、僕と君は同じはずだ」
かずき
「あ、君が例のもう一人の剣術士か」
るーな
「初めましてですわね」
てぃえら
「折角ですので、ご挨拶を」
てぃえら
「君たちは海外生まれの人かい?」
かずき
「ロシアよりさらに北にあった、亡国オルティギュア王国の元第一王女、ルーナ・ヴィクトリア・ラスヴィエイトだ」
るーな
「スペイン領、地中海に浮かぶ島の帝国、クエレブレ帝国第一皇女、ティエラ・エカテリーナ・ノーチェですわ」
てぃえら
「誠次から話は聞いている」
るーな
「だから君も分かると思うが、私たちは誠次へ付加魔法を行う仲間だ」
るーな
「どうぞよしなに。よろしくお願いいたしますわ、一希」
てぃえら
「皆の為、誠次の為、ぜひとも協力してほしい、一希」
るーな
「よ、よろしくお願い、します……」
かずき
「えっと……何かが違う気がするよ、誠次!?」
かずき




