さよならの始まり2
夢を見た。
新緑が芽吹く季節。晴れた日の朝食の風景だ。
父や母、弟がテーブルを囲んでいる。
懐かしさに、胸が痛んだ。笑いながら話す彼らはどこか寂しげで、それがきっと私がいないからだと思うと苦しい。
いつも溌剌と笑っていた母は、瞳をふと陰らせて、父を見た。
「あなた、桜の新しい情報はなにかないの?」
「残念だが、進展無しだ」
「そう…」
「大丈夫だって。姉さんは無事だし、ぜったい帰ってくるよ」
肩を落とした母に、慰めるように薫は笑いかける。誰かが落ち込むと、弟はいつも率先して笑顔を作っていた。
自分の悲しさより、誰かの悲しさに胸を痛める優しい子だから。
「そうよね。あの子は強い子だもの」
母は目に涙を浮かべながら、悲しさを振り切るように頷いた。
胸が苦しくて、苦しくて。私は聞こえないと分かっているのに思わず叫んだ。
(父さま、母さま、薫!私はここにいるわ!見た事もない世界に誘拐されたの!ここから帰してもらえないの!)
映像は近いのに、彼らが酷く遠い。縋りつこうともがいても、空を切るように彼らにはたどり着けない。
(みんなに会いたいの!お願い、助けて!!)
懸命な叫びが届いたのか、薫が一瞬こちらを見た。訝しげに私のいる場所を見つめる。けれど焦点が私に定まっていないから、私が見えているわけではないようだ。
(薫!私は生きてるから!どうやって帰ったらいいか分からないけど、諦めないから!)
これが淡い夢だと知っていた。けれど、叫ばずにはいられなかった。
時間が来たと言うように、体が後ろに引っ張られる。
(いや!ここにいたい!みんなと一緒にいたい!)
どれだけ叫ぼうと、体は別の場所に引き戻される。
彼らがいない、別の世界に。
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「サクラ様!」
ハッと目を覚ました時、私は涙を流していた。私を覗き込んだマーガレットの顔は、不安そうに揺れていた。
「マーガレット…」
「急にお倒れになったと聞きました。大丈夫ですか?お身体に異常はありますか?」
「身体は大丈夫よ。……オリヴァー、何か言ってたかしら?」
「いえ、なにも。ただ顔色は悪かったです。なにがあったのですか?」
訝しんだマーガレットの問いに、咄嗟に言葉が出ない。
言葉にしたくなかった。認めたく無かった。
「わた、し…」
「はい」
「私、は。もう…」
言いかけて涙が再び溢れた。パクパクと口を動かすのに、うまく声が出ない。
「サクラ様、言いたくないなら、大丈夫です。ご無理なさらないでください」
マーガレットは、私の手を握って囁いた。その暖かさに、今は遠い家族と似たものを感じる。
マーガレットは私より6歳年上だから、姉がいたならこんな感じだろうと思う。それほどまでにマーガレットは私の事を案じてくれていた。
ああ、けれど。
他でもない彼女には、いずれ告げなければいけないのだ。
私は涙を流しながら、言葉を紡いだ。
「私、帰れ、ないみたい。帰る、方法が、ないって…」
息を詰まらせて言った私に、マーガレットは驚愕した。握られた手の震えが伝わって、少しだけ心が落ち着く。
「そんな、だってサクラ様は頑張っておられました。あんなにも、この国のために頑張っていらしたじゃないですか」
ワナワナと言葉を紡ぐマーガレットの顔色は、怒りのためか見る見るうちに青くなっていく。
他の誰かが自分のために怒ってくれるだけで、気持ちは和らぐのだと分かった。
マーガレットのあまりの形相に、壊れかけていた自分の感情が少しずつ戻ってくる。
声は震えるけれど、今なら普通に話せるだろう。
「オリヴァーに、言われたわ。最初から、帰還の方法は無かったと」
私の言葉に、マーガレットの手に力がこもる。
「あの男、殺してやるわ」
マーガレットは瞳を怒りに燃やした。
長く旅をすれば、それなりに親しくなるもので、マーガレットもオリヴァーとはそれなりに仲良くやっていた。
見ず知らずの他人から騙されるよりも、親しくしているものの裏切りの方がよほど辛い。
私だって少しは打ち解けられたと思っていた。相変わらず聖女様としか呼ばれないけれど、旅の間、彼はきちんと私を護ってくれていたから。
だから、余計に辛かった。怒りだってある。けれど憎いのはオリヴァーだけではない。
「オリヴァーを殺しても意味ないわ。たぶん、マックスもエドも知っていたと思うもの」
笑顔で過ごしながら、いたわりながら、息をするように彼らは私を騙していたのだ。
けれどどれだけ嘆いたところで、彼らは私を自由になどしないだろう。
何より辛いのは、好意を抱いていたマクシミリアンに対する感情だ。彼はあの笑顔の下で、何を思っていたのだろう。
召喚された当時、彼はいなかった。けれどこの国の王子が知らされていないはずがない。
「あんまりです…」
マーガレットがポツリと呟いた。涙の浮かぶ瞳は揺れて、怒りに満ちている。
「こんなの、あんまりです」
「マーガレット、私のために怒ってくれてありがとう」
私が淡く笑うと、マーガレットは意を決したように口を開いた。
「逃げましょう。せめて、彼らがいない国に」
マーガレットの言葉に私は目を見開く。先ほどから幾度となく考えていた事だった。
けれど浄化の魔法は使えても、戦う術はほとんど知らなかったから、逃げてもすぐに捕まるだろうと打ち消していた。
それに、何よりも。
「ダメよ、マーガレット。それじゃ貴方にも、家族にも危険が及ぶわ」
私がいなくなれば、彼らはマーガレットに罪を置くだろう。そして卑劣にも、家族にもその責を負わすに違いない。
けれどマーガレットは否と首をふる。
「今まで話してませんでしたが、私には家族はいません」
マーガレットは、今まで問いかけても濁してきた己の出世を話し始めた。
マーガレットは、正式にはマーガレット=ウィロウズ、元は伯爵家の令嬢だった事。
幼い頃に母は亡くなり、貧乏貴族ながらも国のために父と細々と暮らしていた事。
しかしある時、父であるショーン=ウィロウズに汚職の嫌疑がかかり、そのまま爵位を剥奪された事。
そして国のために尽くしたショーン氏が、絶望のあまり自ら命を絶った事。
しかしその後に黒幕の侯爵家が裁かれ、ウィロウズ伯爵家の汚名は注がれた事。
その後、爵位をマーガレットにと話があったが、マーガレットは平民として働く事を決めた事。
「父が命を絶ったこの国のために、私は尽くせないと思い、貴族責を断りました。だから私には失うものはありません。失って怖いものは、貴方しかおりません」
マーガレットの瞳の奥には炎が揺らいでいる。けぶるような怒りを静かに抑えているのだろう。
私は自分を恥じた。この国のために犠牲になったのは自分だけだと思い込んでいたのだ。
マーガレットもまた被害者で、だからこそ私に良くしてくれていた。
「ごめんなさい、マーガレット。私なにも知らないで、自分の事ばかり…」
身を起こして私はマーガレットの両手を握った。そんな私を、マーガレットは切ないように見つめて「いいえ」と呟く。
「貴方は、すごい人です。確かに帰りたい気持ちもあるかもしれませんが、街や村に行った時、いつだって貴方はそこで苦しむ人々のために頑張っておられました。助けたいと、本心から祈っておられました。でなければ、浄化などできないのです」
「そんなこと…」
「いいえ。街の人間もそれを感じていたと思います。聖女だから慕ったのではなく、貴方の志を慕ったのです。私にはできないことです。父を裏切った人間たちのために、私はなにもしたくない。けれど貴方は、酷い扱いを受けてなお、優しいままでした。ーーそれは決して、当たり前の事ではないのです」
握っていたはずの手は、いつの間にか握られていた。マーガレットの言葉も、手も熱い。
「だから私は貴方が帰還するその時まで、全身全霊でお仕えすると決めたのです。ですから、サクラ様。これ以上頑張れないのなら、一緒に逃げましょう」
この国に訪れて、2年。
流されるように翻弄された私は1度目の大きな選択を迫られた。
囚われたまま生きるのか、死ぬかもしれなくても逃げるのか。
この時、もう一つの選択をしていたら、運命は変わったのだろうか。
あれ以上に苦しむ事は無いだろうと、選んだ選択は間違っていたのだろうか。
答えは出ない。
人間はきっといつだって一つの選択を迫られて、もう一つの選択肢を忘れられずに生きていかなければならないのだ。