第1話
「出ろ」
猿の鉄面を着けた看守が、分厚い鋼鉄の扉を開いた。金属がギシギシと音を立てて擦れ合うなか、狭くて不潔な密室に光が差し込み、吹き込んだ外気が埃を舞い上げる。
看守は煙たさと視界の悪さに、仮面の向こうで目を細めた。そして、不快感を露にしながらも、反応のない中の“モノ”に向かって再び声を張り上げる。
「聞こえんのか!? 出ろと言っている!」
この城で一番の強度を誇る鋼の壁に囲まれた懲罰房の奥で、足首から連なるドーナッツ状の鎖をもたげながら、一人の男が立ち上がった。
埃を被った黒髪の右半分はそこだけが切り取られたかのように白く染まり、両腕は強固な鉄の筒で覆われ、手首の辺りで鉄枷によって一括りにされた異様な拘束衣を身にまとっている。両の耳には、体と一体になっているかのような奇妙な耳あてが取り付けられていた。
女王への反逆罪という最も重い罪で第一級犯罪者と認定されたその男は、陽炎のように揺らめき完全に立ち上がると、扉を開けた看守を鋭く睨みつけた。
その、蒼く光る宝石のような瞳で。
看守は、その迫力に少し気圧された。
いや、この男に抵抗する術などない――看守は自分にそう言い聞かせ、ボルトアクション式のライフルを男に向ける。
そう。あれだけ大暴れしたこの男も、いまや女王の手中。このレッドブリック城で捕らわれの身だ。ましてや、これからこの男は“ただの部品”と化す。臆することなど、何もないのだ。
「……」
男は両足に絡まった鎖を引きずって、薄暗い懲罰房を出た。
長い間この部屋に閉じ込められていたが、四肢に痛みはない。久しぶりに当たる外気にも、特に感じるものはない。そんな自分に、ただ嫌気が差すだけであった。
「ご苦労。後はこちらで引き継ごう」
懲罰房へと続く廊下には、看守の他に五名の兵士が男を待ち構えていた。
看守と同じ猿の鉄面を着けてはいるが、服装や装備は格上のものだ。臙脂色のドスキンで仕立てられた軍服に同色のトレンチコート。グローブとブーツは、どちらも黒のオイルレザー。胸に輝くルビーの勲章が多いほど、その者の忠誠心と武勲を表している。
番猿。
秩序を守り裁きを下す、女王に仕える従順な兵士達。女王が治めるこの街『レッドブリック』では、市民達が恐れを含めてそう呼んでいた。
「好い様だな、ベッセル。かつてのエースも落ちぶれたものだ。その姿、実に似合っているぞ?」
先頭に立つ番猿が、多くの勲章が輝く胸元をひけらかすように前へ突き出し、鉄面を外して素顔を覗かせた。無機質な銀板の奥から現れたそのいやらしい顔には、えも言われぬ充足感を湛えている。
「エースと言えど、所詮は平民よな。任命試験と同じく、愚かな判断でその身を堕とすとは。親子揃って酔狂なものだ。その頭に、世を渡る術というものは入っておらぬのか?」
「……」
蒼い瞳の男は、黙って空気を見つめていた。
おしゃべりな番猿が発する言葉も、大袈裟に振るわれる仕草も、何一つ見てはいなかった。それでも、番猿は喋り続ける。
「しかし、私は君に感謝している。君の愚考なくして、番猿の隊長として君を裁くという悲願は叶わなかったであろう。君と出会ってからの数年間、私がどれだけの屈辱を味わってきたことか。だが今思えば、それらはこの時を迎えるための前菜であったのかもしれぬ。あの辛酸の日々は、この至福を味わうための最高のスパイスとして私に――」
「チョップ様、そろそろ時間が……」
後ろに控えていた番猿の一人が、悠々と話し始めた番猿の隊長チョップに声を掛ける。話を遮られたチョップはその番猿をじろりと睨んだが、鼻を鳴らしてすぐに居直った。
「……まあ、いい。私の栄光は万が一にでも揺るぎないのだ。女王陛下をお待たせする訳にもいかぬし、罪人と話す時間も無駄と言うものだな」
そう言ってチョップが指を鳴らすと、控えていた四名の番猿が男を取り囲んだ。二人が男の脇を固め、残りの二人が銃剣付のライフルを構えて男の背後を取る。その様子を確認したチョップは踵を返し、出口に向かって歩き出す。
「進め!」
背後の番猿が、男に軽く銃剣を当てて叫んだ。
男は、ゆっくりと歩を進めた。
* * *
出口の扉を抜けると、春の訪れを知らせる暖かい日光が男の眼を刺した。
肌をなぞる風には、芽吹き始めた新緑の青々とした匂いに、城の外周を埋めるケシ畑の香りが微かに混じっている。その嗅ぎ慣れた悪臭が、この場所がどんな所なのかを思い出させてくれた。
男は番猿に囲まれながら、懲罰房がある塔と城を繋ぐ一本道の外通路を歩き、そこから見える景色に目をやった。雲にも届きそうな高さから見るその眺めに、こんな状況でなければ歓呼の一つでも上げていたかもしれない。
遠くに見える堂々とした山々は、若い娘のような白くきめ細やかな雪肌を晒している。南には深い森が広がり、煌く河川がゆっくりと流れ込んで行く。そして眼下に見えるのは、至る所から蒸気と機械の音色を吹き上げる、広大な城下町だ。
「それにしても、貴様は本当に運がいい」
威風堂々と先頭を歩くチョップが、胸に輝く勲章を愛おしそうに撫でながら言った。
「本来であれば、“そこ”に埋まったモノを取り出せば貴様など用済みだ。こうして使って頂けることを、女王陛下に感謝するのだな」
チョップは得意げに語ったが、男はやはり、一言たりとも聞いてはいなかった。男はじっと景色を眺めながら歩を進め、考えにふけっていた。
城壁の高さ。出口の位置。
番猿の数。拘束衣の強度。
そして、自分の力。
ふいに、男が立ち止まる。
「――なあ、チョップ。機械に、心はあると思うか?」
「……何だと?」
男の不可思議な質問に、チョップは思わず振り向いた。他の番猿達も、男の発言に戸惑いを見せている。
「……遂に頭がおかしくなり果てたか」
チョップが男を嘲笑した。男を眺める歪んだ眼は、人間に対するそれではない。
「そうかもな……だが、おかしくなったのは、頭だけじゃないさ」
「はっ、気狂いの戯言に付き合っている暇は――」
その時、突然男の両腕を包む鉄の筒が激しい音を立てて隆起した。
金属をハンマーで叩くような音が内部から無数に響き始め、内側からの圧力で外へ外へと変形していく。
そして遂に、変形した鉄の筒は破壊され、数箇所に渡って出来た穴から“歯車”が飛び出した。右の前腕から一つ、左肘から一つ、そして両の掌から一つずつ。鉄芯に繋がった無骨な歯車が、真っ直ぐに伸び出たのだ。
「オオオオオオオオォ!!」
男が咆哮する。
男の両耳にある奇妙な耳あてから鉄板が伸び出し、男の鼻と口元を覆うフェイスガードを形作った。さらに、掌から飛び出した歯車が一回り大きくなり、高速で回転し始める。その歯車は両腕を拘束する鉄枷と衝突して、耳障りな音と激しい火花を撒き散らす。白煙が立ちこめ、見る見るうちに男の体を包み込んでいった。
番猿達は、銃を構えるのも忘れてその様子を見入っていた。男の身に何が起きているのか理解できず、白煙に消える男の姿を眺めることしか出来ないでいたのだ。
音が止む。
通路を照らしていた火花も治まり、番猿達は先の見えない状況に息を呑んだ。チョップも、ポカンと口を開けて目の前の白煙を覗き込んでいる。
しかし次の瞬間、煙の中から伸び出た拳がチョップの頬を強打した。
「がはっ――!?」
チョップは予想だにしない攻撃に防御もままならず、そのまま床に倒れて気絶した。だが、他の番猿達は今だ状況が飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くすのみである。
風が吹き、煙をさらって行く。
そこには、拘束を逃れた男が、背後の番猿目掛けて飛び出そうとしている姿があった。
「オオオオオオオォ!!」
番猿達が慌てて銃を構えるが、それよりも早く男が飛びつく。
人間技とは思えぬ速さで弾けた男は、両腕を番猿の顔面に繰り出し鷲掴むと、二人同時に床へ叩きつけた。さらに、流れるような体さばきで身を翻すと、右手に迫っていた番猿の顎に拳を食い込ませる。番猿はひしゃげた鉄屑のように身を捻りながら、レンガ造りの床に崩れ落ちていった。
「お、大人しくしろ!」
最後の一人となった番猿が、震えた声で男に叫ぶ。恐怖で定まらない手元を必死に御しながら、銃を男の背中に向けていた。
男はゆっくりと振り返り、向けられた銃口を見つめた。
「……機械に心はあると思うか?」
「ひぃっ!」
銃声が響いた。
番猿は、迫り来る脅威から逃れたい一心で引き金を引いていた。抑えきれなくなった恐怖が指を動かし、瞼を下ろして視界を閉ざしていた。
木霊した銃声が彼方へ消え、風の音だけが番猿の耳に届く。
果たしてどうなったのか、音だけでは判然としない。
だが、恐る恐る眼を開いた瞬間、番猿は己の行く末を悟った。体を支えるはずの両足から力が抜け、糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちる。
――殺される。自分は、この男に殺される。
目の前にあったのは、男の身の丈を超す、巨大な“歯車”だった。
男を守る盾のようにして現れたその巨大な歯車の後ろから、鋭い眼光を光らせて男が歩み出る。それに合わせるように、巨大な歯車は急速に収縮し、男の右腕へと吸い込まれていった。
「あそこだ! 絶対に逃がすな!」
銃声を聞きつけた城内の番猿達が、城側の扉から通路へ飛び出して来た。雪崩のように迫ってくる番猿達が、次々に通路を満たしていく。
前方には番猿の群れ、背後は懲罰房の塔。
退路はない。
「に、逃げられるもんか!」
腰を抜かした番猿が、僅かに残っていた自尊心を奮い立たせ虚勢を張る。
男はその言葉を背に受けながら、倒れている番猿のコートを奪うと、無言で通路の手すりによじ登った。
「ま、待て! 死ぬ気か!?」
「……」
男は答えない。
眼下に広がる景色を臨み、全身に深く空気を送り込む。
「何十メートルあると思ってるんだ!? 城の最上階に程近い場所だ――ッ!?」
風が吹いた。
無機質で、恐ろしく深い風が、城下町へと吹き込んでいく。
その風が、後に世界を揺るがす嵐になると言うことを、今はまだ誰も知らなかった。