姉妹‐1
リコリス救出のために魔王の城に来て、数日が過ぎていた。
キルシェは城のバルコニーにある椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
そこにいるキルシェは、以前のように鎧を纏い、剣を振るう勇ましい女騎士の姿ではなかった。シックだが女性らしい柔らかなドレスに身を包み、髪も綺麗に纏められ、今まで薄くしかしてこなかった化粧も施されている。誰の目にも美しく映る貴族の女になっていた。
しかし、外見の美しさに反し、表情には覇気がなく曇っていた。
「…………」
何をするでもなく外を眺めていたキルシェだが、急に何を思い立ったのか、席を立つと部屋を出でどこかへと歩き始めた。
静かな城内に、キルシェの歩く音が響く。外見は美しい貴族の女だが、内はまだ女騎士のままだ。外見に不釣り合いな力強い足音を響かせ、キルシェは歩く。だが、その音もしだいに強さを失い、とうとう止まってしまう。
「…………」
ある部屋の前に立ち止まったキルシェは、神妙な面持ちで扉の前に立っていた。
ここは、リコリスが休んでいる部屋だ。
あの日、腹痛を訴え倒れたリコリスは、腹に宿っていた子を亡くしてしまった。環境の変化や極度のストレスが精神を追いつめ、限界を超えてしまったのだ。
しかし、このことに関しては、誰にも責めを負わせることはできなかった。
なぜなら、妊娠していることを知っていたのは、リコリス本人だけだったのだから。
知らずに攫い、レザンに会わせたザカートはもちろん。子の父親であろうレザンも、会っていた女がリコリスだとは知らなかったのだ。一方的に責めることはできない。
唯一非難の対象になるとしたら、常にリコリスの傍にいながら、彼女の変化に気付かず、さらに知ると同時に拒絶してしまった自分自身だとキルシェは考えていた。
自分の心に問題があったとしても、リコリスに対して見せてしまった態度が、キルシェには許せなかった。悔やみ、悩み、自分が何をするべきか考えた。しかし、答えは出ない。だが、許される訳ではないと分かっていても、謝罪だけはしたいという気持ちはあった。
部屋の扉を前に、息苦しさを感じる。ノックをしようと手を扉に掲げるが、凍りついたみたいに、そこから先に進むことができない。
何度も深呼吸をし、落ち着かせようと試みる。しかし、落ち着くどころか、逆に息苦しさが増していく。宙に浮いていた手が、胸元に移り胸を押さえる。そして、自分の意思に反し、足は一歩、また一歩と扉の前から遠ざかって行く。
「……今日も無理だった……」
ここ数日、キルシェは毎日のように同じことを繰り返していた。
謝りたい気持ちはあるが、謝罪をしたところで、結局は自己満足でしかないのでは?
リコリスに受け入れる気持ちはないのでは?
未だに拭いきれずに抱いている嫌悪感。そんな上辺だけの謝罪に意味があるのか?
決意し向かい扉の前に立つが、いざ目の前にするとキルシェの頭の中はこれらの考えで一杯になってしまうのだ。そして、自問自答を繰り返しているうちに、足は離れて行ってしまう。
どうしても、一歩を踏み出すことができなかった。
キルシェは重い足取りで、来た道を戻っていた。
「キルシェ様?」
肩を落とし歩くキルシェの背後から、誰かが声をかけてくる。
「……ミディか」
そこにいたのは、キルシェと共に魔王城に来ていた、魔族の青年ミディだった。
ここに残ると決めた日、キルシェはザカートから契約と魔族についての話を聞いていた。
魔族とは……はるか昔、人間と同じ世界に生きていた亜人種たちの子孫のことだ。
亜人種とは、人の姿を持ちながら獣や竜などの特性をも合わせ持つ種だ。また、その逆もあり、獣や竜などの魔獣が成長と共に大きな力を得て、人の姿を持つ場合もある。
魔族の祖先となる亜人種は、過去に対立関係にあった相手に異世界へと封じられてしまい、この世界から隔離されてしまった。封じられたとはいえ、術者の恩赦か、島を一つを丸ごと異世界に封じたので、閉ざされた世界でも問題もなく生きていくことはできていた。
しかし、長い年月が過ぎると、ある大きな問題が浮上してきた。
それは、産まれてくる子の知能の低下や退化。強く濃くなることで起こる魔力の暴走。
閉ざされた世界で亜人種たちは、己の種の保存のために自然と近親交配を繰り返していた。その結果として、人の姿を失い、ただの魔獣になってしまったり、自身の魔力を抑えることができず破壊衝動にかられる者が増えていった。キルシェたちの船を襲ったのも、自我を失い本能だけで動く魔獣になった個体によるものだった。
このままでは、獣だけの世界になると憂いたのが、当時の亜人種たちを治めていた、後の魔王と呼ばれる一族の長。彼は、強い魔力を誇る蒼い竜の姿を持つセラータ族の生き残り二人とで、人間界と魔界の間にできた封印の境界を無理やり破るという強行にでたのだ。
しかし、封じられてから思った以上に長い年月が過ぎていた。世界からは亜人種の姿は消え、人間だけのものになっていた。突然現れた異形の姿に、当時の人間たちは酷く恐怖した。その恐怖は敵意となり亜人種たちに襲いかかった。
かつて自分たちの祖も暮らしていた世界は、亜人種たちには絶望的な世界に変わっていた。
力では人間の方がはるかに弱い。だが、亜人種たちは抵抗することなく境界を閉じ、人の世界を去った。
再び閉じられた世界になったが、自分たちの血を残したいという望みは消えない。幸いなことに、一度綻んだ境界は魔王一人の力でも容易に開けられる状態になっていた。そこで魔王は、魔界全土ではなく一部のみを人間の世界と繋げ、定期的に人の姿を保っている民を送ったり、人間をこちらに連れて来ることにした。そうして、自分たちのなかに人間の血を交わらせ、種の存続を試みることにしたのだ。
人間をこちらに連れ来る方法は様々だったが、手っ取り早く拉致することが多かった。だが、なかには時の権力者と接触し、契約を交わすこともあった。現魔王のザカートも、拉致という一方的なやり方を嫌い、たまたま戦争をしていたガルデニアの王と契約を交わしたのだった。ガルデニアを選んだ理由も、戦時中の混乱期ならば魔族の民の移住も容易だと考えたからだ。
ザカートはアルベロと交わした契約内容も、キルシェに話していた。話したといっても、全てをそのまま伝えてはいない。キルシェは自分がアルベロ王の隠し子だとは知らないままだ。そして、結果的にアルベロ王を擁護する形になってしまったが、アルベロ王がキルシェを売ったのではなく、ザカート自身が求めたゆえの契約だと、事実も交え伝えた。
自分が愛しく想う者に求められているという事実は、キルシェの心を穏やかにさせた。
全ての話を聞いたことでキルシェは、同じ国に仕える蒼竜魔導団の強さの意味を知ることとなった。強さが魔族ゆえのものだと知ったが、彼らに恐怖を抱くことはなかった。素直に納得でき、すんなりと存在を受け入れることができた。
だから、目の前にいる金髪の青年の姿も恐ろしい魔族ではなく、同じ国に仕える仲間として今まで通り見ることができた。
「キルシェ様。お久しぶりです」
「……ああ、そうだな。同じ城にいるのに、こうやって会って話すのは久しぶりだな」
「あの、キルシェ様。お時間ありますか? 良かったら、僕と城内を散歩しませんか」
突然の誘いに驚いたが、ミディが自分を心配そうに見つめる姿から、この誘いが自分への気遣いだと、すぐに悟ることができた。
「散歩か。いいよ、歩こうか」
散歩の誘いを受け、二人はたわいない会話をしながら広い城内を散策する。
歩きながらキルシェはふと思う。ここに来て、すでに数日過ぎていた。だが、ほとんどの場所を知らなかったのだ。思い返してみれば、自室とリコリスの部屋の前を往復しているだけの毎日だった。
そして、あの日以来ザカートの姿を見ていない。こんなに城内を歩いている今でさえ、会える気配がない。そのことに気付くと、キルシェは少しだけ寂しさを感じてしまうのだった。
「そうだ! ここで、お茶にしませんか?」
ミディに連れられて来た場所は、城の裏手にある庭園だった。見たこともない色とりどりの花が綺麗に咲いており、手入れもよく施されている。庭園の中腹には広場があり、白い円テーブルと椅子が置かれている。ゆっくりと休みながら、この庭園に咲く花たちを楽しめるようになっている。
「それでは、僕、お茶と菓子を持ってくるので、キルシェ様は座って待っててください」
キルシェを椅子に座らせると、ミディは駆け足で城の中に戻っていった。
一人になったキルシェは、ただ待つのも勿体ないと思い、椅子から立ち上がり庭園を少し散策することにした。花の甘い香りが辺り一杯に広がる。その香りは、キルシェを夢見心地にさせていく。色鮮やかに咲き誇る花の一輪一輪を間近に見ながら、美しさを堪能する。
「花って、綺麗だな」
日々の忙しさもあったが、こんな風に美しさを感じることも否定していたのか、こんなにもゆっくりと花を愛でることも今までなかった。何も考えずに、純粋に花の美しさを感じることができる。それがキルシェにとっては、とても新鮮で嬉しいことに思えた。自然と表情は微笑みを浮かべる。
夢見心地のまま、ゆっくりと眺めながら彷徨っていると、どこからか花の香りとは違う甘さが薫ってきた。
「キルシェ様ー!」
垣根の向こうから、ミディが呼びかけてくる。
声の方に戻ると、すでにテーブルにはティータイムの準備が整っていた。クッキーなどの焼き菓子、フルーツとクリームで飾られたケーキなど様々な菓子が用意されている。キルシェの姿を確認したミディは、カップに紅茶を注ぎながら尋ねた。
「キルシェ様は花がお好きなんですか?」
「……好き。……好きなのかもしれないな。ここの花を見ていると、とても心が安らぐ」
それを聞くとミディは、嬉しそうに言いカップを差し出す。
「そうなんですか。それは良かったです。この庭園は、ザカート様が手入れされいるんですよ」
思いがけず出たザカートの名に、動揺しキルシェは茶を溢しそうになってしまう。妙な恥ずかしさを覚え、誤魔化すようにお茶を一口飲み、続けてクッキーも口に放り込む。そんな初々しい反応を見せるキルシェを、ミディは微笑みながら見ていた。
「ザカート様に会えなくて、寂しいですか?」
ミディがからかうように言い、キルシェは次に手にしたマドレーヌを落としそうになった。そんな様子を楽しそうに眺めていたミディだったが、ふいに表情に影を落とした。
「……キルシェ様。今回のことは、申し訳ありませんでした」
「ミディ?」
からかったことの謝罪にしては暗すぎる表情に、キルシェは首を傾げる。
「ここにお連れするのに、キルシェ様のお気持ちも考えずに……。しかも、騙すようなことを……」
いっときの沈黙。
キルシェは怒ることもせず、微かに笑みを浮かべ言う。
「たしかに、強引で一方的なやり方ではあったな。……だが、ミディが気に病む必要はない。最終的に決めたのは、私自身なのだから」
そう言うキルシェは庭園に咲く花を見つめ、とても穏やかな雰囲気だった。
「キルシェ様、表情が柔らかくなられましたね」
「そ、そうか?」
「はい。最初お会いしたときは、任務のこともあってか、険があり常に張り詰めたような表情でした。けど、今は穏やかで優しい顔をされてますよ」
「そうなのか?」
キルシェは頬に手をあて、探るように触れてみる。だが、鏡でみている訳ではないので、自分がどんな表情をしているか確かめようがなく、少し戸惑っていた。しかし、ミディの言うように、少しずつだが心が落ち着いてきている自覚はあった。リコリスに対するわだかまりは残っているが、心の枷が外れ、全てを吐き出した結果なのだろう。
その切っ掛けを与えてくれたのはザカートだ。彼に対する感謝は計り知れない。
それから二人は、しばらく色々なことを話していた。そのほとんどが、キルシェが魔界についての疑問などを尋ね、ミディが答えるというものだった。
用意された菓子や紅茶の美味しさも相俟って、二人のお茶会の時間は楽しいものだった。
そんな楽しく充実した時間は、過ぎるのがとても早い。気が付くと空気は少しずつ冷え始め、空も赤と紫の混ざったような色に変わりだしていた。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうだな」
頃合いを見計らったように城のメイドが数人現れ、テーブルの上を綺麗に片付け始める。彼女たちの手際のよさに、何もできることがなく見ているだけだったキルシェに、ミディがもう一度「戻りましょう」と声をかけた。
自分がいては片付けの邪魔になるかと、ミディに従い歩きだしたキルシェに、ミディが再度言葉をかける。
「僕たち……二日後に山を下ります」
「……そうか。ザカート殿の魔力が元に戻ったのか」
「はい。色々とあり、長引いてしまいましたが」
あの日以来、姿を見せなかったザカートは、自身の魔力を回復させるために地下に籠っていた。
人間界と魔界との境界を開きやすくなったといっても、強大な魔力で創られた壁を無理やり開かせるのだ。それには相応の魔力が必要だった。そして、境界を閉じるにも同様に膨大な魔力が必要だった。
「本来、僕たちは百年ごとに、こちらの世界と行き来します。けれど、今回は二十年という短い期間で来てしまいました。だから、ザカート様のお身体にかかる負担も大きかったようです」
「それで、魔力の回復に時間がかかったのか」
「はい。――あっ、そうだ。境界を閉じる際にも、同じように魔力の消費で一時的に体力などが落ちてしまいます。その際は、キルシェ様が傍に付いていてあげてくださいね。その方が、ザカート様の回復も早いと思うので。惹かれあう者同士は、総じて魔力の相性も良いんですよ」
「……そうなのか」
キルシェはザカートの身を案じ素直に頷くが、ミディは先程からかってきた時と同じように笑っていた。それに気付いたキルシェは、急に恥ずかしくなり、そっぽを向いてしまう。その顔は真っ赤に染まっていた。
「くすくす。からかって申し訳ありません。……でも、先程の言葉は本心です。僕は、キルシェ様がここに残られ、ザカート様の傍にいてくださることを願っています」
「……ミディ?」
「二日後、境界を閉じてしまえば、キルシェ様は人間界の景色や、大切に思っている方などに、二度と見たり触れたりすることができなくなります」
「…………」
真剣な眼差しでキルシェを見つめる。
ミディはキルシェの心にある未練、そして抱えている問題を気にしているのだ。
ここに残るということは、人間の世界との決別を意味している。モヤモヤとしたわだかまりを抱えたまま魔界に行けば、いずれキルシェを苦しめる。だからと言って、第三者が入り込んで、どうにかできる問題でもない。
解決できるのはキルシェ自身だけなのだから。
ミディの言いたいことは、キルシェにも分かっていた。
「…………」
キルシェは無言のまま歩きだす。
その心には、二人の人物がいた。そして、覚悟と感謝の気持ちがあった。