桂木桜の帰還
「いよいよ明日帰るのね」
桜は窓から月を眺めてポツリと呟いた。
マーガレットとオリヴァーがうまくいったことで、桜が心配する事はもう何もない。
帰る準備が整って清々するかと思ったが、不思議と寂しさがこみ上げた。
悲しい事もあった。絶望も知った。
けれど触れた愛情の欠片達は愛しくて、二度と会えないのが少し寂しい。
マーガレットと散々泣いたのに目尻に涙が浮かんで苦笑した。
「ダメね。明日は笑顔でいなきゃダメなのに」
「そうねえ。明日はとびっきりの笑顔でいてほしいわ」
思わぬ返事に桜は後ろを振り返る。
テーブルの上には見慣れた綺麗な黒猫が一匹。しかしいつもいる少女の姿は見当たらない。
突然現れた黒猫に驚くでもなく桜は首を傾げた。
「今日はハルはいないの?」
「ハルは王子様とデート中よ」
「えっ…!? それはいったい何を……」
「秘密よ」
「王子様」はマクシミリアンの事だろう。いったい何をしに行ったのか非常に気になるがマリーは答える気はないようだ。
「も、もぎに行ったわけではないのよね?」
何をとは言えないが心配だったので念のため確かめる。
「んーまあたぶん大丈夫じゃないかしら?」
なんともふわふわした答えだ。とりあえず桜はマクシミリアンの無事を祈っておいた。
「でもどうしてマリーは行かないの?」
桜が知る限り、マリーとハルはセットで一緒にいる。通常なら一緒に行ってそうなのだが、マリーは興味なさげに尻尾を振った。
「興味ないもの。あと、帰る前に桜に言っておきたい事があって」
「言っておきたいこと?」
「ええ。桜は本当に運が良かったのよって話」
薄暗い闇の中でマリーの目が怪しく光る。
「本当は私、万能の魔女って呼ばれてるの。私にできないことはほとんどないもの。実際見たでしょう? 便利なのよ、私の力」
マリーは猫の姿のまま宙に浮かんで見せると、笑いながらくるくると回転をした。
マリーが尻尾を振れば、部屋一面にリアルな星空が広がる。流れ星が降り注ぐように桜の前を通り抜けた。
「きれい……。本物みたい」
「でしょう? だから私の力を欲しがる人間は多いわ。利用しようとする人間もね」
マリーが再び尻尾を振れば、星空は消えていつも通りの部屋が顔を出す。鮮やかな魔法に見惚れていた桜も、夢から引き戻されたように瞬いた。
「でも私がお願いを聞くのは、この無数の世界で三人だけ。一人はもう死んじゃったから、二人になるわね。その一人がハルよ。
ハルは私の力の便利さをよく分かってる。その恐ろしさもね。だから地球では余程のことがない限り、私の力は頼らない。
ただ今回はどうやっても私の力が必要だった。だからハルは私が乗るような話を提案してきたわ。
面白そうだから引き受けたけど、それはハルの頼みだからよ。それを忘れないでいてほしいの」
言外に含まれた言葉を分からないほど桜も鈍くはない。
「日本に帰った後、何があってもマリーの力を頼っちゃダメって事ね」
「ええ。賢い子は好きよ。たとえ向こうで大事な人間が大怪我を負っても病気になっても、私を頼るためにハルを訪ねちゃいけない。
この世界は魔法で溢れているからまだいいけれど、地球ではあまり奇跡を起こす事は難しいの。
あの子は私には言わずに断るだろうけど、きっと助けられない事を悲しむわ」
誰かに何かがあった時、マリーの力を頼らない。当たり前のように思っていたのに、桜はその可能性を否定できなかった。
もしこの忠告がなければ聞くだけでもと言っていたかもしれない。
そうして断るハルを恨むかもしれない。けれどマリーには引き受ける義理などないのだ。
桜は慎重に頷いた。
「肝に銘じるわ」
「良かった。でも魔法関係なくハルを頼るのは大丈夫だと思うわよ。あの子はアホみたいに強いもの。女好きだし」
「女たらしだものね」
クスクスと桜とマリーは笑いあった。
そうして復活祭の最終確認を済ませると「ハルを迎えに行ってくるわ」とマリーは姿を消した。
桜は改めて自分の運の良さを知る。
自分の意識が家族の元に行かなければ、家族が諦めずに不可思議な事務所を訪ねてくれなければ、マリーと知り合いのハルがいなければ。
帰る事が叶わずに静かに狂っていたのかもしれない。
帰れるから許せる人たちがいた。逃げるられると知って初めて客観的に自分を振り返る事が出来た。
「神様、ありがとうございます」
桜には崇める神はもともといない。けれど今は、何かに感謝しないではいられなかった。
明日は桜が聖女として過ごす最後の日だ。
それならば、人々の心に何かを残せるような、心からの祈りを捧げよう。
そう決意して桜は眠りについた。
ーーーー
復活祭の朝は忙しい。
感傷に浸る間もなく準備に追われ、それでも時間をとってマーガレットとの最後の別れは済ませた。
教会に行くために用意された馬車に向かうとマクシミリアンが待っており、一緒の馬車に乗り込む。
馬車にはマクシミリアンと桜の二人だけだ。今も表向きは婚約者なのだから当然だろう。
「マックス、今日でお別れね」
「ああ、そうだね」
桜が笑いかけるとマクシミリアンも笑顔でそれに答える。
「サクラ、君にはひどい事をたくさんしてきた。私は君を傷つけるばかりでなにもできなかった。それなのにこの国のために全力を尽くしてくれて、本当にありがとう」
マクシミリアンは深々と頭を下げた。
桜が謝罪はやめてほしいと言ったせいか、彼が口に出したのは感謝の言葉だ。
桜は胸が熱くなった。
桜は今でもマクシミリアンが好きだ。愚かだとわかっていても、こればかりはどうしようもない。時間しか解決してくれるのだろう。
淡い笑みを浮かべて桜は首をふる。
「この国を救えて良かった。あなたを好きになれて良かった。だからもういいのよ」
「君はいつもそうだ。最後には結局許してしまう。もっと怒っていいんだ」
マクシミリアンは責めない桜をいつももどかしく思った。どれだけ最初は嘆いても最後まで誰かを責め続ける事はなかった。
困ったように笑ってもういいわと言うのだ。
しかしだからこそ、桜の代わりにあの少女はやってきたのだろう。
「サクラ。君になにもできなかった代わりと言うのもなんだが、君のような被害者を二度と出さないと誓おう」
「え? でもどうやって?」
「なにも聞いてないのか?」
不思議そうに瞬いた桜にマクシミリアンは驚きを隠せない。てっきりあの少女の話を桜は知っているのだと思っていた。
時間もないので掻い摘んで話をすれば、桜は困ったように苦笑した。
「これじゃマリーに忠告されても仕方ないわね。返せない借りばかり増えてるもの…」
マクシミリアンにはマリーが誰かは分からなかったが、桜が何かを堪えるように目を閉じたのであえて口は挟まなかった。
再び目を開いた桜の顔に浮かぶのは、自嘲を込めた笑みだ。
「マックス。今日は私、今までで一番の祈りを捧げるわ。この国のために全力で祈るわ。きっともう、それでしか報いれない」
何に、とは桜は言わない。マクシミリアンも問いかけはしなかった。
「ありがとう、サクラ」
マクシミリアンにできたのは、心からの感謝を伝える事だけだった。
ーーーー
「この国を守るイシス様に感謝を忘れてはなりません。助けてほしいと願うのではなく、皆さんの力をイシス様に届けるように祈ってほしいのです。そうすれば、この国はもっと豊かになるでしょう」
気持ちを乗せて言葉を紡げば、体の内側から熱が生まれて光がこみ上げた。
祈りを強めるほどに光は溢れ出し、空に大きく広がった。
「この光は祈りです。親しい誰かを思う時、その人の幸福を望むでしょう。それが祈りの源になります。その気持ちを感謝と一緒にイシス様に捧げてください。これからはあなたたちが、この国を護るのです」
桜が片手を挙げると、光は感情に比例して巨大になっていく。
桜は全ての魔力をイシスに捧げようと意識を集中した。そうすれば自分でも驚くほど広範囲に光が広がり、街を包むように弾けた。
魔力を出し切り体が重くなる。それでも桜は倒れるまいと地面を踏みしめた。
「私は彼と共に、神の国へ戻ります。ですが、いつでもあなたたちの幸福と平和を祈りましょう。役割を終えた私は、もうここにいてはいけないのです。マクシミリアンもわかってくれました」
マクシミリアンを振り返れば、彼は罪悪感を浮かべながらも静かに礼をとった。
桜は民衆を見下ろした。
強い者を頼る事になれてしまった愚かな人たち。けれど優しい人たち。
人間はみんな愚かで、だから愛しいのだろう。
「今まで、ありがとう。私を思い、ここにいてほしいと言われた事は私の誇りです」
「おいで」
それまで静観していたハルが呟くと、桜の体がふわりと浮かぶ。
吸い寄せられるように桜が側に寄れば、青年が桜の腰を抱いた。
桜の体が疲れきっているのを知って、支えてくれているのだろう。
「今までよく頑張った」
「ええ」
「さよならは、できた?」
「ええ」
桜の答えにハルは満足したように頷いた。そうして民衆を見下ろしてから、国王を見やる。
「国王よ、彼女に免じて誘拐の罪を減らしてやろう。だが忘れるな。彼女の言葉を忘れた時に、この国は過去と同じ道を辿る」
最後の言葉を言う時、ハルの目はマクシミリアンを捉えていた。桜はそれを感謝を込めた見つめた。
言い終えたハルが桜に手を差し出す。
ハルに差し出された手を桜は握り返した。合わせた手に熱がこもる。
「闇よ! 我らを纏え!」
「光よ! 私達を導け!」
叫んだ瞬間、闇と光が現れた。
そうして渦に飲まれながら、この世界に来た時と同じ衝撃が桜を襲う。
地震のような衝撃と浮遊感。来た時のような光はなく、暗闇でなにも見えない。
それでも腰に回された手に安堵を覚えて桜は身を任せた。
「さあ、桜さん! 4年ぶりの地球だよ!」
どれだけ時間が経ったのかはわからない。
ごおごおと音がする中でハルの声が聞こえた。
すると体が投げ出されたように着地する。
目を瞑っていたから、最初に感じたのは香りだ。
桜はその香りを知っていた。生まれた時からこの香りに包まれて育ってきた。
「「桜!!!」」
「姉さん!!!」
次に声がした。
懐かしい、愛しい、求めてやまなかった声がした。
ハッと目を開ければ、少し年を重ねた両親と弟の薫がいた。見慣れた家具もある。
ここは桜の家だ。
家族のいる、桜の帰る場所だ。
「ああああああ!!!」
それが自分の声だと桜は分からなかった。
気付けば子供のように泣きながら走り出していた。
久しぶりに会ったらなんて言おうと考えていたはずなのに、心だけが先に動いてしまう。
思考など追いつかない。
ただ嬉しくて、わけもなく悲しくて、桜は泣きじゃくって母親に飛びついた。
よろめいた母を支えた父は、桜を抱いた母ごと抱きしめる。弟もそれに倣って桜の背に抱きついた。
桜にわかるのはその温もりだけだ。それ以外に大事なことなどなかった。
「おかえり桜。よく頑張ったわ。えらいわ」
「おかえり。帰ってきてくれてありがとう桜」
「おかえり姉さん!」
懐かしい香り。懐かしい声。優しい家族。
ただいまと叫びたい。でもそれすら今の桜にはできなかった。だから代わりに頷いた。
そうして桜は泣き疲れて眠りにつくまで家族に抱かれていたのだった。
次でラストになります。




