17話
少しでも気を緩めれば、すぐさま意識が蕩けるような空気。
抗うための理性は一秒ごとに目減りしていき、尽きるのも時間の問題だ。
ゆえに、七希は今まさに重なりそうな唇を開いた。
「……ヘルヴィ」
「はい、ナナキさん」
ヘルヴィニーナは蠱惑の笑みを浮かべ、七希はそんな彼女の両肩に手を置き――
「目を回すなよ」
「え?」
「―――――てい」
瞬間、七希はヘルヴィニーナの肩を掴んだまま、その場で体を回転させた。
「ひゃっ」
ヘルヴィニーナが甲高い悲鳴をあげ、二人の位置は素早く入れ替わった。さらに七希は押し倒す形になったヘルヴィニーナを、ベッドの上にあった毛布でぐるぐると巻いていく。
それを終えると、もがー、と毛布の中から聞こえる抗議の声を無視し、七希は毛布に包まれたヘルヴィニーナを廊下に放り捨てた。
そして素早く再度扉に鍵をかけ、その足でシャワールームに突入。服を脱ぐこともせず蛇口を全開にし、頭から冷水を浴びた。
「心頭滅却心頭滅却心頭滅却心頭滅却心頭滅却心頭滅却――……」
ぶつぶつと同じ言葉を繰り返しながら全身を水で冷やすこと数分。
先ほどまで体の中にあった熱が完全に吹き飛んだところで蛇口を閉め、七希は深い息を吐きながらシャワールームから出た。
「どうぞ、タオルです」
「…………」
シャワールームの外で待っていたヘルヴィニーナから、七希は黙ってタオルを受け取った。
「……合鍵、何本あるの」
「ご安心を。これで最後ですので」
髪を拭きながらの問いかけに、ヘルヴィニーナは片手に持つ鍵を示しながら答えた。
そんな彼女の横にはルームサービスが運ぶようなワゴンがあり、飲み物や軽食が置かれている。ヘルヴィニーナは鍵を放り投げると、次にワゴンから取り出したのは着替えだった。
「こちらもどうぞ。そのままでは風邪を引きますよ」
「……ありがとう」
小さくを礼を言うと、七希は一度シャワールームに戻り、そこで体を拭いた後に服を着替えて外に出た。
するとヘルヴィニーナはベッドに腰かけたまま、所在なさげに足をぷらぷらと動かしていた。
「可能性としては考慮していましたが、まさか本当にフラれるとは思いませんでした。勝負は蓋を開けてみなければ解らないものですね」
そう言いつつ不満そうに唇を尖らせるヘルヴィニーナ。
七希はそんな彼女の前に備え付けの椅子を引っ張ってくると、その上に腰かけて言った。
「なあ、ヘルヴィニーナさん」
「だめです」
「え?」
「ヘルヴィと呼んで欲しいと言ったはずですよ」
「……ヘルヴィ」
「結構。それで何でしょうか?」
七希は僅かに逡巡した後に言った。
「誠意っていうなら、一つ正直に答えてもらいたいんだけどさ……これってハニートラップだよな?」
「そうです」
「そうですって言っちゃったよ……!」
「契約不履行の埋め合わせという側面も嘘ではありませんが――それをダシにしてナナキさんと深い仲になるのが目的ですね。まあ、失敗しましたが」
「何のためにそんな……」
「幾つかありますが、主な理由はナナキさんを守るために、ですよ」
「俺を守る……?」
意味が解らず怪訝な顔を浮かべると、ヘルヴィニーナは頷いて言った。
「ナナキさんが出会ったジャガーノートというMC……あれはそれなりに名の知れた傭兵です。これを撃退したことで、ナナキさんの実力は本物であると基地の皆の認識はより固まりました。が、一つの懸念も生みました」
「懸念って?」
「ナナキさんが裏切ったらどうしよう、という懸念です。なにせこちらは基地内の政治に巻き込んだり毒を飲ませたりしたわけですから、契約先を切り替えられてもおかしくありません」
「いやそれは――」
言葉を紡ごうとした七希を、ヘルヴィニーナは手で遮った。
「ここで重要なのは、本人の意思ではなく周囲がどう思うかです。ナナキさんが傭兵として長い信用と実績を持ってるならともかく、生憎の無名。こちらを見限って相手側につくかもしれないと不安を抱くのはさほどおかしくありません。そしてここに、ナナキさんの乗るMCは非常に貴重な物という要素を加えてみましょう。さて、どうなりますか?」
七希はしばし沈黙した後、恐る恐る言った。
「……俺を殺して奪う?」
「まさしく」
冗談だろ、と七希は天を仰いだ。
「そこまでするか? いやしないだろいくら何でも。契約してる傭兵を殺してMCを奪うとか、そんなことしたら……」
「ええ、外に知られれば傭兵は一斉にこの国から手を引くでしょうし、それどころか報復として敵対国に所属し攻撃してきてもおかしくありません。しかし、七希さんはまだ新人にして機体もろくに知られていません。ならば、事故ということで処理してしまえ――なんて、考えられると思いませんか?」
「…………」
ありえるだろうか。
いや、ありえるかもしれない。
相場こそ知らないが、MCは決して安い代物ではないだろう。加えてアーキヴァイスが非常に貴重だというのならば、個人が暴走して強奪に走る可能性だってある。
「既にナナキさんには護衛をつけてあります。個人の突発的な凶行は概ね防げるでしょう。ですがフロノス軍として貴方から機体を奪うという方針になると、状況は苦しくなります」
「……そういう方針になる可能性は?」
「詳しい説明は省きますが、基地内の政治も絡んでいますので……六割ほどの確率かと」
「かなりヤバいじゃん!」
「で・す・か・ら」
おもむろにヘルヴィニーナは立ち上がると、七希が反応するより早く、椅子に座る彼の膝の上に腰かけた。
「私がここに来たわけです」
「ちょっ、いや、意味が解らないんだけど」
「簡単な話です。ナナキさんの殺害はナナキさんが裏切るという前提の上にあります。ですので、ナナキさんは裏切らないと外に示せば解決するわけです」
「そりゃそうかもしれないけど、それとこれと――あっ」
何かに気づいた様子の七希に、ヘルヴィニーナは微笑んだ。
「お察しの通りです。私を供物とすることで裏切りは抑止された――と、外に示すわけですね」
「……そんなので納得するのか?」
「しますとも。古来より、男を縛るのは物と金と女の三つと相場は決まっています。私が今晩、ナナキさんの部屋に向かったことは、明日には基地中に言いふらします。そしてナナキさんが私に入れ込んでるアピールをちょっとするだけ、貴方が裏切るという大義名分は無くなり、無理やり機体を奪うことを防げるわけです」
「な、なるほど……いや待て、本当にそうなのか……?」
「そうなのです。というわけで」
するり、とヘルヴィニーナは七希の首に両腕を回した。
「この行為は、ナナキさんを守るための正当なものです。もはや気兼ねなど無いでしょう。どうですか、今から先ほどの続きをするというのは」
「……それとこれとは話が別だ」
回された腕を引っぺがしながら七希は言った。
「ヘルヴィの言うことが本当だとしても、だったら部屋に来た時点で目的は達成されるわけだろ。実際に受け取る必要はないはずだ」
「むぅ、ガードが厳しい……あ、もしやナナキさんは処女信仰の持ち主で、私が処女ではないとか疑っていますか? ご安心を、バッチリ未経験ですので」
「そういう問題じゃなくてな」
「では私の外見が趣味ではないとか? 基地内の女性でしたらどうにか手配しますが」
「そういう問題でもなくてな……!」
「では一体何が不満だというのです」
ヘルヴィニーナは唇を尖らせ、七希は困った。
「不満っていうか……ほら、そういうのは過程も大事で……」
「過程ですか? どうやってそこを埋めればいいと?」
「えぇ? いや……その、なんだ……」
しどろもどろになりながら必死に頭を働かせ、七希は一つの答えを得た。
「と、友達からとか……?」
は? という顔でヘルヴィニーナの表情が固まった。
それから何度か目を瞬かせ、七希の顔をジッと見つめ――噴き出した。
「な、なんで笑うんだよ!」
「だ、だって、お友達からって……ぶふっ……普通女の子のセリフですよねそれ。あー、だめだこれ、ツボに入った。あははははははっ!」
そうして七希が赤面しながら見守る前でヘルヴィニーナは笑い続けた。その姿は普段とは違う、年相応の女の子らしさが表れていたが――穴があったら入りたい心境の七希に気づく余裕はなかった。
そしてひとしきり笑い転げた後、ヘルヴィニーナは笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を指で拭いながら言った。
「あー、おっかしー。すごい、一か月分ぐらい笑った気がします」
「……落ち着いたか?」
「落ち着きました。ごめんなさい童貞さん」
「いま童貞って言ったか!?」
「だって据え膳を断った挙句お友達からとか、童貞丸出しですし……それとも経験が?」
「ぐっ……それは、まあ……」
「やーい童貞童貞ー」
「こ、こいつ……!」
そして七希に子供じみた口撃をひとしきり突き刺した後、ヘルヴィニーナは言った。
「でも、いいですよ。なりましょう」
「え? なるって?」
「お友達、です」
七希は目を瞬かせた。
「……友達?」
「はい。嫌でしたか?」
「そんなことはないけど……あれ?」
おかしい。苦し紛れの言い訳を並べていただけなのに、話が妙な方向に転がっている気がする。そう困惑する七希をよそに、ヘルヴィニーナは勝手に話を進める。
「友達になったからには仕方ないですね。童貞さんを誘うのはひとまず許してあげましょう」
「許されるとかそういう話じゃないからな! あと童貞呼ばわりはやめろ……!」
「はいはい、解りましたよナナキさん。……でもそうですね、そしたらどうしましょうか」
んー、としばらく考え込んだ後、ヘルヴィニーナは七希の膝から立ち上がった。
そしてサービスワゴンからボトルを取りだした。慣れた手つきで栓を抜き、中の液体を二つのグラスに注いでいく。
「大笑いしたおかげで私の眠気は吹き飛びましたが、ナナキさんはどうです?」
「え? あー……俺も目が冴えてきたな」
「だったら少し、お話しをしましょう、また眠くなるまで、普通の話を」
「そりゃ構わないけど……何の話をするんだ?」
飲み物が注がれたグラスを七希に差し出しながら、ヘルヴィニーナは微笑んだ。
「もちろん、私達の話ですよ」