蒼竜‐2
『キルシェ――……』
暗闇のなか、キルシェの名を呼ぶリコリスの声が至るところからこだまする。
「リコリス様。どちらですか? リコリス様っ!」
必死に周囲を見渡すが、広がるのは暗い闇ばかりでリコリスの姿どころか、自分の姿さえも定かにない。
闇雲に走り、聞こえてくる声の主を求める。
闇を掻き分け進む手に、何かが触れる。
「――リコリスさ……ま……――っ!!」
キルシェの手に触れたのは、異形の姿をした化け物だった。無感情に自分を見下ろす化け物の腕には、気を失いぐったりとした姿のリコリス。
「貴様っ!!」
剣に手をかけるが、その手は震え剣を抜くどころか柄を握ることさえできない。
初めて感じる、心の奥底から湧き上がる恐怖。キルシェは身動きひとつとれないまま、遠ざかり闇に溶けていく化け物の姿を見ていた。
「リコリス様……」
再び闇が視界を覆い、独りになってしまう。
キルシェの心を襲う焦燥と孤独。
その場に膝から崩れ落ちるキルシェの頬に、涙がつたう。彼女は声をあげない。ただひたすらに声を押し殺し涙を流す。
「――――!?」
涙に濡れる頬に、何者かの温かな手が触れ、涙を拭う。
「――何も心配することはない」
心が安らぐような低く優しい声。暗闇で顔は見えないが、涙で霞む視界に夕焼けのような色をした赤い髪が揺れる。
「貴方は……」
◇ ◇ ◇
「――……キル……さ……」
「キル……さまっ……」
誰かが呼びかける声。泣きそうな声が必死に呼びかける。
「――キルシェさまっ!」
その声は、深い闇に沈みかけていたキルシェの意識を引き戻させた。
意識が覚醒し、固く閉じられた瞼がゆっくりと開いていく。
「――――っう」
真っ青な空に輝く太陽の眩しさが、痛いほどに両目に入り込んでくる。キルシェは目を細め、天高くに輝く太陽を見上げ、現状を把握しようとする。
二度目の衝撃で、船から投げ出されたところまでは鮮明に記憶に残っている。しかし、そこから先は闇に囚われたみたいに、暗闇の記憶しかなかった。
暗く恐ろしく、そして苦しいほどの悲しみ。だが、そんな中にもなぜか胸の奥には温もりが残っていた。じわりと広がる温もりが、夢のものなのか現実のものかは判断できない。それは、自分の苦痛を全て包み込んでくれる温かさだった。
「――……!?」
記憶を手繰りながら、ぼんやりと空を見つめていたキルシェが気づく。海に落ち、濡れた身体はなお冷たい。しかし、胸の辺りには不自然な温もりが残っていることに。それは不自然だがとても温かく、夢ではない現実のものだと知らしめるように温かみを増していた。
冷えて強張った身体はうまく動かない。どうにか上体だけ起こし、温もりの発生源を確認する。
「……ミディ?」
そこには、キルシェの胸に手をかざすミディの姿があった。
「……あ、……キルシェさま……」
キルシェの身体が僅かに起き上がり、弱々しいながら声が発せられたことに感極まったのだろう。大きく見開いた瞳から、かろうじて留まっていた涙が溢れ出てしまう。
「あ……あぁ……。キルシェさま……。良かった。このまま起きられなかったら……、どうしようかと……」
ミディの感情が大きく震える。声が涙で震え、かざしたままの手からは回復を施していた白い光が揺らぎ消えていく。
「すまない……。ミディが助けてくれたのか?」
ミディは首を横に振る。
「いいえ。僕は魔法でキルシェ様の身体をこれ以上冷えてしまわないように維持するのが精一杯でした」
自分は何もできなかっと、ミディは自分を責め俯いてしまう。
「ありがとう、ミディ。助けてくれて」
顔を上げようとしないミディの手を握り、キルシェは心からの礼を言葉にして伝える。冷たかったキルシェの手に戻り始めた温もりに、ミディはようやく顔を上げ、男とは思えない柔らかな笑みを浮かべた。
彼の笑みに安堵を覚えたキルシェは、周囲に視線を巡らす。
「……他の者たちは、どうなったんだ」
明るさを取り戻したミディの表情が曇る。
「分かりません。僕たちは早くに船から落ちてしまったので……。皆の安否も、船がどうなったのかも分からないのです」
「そうか……」
キルシェはそれ以上、船や皆のことに関し尋ねることはしなかった。
海の下にいた巨大な影は、確実な敵意を持ち船を襲ってきた。一度だけの衝撃なら、この近海に棲息する海獣や魔獣が偶然ぶつかってしまったことも考えられる。しかし、“あれ”はそうではなかった。そうなると、あの影が魔王の配下のものだと判断して間違いはないだろう。魔王の配下からの攻撃。そうなれば、船が無事だという確率は極めて低くなる。
ここまで想像し、キルシェは身体を震わせた。海に落下した自分たちは、敵の攻撃対象から運良く逸れただけなのだ。
「…………」
キルシェは無言のまま、目の前に広がる海を眺める。穏やかな青い海が広がり、砂浜に波が打ち寄せてくる。しかし、少し視界をずらせば岩場も目立ち、意外に起伏の激しい海岸である。
キルシェはゆっくりと重い身体を起こし、立ち上がろうとする。だが、いくら回復魔法を施されていたとはいえ、いつも通りの状態にはほど遠い。足が砂浜に取られ、フラりと倒れそうになってしまう。そこをすかさずミディが手を差し出し支える。
「重ね重ね、すまない。……――ミディ。この腕は、どうしたんだっ!?」
差し伸べられたミディの左腕を掴み、キルシェは怒鳴るように声をあげる。
「ああ、これですか。これは、少し切っただけですよ」
あっけらかんと言うミディは、キルシェの腕をやんわりと離し、その部分を自分の手で覆った。
「少しではないだろっ! 見せてみろ」
キルシェが声を荒らげるのも無理はなかった。目に入ったのは、蒼竜魔導団の蒼いローブがざっくりと裂け、そこからじんわりと広がる赤黒い染み。それはミディが手では隠しきれないほどに、広範囲に広がっているのだ。キルシェは無理やり彼の腕を退け、ゆったりと幅広な袖を捲り上げた。
「……あ、あれ?」
思わず素に返ったように、間の抜けた声を漏らしてしまう。
捲り上げた袖の下には、その血の滲み具合に見合わない、擦り傷程度の痕しかなかった。しかも、もうほとんど治りかけているのだ。
腕をつかんだまま固まるキルシェに、ミディはクスリと笑いかけ、静かに袖を元に戻した。
「キルシェ様。僕は魔導士ですよ。これくらいの傷なら治せますよ」
そう言われ、ハッと気づく。
「……あ、ああ、そうだったな。そうだ、ミディは魔導士だったな。……すまない、無駄に取り乱して」
「いえ、こちらの方こそ、ありがとうございます。僕のような者を心配してくださって」
ミディが静かに頭を下げる。彼の金色の髪がさらりと流れ落ち、揺れる。
自分が早とちりで取り乱したにも関わらず、丁寧な感謝を返されてしまい、キルシェは恥ずかしくなってしまう。そんな恥ずかしさを誤魔化すように、キルシェはミディから視線を外し、改めて周囲を見渡した。
「……しかし、ここはいったい何処なのだろうな」
出向前に船長から航路の説明を受けていたキルシェは、その時見せられた地図を思い出していた。
目的地のグリシーナ島は比較的大きな島だが、その陸地の大半は山と森で占められている。キルシェたちが立っている海岸から見える範囲でも、深い森はすぐ側まで迫っており、地図の情報とは一致する。しかし、悪いことにグリシーナ島の周辺には似たような島が幾つも点在しているのだ。その中には、無人の島もある。万が一、ここがその無人島ならば、リコリスを救うどころか、島から出ることも危うくなってしまう。
「人がいる島ならば良いのだが……」
前方は広大な海。後方は深い森。
足下に広がる砂浜は海岸沿いに広がっているが、その先には岩場も見える。
だが、砂浜を眺めていると、ロープや漁に使われる網など、明らかな人工物が多く放置されていることに気づく。最初は自分たちと同じように漂着した物かと思っていた。だが、その数の多さと何気なく拾い強度を確かめた際の耐久具合から、そうではないと考えを改めだした。
そして、その考えを決定付けたのが、海岸の奥にあった小舟だ。一見ただ放置されているように見えたが、近づいてみれば側の木に丁寧にロープで結び手けてあったのだ。
「どうやら、ここは人の住む島のようだな」
人がいると分かり、安堵を得る。次いで、ここから集落に行く道がないかと探すが、見えるのは鬱蒼と茂る木々と、歩きづらそうな岩場だけだ。
「キルシェ様っ! あれを見てください」
周辺を歩き回り道を探すキルシェに、ミディが声をかける。呼びかけたミディの視線は、森でも海でもなく、上空を見つめている。キルシェは森の奥から目を離し、ミディの指し示す方を向く。
「あれって、煙ですよね」
「ああ、たしかに。煙のようだな」
深い森の向こうに、立ち上る三本の白い煙。この場所からは多少離れているが、生活の証が目視でき、二人は安堵の息を吐く。
「道はないが、海岸沿いに歩いていけば辿り着けるかもしれないな」
立ち上る煙に期待を込め、二人は漂着した海岸から歩きだした。
砂浜の海岸を少し進むと、森の木々の間に人の手で作られた道のような空間が現れた。丁寧に伐採された木々の隙間を進んでいくと、しだいにそれは綺麗に整備された道へと変わり、すぐに集落らしき場所に辿り着いた。
「キルシェ様っ、集落ですよ」
ミディが嬉しそうに声を弾ませる。
「さて、まずは、ここが何処なのか尋ねなくてはな」
古い木造で簡素な造りの民家が多いが、なかには新しくそれなりに立派な造りの民家も何軒か点在している。取り敢えずキルシェは、一番近くにあった民家の前に向かい、ノックをした。
「あら? どうかしたのかい?」
声がしたのは目の前の民家の中からではなく、すぐ横の民家からだった。横の民家から出てきた恰幅のよい女性は、たっぷり野菜を詰めた籠を小脇に抱え、キルシェたちの姿を物珍しそうに眺めている。
「あんたたち……大陸から来た人だよね。ここで、何しているんだい?」
鎧姿の女に魔導士のローブ姿の男だ。辺境の島の住人にとって、その姿は珍しいなんてものではないだろう。ゆえに、容易にキルシェたちの素性を察することができたようだ。しかし、その女性が察することができたのは、それだけが要因ではなさそうだった。
「はい。私たちはガルデニアの王都から参りました。お尋ねしたいのですが、ここは何処なのでしょうか?」
キルシェの質問に、女性は不思議そうな顔で首をかしげる。
「ここはリースって村だけど……。あんたたちは、レザンと一緒に来た人じゃないのかい?」
「――!? レザン殿がいるのですかっ!?」
予想外の返答で、思わず声が大きくなってしまう。
「……? ええ。今朝、帰って来たんだけどね」
さらに『帰って来た』という言葉に、驚かされながらも安堵を得た。帰って来たと言うことは、ここがレザンの故郷である村で、この島が目的地であるグリシーナ島だという証明となるからだ。そして、この島に辿り着いたということは、皆も船も無事だということになる。
「よかった。皆、無事に着いたようだな」
キルシェが安堵で漏らした言葉に、島の女性は少し表情を曇らせる。その変化に気づくよりも前に、女性は口を開いた。
「……何があったかは知らないけど、お連れさんたちの何人か怪我をしていてね。今、診療所で治療を受けているのよ。わたしも、今からその人たちの食事を作りに行くところだったんだけど……。あんたたちも来るかい?」
「……あ、はい。案内、お願いします」
束の間の喜びだった。
船は巨大な何かに襲われたのだ。よくよく考えてみれば、本来の目的地はこの島の港町。そこにすら辿り着けていないのだ。普通に考えれば、何らかの不備があり流れ着いたと考えるのが妥当だ。
キルシェは僅かな希望にすがり、喜んでしまっていた自分の考えの浅さに失望していた。そして、部下たちの身を案じながら女性の後をついていった。
診療所は周囲の建物と比べると、新しく綺麗な物だった。ドアを開け中に入ると、木の香りに混じり医療施設独特の薬品の臭いが鼻につく。しかし、それはすぐに別の臭いによって掻き消されてしまう……。
けして広いとはいえない診療所には、身体のあちこちに包帯を巻いた船員たちが、苦痛に顔を歪めながら居た。ベッドが全く足りていないのだろう。この部屋にいる者は皆、地べたに布を引いただけの場所に座り、痛む身体を休めている。
そして、身体を休める男たちの隙間をぬい、村の女性たちが介抱に走っている。その中に、蒼いローブ姿の幼い女性の姿もあった。
「フィーネ!」
突然の声に驚き、蒼いローブの女性が振り返り入り口を見つめる。入り口に立つ二人の姿を目にした女性は、たちまち泣き崩れてしまう。
「あぁっ……、ミディ様。キルシェ様っ! ご無事だったのですね……。良かった、本当に良かったです……」
幼さの残る顔が涙で濡れていく。海に落ち消息を絶っていた二人の無事な姿を前に、張りつめていた緊張の糸が切れたようだ。ミディの胸に縋り泣きじゃくるフィーネの姿を安楽に眺めていたキルシェだったが、ふと部屋に自分の部下であるシーダーとリンデン、そしてレザンの姿がないことに気づく。
「フィーネ。シーダーとリンデンの姿が見えないが……。それに、レザン殿も」
ミディの胸に縋っていたフィーネの小さな肩が震えた。そして、静かに胸から離れていく顔は、恐ろしいほどに暗く青ざめていた。
「……お二人とも奥の部屋にいらっしゃいます。レザン様も、たぶんそちらにいらっしゃると思います。……ご案内致します」
フィーネの沈んだ声に導かれ、キルシェたちは診療所の奥へと向かう。
奥の部屋は狭いながらも六つベッドがあり、全てが人が寝かされていた。こちらの部屋は重傷者が寝かされているらしく、手前の部屋よりも苦しげな声と血の臭いが濃かった。
そんな鬼気迫る部屋の奥に、シーダーとリンデンはいた。ベッドで眠る二人の側の窓辺には、椅子に座り休んでいるレザンの姿もあった。
「レザン殿、無事だったか」
自分の名を呼び近づいてくる女騎士の姿に、レザンは勢い良く椅子から立ち上がる。
「お前ら、生きていたのかっ」
「ああ、なんとかな。レザン殿は怪我などはないか?」
「ああ、俺はな……」
そう言い、横のベッドに眠る二人の騎士に視線を落とす。
レザンの傷は軽く、腕と頬にあるていどだった。しかし、二人の騎士はどう見ても良いとは言えない状態だった。特にリンデンは全身に巻かれた包帯の下から血が滲み出ており、かろうじて呼吸をしているといった感じだ。
「こいつら、あの魔獣の攻撃をもろに食らっちまったからな。シーダーは何とか意識があって、さっきまで起きていたんだがな。フィーネの回復魔法を受けているうちに寝ちまったみたいだ。……けど、リンデンの方は……」
レザンはそれ以上、何も言わずに側の椅子に座り直す。キルシェも聞こうとはしなかった。リンデンの容態は誰の目から見ても重篤だった。リンデンに駆け寄り、回復魔法を施すミディの表情から見ても明らかだ。
「リンデンは助かるのか?」
その問いに、ミディはなかなか返事をかえさない。
「……正直に言えば、分かりません。回復魔法で補助はできますが、こればかりはリンデン様の生命力に賭けるしかありません」
「そう……なのか……」
「魔法もたいしたことないんだな」
こんな状況にも関わらず、レザンは嫌みな言葉を投げつける。しかしミディは反論することなく、その言葉を無視した。
「それにしても……あんな魔獣、今まで見たことなかったよ」
「魔獣。あれは、やはり魔獣なのか」
「そうだろ。それなりのデカさの海獣は、この近海にもいる。だが、ヤツはそのどれでもなかった。そもそも魔法を使う海獣なんて、ここら辺にはいないからな」
「――!? 魔法を使うのかっ」
陸に生きる獣。海に生きる海獣。本来のそれらは魔法を使わない。しかし、魔力を持つ獣たちは、魔獣となり魔法を操ると言われている。土地の魔力が乏しいガルデニアに住むキルシェは、本から得た知識として魔獣の存在は知っていたが、自分の目で魔獣の姿を見たことはなかった。
「実は、俺も初めて魔獣を見たんだが、こいつらもそうだったんだろうな。魔獣の出現もだが、魔法を使うなんてのも想定外だったんだろうな。リンデンは魔獣の魔法攻撃でやられたんだ」
「そうなのか……」
キルシェは自分の考えの甘さを痛感していた。
この任務は人間同士が戦う戦争とは違う。人外の者と戦わねばならないかもしれない。それは、自分の経験だけでは補えない、変則的な何かが起こりうるとうことなのだ。
「……しかし、それでよくにここまで……」
キルシェは二人の騎士の姿を見ながら呟く。手練れの騎士に、これほどの怪我を負わせた力。それに加え、あの巨大さ。船を破壊することなど、造作ないように思えた。その疑問をレザンが拾い、答える。
「それが……ヤツは急に攻撃してこなくなったんだ。何か、うまく言えないが。妙だったな、あれは……」
「妙とは?」
「あれは、自分の意思じゃないようだった」
「どういうことだ?」
レザンは一瞬、押し黙り考える。チラリと視線を何処かに睨むように向けると、口を開いた。
「ヤツの目は、まだ俺たちに対し敵意があった。攻撃の意志も向いていた。だが、それに反し、ヤツは海に沈んでいったんだ。……まるで、別の何かによって引きずり込まれるように……」
「別の何か……だと……」
恐怖で身震いする。たった一匹の魔獣に手も足も出せず、膨大な被害を受けた。だが、あの海には、そんな魔獣がもう一匹いたのだ。皆が無事ではないものの、こうやって命あるままに島に辿り着けたのは、とてつもない奇跡のように思えた。
しかし、奇跡を感じると同時に、大きな不安が襲いかかる。
二人の部下の容態も気にかかるが、それ以上に気がかりなのが攫われてしまったリコリスだ。魔王がどういう意図でリコリスを攫ったのかは分からないままだ。だが、どういう理由であれ、対峙することになれば確実に戦闘になる。
その際、自分たちの力だけで対処できるのだろうか?
それ以前に、リコリスがまだ無事でいるのか?
様々な不安がキルシェを襲う。
そんなキルシェ不安を知ってか知らずか、レザンはこれからについて進言してくる。
「魔王城に行くんだったら、明日の朝にでもここを出発した方がいいぞ」
「なぜだ? 彼らの怪我では、まだ動くことも無理だろう」
「村の奴らに聞いたんだが、魔王城は現れてから、二週間近く経っているらしい。もう、いつ消えてもおかしくない時期だ。それと、言っておくがこの村から魔王城までは一日では行けないからな。こいつらの回復を待っていたら、確実に魔王城はこの世界から消えているだろうな」
「しかし……」
か細い呼吸で眠る部下に視線を向けると、視界に回復魔法を施し続けるミディの姿が入り込む。
「ミディ。回復魔法で二人をすぐに治せないのか?」
一度顔を上げたミディは、施している魔法を一旦止めると、静かに首を横に振った。
「それは無理です。先程も言いましたが、回復魔法はあくまで補助的な力です。回復魔法は、対象者の持つ肉体の治癒力を強化する魔法です。魔法で傷を治すのではなく、自身の治癒力を強化し自分の力で治していくのです。それに、過度に魔法の力を受けると、肉体は治癒力を暴走させてしまい逆に肉体を破壊してしまいます」
「……そうなのか」
魔法の知識がほとんどないキルシェは、その説明を素直に受け入れるしかなった。
二人を休ませ、明日出発するとなると、戦力は極端に下がってしまう。ただでさえ、力が計りきれない相手と対峙せねばならないという状況。不安と苛立ちは募る一方だった。
「キルシェ様。フィーネは置いていきます」
さらに追い討ちをかける言葉が、ミディの口から告げられる。咄嗟にキルシェは問いただそうとするが、その前にミディが理由を告げる。
「お二人とも酷い怪我を負われています。特にリンデン様は定期的に魔法で治癒力を強化しなければ、最悪の事態になってしまわれるかもしれません」
「薬での治療は無理なのか?」
これ以上、戦力を減らしたくないというキルシェの感情を感じ取ったのか、ミディは立ち上がり真剣な表情でキルシェの前に立つ。
「いくら魔法が補助的とはいえ、魔法と薬では天と地ほどの差があります。キルシェ様が不安に思われていることも承知しています。人にとって魔王は未知です。人とは違う存在で、違う強さを持っています。――でも、大丈夫です」
ミディは確信めいた表情で、不安に囚われつつあるキルシェに言う。
「それに、僕たちは怪我をしている方たちを、放っておくことはできません」
「――――っ」
その言葉に、キルシェは自分の非道さを突きつけられたような気がした。
部下を心配する素振りを見せながら、内心では目の前の不安に囚われ、彼らの命を蔑ろにしようとしていた。自分を慕い、こんな危険な任務を快く引き受けてくれた二人の部下。彼らの命を、魔王の手ではなく、上官である自分自身の手で終わらせようとしていた。
そんな恐ろしい自分を気づかせてくれたミディの言葉に、キルシェは無言で感謝した。
キルシェはミディの進言通り、フィーネを残し皆の治療に専念してもらうことにした。
しかし、非道な自分を捨てることはできても、不安は捨てきれず募るばかりだった。
日が沈み、暗くなり始めた部屋の隅で、キルシェは無言のままに胸のネックレスに手をあてていた。