傭兵‐2
夜も更け、森は静寂と深い闇に包まれていた。
パチパチと音をたて燃える炎の傍らで、ミディが太い丸太に腰を下ろし、焚き火の明かりを頼りに本を読んでいる。周囲には誰もおらず、静かで暗い森だけが広がっている。ミディは時々、思い出したように焚き火に木を足しながら、ゆっくりと本のページを捲っていく。
「ミディ、交代しよう」
集中していたところに、突然背後から声をかけられたミディは、読んでいた本を落としてしまう。火の側に落ちた本を慌てて拾い、どこも燃えていないことに安堵する。
「は〜。驚きましたよ」
声の主に気づいたミディは、胸を撫で下ろしながら振り返る。
「……あ、すまない。驚かせてしまって」
珍しく慌てた様子のミディに、声をかけたキルシェは申し訳なさそうにする。しかし、ミディは「気にしないでください」と、いつもの柔らかな笑顔を向ける。そして、腰をあげてキルシェが座れる場所を空けた。
「これは魔導教本か?」
本についた埃を払うミディの手元を、隣に座ったキルシェは物珍しそうに覗き込む。
「はい。時々、読み返して基本を復習しているんです」
「そうか、勉強熱心なんだな」
「キルシェ様も読んでみますか? 単純に読み物としても面白いですよ」
「……うーん。魔法のことはよく分からないが、少し読んでみようか」
少し迷ったが、『魔法』という自分にあまり縁のないものに対する興味もあり、借りることにしてみた。渡された本は、古く小さな傷もあり、何度も繰り返し読まれているのがよく分かる。
「では、僕は休ませていただきますね」
立ち上がり小屋へ向かうミディに、キルシェは悩みつつも声をかける。
「……ミディ。レザン殿のことはどう思う?」
ミディはふいな問いに足を止め、ゆっくりとした動きで振り返る。その際、見せた表情にキルシェは酷く驚いた。
普段ミディは、年不相応かつ性別不明な優しい笑顔でいることが多い。しかし、今見せているのは恐ろしく冷めた表情だった。海岸に打ち上げられていた魔獣の死骸を見ている時と同じ、感情の現れていない表情だった。
「……レザンですか?」
「あ、ああ。……いや、二人を見ていると何処か雰囲気が……」
表情だけでなく、発せられる声まで冷たい。普段とのギャップに戸惑い、なぜかキルシェの方がどもってしまう。
「彼が僕を嫌っているみたいですから、どうしてもそれに伴った反応してしまいました。彼が僕をどう感じようとも、この任務の間だけですから気にしないでおこうと思っていたんですけど……。皆に分かるくらい露骨に態度として出ていたんですね。ご心配をおかけして申し訳ありません」
ミディは深く頭を下げ詫びる。次に顔を上げた時、ミディの表情からは冷たさは消えていた。
「僕は自分の感情を隠すのが下手です。感じたことが、すぐに表情として出てしまいます」
「素直で良いのではないのか?」
「素直……ですか」
ミディは少し困ったように微笑む。
「人間は集団で生きる生き物です。円滑にするには、時に自分の気持ちを抑えなければなりません。それは分かっているんです……」
「ミディ?」
ミディは葛藤し悩んでいるようだった。それを理解したキルシェは、もう問い質すことはしなかった。
「気持ちを抑えるのも大切だと思ってます。でも、気持ちを抑えて自分に嘘をつき続けるのは、もっと辛いことですよね……」
「…………」
「……僕、もう休みますね」
一礼をし、その場を去るミディは普段の柔らかさを伴った表情に戻っていた。
「……気持ちに嘘をつき続けるか」
その言葉はミディ自身ではなく、キルシェに向けて言っているように思えた。キルシェは赤く揺らめく炎をぼんやりと眺め、小さなため息をついた。その揺らめきに重なるように、胸に温かな熱が灯る。だが、キルシェはそれを掻き消そうと、乱暴に頭を振り自分の気持ちを抑え込んだ。
話しをする相手がいなくなると、辺りは再び静寂に包まれる。
キルシェは焚き火の炎を見張りながら、借りた本に目を通してみることにした。
魔導教本ということもあり、魔法の知識や属性の相性などが事細かに記されている。だが、その内容は神話に基づいた物語のような構成になっており、読み物としても面白く分かりやすいものになっていた。しかし、炎の明るさで読む悪循環に加え、普段あまり読書をしないキルシェは、すぐに読書という行為に疲れを感じてしまうのだった。
「うーん」
本から目を離し目頭を強く押さえると、大きく背伸びをする。そして、本を傍らに置くと、傍に立て掛けていた剣を手に取り立ち上がった。
「やはり、私はこちらのほうが合っているな」
そう一人で納得すると、剣を構え稽古を始めた。
いつもなら部下を相手に稽古をするが、今は自分一人しかいない。キルシェは目の前に相手がいるかのように想像し、剣を振る。見えぬ相手の攻撃を自身の剣で受け止め、時に見えぬ相手に剣での一撃を与える。
静かな夜の森に、剣が空を切る音が響く。
稽古を始めていくらか経った時だ。背後に何者かの気配を感じたキルシェは、条件反射的に振り向き、剣を振りかざした。
「――うおっ。あぶねーな」
突然、斬りかかれた人影は素早い動きで後ろに跳び、勇ましい切っ先を寸前のところで避けた。
そこにいたのは、見張り交代のために起きてきたレザンだった。キルシェは慌てて剣を仕舞う。
「す、すまない。怪我はないか」
「怪我はないが……。もう少しで、首が飛ぶところだったな」
レザンは自分のされたことを特に咎める風でもなく、笑いながら焚き火の側の丸太に腰を下ろした。そして、カップを二つ用意し、火にかかったポットからお茶を注いだ。温かくよい香りのするお茶の注がれたカップを一つキルシェに渡し、もう一方はまだ半分寝ている自分の目を覚ますために一口飲んだ。
「しかし、あんたも熱心だな。こんなところに来ても稽古か」
キルシェは受け取ったカップを手に、レザンから少し離れた場所に座った。
「剣の鍛練は日課だからな」
「ふーん」
会話が止まり沈黙が続く。
キルシェはゆっくりとお茶を飲みながら、ミディのことに関して尋ねようかと悩んだ。二人は互いに良い印象で見ていないが、どこかで歩み寄れる場を作らればならない思いがあった。これから何が起こるか分からない分、少しでも危険分子は排除しておきたいところだった。
「……ところで、レザン殿はミディのことをどう思う?」
「はあ? やぶからぼうになんだよ」
「いや……。少し、二人の様子が気になってな……」
レザンはキルシェを一瞥し、すぐに不機嫌そうに視線を焚き火にやった。そして、乱暴に焚き火に木を投げ入れた。
「…………」
「…………」
再度、訪れる沈黙。
ミディのことを聞いたとき、明らかにレザンの声のトーンが変わった。そして、この態度だ。彼もミディ同様に不快な感情を露にしている。だが、レザンの態度はミディのものより重く深いように感じられた。二人の間にある溝は、レザンが発端のようだ。
問いに対し、不機嫌になり何も答えようとしないレザン。自分が思うよりも根が深い問題なのかと、話を持ち出すのは軽率だったとキルシェが後悔し始めた頃、お茶を飲み干したレザンがようやく口を開いた。
「ミディか……。あいつは何か気にくわないんだよな」
「気にくわない? もしかして、ミディが魔導士だからか?」
「……たしかに、魔導士はあまり好きにはなれない。だが、仕事に好き嫌いだという個人的感情は、持ち込まないようにしているつもりだ。今までもそうしてきた。……けど、ヤツは……」
突然、レザンは黙った。
空になったカップにお茶を注ぎ、一気に飲み干すと、ふぅーと長い息を吐く。そして、少し考え再び話し始める。
「ミディは何か妙な感じがするんだ。……いや、ヤツだけじゃない。一緒に来たフィーネや、城にいた蒼竜の上官もだ。なぜか分からないが、ヤツといると気分が苛立ってくる」
「…………」
黙って話しを聞いていたキルシェだったが、彼女にはレザンの感じる苛立ちの原因が理解できなかった。レザンの言う『妙な感じ』が、常に城にいるせいなのか感じることができないからだ。単純な好き嫌いの問題なのかと考えていたが、問題の根底はそうではないようだ。
「あんたは、あの城にいて嫌な感じはしないか?」
「私は何も感じないな。ミディたちとは今回の任務で初めて会ったのだが、レザン殿の言う『妙な感じ』というものは感じたことがない」
「そうなのか」
レザンは、ミディたち蒼竜魔導団に属する人間に対する感じ方の違いに納得してないにようだった。
レザンのミディに対する態度の原因は分かった。しかし、その原因の根本がはっきりしないもので、よけいモヤモヤとしたものが残ってしまった。
今度はキルシェの方が黙り込んでしまう。
「なんか、悪かったな。俺のせいで」
キルシェが黙り考え込んでしまったのが、自分の発言のせいだと分かっているのだろう。レザンはキルシェを気遣うように、落ち着いた語調で声をかける。キルシェは内心その謝罪に驚きながらも「気にするな」と、返事をかえした。
「できる限り、苛立ちは表に出さないように努力するつもりだ。これからの任務に支障が出ては、どうにもならないからな。金を受け取った以上、与えられた任務は何があっても遂行しないといけないからな」
「ああ、そうだな」
この数回の言葉の往復で、キルシェの中にあったレザンの評価は著しく変わっていた。
当初は酒を浴びるように飲む姿や言動から、仕事を軽んじるような軽薄そうな男のような印象が強かった。しかし、こうやってゆっくりと話してみると、仕事に関しての意識はかなり高く、自分の意志もしっかりと持っているようだった。それに加え、リーネの村に滞在中は、怪我をした二人の騎士たちを気にかけている様子もあり、今はキルシェに対しも気遣いを見せている。レザンは口が悪いところなどはあるが、意外に他者を気遣うことのできる人間なのだ。
傭兵として名が知れる理由は、彼自身の強さもだが、仕事に対する意識の高さ、周囲と円滑に物事を進めようとする意思があるゆえなのかもしれない。
キルシェはここにきて、当初抱いていた印象を改め、レザンという男の存在を認めようとしていた。
彼に対する評価が好印象に変わり始めた頃、キルシェはもう一つ気になっていたことを聞いてみることにした。
「レザン殿は傭兵を止めて騎士になろうとは思わないのか?」
「また、突然だな」
「レザン殿ならば、すぐに上級騎士になれるだろ。そうすれば、今より良い暮らしができるだろう」
レザンは呆れたように笑い、焚き火の中に木を投げ入れる。
「俺は自由でいたい。好きなように仕事をして、遊んで、金を使う。好きなように生きるのがいいんだ」
「……自由か」
「じゃあ逆に聞くが、あんたは規律に縛られた今の生活は息苦しくないか? 王族に従い生きていく人生って楽しいか?」
「私は、国と王に忠誠を誓った。国の為に働くのは私の義務だ。辛いことなどない」
キルシェは当然の如く言う。
レザンの言う通り、騎士にはほとんど自由はない。特に姫付きの任に就いているキルシェは、他の同格の騎士よりも仕事量も多く、騎士としての拘束時間も長かった。そして、月に数回ある休日も、普段あまりできない剣の稽古に費やされている。こんな日常でも城にいる時間は、辛いとか苦しいと感じることはなかった。
だが、たまに街に出掛けた時、美しく着飾り楽しそうに笑っている同年代の女性の姿を見ると、心の片隅に羨ましさが生まれ、微かな苦しみを感じることはあった。
キルシェはあの記念日での出来事を思い出し、無意識に溜め息をついた。
彼女が見せた、ほんの僅かな感情の変化。鎧に覆われた女騎士の隙間に覗く別の顔。炎の明かりに照らされるキルシェは、凛とした表情を湛えながらも、何かを求め乞う寂しさも表れていた。
その変化に気づいたレザンは、唐突になんの脈絡もないことを問いかける。
「なあ、あんたは好きな男とかいないのか? あんた貴族の娘だろ。いくらでも言い寄ってくる男がいるだろ」
突拍子もない質問に、キルシェは飲んでいたお茶でもむせてしまう。何度も咳き込むキルシェに、レザンが背中を擦る。
どうにか落ち着いてきた頃、背に触れていた男の手がふいにキルシェの髪に触れた。
「――――!?」
思わずビクリと身体が跳ねてしまう。慌てて横を向くと、少し離れて座っていたはずのレザンがすぐ傍まで寄ってきていた。その距離はとても近く、身体が触れ合ってしまいそうなほどだった。
「な、なにをするんだっ」
反射的に髪に触れていた手を払い除ける。痛々しい音がし、レザンの手はキルシェから離れる。しかし、動揺が現れた上擦った声に、レザンはニヤリとする。
「あんた、けっこう綺麗な顔をしてるよな。特に、目が綺麗だな……」
そう言い、空になった手をキルシェの顎にあて、くいっと軽く上向かせると、レザンは灰がかった蒼い瞳を見つめながら顔を近づけてきた。そして、動揺して動けないでいるキルシェに唇を重ねた。
突然の出来事で、何が起こったのかキルシェには判断できなかった。頭が真っ白になり冷静さが失われていった。
「――っ!」
次の瞬間、レザンは丸太から落ち尻餅をついていた。
目の前の男を自分から突き放そうと、キルシェが両手で力一杯に突き飛ばしたのだ。無防備だったレザンはかわすこともできず、無様な姿を晒すことになった。
「貴様っ!! 私は国に忠誠を誓った身。色恋沙汰に現を抜かすことなどしない!! 任務に私情は挟まないと言った言葉は偽りだったのかっ!!」
荒々しく立ち上がり声を荒らげ、レザンを非難する。そして、見せたことのない鋭い目付きで睨んだ。その気迫溢れる姿に、レザンは謝罪どころが己を擁護する言葉も出せないでいた。
「再度、同じようなことをすれば命は無いと思え」
手にした剣を鞘から抜き、レザンの眼前に突きだし威嚇すると、キルシェは怒りを抑えることもしないまま小屋の中へ入っていった。
狭く小さな小屋に戻り、数時間前まで自分が寝ていた場所に腰を下ろす。暗く静かな空間で、溢れ出る怒りを抑えようと何度も深呼吸をする。深呼吸を繰り返す毎に、どうにか怒りは薄らぎ、冷静さも戻ってくる。
「……レザン殿はいったい何を考えているのだ」
深呼吸が深いため息に代わり吐き出される。すると、それと重なるように背後から微かな寝息が聞こえてきた。ハッと後ろを振り返ると、気持ち良さそうに眠るミディの姿が暗闇の中にあった。
自分が発した声で、ミディが目を覚まさなかったことに安堵した。もし、あの声でミディが起きていたなら、二人の間のわだかまりは一層深刻になってしまったかもしれない。
それ以前に、ここが敵地に向かう道中、しかも獣や魔獣の活動が活発になる夜。感情のままに声を荒らげたキルシェの行為は、周囲に自分たちの存在を報せてしまう。
一度冷静になってしまうと、レザンに対し向かっていた怒りは、感情に流され己を失った愚かな自分に向けられていった。怒りは自然に自分に対する卑下に変わり、キルシェは傍らに剣を置くと沈んだ気分で薄手の毛布にくるまり横になった。
「………」
目を閉じることなく、ボンヤリと見えない天井を眺める。そして、先程の感触を思い出し、唇を拭った。怒りは湧いてこないが、嫌悪感は残る。そして、何とも形容しがたい感情に襲われた。
悔しいような、悲しいような、複雑な感情。
なぜ、そのような感情が湧いてくるのか、キルシェには分からなかった。
キルシェは養女とはいえ貴族の娘。成人してからは、親族や上官騎士などから見合いの話を持ち掛けられることが多々あった。そういうことに乗り気ではないが、紹介者の顔を潰すこともできず、流れで男と付き合うことになることもあった。
優しく労ってくれる男もいた、レザンのように己を直情的にぶつけてくる男もいた。
だが、どの男とも結婚するまでには至らなかった。
どうしても、一歩を踏み出すことができない。それはキルシェの中にある、ある感情のせいだった。
「好きな男か……」
そうポツリと呟いたキルシェの脳裏には、あの日出逢った夕焼け色の髪の男の姿が浮かんでいた。
この島に来てからというもの、なぜかキルシェはあの男の姿を思い出すことが多くなっていた。ついさっきも、レザンとの会話の向こうに何度かその男の姿がちらついていた。そんな時に突き付けられた一方的な感情。キルシェはそれに激しい嫌悪を抱いたのだ。
キルシェはソッと頬に手をあてる。
あの日、夕焼け色の髪の男がキルシェの涙を拭う為に触れた場所だ。不思議と嫌悪感などは感じない。それどころか、あの手の感触や温もりが、今になっても鮮明に甦ってくる。
あの男のことを思い出していると、キルシェの胸には温かい感情が湧き上がってくる。
――もう一度、あの男に会ってみたい。
しかし、キルシェはそれを無意識に否定する。そして、自分の中のあり得ない感情に蓋をするように、固く目を閉じ眠りについた。