さよならの始まり
聖女と呼ばれて4年が経った。
私は一人、どうしてこうなったのだろう、と月を見上げる。
どうして、どうして。
最近は、その言葉ばかりが浮かんでくる。
ーーどうして、私ばかりがこんな目に合わなきゃいけないのーー
ーーーーー
私は4年前、この国に誘拐された。それは15歳の誕生日を迎える前日の事だった。
学校が終わって、図書室で勉強を終えた私は、そろそろ帰ろうと図書室を後にした。迎えの車を待たせていたから、少しだけ早めに歩く。
その時にふと違和感を感じた。
人気のない静かな廊下。いつもと変わらないように思える。だけど、なにかが違う。
いつもなら運動部の声が微かに聞こえるはずだ。
異常なまでの静けさに、私は思わず立ち止まって周囲を見渡した。
その時だった。
ドンっと大きな音と共に、強い光と衝撃が体に走った。
頂点にきたジェットコースターが落ちる瞬間の、10倍は激しかったように思う。ヒッと息を詰めながら、まるで体を思い切り振られたような振動が続いた。何事かと目を開こうにも光が強すぎて目を開けない。
巨大な地震かと思いながら衝撃が過ぎるのを待っていると、光は弱まり浮遊感も衝撃も無くなっていた。
そして気がつくと宮殿のような場所に立っていた。
「成功だ…」
年配の男性の声がして振り返ると、ローブを着た外国人数人が私を見ていた。
「陛下にお知らせしろ!聖女の召喚に成功したぞ!!」
歓喜の声だったのだろうが、その叫びに当時の私は怯えた。自分になにが起こっているのか分からなかったし、見たこともない服を着た外国人集団に囲まれれば仕方ないだろう。
そして不思議な事に日本語でも、英語でもない言葉を理解する事ができた。
恐怖に怯える私など意に介さず、男たちは陛下と呼ばれる男の前に私を差し出した。わけも分からず膝を折るように命じられ、豪奢な椅子に腰掛ける男を見上げた。
そして私は残酷な現実を知ることになる。
ここが日本どころか、地球ですらないこと。異世界と言われて最初は笑ったが、周りの異様な空気に飲まれて信じるしかなかった。
そして私は偶然ではなく、この世界に聖女として呼び出されたこと。聖女としてこの国を救うために力を貸して欲しいと言われた。
だけど私は自分がただの人間だと知っていた。
私は聖女ではありません、家に帰してください、そう叫んでも意味は無かった。この時初めて言葉を発したが、やはり不思議な事に彼らは理解したようだった。
私は日本語を話したつもりなのにだ。
しかし男は首を横に振った。
「この国を救わねば、帰すことはできない」
(なによ、それ。冗談じゃないわ)
思っても口には出さなかった。それほどまでに場の空気は張り詰めていた。
私の内心など存在しないように話は続いた。
現在、この国の国民の多くが原因不明の病に侵されている事。それと同時に人間を襲う魔物が増えていった事。
そしてその全ての原因が、聖地の穢れによる、魔界との結界の綻びだという。
平和を司る女神イシスの加護が弱くなったせいで結界を越えて魔物が蔓延り、魔物の穢れが瘴気を産んで国に害をなしているらしい。
私がしなければいけないのは、国の各地にある聖地に赴き、聖地の穢れを取り払うことだ。
その全ての穢れを取り払えたなら、再び女神イシスの加護が国に広がるだろうと。
それならふさわしい人間がこの国にいるのではないか、という質問には否、と返事があった。穢れを祓う力を持つ人間はこの国には存在しないらしい。
かつて同じように聖地が穢れた時も、異世界から聖女を召喚したという。だから今回もそれに倣って召喚したのだと言われた。
私は怒りに震えた。こんなのはただの誘拐だ。
けれど周りに私の味方はいなかった。誰もが私が引き受けると信じて疑っていないようだった。圧倒的大多数に囲まれれば、自分が間違っているのだろうかと思ってしまう。
そうして私は抵抗をやめた。けれどそれで楽になることはなかった。
私は召喚を通して光の魔法が使えるようになっていたらしい。なぜかは知らないが、過去も同じような状態だったらしい。
けれど私にはもともと力なんてない。力を得たからと言って、すぐに使えるようになるほど浄化の魔法は単純なものではなかった。
それから私は魔法と、聖女としてふさわしい教養や振る舞いを学ぶことになった。
朝8時から始まり、夜は12時までみっちりと仕込まれた。私が私として過ごせるのは、寝る前のわずかな時間だけだ。
この環境に腹も立ったが、彼らが国の傾きに焦っていることや、早く日本に帰りたい一心で頑張った。
だがそんなのは後からだから言えるだけだ。
私がダメにならなかったのは、侍女のマーガレットのおかげだ。
配慮として私に与えられた、専属の侍女マーガレット。彼女がいたから私はあの日々を乗り越える事ができたのだ。
最初はマーガレットも儀礼的にしか接してこなかったが、ある日私が爆発した日から状況が変わった。
召喚されて3ヶ月経ったころだろうか。
魔法も勉強もうまくいかなくて、私は部屋で大泣きした。
「私がなにをしたの!なんで誘拐した奴らのために頑張らなきゃいけないの!!」
いつも大人しかった私の突然の癇癪にマーガレットは驚いて固まった。
「知らない、どうでもいい!!この国がどうなったって、私には関係ない!家に帰して!母さまに会いたい!父さまに会いたい!薫に会いたい!!」
母の、父の、弟の顔が浮かんだ。喧嘩もしたし、我儘も言った。でも愛してくれていた。私をいつも全力で守ってくれた。
ここにはいない彼らが恋しくて、悲しくてたまらなかった。心配しているだろうと思えば、苦しくて狂いそうだった。
一度涙が溢れ出せば、止まらなかった。目の前にいたのがマーガレットでなければ、幽閉されていたかもしれない。それほどにその時の私は絶望していた。
「この国の責任を無関係の私に押し付けないでよ!自分たちで解決してよ!!滅びるなら勝手に滅びたらいいじゃない!!」
「聖女様!」
「うるさい!私は聖女じゃない!!桂木桜よ!」
叫びながら気付いたのは、この世界に誘拐されてから一度も名前を呼ばれていないことだった。聖女という、ただの呼称でしか呼ばれた事はない。
「サクラ様!」
凛としたマーガレットの声が響いて、私は思わず口を閉じた。
「大変申し訳ございませんでした」
マーガレットは言いながら頭を下げる。涙を流しながら、私は目を見開いた。
「サクラ様の仰る通りです。この国の問題をサクラ様に全て背負わせるのはおかしな事です。一国民として謝罪致します。本当に申し訳ございません」
マーガレットの声音に嘘は無かった。いつも表情の映らない顔には、苦しげな色が浮かんでいる。
「そしてここまでサクラ様が追い詰められると気付かず申し訳ございませんでした」
「謝ってほしいんじゃない。家に帰してほしいの」
懇願は無意味だと分かっていた。王族や貴族が決めた事を一介の侍女が覆せるはずもない。
それでも言わずにはいられなかった。
「帰りたいの…もう嫌なの」
体の力が抜けて座り込んだ私にマーガレットが慌てて駆け寄った。
「サクラ様!」
「でも、無理だって知ってる。私が役目を果たせなきゃ、きっと帰れない」
私の言葉にマーガレットは唇を噛んだ。彼女も分かっているからだ。王族の言葉は絶対だ。1人の力ない女が抗う方法は無いのだ。
「私から、進言を…」
私の言葉に、思いつめたようにマーガレットが呟く。それを嬉しく思いながら、私は首を横に振った。
「やめて。こうして弱音を吐けたから、もういいの」
マーガレットがくれた謝罪や心配は、ほんの束の間だが私の心を和らげてくれた。
何より、彼女は名前を呼んでくれたのだ。
「またこうやって爆発しちゃうかもしれないけど、もう少し頑張ってみるわ」
微笑んだ私を、マーガレットは悲しげに見つめた。
頑張ろうという決意は固かったけれど、穢れを浄化できるようになるまで結局一年を要した。
それでも力が定まれば、あとは片端から聖地を巡るだけだ。
聖地の巡礼は、私と、マーガレット、そしてこの国の第一王子のマクシミリアン、魔導師のオリヴァー、騎士のエドワード、彼らに仕える侍女や侍従で回っていた。
オリヴァーやエドワードとは授業の際に顔を合わせていたが、魔物の討伐に長い事出ていたマクシミリアンとは初めて会った。
キラキラに輝くブロンドに、透明な海のような碧眼のマクシミリアンは、洋画の中にいるスターのような見た目で、仕草も気品あふれる「王子様」だった。
そんな彼は初対面から私を「サクラ」と呼んでくれた。
マーガレットが普通に接してくれていても、やはり周囲の私に対する態度は変わらない。その中で私を1人の人間として扱ってくれるマクシミリアンに惹かれるのには時間はかからなかった。
巡礼で彼に護られながら膨れ上がっていく気持ちに戸惑ったけれど、絶対に日本に帰ると思えば自然と蓋ができた。
それでも時折、マクシミリアンが私に優しく触れて笑いかけてくれたら、自然と顔がほころんだ。
一年をかけて魔法を学び、一年をかけて聖地を浄化した。長い長い2年だった。
それでも最後の地を浄化した時は、帰れる安堵で大泣きしてしまった。
マーガレットも泣き笑いで「ありがとうございました。そしておめでとうございます」と言ってくれた。
けれど事態はそううまくはいかなかった。
最後の浄化を終えた翌日、私はオリヴァーに帰還の日を訪ねた。
「オリヴァー、全て終えたわ。これで私は帰れるのよね?」
期待を膨らませた私の問いに、オリヴァーは目を合わせずに首を振った。
「すまない。僕は呼び出す事は出来ても、帰すことができないんだ」
「え?」
「昔に召喚された聖女も、この国で生涯を終えた。帰還の方法は、ないんだ」
「は?」
言われている内容が頭に入ってこない。代わりにチカチカと頭の片隅で警報がなっていた。
もしも、と考えた事はあった。帰れるというのは、私を動かすためではないのかと。
だけど、実直に従うしか私には残されていなかったから、帰れると信じて頑張るしか無かった。
「騙したの?」
「すまない」
目の前の男が謝罪する。彼もマクシミリアンと同じで驚くほどに整った容姿だった。
白いなめらかな肌に、サラサラとした黒髪。切れ長の紫の瞳は強い魔力の証だ。
見惚れるようなその顔を、居心地悪そうに歪めたオリヴァーを私は呆然と見上げる。
「どれだけこの国は私をバカにするの」
「聖女様…」
「私がどれだけの犠牲を払ったと思うの。関係の無いこの国のために、無関係の私がどれだけ…」
体の震えが止まらなかった。怒りなのか、悲しみなのか。
恐らくは、絶望だ。
足に力が入らない。目の前は奇妙に歪んで、世界が形を成さない。
意識が遠のくのが分かったけれど、抗う気力は無かった。