第八楽章 〜impossible〜
女の子から荒井宛の手紙を託されたことで、荒井に対する気持ちを自覚した宏紀。
この手紙をどうしたらいいのか、ジレンマに苛まれる。
荒井が好き。
そのことに気付くと、今まで不可思議だった自分の感情全てに説明がついた。
彼と秘密を共有したいこと。
頭を撫でられて嬉しくなること。
手紙を渡すことへの苛立ち。
「僕は、荒井が、好き……。」
――男同士なのに?
真っ暗闇に放り投げられた感覚に陥った。
足に力が入らない。
頭の中が混乱し、呼吸が乱れる。
立っているのがしんどくて、その場に膝をついた。
後ろから部員の足音が聞こえてくる。
立たないと、走らないとと自分を叱咤するが、身体が言うことを聞いてくれない。
誰かが僕を呼んでいる声が聞こえた。
「おい!山中?どうした!」
軽く肩を揺すられる。部長だった。
「……すいません。」
大丈夫ですから、と足に力を入れようとして失敗した。
「おいおい、大丈夫か?」
今日は帰ったほうがいいな、と言いながら部長が肩を貸してくれた。
部長にもたれながらすみませんと呟くと、部長は気にするなと言うかのように、僕の背中を軽く叩いた。
――僕って弱い。
自己嫌悪に陥りながら道着を脱ぎ捨てる。
はぁ、と大きなため息を一つ吐いて、ワイシャツに腕を通した。
ボタンを留めながら考える。
荒井への気持ちに気付いてしまった以上、この手紙は渡さなければならない。
渡さなかったら変に思われる。やきもちを妬いたのがばれてしまう。
でも、渡したくない。でも、渡さなきゃ。でも、渡したくない。
どうしようもないジレンマに押しつぶされそうだ。
――僕もこの子のように、女の子だったら……。
考えても仕方のないことだけど。
視界が霞む。頬を暖かいものがつたった。
掌で無造作に擦りあげ、僕は決心した。荒井に手紙を届けようと。
鞄を掴み、決心の鈍らないうちにと足を速める。
油断したら涙が溢れてきそうで、僕は唇を噛み締めた。
――僕は男だから。
この恋に蓋をしなければ。
音楽室に続く階段がやけに長く感じた。
渡り廊下を走る。窓に荒井の姿が有った。
胸がキリキリと痛む。それに気付かないフリをして、僕は前を見た。
音楽室の扉。その向こうに荒井がいる。
手をドアノブに掛けて、瞼を落とす。深呼吸を一つ。全身の力を抜いた。
意を決して右手に力を入れる。
扉を押し開け、足を踏み入れると、そこには普段と変わらない荒井の音があった。
「山中?」
僕の姿を見つけ、荒井の手が止まった。
部活はどうしたのかと問われ、僕は言葉を濁した。
彼への想いの後ろめたさからか、荒井の目をまともに見ることができない。
そんな僕の態度を不信に思ったようで、荒井がこちらに近づいてくる。
「どうしたんだ。何か有ったのか?」
――手紙、渡さなきゃ。
僕は鞄を乱暴に机の上に置き、その中を漁り始めた。
荒井は驚いた様子で呆然と僕を眺めていた。
手紙を見つけ、それを掴む。
心の中にはいまだにジレンマが巣食っているが、僕はそれを無視して手紙を取り出した。
「これ。頼まれた。」
それだけ言い、荒井の胸に手紙を押しつける。
荒井が僕の手から手紙を取ったのを見て、またチクリと胸が痛んだ。
「……頼まれた?」
コクリと頷く。
「……そうか。」
荒井が呟いた。その声が、何かいつもと違った響きを持っていたので、僕は思わず顔を上げた。
そこには荒井の複雑な顔があった。
「あ、荒井?」
初めて見るその表情に、僕は慌ててしまった。
彼は手紙に視線を移し、おもむろに口を開いた。
「お前は……。」
「え?」
僕が聞き返すと、荒井は頭をゆっくり振った。
「やっぱり良い。」
そう言って荒井は自分の鞄に手紙を入れ、僕の方を全く見ずにピアノに向き合った。
激しいピアノの音に満ち溢れた音楽室は、何故か居心地が悪く、まるで僕を拒絶するかのような背中を見ながら、そこを後にした。
ご覧頂き有難うございました。
あと少しで完結できるかと思います。
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