第2話
今日の城下町は、いささか不思議な色合いを浮かべていた。
日の光が眩しい快晴の正午。家々から噴出す蒸気で現れる小さな虹の欠片は、いつも通りの輝きを見せている。口紅を塗りたくったようなレンガ道を行きかう人々にも変わりはない。ポンプのシリンダーが上下し、メーターの針は正常値。大小様々な歯車が噛み合い、軋みを上げて駆動する動力。町中至る所から機械達の鳴き声が聞こえてくる。
それが、技術者の国『レッドブリック』が誇る広大な城下町の日常である。
もちろん、町中を行くドリスもいつも通りである。父親から貰ったシルクハットと丸ゴーグル。羽織っている茶色のジャケットは母親のお下がりで、使い込んで良い具合になった少し長めの革グローブにお気に入りのショートパンツもいつもと同じ。唯一変わってほしいと思っているボロボロのロングブーツとも、今日でおさらばの予定だ。
それでも、ドリスはどうも腑に落ちなかった。理由は自分でもわからない。ただ何となく、空気の色がいつもと違って見えたのだ。
きっと、父親に言われたお使いに不満があるのだろう。交換条件を突き付けたとはいえ、作業を良い所で邪魔されたのだから仕方がない。
そう思って、ドリスは馴染みの道を進んで行った。
「こんにちは、おじさん!」
ドリスはレンガ道沿いに立ち並ぶとある店へ入るなり、笑顔を咲かせて朗らかな声を上げた。その声に顔を覗かせたのは、入ってすぐのカウンターにいたこの店の店主である。
厳つい体格に強面と見るからに迫力のあるその店主は、振り向きざまにドリスのことをじろりと睨む。しかし、次の瞬間にはその顔をこれでもかと崩し、満面の笑顔でドリスとハイタッチを交わしていた。
「よお、ドリス! 今日も元気じゃねえか!」
「まあね。これがお父さんのお使いじゃなきゃ、もっと元気なんだけど」
「はっはっは! 言うようになったな、ドリス。だが、おめえの親父はこの町一番の魔法技師だぜ? 自慢こそすれ、文句を言うなんてバチ当たりってもんだ」
「この町一番の補充屋にそう言わせるなんて、立派な父親を持って幸せだわ」
「へへっ、ありがとよ。とは言ってもおめえのことだ、タダでやってんじゃないんだろ?」
「もちろん! 新しいブーツ買っていいって!」
さっきまでの不満顔はどこ吹く風。ドリスは小さく飛び跳ねながら、無邪気な子供のように喜んで見せた。
実際、ドリスは子供である。父親譲りの高い技術があったとしても、十五という年齢はこの業界ではまだまだ子供であった。
「……転んでもタダじゃあ起きねえ、ってのはこのことだなぁ」
「だって、このブーツ三年も履いてるんだよ? 色も落ちてきたし、靴底だって剥がれかかってるんだから」
「……そうか、もう三年になるのか。早いもんだ」
店主は、ドリスを見つめながら寂しそうに呟いた。その悲哀に満ちた言葉に、ドリスも思わず顔を曇らせる。
爆炎が空を焼き、黒煙が満ちたあの光景。
怒号と悲鳴が交差する、焦土と化した町並み。
そして、暗闇から抜け出そうとした、地獄の様な日々。
いかに明るく振舞おうと、忘れることなど出来ない、辛い記憶。
「もう、チャーリーは魔動具を作らねえのか?」
「……うん。お父さんは修理屋だからね」
「そうか……悪いな、何だかしんみりしちまった。んで、今日は何個補充するんだ?」
「そうそう! ええっと――」
そう言ってドリスは、腰に巻き付けていた革のポーチから四つの石を取り出し、カウンターに並べて見せる。美しく強い緑を放つそれは、エメラルドと呼ばれる宝石だ。
「四つもか!? おめえのとこにしちゃあ、随分と多いな」
「大型のマナ機関を積んだ機械の修理依頼が来てね。エメラルドの消費が激しいの。Bランク以上のエメラルドって、家にはないから」
「そろそろ用意してもいいんじゃねえのか? Bランク級が一個ありゃあ、マナの蓄積量は段違いだぜ?」
「わたしもずっと言ってるんだけど、お父さんが納得しなくって。それより、今日の何時に出来上がるの? それに合わせてブーツ買いに行くから」
「ううん……」
店主は唸りながら腕を組んで、難しい顔をした。ごつくて深い顔にしわが増え、より線が濃くなっていく。悩む姿など滅多に見せない店主の珍しい表情に、ドリスは驚きつつも原因を尋ねる。
「どうしたの?」
「……明日の夕方だな」
「明日!? どうして!? いっつもだったら、一つに一時間ぐらいでしょ!?」
「それがなぁ……何と言うか、今日は調子が悪いんだよ」
「調子が悪いって、風邪でもひいたの?」
「いや、体調は見ての通り万全だ。調子が悪いのはマナの方なんだよ」
「何それ? そんなことってあるの?」
「ああ、マナを急激に大量に使うようなことがあればな。例えば……戦争とか、な」
「……」
「だが、近くでそんなことがあったって話はねえ。だから原因がわからん。ウチだけじゃねぇ、他の補充屋もお手上げ状態さ」
「ふうん……それならしょうがないか。じゃあ、明日の夕方にまた来るわ。今日はブーツだけ買って帰ることに――」
その時、店内に走る衝撃がドリスの言葉を阻んだ。
レンガ造りの天井が崩れて中央の棚を押し潰し、並んでいたいくつものガラス瓶が激しい音を立てて割れる。レンガの破片が飛び散り、砂埃が店内に舞い上がった。
「何だよこりゃあ!」
咄嗟にカウンターを飛び越え、ドリスを庇いながら店主が叫んだ。湧き上がった砂埃は、そんな声すら容赦なく飲み込んでいく。
ドリスはすぐにゴーグルを装着し、店主の体越しに天井が落下した場所に目をやった。ぽっかりと口を開けた天井から差し込む光が、スポットライトのようにその場所を照らしている。
影が一つ、陽炎のように立ち上った。
その影は、揺らめきながらこちらへと近づいてくる。
恐怖と期待が心の中でせめぎ合い、ドリスはその影から目が離せなくなっていた。
砂埃が落ち着き、影の姿が露になる。
頭髪の右半分が白い、奇妙な男だった。
アクアマリンのように蒼く澄んだ瞳を輝かせ、血で染め上げたようなトレンチコートを羽織っている。事実、そのトレンチコートは血で染まっていた。元々の臙脂色が、付着した血液でドス黒く変色した箇所がいくつも見られる。その姿は、女王の僕である番猿と相違ない。しかし、その男は武器を持っておらず、番猿の象徴とも言える鉄面も着けてはいなかった。
「てんめえ! よくも家の店を滅茶苦茶にしてくれやがったなぁ!」
ドリスの安全を確認した店主が、怒鳴り声を上げて男に近づいて行った。男の肩を掴み、厳つい顔でメンチを切る。
「……」
男はそんな店主を一瞥すると、肩に置かれた豪腕を容易く払い除け、何事もなかったかのように出入口へと進んでいく。
「てめええ! 待ちやが――」
と、今度は店主の声を遮るように、出入口の扉が激しく吹き飛んだ。木製の扉が衝撃を受けた中心からヒビ割れ、木片をばら撒きながら荒れ果てた店内を踊り狂う。
「止まれ!」
くぐもった声と同時に、ボルトハンドルが弾丸を薬室に送り込む音が響く。その攻撃的な金属音は一つに留まらず、無数の足音を伴いながら連鎖して男の耳を振るわせた。
男が進んでいった出入口は、多数の人影で塞がれていた。猿の鉄面を着けた正真正銘の番猿達が、小銃を構えて男の行く手を阻んでいたのだ。
男はそれに気付いて立ち止まると、番猿達を射殺すように目を細めた。
「この店は包囲されている! 大人しく投降しろ!」
先頭の番猿が叫んだ。
男は答えず、店内を見回し二つある窓の外を確認する。
前方左、出入口付近にある大きな窓からは、店の正面で列を成す番猿達の姿が見える。背後にある小窓の向こうでは、狭い路地から二人の番猿が小銃を構えていた。
――可能性があるとすれば、背後の窓だ。
しかし、そこまでは少し距離がある。辿り着く前に番猿達の銃撃が始まってしまうだろう。奴らの気を逸らすか、発砲出来ない状況を作り出さなければならない。
何か良い方法は――
「あなた……一体、何をしたの?」
男の真横で、ドリスが思わず呟いた。天井から降ってきた謎の男に対して湧き上がる疑問が抑えきれず、言葉が口を衝いて出てしまっていた。
番猿と同じ格好をしているにも関わらず、同じ番猿に追われている謎の男。それも、こんな大勢の番猿に追われる者など、見たことも聞いたこともない。どれだけの重罪を犯せばここまでの大事を引き起こすのか。その純然たる好奇心が、すぐ隣にいる男に声を掛けるという、最も危険な行為を取らせてしまった。
その言葉が、男に彼女の存在を認識させることになる。
「あなた、番猿なんじゃ――ッ!?」
男は目にも留まらぬスピードでドリスを引き寄せると、後ろから腕を回しドリスを絡め取った。
左腕がドリスの上半身を押さえつけ、右手が喉元を緩やかに絞める。刹那の出来事に、ドリスや店主はもちろんのこと、兵士として訓練された番猿達ですら身動き一つ出来なかった。
「道を開けろ! さもなければ、この女を殺す!」
身の毛もよだつ男の言葉に、ドリスは全身を硬直させた。
言葉だけではない。その流れるような身のこなし、自分を捕らえた驚くべきスピード、ゆっくりと圧力が掛かる喉元の感触。その全てが、この男には逆らえないという結論を導き出している。自分の命はこの男の手の内にあると思うと、頭の中が真っ白になり、体から血の気が引いた。
「撃てぇ!」
先頭の番猿が叫ぶと、その声は瞬く間に銃声で掻き消された。数え切れない程の弾丸が男とドリス目掛けて発射され、銃声と割れた窓ガラスの音が店内を満たす。
「くっ――!」
男は銃声とほぼ同時に身を翻し、ドリスを抱えたまま背後の小窓に向かって走った。
しかし、小窓の向こうにいた二名の番猿も、響き渡る銃声に合わせて引き金を引いている。二発の弾丸が、男とドリス目掛けて一直線に飛んでいた。
男はその弾丸を右腕で受けると、ドリスの頭を庇いながら怯むことなく肩から小窓に突っ込んだ。
信じられないスピードで突っ込んできた男に、番猿達は次弾の装填も間に合わず小窓の木枠と一緒に吹き飛ばされる。ガラス片、レンガの壁、小窓の木枠、番猿、様々なものが入り混じりながら路地を汚していく。その中で見事な着地を見せた男は、地に足が付いた瞬間には体勢を整え、ドリスを抱えたまま路地を駆け出していた。
「すぐに追え! 町の出入口を封鎖しろ! 一人も外に出すんじゃないぞ!」
番猿の怒号と無数の足音がレンガ道を駆けて行く。
嵐が過ぎ去るように周囲を取り囲んでいた番猿達の姿は消え、後に残されたのは、荒れ果てた店と放心状態の店主だけであった。