23話
ヘルヴィニーナに案内されたのは、個人が経営しているらしいこじんまりとした本屋だった。
「もう一つ大きめの本屋もありますが、私はこちらを利用してるんです」
店の前でヘルヴィニーナは言った。
「何か理由が?」
「品ぞろえがユニークなのと、雰囲気ですかね。入ってみれば解りますよ」
促され、七希は本屋に踏み入った。
するとまず感じたのは微かなインクの香り。そして静謐な、それでいて柔らかい空気。整然と並ぶ本の数々が、それを生みだしているのだろうか。
なるほど、と七希は納得する。確かにこの本屋はつい贔屓にしたくなる場所だ。
「いらっしゃい。……おや、中尉さんじゃないか」
店の奥から顔を出したのは一人の老婆だった。
物腰の柔らかそうな女性であり、その風体は店内と調和している。恐らくはこの人が店主なのだろう、と七希は直感した。
「お久しぶりです。休暇が取れたので寄らせて頂きました」
「ふふ、本しかない場所だけど、ゆっくりしていきなさい。……隣の子は中尉さんの恋人かい?」
「その予定の方ですね」
「いやいやいやいや」
しれっと恋人候補扱いをされた七希は慌てて頭を振った。
ヘルヴィニーナと老婆は笑い合う。
「どうやら相手の防御は固いようだね」
「攻め崩す楽しみがあるというものです」
「……俺は本を見てくるよ」
このまま二人の会話に巻き込まれてはドツボにハマる気しかしない。七希は逃げるようにして店の奥へ向かった。
「ナナキさん、欲しい本があれば好きなだけ持ってきてください。支払いなどはお気になさらず」
背中に届いた声に手で応えながら七希は本棚に向かい合う。
どんな本が必要か既に決めている。基地の資料室だけでは不足していた歴史、地理、現代社会、政治経済を扱った本だ。
(まさか異世界に来てまで教科書を探すことになるなんてな……)
内心で苦笑しつつ、それらしい本を見つけては軽く目を通し、良さそうなら手元に積み重ねていく。ヘルヴィニーナが勧めただけあって品ぞろえは悪くない。次々と本が重なっていき、持って帰る時の重さを心配するぐらいになったところで七希は一旦手を止めた。
(とりあえずこんなもんでいいかな……後は)
視線を別の棚に。目当てとする本を求めてざっと周囲を眺めていると、声をかけられた。
「何かお探しかい?」
店主の老婆だ。ヘルヴィニーナとの話は終わったらしく、彼女は少し離れた場所で本棚を眺めていた。
「ああえっと……字や言葉を勉強できるような本ってありますか? できれば、子供でも解るような」
「もちろんあるとも。向こうだよ」
老婆に示された本棚に向かうと、要望通りの本が並んでいた。
ともかくこの世界で生きていくためにも、ヘッドセットに頼らない読み書きと会話は必須だ。どれがいいか見繕っていると、横合いから本を差しだされた。
「他には、こんなのはどうだい?」
「これは……」
柔らかいタッチのイラストがカバーに印刷された、大きな本。絵本だ。
「物語だから入りこみやすいし、簡単な文字だけだから読みやすい。初めて文字に触れるものとしてはちょうどいいよ」
確かにモチベーションの維持のためにも、実務的なだけでなくこういった本も良いかもしれない。本を受け取ってパラパラとめくりながら七希は呟いた。
「女の子と……ドラゴン?」
「そう、少女と銀の竜の物語。この国の生まれなら誰でも知ってる、古い童話さ」
「へぇ……」
「この童話が好きな子は多くてね。題材にした本も一杯あるんだ。かくいう中尉さんもそりゃあ熱心なファンで」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ヘルヴィニーナが慌てて割って入った。
「それは個人情報の漏洩です……!」
「そんな慌てずともいいじゃないか。彼は恋人候補なんだろう?」
「それとこれとは話が別なんです……!」
何やら必死になって言葉を並び立てるヘルヴィニーナの横で、よし、と七希は頷いた。
「それじゃあこれも買っていきます」
「毎度あり。その本は大人でも楽しめる内容だ。きっと損はしないよ」
「か、買っちゃうんですか、それも……いえ、いいんですが」
「ああ、この国の童話ってどんなのか興味あるし、それに銀っていうのがいいよな。アーキヴァイスみたいで」
「うぐっ」
ヘルヴィニーナは急所を突かれたように唸り、それから視線を逸らして自らの指を絡ませる。
「あ、あのですね、私は別に童話の竜とナナキさんを重ねてたりなんかは……」
「え? 何の話?」
「な、何でもありません! ほら、会計をすませましょう!」
ヘルヴィニーナに背を押されながら、七希は積み上げた本を抱えてカウンターに向かった。
そして購入した本を手提げ袋に詰め込み、その重量にうわあと思いながら店を出る。
「またいつでも来るんだよ」
老婆に見送られ、街の通りを歩きながらヘルヴィニーナは言った。
「その本を抱えてこれからさらに歩き回るのは無理ですね。どうでしょうナナキさん、この近くに公園があるので、迎えがくるまでそこでゆっくり過ごしませんか?」
「賛成。さすがに買いすぎた」
「ではそのように」
ヘルヴィニーナに先導されて辿り着いたのは、湖のすぐ傍に造られた公園だ。
子供たちがボールで遊んでいるのを横目に、二人は湖が見えるベンチに腰かけた。
「どうです、良い眺めでしょう」
「ああ、落ち着く景色だ」
太陽の浮かぶ湖面。時折吹く風がその輪郭を淡く揺らめかせる。遠くに見えるのはボートに乗る釣り人か。ゆったりと釣り糸を垂らすその様子を見て、なるほど、ウェインが勧めた気持ちも解ると七希は思った。
「今日は連れてきてくれてありがとうな、ヘルヴィ」
「どういたしまして。リフレッシュできましたか?」
「おかげさまで。でもヘルヴィも久々に取れた休日なんだろ? 良かったのか、俺の町案内なんて」
「お気になさらず。どうせ一人で過ごしていても仕事のことばかり考えて、ろくに休めなかったでしょうから」
そんな会話をしていると、足元に何かがぶつかる感触。
見下ろすとそこにはボールが転がっており、振り向けば子供の一人が駆け寄ってくるところだった。
七希がボールを子供に投げ渡すと、ありがとー、と声を張り上げて子供は友達達の輪に戻って行った。
「結構いるんだな、子供」
「たとえ前線が近くても、色々な事情で町を離れられない人はいるものですから。そして複数の人が定住している場所には、自然と子供が生まれてくるものです」
「……」
遊んでいる子供たちからは、戦争の不安はまるで感じられない。
けれどもしも敵国のMCが基地を突破すれば、この町も当然侵略されるだろう。そしてあの子たちや、その家族の身にも危険が及ぶはずだ。
「……鉄の国との戦争って、まだ続くのか?」
「一介の中尉でしかない私には何とも」
ヘルヴィニーナは肩をすくめた。
「ですが膠着状態に入ってそれなりに時間は経ちます。水面下で和平交渉に入っているという噂もありますね。このままズルズルと一進一退の攻防を続けても、互いの国力が落ちるばかりなのは事実でしょうから」
「そっか……」
戦争が終われば、この綺麗な町が焼かれることも、あの子達が炎から逃げ惑うこともないはずだ。そうなればいいな、と七希は思った。
「まあ、その場合はナナキさんの雇用も見直すことになりますが」
「うぐっ」
「ふふ、いっそ雪の国の軍人になるというのも手ですよ。私の部下としてこき使ってさしあげましょう」
「それって今とあんまり変わらなくてない?」
「いえ、私が遠慮なく横暴を振るえるようになります」
「……魅力的な条件だこと」
くすくす笑うヘルヴィニーナの横で、七希もまた苦笑を浮かべて空を仰いだ。
太陽が傾き、もうじき夕刻に至ろうとしている。
それからしばらくした後、二人は迎えにきたウェインの車に乗って基地へと帰還した。
途中、振り向いて見た町はやはり美しく、また来よう、と七希は思った。
今度は今日と違う道を歩いて、違うお店を見て回ろう。できるのならば、ヘルヴィニーナと一緒に。