工場勤務と文章のリズム(たまにはなろうっぽいこと書く)
工具を左手で掴む。ボルト二本とキャップ二本右手に握る。車に向かう。ボルトを締め付ける。キャップを内装に当てはめる。車内から用意された部品を取り付ける。一つ一つの作業が完了したか目で確認する。別な工具と部品を取り出し、後部に移動して取り付ける。次の作業に向かう。
工具を左手で掴む。ボルト二本とキャップ二本右手に握る。車に向かう。ボルトを締め付ける。キャップを内装に当てはめる。車内から用意された部品を取り付ける。一つ一つの作業が完了したか目で確認する。別な工具と部品を取り出し、後部に移動して取り付ける。次の作業に向かう。
工具を左手で掴む。ボルト二本とキャップ二本右手に握る。車に向かう。ボルトを締め付ける。キャップを内装に当てはめる。車内から用意された部品を取り付ける。一つ一つの作業が完了したか目で確認する。別な工具と部品を取り出し、後部に移動して取り付ける。次の作業に向かう。
突然で驚いたと思うが、これは現に自分が毎日10時間くらいやっている仕事の内容である。普通の仕事をしている人は軽蔑に値するだろう工場勤務の内容である。文章に書けばたった三行くらいしかない、誇りも自負も責任もない、頭がからっぽで体が丈夫ならだれでもできる仕事である。
しかしこれを伝えただけではあまりにもつまらないから、今日は技法っぽい話に無駄に活かして、多少は知的っぽい要素を付け加えてみたくなったのだ。以下に内容を示す。
まず文章を見る時にきっと皆さんは最初の方を後に比べて綿密に見たはずである。細かい単語に分解して咀嚼をして理解に至る。
でも次の段階に移ると文章をだんだん塊として把握するようになる。塊として把握すると読むのが早くなってくる。自分はどこから引用したのか最早分からないけど、こういったものをパッケージ化すると呼んでいるが、皆さんはまさに現在その文章をパッケージ化して後半は速読したのである。
まぁ何が言いたいかというとこの馬鹿でも出来る仕事も一緒のことで、一つ一つの作業がパッケージ化して、果てにはもはや一つの塊として作業を捉えるが故に、困難さとか体感の時間などは減っていくと考えているわけです。行動に関して追記すればたとえばスキー初心者にとってはボーゲンすることは太腿あたりに力を入れて内股気味にし、腰を前傾姿勢にしてようやく達成する。(もちろんもっと細かく描くことも出来る。)しかし慣れた人にとっては、その意味での意識することとは既に違うものになっていると考えるのです。
このパッケージ化を利用して、技法っぽくみえることを実演してみる。
「
工具を左手で掴む。ボルト二本とキャップ二本右手に握る。車に向かう。ボルトを締め付ける。キャップを内装に当てはめる。車内から用意された部品を取り付ける。一つ一つの作業が完了したか目で確認する。別な工具と部品を取り出し、後部に移動して取り付ける。次の作業に向かう。
工具を左手で掴む。ボルト二本とキャップを二本右手に握る。車に向かう。ボルトを締め付ける。キャップを内装に当てはめる。車内から用意された部品を取り付ける。一つ一つの作業が完了したか目で確認する。別な工具と部品を取り出し、後部に移動して取り付ける。工具を左手で掴む。ボルト二本とキャップを二本右手に握る。車に向かう。ここでボルトを誤って落としてしまう。すかさず拾おうと試みる。しかし手が挟まれば切断確定の台車のローラーの近くにボルトが落ちていることに気付く。手を引っ込める。一端落ち着いてからローラーに触れないように慎重にボルトを拾う。労働災害はこの手の仕事は最もきつく注意を受けているからだ。
しかしライン作業は個人の都合では簡単には止まらない。すでに自分がこなすべき車は後方にあり作業は遅れることは確実なのに機械は冷静と淡々に車を運んでくる。向かい側の作業者の少し心配したような目線、迷惑そうにこちらを睨む後方の作業者。作業がパッケージ化してるから素早く作業を再開している合間にこんなことを考えられるのだが、実際のところ余裕はない、遅れは確実だ。浮かぶ上司の渋面に、聴こえる気がする不機嫌そうな先輩の怒声、あせりにあせった自分の作業はついに狂い始め塊だった作業はアスペクト崩壊をおこしボルトを掴むことにも人差し指の動きから意識しないといけないような気がして…
」
とまぁ文章をパッケージ化して読んだ皆さんの早いリズムを利用して、工場のライン作業でワンミスがいかに命取りになるか、その判断を時間は容赦なく要求してくることを表現することを意図してみました。
まぁこのなろうにも細かい技法についての指導とか、レトリックの本などでもこういった細かい技法の紹介がされているけど、実際役にはたたなそうだよね。長期記憶の奥底に沈めといて、いずれ掘り当てることに期待する程度のものと受け取ってください。まぁくだらない。
なんで下らないと書いたかは主に二点あります。簡潔な点の方は、実際役に立ってなくても、それを読んだ時に楽しければ売れるという点です。実際役に立ったという点で評価する人など見たことないってことです。つまりワナビーしかまともに読まないような拙いジャンルなのではないかとまで考えてます。
もう一つの面は、書いてる人は真面目に自分のようなプロがどうやったら文章を考えてるか、伝えようとしているんでしょうけど、いまいち信じがたい。いわば構文論チックな後付の創作技法を教えているような気がしてなりません。
こういった一見まっさらでうまくいっているように見える方法論に、一致しない経験を発見してそれを当てはめて負荷をかけるような作業を行う人の方がよっぽど創作をやっているように見えるのは自分だけか!?
創作家になるならまっさらな理論的な側面だけですべてを判断するような、ハウトゥー本で完結する人は不向きなのではないかと考えるのです。