第十楽章 〜end〜
荒井と手紙の女の子が並んで歩いているところを見て、二人が付き合い始めたことを悟った宏紀。
ショックのあまり教室に戻ることも出来ず、雨の中家路についた。
自宅につくと、家族はまだ帰っていなかった。
傘も差さずに帰ってきたため、玄関にはあっという間に水溜りが出来た。
濡れ鼠で、しかも泣きはらした目をしている僕。
こんな格好を家族に見られたら、何を言われるか分かったものではない。
誰も居ないことに安心を覚えた一方で、なぜか寂しさも覚えた。
「……お風呂、入らなきゃ。」
とりあえず冷えた身体を温めようと風呂に入ったが、思考はマイナスに働くばかりで、湯船につかりながらも気を抜くと涙が出そうになる。
じっとしているといやな事ばかり考えてしまうため、早々に浴槽から出たせいか、風呂に入っても身体は冷たく、背筋を走る悪寒が止まらない。
「風邪でも引いたかな……。」
心なしか鼻声になっているような気もする。
わしゃわしゃと髪をタオルで拭き、パジャマに腕を通した。
リビングにある薬箱の中からそれらしい物を探し、とりあえず飲む。
気休めくらいにはなるだろう。
羽毛布団でも引っ張り出して寝ようか、と考えているとインターホンが鳴った。
「誰だよ、こんなときに。」
勧誘だったら追い払ってやる、と思いながらカーディガンを羽織って廊下を進む。
「はい、おまたせ……。」
ドアを開けて目線を上に移すと、そこに居たのは荒井だった。
「な……っ!」
――なんで居るんだ!
反射的にドアを閉めようとしたが、彼の手にそれを阻まれる。僕が怯んだ隙に、荒井が無理やり玄関に入ってきた。
「あ、荒井!なんでこんなとこに。」
荒井が後ろ手で鍵を掛けた。
ガチャリと言う音に身が竦む。
「これ。」
ついっと差し出されたのは、僕の鞄だった。学校に置いて帰ってきたのを、わざわざ届けてくれたようだ。
「あ、ありがと。」
素直にお礼を言ったが、やはり目は合わせられなかった。
「山中……。」
そっと頬に触れられた。親指が僕の頬をさする。そんな動作一つ一つに、僕は反応してしまう。
「お前、泣いた?」
ビクッと肩を震わせて、僕は一歩後ずさった。
「泣いてないよ。」
明らかに嘘と分かるのに、口をついて出たのはそんな言葉。
荒井は何も返さない。沈黙が痛い。
それを破ったのは荒井だった。
「上がる。」
「え、ちょっと待って。」
僕の制止も虚しく、荒井はずんずんと廊下を進んでいく。
その背中が、昨日の音楽室での彼の背中に重なり、胸がずきんと疼く。
「ねぇ…、荒井……。」
――お願いだから困らせないで。これ以上泣かさないで。
リビングに入った荒井がこちらを振り返った。
視線が交わり、僕は思わず目を逸らしてしまった。
「どうしたんだ、お前。」
荒井の視線がまっすぐ僕を射抜く。
どうしたもこうしたも無いだろうと、心の中では思っていても口に出すことはできない。
僕が話そうとしないので、荒井はため息を吐いたようだった。
こっちにこい、と言うかのように手をとられ、されるがままに僕はリビングのソファーに腰を下ろした。
三人掛けのソファーの端と端に座った僕達の間に、表現しがたい空気が漂っていた。
チラリと横を盗み見ると、荒井はまっすぐ前を向いて座り、膝の間で指を組んでいた。
「鞄は置きっぱなしだし、泣きはらした目はしてるし。……俺と目も合わさない。」
何かしたか、と繋げられた言葉にドキッとする。
「荒井は、悪く、ない。」
膝の上で手を握り締めながら答えた。
「……気にしないで。」
好きな荒井の幸せを祝うことも出来ないわがままな僕がいけないことは分かっている。
こうなるのが嫌なら手紙を渡さないという選択肢もあったのに、それを選ばなかったのは自分なのだ。
だからこういう態度はしてはならない。
思ったそばから、視界が霞んできた。
「いや、俺が原因だ。」
決め付けたように言う荒井の声に、僕は思わず顔を上げた。
上げた顔を、大きな手で包み込まれる。
――この手であの子に触るんだ。
仕方の無いことなのに、視界がますます霞んできた。
荒井の顔の輪郭がぼやけてくる。
触れられている場所から熱が流れ、身体全体が熱くなってくようだ。
なんだか頭もくらくらしてきた。
風邪が原因なのか、荒井への想いの熱さなのか。
涙か一つこぼれた。
クリアになった視界で荒井と目が合う。
「荒井は……あの子と付き合ってるんでしょう?」
唐突に僕は聞いた。一日中、訊きたいが確かめることが恐かったこのことを。
彼の目に驚きの色が映る。
その色を見て、やっぱり、と心の中で呟いた。
「何の話?」
「今日、見たんだ。二人で階段上っていくところ。」
思い出すと胸が疼く。キラキラ笑った彼女の笑顔に、僕は勝てるはずがない。
荒井の手が頬から離れた。
「あれは――。」
「良かったね。」
荒井の言葉を遮って、僕は笑顔をつくった。
「可愛い子でよかったじゃん。昨日の今日だから、こんなに早く付き合うとは思ってもみなくて、ちょっと驚いたけど。大事にしてあげないとね。」
捲くし立てるような僕の言葉に、荒井は呆然として聞いていた。何かを言おうとしていたが、僕はそれを許さなかった。
自分でも不自然なのは分かっているけど、言葉を繋がないと堪えきれなくなりそうで。
「音楽室にはもう――。」
「それで泣いたのか。」
荒井が僕の手を掴んだ。その思わぬ強さに、顔が強張るのが分かる。
「俺に彼女が出来た、って。」
「何言ってんの、違うよ。そんなわけ――。」
ないじゃん、と言おうとして失敗した。
作り物の笑顔は壊れ、両目からは涙があふれてくる。
「山中……。」
荒井の優しい声がする。
そんな理由で泣いてたわけではないと言いたいのに、声が出てこなかった。
みっともなく嗚咽を洩らし首を振っていると、荒井の腕が伸びてきて、僕を正面から包み込んだ。
荒井の心臓の音がする。
一瞬、涙が止まった。
「お前の誤解だ。」
耳元で彼の声がする。
「……ご、ごか、い?」
ぽろぽろ落ちる涙は荒井の服に吸い込まれていく。
「何が、誤解、なの?」
しゃくりあげながら訊くと、彼は少し笑ったようだった。
「あの子と付き合ってない。話しただけ。」
彼女なんていないという荒井の言葉に、僕は目を見開いた。
状況を掴めずにいると、荒井が身体を離し、僕の肩をつかんだ。
「お前の勘違いだよ。」
覗き込みながら、真摯な眼差しを向ける荒井の顔。
――僕の勘違い……?
じゃあ、あの子の笑顔は?あれは何だったの?
「嘘ばっか…、あの子笑ってたじゃん。だって……。」
少なくとも僕は、失恋した相手とあんなふうには話せない。
「彼女は俺のピアノが聞きたかったんだって。」
予期せぬ言葉に耳を疑った。
「俺が音楽室に入るところを見たらしい。付き合ってくれないなら、一度で良いから私のために弾いてくれないかって。そう言われて断れないだろ。」
「ピアノを……?」
「そ、すごく喜んでた。」
僕が見たのはその帰り道だったのかもしれない。
荒井は彼女を選ばなかった。あの子には悪いけど、それがとても嬉しくて、安心して、目頭がまた熱くなってきた。
両手で顔を覆い、胸が空になるくらい息を吐き出した。
「良かった……。」
「何が?」
小さく呟いたそれを聞きとがめられて、動転した僕の顔を大きな手が包み込み、ぐいっと顔を上げさせられた。
荒井の微笑と僕を呼ぶ声が耳に入った。
荒井の顔をまともに見れなくて、目を力いっぱいつむっていると、ふにゅっと暖かいものが頬に触れた。
びっくりして目を開くと、荒井の優しい笑顔がそこにあった。
僕が最初に惹かれた、あの柔らかい笑顔。
「山中。……お前が好きだ。」
好きだと繰り返されて、僕は頭が真っ白になった。
――荒井が、僕を、好き?
見上げた先には、まっすぐな瞳があった。それが嘘でも幻でもないことを教えてくれる。
「でも、僕、男だよ?」
「そうだな。」
「……いいの?」
「何が悪いんだ。」
そういった彼の顔は柔らかな笑みをまとっていて、僕は思わず荒井に抱きついた。
背中に腕が回される。
「男でも女でも、お前はお前だろ。」
彼の言葉が信じられないほど嬉しくて、僕の目にはまた涙が溜まってきた。
「荒井……僕、僕ね。」
ぽとぽとと涙が落ちる。
「荒井が好きなんだ。」
背中に回された腕に力が入る。
「俺も……。」
少し照れた声に後押しされて、僕も腕に力を入れた。
いつの間にか、ずっと胸につっかえていた塊は無くなってしまった。
荒井から離れたくなくて、僕は頭を彼の胸に押し付けた。
「どうした?」
なんでもない、というように頭を軽く振った。
僕の頭を撫でる荒井の手が気持ちいい。
さっきまでの荒んだ気持ちが嘘のようだ。
「また来いよ、音楽室。」
顔を上げると荒井と目が合った。
頬に手が添えられる。
「お前のために弾くからさ。」
僕は微笑んで、こくりと頷き、ゆっくりと目を閉じた。
〜END〜
ここまでご覧頂きありがとうございました。
なんとか、最後まで書くことが出来ました。
編集および番外編も書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
『旋律を奏でて』はいかがだったでしょうか。
ご意見・ご感想、お待ちしております。