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魔王‐1

 朝日が顔を覗かせ、暗かった森にも光が届く。


 しかし、焚き火を囲み朝食をとる三人には、その光が届かないようだ。昨夜のことが尾を引いているのか、キルシェとレザンの間にはぎこちない空気が流れている。

 朝、顔を合わせると同時にレザンは昨夜のことを謝罪し、キルシェもそれを受けいれた。そうはいっても簡単に意識を変え、前日とと変わらない対応ができるはずもなかった。

 昨日とは明らかに違う空気を、ミディが気付かないわけがない。ミディはそれとなく尋ねるが、キルシェは昨夜のことを言えるわけもなく、適当にはぐらかしていた。そんな態度はミディの不信感を煽る結果となる。色々と憶測を広め、事の元凶がレザンだと早い段階で答えを導き出していた。そして、彼を嫌悪する態度をより一層強くしてしまっていた。

 結果として、昨夜の夕食時にはあった僅かな会話が、今朝は全くない状態になってしまっているのだ。

 恐ろしく静かで、息苦しい時間が非常にゆっくりと過ぎてゆく。すぐ側を流れる川のせせらぎも、濁流のような大きな音に聞こえる。必要最低限のことしか発せられない会話。


 ――最悪の状況だった。


 キルシェは酷く悩んだ。レザンとミディの関係を、少しでも良くしようと行動した結果がこれだ。しかも、悪化させた原因の一端が自分なのだから。今ここで、キルシェとレザンが和解したところで、ミディの不信感が消えることはないだろう。


 山道を歩く足が、重く感じられる。

 不必要な荷物は小屋に置いてきたので、昨日に比べれば身軽なはずだった。この重みは、自責の念という精神的なものからきていた。

 レザンは一人、前を進んで行く。その後ろをキルシェが続き、二人から少し離れた最後尾にミディがいた。並びは昨日と同じで距離の間隔も変わらない。しかし、それぞれの心は遠く離れ、昨日以上の距離を感じまう。

 今、彼らは目的地である魔王城へ向かい、川沿いの山道を歩いている。万が一、今ここで魔族と鉢合わせ戦闘にでもなれば、キルシェたちに勝ち目はないだろう。個々の力がいかに強くとも、敵との戦闘でお互いの連携の取れない状況は致命的な障害になる。

 せめて魔王城に着くまで魔族が現れないことを、キルシェは心から願い歩を進めていた。


 野営地点を出て数時間。辺りの景色が急に変化を見せた。

 案内のもと進んで来た道は、獣道を少し歩きやすくした程度の道だ。背の高い木々が利の光を遮り、川の側では苔の張り付いた岩が転がっていた。現在の三人の雰囲気のせいか、より暗く不気味な道に思えた。

 しかし、今キルシェが目にしている光景は、全く違う世界だった。

 急に視界が開けたかと思うと、眩しい光に包まれた。急激な明るさは、一瞬キルシェたちの視力を奪った。しだいに光に慣れ、それが太陽の光だと気付くと、今度は自分たちの置かれる現状に驚嘆した。


 世界が黒から白に一変したのだ。


 あれほどまでに覆い茂っていた木々は、ほとんどと無くなっていた。所々に生えてはいるが、木の種類が違うのか、これまで見てきた細く高く天に伸びていたものとは違い、幹も太く枝も横へ横へと育っている。

 そして最たる違いが、そこに広がる地面の地質だった。この地の地質は、砂のようにサラリとし軽い。そして、驚くほど白いのだ。湿り気があり、重みのある黒い土とは違う。海岸の砂浜のような地面だった。

 その変わり様は、まさに魔法でも使って別の場所に転送させられたかのように思えるほどだった。

 振り返り背後を確認するが、視線の先にあるのは今まで歩いてきた暗く深い森が広がる山道。思わず一度来た道を戻って森に入り周囲を見渡してみたり、白と黒という相反する世界を行ったり来たりしてみる。子どものような確認方法だが、このように容易に何度も行き来できるということは、気づかぬうちに魔法で転送された訳ではないようだった。


「……これは」


 白い大地に立ち、変化に戸惑いをみせるキルシェ。

 村から見た時に山頂付近が白いことには気付いていたが、ここまで唐突に風景が変わるとは思ってはいなかったのだ。まるで山の一部を切り取り、別の山を乗せたような変わりようだ。

 キルシェは地面に転がる小石を拾い、指で触れてみる。小石は思いのほか脆く、少し力を入れて摘まんだだけで崩れてしまう。はらはらと指からこぼれ落ちる小石の欠片は、足下に広がる地面の白い砂と混ざりあっていく。


「魔王城の領域に入ったんだ」


 一人、現状を把握できずに困惑するキルシェに、レザンは平然と言った。

 キルシェに緊張が走り、手の中に残っていた小石の欠片を握り潰した。


「この山は普段なら、全体が土と草木で覆われている。でも、魔王城が現れるときは、こんな風にこの土地にはない白い大地に変わるんだ。おそらく城だけでなく周辺の土地ごと、この世界に現れているんだろうな」


「……つまり、ここから先は実際に魔族の地と言うことか」


 キルシェそう言いながら、再度周囲を見渡した。

 白い砂の大地は太陽の輝きの効果もあってか、その白さを際立たせている。キルシェはここが魔族の地だと認識しながらも、この白さがとても美しく思えた。それは数年前、異国の地で一度だけ目にした雪のように見えたからだ。

 思わず見惚れてしまう光景は、キルシェの想像する魔族の地――魔界とは異なる場所だった。


「魔王城までは、もう少しだ」


 いっとき緩んでいた空気が、たちまち緊張に変わる。


「……リコリス様。すぐに、お助け致します……」


 警戒を強めながら進むこと数十分。

 遠くに見えていた魔王城が、その姿をハッキリと目視できる距離まで来ていた。

 魔王城は人の世界と同じような造りの城だった。規模事態は小さめだが、これも想像に反し石造りの美しい城だ。

 キルシェたちは少し離れた場所から城の様子を窺う。見張りの有無や、どこから潜入すればいいかを観察するためだ。

 目に見える範囲で見張りの姿はないが、大きさにばらつきのある巨石群が城の周辺を取り囲み、自然の城壁を作っている。掴めるような場所もない巨石の城壁は、それなりの装備がなければ登ることはできないだろう。入れるような場所といえば、正面にある門だけだ。だが、門番がいないくとも、流石に正面から突入するのは、危険で無謀な行動だと誰でも判断できる。

 どうしたものかと、目的の魔王城を前にし考える。しかし、悩むキルシェの横でレザンは、城でなく上空を眺め眉をひそめていた。


「おいっ。あれ、なんだ?」


 レザンは頭上に煌めく真昼の太陽を指差す。キルシェも顔を上げ天を見つめるが、目に入るのは眩しすぎるほどの太陽の光で、レザンが何を指しているのか見つけることができないでいた。


「――――あれは?」


 眩しさに慣れ多くの物が見え始めると、キルシェようやくそこに一羽の鳥の姿を捉えることができた。はるか上空を旋回しているが、その鳥の姿形はハッキリと確認することができる。かなり、大きな鳥のようだ。


「……あの鳥、城から飛んできたぞ」


「なにっ!?」


 その言葉が示すように、巨鳥はキルシェたちの頭上を旋回し、どこかに行く気配はなかった。そして、しだいに高度を下げ、地上にいる人間たちに近付いてきた。

 魔王城から飛んできた巨鳥。それは確実にキルシェたちを認識し近づいてきている。

 自分たちの存在がばれたと悟ったキルシェとレザンは、剣を構え戦闘体制に入った。だが、ミディだけは動じることなく、殺気だつ二人の後ろから落ち着いた様子で、巨鳥の描く軌道を眺めていた。

 間もなく、巨鳥は音もなく一行の前に舞い降りる。白い地に降り立ち、羽根を羽ばたかせる巨鳥は、人間よりも遥かに大きかった。黒一色の艶のある羽根を畳み佇むその姿は、キルシェの知るどの鳥の姿とも一致しない。

 黒い巨鳥は何をするわけでもなく、剣を構える二人の人間を鋭い視線で見つめている。

 この巨鳥を野生のものだと思いたかった。だが、目の前にいる巨鳥からは、ただならぬ雰囲気が漂っていた。殺意や敵意は感じないが、その独特の気配にキルシェは剣を構えたまま動くこともできずにいた。レザンも同様なのだろう。剣を構えるが動く気配がない。息を呑んだのか、ゴクリと喉が動いた。

 何もせず佇んでいた黒い巨鳥が突然踞り、小さく震え始める。何事かとキルシェたちが目を見開き見つめる前で、しだいに鳥としての形が崩れ、一つの黒い塊になってしまう。そして、液体のよう流動的にうねり、別の形へと変貌していった。

 目の前で起こる奇怪な出来事に茫然と立ち尽くす。声も出せず、ただ見ているだけの人間たちを気にすることもなく、黒い塊は新たな姿を現する


「――――!?」


 現れたのは美しく妖艶な黒衣の女性。巨鳥と同じ鋭い目をしているが、表情は柔らかい。そして、姿は完全に人間と同じだった。

 黒衣の女性は、茫然としているキルシェたちに微笑みかけ頭を垂れる。


「ガルデニアの方ですね。お待ちしておりました」


 文字通り、鳥のような透き通った綺麗な声だった。


「魔王様がお待ちです。城まで、ご案内致します」


 キルシェは困惑した。自分たちの存在がバレていたばかりでなく、城に招き入れるために使いまで寄越したのだ。どう判断しても罠ということ以外、考えられなかった。キルシェとレザンは剣を構えたまま、警戒を解くことはしなかった。


「大丈夫ですよ。彼女についていきましょう」


 そう言ったのは、この状況に全く動じることなく、二人の背後で静観していたミディだった。


「……ミディ、どう言うことだ……?」


 キルシェの問いに、ミディはいつもと変わらぬ柔らかい笑みで「大丈夫ですよ」と答えるだけだった。ただ、その声は確信めいたハッキリとしたものだった。

 にわかには信じがたいことだが、ミディは人の心を見透かす力があるように感じていたキルシェは、その言葉を信じ取り敢えず剣を鞘に仕舞った。


「おい、こいつの言うこと信じるのか?」


 レザンが声を荒らげ反対する。


「……仕方ないだろう。もう、既に魔王に我々の存在が知られているのだ。こうなってしまっては、どう足掻こうと我々には不利な状況だ。……甘んじて招待を受けるしかあるまい……」


 キルシェの声は悔しさに満ちていた。くっと唇を噛む姿に、自分たちの状況が確実に悪い方へと傾いているとレザン自身も感じ、チッと舌打ちをする。だが、内心納得できずにいた。それでも、この異様な雰囲気に飲まれ、乱暴に剣を仕舞った。


「では、参りましょう」


 意見が纏まったと判断した黒衣の女性は、三人を魔王城へと導いた。


 キルシェは自分の考えの甘さを痛感していた。実践経験のない弱さが、諸に露呈してしまっていた。

 本来なら、船が襲われた時点で気付くべきことだ。そして、それと同時に問題に対処すべき行動を考え、それを実行に移さなければならなかった。

 だが、海に落ちながらも無傷で助かり、目的の島に辿り着いた。それに加え、皆とも合流できた。奇跡的な幸運が続いたせいで、危機意識が薄らいでしまっていたのだろう。多少の問題はあるが、リコリスを救出できるものだと、物事を容易に考えている部分もあった。


 しかしながら、現状はこうだ。魔王はリコリスを救出するために来たキルシェたちを、自分の城に招いた。敵を排除するわけでもなく、迎え入れようとしている。

 それが何を意味するのかは理解できない。いや、理解したくなかった。

 自らの領域に入れ、逃げ場をなくしたか弱い人間をいたぶり楽しむのが目的なのか。

 何らかの考えがあり、対話を求めているのか。

 キルシェには、どの考えも正解でも不正解でもないように思えた。人間である自分に、人ではない存在の魔王の考えが想像できるはずもない。

 キルシェはそう思いながらも、全く敵意を見せない黒衣の女性の背を見ながら、未だに僅かな希望に縋っていた。



「皆様、到着致しました」


 黒衣の女性が足を止め振り返る。考え事をしながら歩いていたため、気付かぬうちに門の前まで辿り着いていた。


「これは……」


 キルシェは突然現れた門の様子に、何か引っかかるものがあった。

 石か鉄で造られた重そうな両開きの扉には、向かい合った二匹の竜の姿が彫られている。竜を象徴とする国や宗教、騎士団などの団体は数多く存在する。魔族に竜信仰があっても、何らおかしいことなどない。

 しかし、キルシェはこの門を目にし、なぜか『セラータ教』を連想していた。


「…………」


 黒衣の女性は扉に手をかざし、小さな声で何かを唱える。すると扉に彫られている竜の瞳が蒼く光り、重そうな音をたてながらゆっくりと開いていった。


「どうぞ、お入りください」


 躊躇していたのが分かったのだろう。黒衣の女性は優しい声で促す。キルシェは躊躇いつつも、扉の内側に足を踏み入れた。

 この島に来る時、それなりの覚悟は決めていた。そして、今もそれは強く残っている。だが、一歩足を踏み入れた世界に、キルシェの覚悟が大きく揺らいだ。


「――これは」


 恐怖ではない、単純な驚き。

 目の前に広がる世界に、キルシェは驚きを隠せなかった。


 それは、広く美しい庭だった。


 緑の芝生が一面に広がり、木々や花は見栄え良く剪定されている。

 立派な竜の石像から透き通った水が溢れ出る噴水もある。

 魔王城はここから少し離れた高台にあり、そこへ行くまでの道のりは石畳で綺麗に舗装されている。

 人の世界と変わらない庭園。いや、美しさだけならガルデニア城の庭園よりも上かもしれない。

 想像していたものと違うのか、レザンも辺りをキョロキョロと見回していた。庭園にいる人間とは異なった姿の魔族が目に入らなければ、ここが魔王城であること忘れてしまいそうになる。

 魔族のなかには、キルシェたちを案内する黒衣の女性のように、人間と変わらない容姿の者もいる。明らかに人間とはかけ離れた姿形の者もいる。キルシェたちは彼らの存在を気にするが、そこにいる魔族たちは人間であるキルシェたちの存在を気にしていないようだった。噴水の側で楽しそうに語り合ったり、木々の前提に勤しんでいたりと、普通に自分たちの生活をしている。それは決して、キルシェたちを油断させるための演技ではない。ごく普通に、普段通りの生活をしているのだ。

 キルシェたちは案内されるままに、城内へと入った。城内は庭とは違い、ガルデニア城ほどの煌びやかさはなかった。だが、落ち着いた色合いに包まれた、上品な内装の城だった。


「魔王様、お連れ致しました」


 ひときわ大きな扉の前まで来ると、黒衣の女性は中で待っているであろう魔王に客人の到着を伝える。中から「入れ」と言う低い男性の声がすると、扉が音もなく独りでに開いた。この時、キルシェはこの声に聞き覚えがあるような気がし、何かが胸に引っかかった。

 部屋は謁見の間のようた場所だった。広く何もない空間の奥に数段の段差があり、その最も高い場所に椅子が一脚あった。その椅子に先程の声の主であり、この国の王――魔王が腰を下ろし待っていた。


「――――!!」


 魔王の姿を見たキルシェは、自身の目を疑った。そして、先程の声の記憶が間違いではないことを確信した。



 眼前の椅子に座る魔王は、キルシェの知る男だった。


 印象的に残る夕焼けの色の髪の男。


 あの日、城下で出会った男。


 キルシェがもう一度、会いたいと願っていた男――



「このような遠い地まで御足労願い、誠に申し訳なかった。さぞ、疲れただろう」


 魔王は椅子から立ち上がり、キルシェたちに近づくと長旅の労をねぎらった。


「……な、なぜ、貴方がここに……」


 あまりの衝撃で、声も出せなかったキルシェが、絞り出すような声で問う。


「おいっ。お前、こいつを知ってるのか?」


 レザンが声をかけるが、キルシェの耳には届いていないのか、返事をかえす素振りをみせない。ただ立ち竦み、大きく見開いた瞳で魔王の姿だけを真っ直ぐ見ているだけだった。


「キルシェ。久しぶりだな」


 あの日と同じ低音で安らぎを与える声でキルシェの名を囁く。

 この魔王は立派な服を身にまとい、爽やかな香りを漂わせている。あの日の怪しさを纏う黒いローブ姿とは、全く雰囲気が異なる。だが、目の前に立つ魔王はキルシェの記憶に残る声と髪の色をしている。間違いなく、あの日の男なのだ。信じられないが、そう納得せざる他なかった。

 魔王は愛しい者を見る目でキルシェを見つめる。キルシェはその視線を目を逸らすことができないでいた。

 ふいに魔王は視線をキルシェからレザンへと移す。


「レザンも、よく来てくれたな」


「――っ! 何で……俺の名を知っているんだ」


「知っているよ。全てを……」


 フフっと軽く笑みを浮かべ、魔王は黒衣の女性に指示を出す。


「リコリス姫を、ここにお連れしろ」


 深く頭を垂れた黒衣の女性は、静かに部屋の奥の扉に消えていった。


「ああ、そうだ。名乗り遅れてしまったが、私の名はザカート。この国の王――」


「なぜ、リコリス様を攫った!」


 魔王ザカートが名乗り終わる前に、リコリスの名を聞き我に返ったキルシェが怒りの言葉をぶつける。


「リコリス様は、ご無事なんだろうな」


「今回の件については、我々の非礼を詫びよう。だが案ずるな、姫は無事だ」


 魔王の言葉の全てを信じる訳ではない。だが「無事」と言う言葉は、キルシェに少しばかり安堵を与えた。しかし、リコリスを攫った事実に対する怒りは、そう簡単に収まるものではなかった。それなのに、目の前にいる憎いはずの魔王に、その感情をぶつけることには躊躇いがあった。こんなにも感情が怒りで高ぶるのに、キルシェの胸の奥にはそれを抑え込もうとする別の感情もあったのだ。

 この怒りと困惑した感情を、どこにぶつければよいのか分からず、キルシェは俯き唇を噛みしめた。



「リコリス様をお連れしました」


 静寂に包まれた部屋に女性の声が届く。そして、ゆっくりと奥の扉が開き、リコリスが黒衣の女性に連れられ入ってきた。


「――キルシェ!」


 リコリスは開口一番にキルシェの名を呼んだ。聞き慣れた主の声に、俯いていたキルシェが顔を上げる。


「リコリス様っ!」


 離れていたのは数日だったが、二人には何年かぶりの再会に思えた。変わりない姿を確認でき、ようやくキルシェは本当の安堵の笑顔を見せた。

 歩み寄っていく足も早くなる。だが、急にリコリスの足が止まり、その場から数歩後ずさった。リコリスは顔を強張らせ、口許にあてられたしなやかな手も微かに震わせている。


「……リコリス様。どうかされたのですか?」


 こちらから歩み寄り尋ねるが、返事はかえってこない。リコリスの灰がかった蒼い瞳は何かに驚いたように一点を見つめ、身体は一向に動こうとしない。

 この恐れに近い驚き方に、魔王に何かされたのではと勘繰り、夕焼け色の髪をした魔王を睨み付ける。だが、魔王はリコリスの背後に控えている。どうやってもリコリスの視界には映らない。

 キルシェは静かに視線を戻し、リコリスの視線の先を追う。彼女の視線はレザンに向けられていた。当のレザンもリコリスの姿を前に茫然と立ち尽くしていた。


「……レザン……。どうして、ここに……」


 リコリスの声を聞き、レザンの顔がみるみる青ざめてゆく。

 この発言に最も驚き、理解することができなかったのはキルシェだった。


「リコリス様、レザン殿をご存知なのですか?」


 一国の姫と傭兵。接点などあるとは思えないが、尋ねずにはいられなかった。しかし、リコリスからの返事は相変わらずない。それどころか、俯きキルシェの問いを拒絶するような態度をみせた。

 キルシェに、言い知れぬ不安がよぎる。


「……レザン殿……。リコリス様を知っているのか?」


 声のトーンを少し落とし、同じ問いを尋ねる。

 レザンは躊躇いを見せたが答えた。


「……この女は知っている。知ってはいるが、俺が知る女はリコリスって名前じゃない。酒場にいるティーって女だ」


 キルシェに鈍い衝撃が襲う。殴られたように、ぐらりと思考と視界が揺れる。


「そのような場所に、リコリス様が行かれるはずはないだろうっ!」


 否定したいが為に、思わず怒鳴り声を上げてしまう。その怒声にリコリスの肩がビクリと跳ねる。


「……ごめんなさい。……ごめんなさい……」


 か細い声で繰り返し謝罪の言葉を呟くリコリス。俯いたままで、華奢な身体が小さく震えている。

 否定ではなく、繰り返される小さな謝罪。そして、レザンの言葉。信じたくはないが、それが事実だと二人の態度が示していた。


「リコリス様。なぜ、そのような場所に……?」


 リコリスは嗚咽混じりに「ごめんなさい」と、同じ言葉を繰り返すだけだった。


 傭兵たちが好んで通う酒場。


 キルシェはそこがどういう酒場なのか、よく知っていた。同じ城下でも街の人間が行く酒場とは、全く質が異なる。それは、酒場の雰囲気だけではない。そこにいる女たちもだ。彼女たちは、ただ酒を注ぎ話を聞くだけの女ではない……。それをキルシェは嫌というほど知っている。


「…………」


 踞り、謝り続ける小さなリコリスを見下ろしながら、キルシェはかけるべき言葉を探していた。

 かけるべき言葉はたくさんある。聞きたいこともたくさんある。だが、そのどれもがリコリスを傷付けてしまいそうで、口に出すことが憚られた。そうしているうにち、様々な想像が脳内を満たす。そして、同時にそれを否定しようとする思考が、脳内を真っ白に染めてゆく。


「――――うっ」


 リコリスな口から謝罪が止まったかと思うと、寒さでも訴えるように身体をこれまで以上に震わせ始める。細い腕で腹部を押さえ、口からは苦痛の唸りが漏れている。


「リコリス様っ!?」


 尋常ではない苦しみ方に、キルシェはリコリスの背に手を伸ばす。が、その手は背に触れることなく止まってしまう。

 キルシェのなかで必死に否定していたことが、現実として目の前に起こっていた。

 先日から続く体調不良。先程の聞かされた話。そして、キルシェの持つ古い記憶。

 どんなに否定しても、必死に否定していた最悪の答えが目の前の事実により、それを肯定していく。

 

 気が付くと、キルシェの手はリコリスから遠ざかっていた。


「姫を部屋にお連れしろ。医師を呼び、至急、診させなさい」


 ザカートの指示に、黒衣の女性はリコリスを抱きかかえ部屋を出ていった。

 途中、抱き抱えられたままのリコリスが青白い顔を上げ、許しをこうようにキルシェの方に顔を向ける。しかし、キルシェはその懇願にに答えることができなかった。

 視線が合うと、反射的に逸らしてしまったのだ。


 受け入れがたい現実と、抱いてはいけない感情に襲われ、キルシェは茫然自失になっていた。何もない場所を見つめ、泣くことも怒りをふつけることもできずにいた。

 それはレザンも同様だった。贔屓にしていた女が、一国の姫だったことも衝撃だった。そして、それ以上にリコリスのドレスのスカート部分に付いた真新しい赤い染みを目にしたことで、自分がしたことの重大さを突き付けられ打ちのめされていた。気丈だと思われていた男の身体は、誰から見ても分かるほどに震えていた。


 重い空気が部屋に流れる。その流れを断つように、ザカートが口を開く。


「リコリス姫は、ガルデニアにお返ししよう」


 この言葉はキルシェの耳にも届いていた。本来なら喜ぶべき言葉だが、今のキルシェには、その言葉で感情が動くことはなかった。

 だが、次に発せられた言葉には凍っていた感情も乱れるのだった。


「リコリス姫には帰っていただくが……。キルシェ、お前にはここに残ってもらう」


「……は!? どう……言うことだ……?」


「それが、アルベロ王との契約だからだ」


「――――なっ!?」


 頭を鈍器で殴られるような衝撃を受けた。


 ――アルベロ王?


 ――契約?


 魔王が何を言っているのか、キルシェには理解できなかった。

 どうにかして問いただそうとするが、口が上手く言葉を紡ぎ出せない。


「…………なぜ……。……王が…………?」


 やっと出せた僅かな言葉。


「そのままの意味だ。ある契約で、アルベロ王は私にリコリス姫ではなく、お前を差し出したのだ」


 キルシェの精神は、ここに立っているだけで精一杯の状態だった。通常の精神状態なら、感情のままに魔王へと斬りかかっていただろう。しかし、今のキルシェは何もできない。視線もゆらゆらと揺らぎ、些細な衝撃で身体全体も崩れてしまいそうだった。

 キルシェは一度、天を仰ぐと、魔王に背を向けフラフラとした足取りで歩き出した。

 レザンの横を通り過ぎ、彼の後ろにいたミディをも通り過ぎる。彼女の視界には、誰も映らなくなっていた。


 自分に向けられた現実を拒絶したいという感情が、この場から足を遠ざけていた。キルシェは扉を開けると、無言のまま外へと出ていってしまった。


 彼女の後を追うように、ザカートも動き出す。

 棒のように立ち尽くすレザンのことなどは、全く気に留める様子はない。しかし、ミディとすれ違ったとき、ザカートは僅かに視線を動かした。


「魔王様。この男はどうしましょうか?」


「お前の好きなようにするがいい」


「はい。分かりました」


「――これも契約。悪く思うな」


 遠ざかって行く足音を聞きながらレザンは確信した。去り際の魔王の言葉は自分に宛てられたもの。

 そして、先程から感じる足下の違和感。それを目視し、自分の運命を悟った。

 自分の勘は正しかった。無意識に警戒し、危険だと信号を送っていた。……だが、大きな力を前に、人間など無力だ。


「…………」


 レザンは、もう一度足下に視線を落とす。

 彼の両足には、金色に輝く糸が無数に束となり絡みついていた。その糸には見覚えがあった。昨日、海岸でいた魔獣の死骸に絡みついていた金色の糸だ。

 糸は生き物のように蠢き、レザンの身体にに絡みつく範囲を広げていく。ゆっくりと視線を動かし、その糸の先を探る。だが、そうせずともレザンにはこの糸の先にあるものが分かっていた。それでも、確認せずにはいられなかった。


「――っ、やっぱりな……」


 レザンは苦笑いを浮かべる。

 視線の先にいるミディも、彼に合わせるように笑みを浮かべる。酷く歪んだ笑みを……。

 肩ほどまでしかなっミディの金色の髪は、身の丈以上に伸び、それぞれが意思を持っているかの如く蠢いている。

 レザンが剣に手をかけようとすると、金色の髪はそれを阻止しようと腕に絡みつく。逃げようと身体を動かせば、足や腹部に絡み動きを封じる。少しずつ、少しずつ、着実にレザンの身体を金色の髪が侵食していく。じわりじわりと身体を締め付け、服を裂き皮膚に食い込み血を滲ませる。圧迫感のある苦しみと、切られてゆく痛みが同時に襲ってくる。身体の自由は奪われ、抵抗することもままならない。


「……てめぇは……最初から、気に入……らなかった……んだよ……っ!」


 死を悟ったが、生への執着を完全に捨てたわけではない。力任せに暴れ抵抗を見せるが、やはり無駄なことだった。それどころか、無理に動いたことで髪の締め付けが一層強まり、至るところに深い裂傷が増えてしまった。

 全身から滲み出る血が、金色の髪を伝い流れる。それを見ながらミディは、ニタリと口許を歪める。


「奇遇ですね。僕も最初から貴方のことは気に入りませんでした」


 レザンの首に巻き付いた髪が、より一層強い力で締め上げる。


「――――っ。……あぁ……」


 レザンが苦しげなに声を漏らす。

 時々、力に強弱をつけ様子を窺いながら、ミディは男が苦しむ姿を楽しそうに眺めていた。

 流れる血がレザンの服を染め上げ始めた頃には、ぐったりとし声さえも上げなくなっていた。そうなると、ミディの関心も薄れたのか、仕上げとばかりに髪に魔力を加える。

 一瞬、レザンの身体がピクリと跳ね、次いで目を大きく見開き、口を魚のようにパクパクと動かす。


 ――ゴギンッ。


鈍い音が部屋に響いた刹那、身体から切り離された首がごとりと床に落ちた。



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