お狐さまと羽衣ちゃん
登場人物:九尾の狐と女子高生
「七夕といえば、あの伝説には二つ目の説があるのを知っているかい?」
思い出したように話しかけてきたお狐さまの方を、私はちらりと見た。
滅多にない晴天の七夕、銀に煙る天の川を二人で見ているところだった。
「それって、織姫・彦星じゃない話ってこと?」
「ああ。それは織姫が機を織る方。もう一つの話では、織姫ではなく天女が女役とされている」
「天女……あ、羽衣伝説?」
「ご名答」
お狐さまが尻尾をパタパタと揺らした。
羽衣伝説。天女に恋をした男の話だ。
冒頭、海辺で水浴びをしている天女に一目惚れした男が、天女を天に帰さないために羽衣を隠してしまう。
それにより困った天女は、男の思惑通り「しばらく泊めては頂けませぬか」と男の家の戸を叩く。
それをきっかけに二人はあれよあれよという間に夫婦となり、一姫二太郎に恵まれた。
しかし数年後、すっかり人間の妻として馴染んだ天女は、子供らが歌うわらべ歌を耳にする。
「裏のお蔵の石臼の下、探せば立派なおべべがひとつ。羽より軽くて真白に光る、妖し美しのおべべがひとつ」
二人の家庭はあまり裕福とは言えず、立派な着物など買える金はない。訝しんだ天女は男が町へ商いに行っている間、こっそり蔵の石臼を探りに行った。
そして天女は臼の下に、かつてなくした羽衣が敷かれているのを発見する。
天女は迷った末、書き置きをひとつ男に宛てて、二人の子供と天界に帰ってしまう――。
――たしか、こんな話だったはずだ。男はその後どうなったんだっけ、そのあたりははっきりと覚えてない。
「でもあれ、天の川なんて出てきたっけ?」
「おや、続きを知らないのか」
「続き? これで終わりじゃないの?」
「うん。天女の残した書き置きには、天界へ行くための方法が書かれていたのさ。男は必死でそれを実行し、なんとか天上の城で家族と再会する。しかし突然押しかけた男を天女の母は認めず、家族共に在りたくばこれに打ち勝ってみせよといくつかの試練を与えた。男は天女の助言によってそれらを突破していくが、最後の試練、天女が目を離した一瞬に、男は一つの失敗を犯してしまう。天女の母はそれを許さず、般若の形相で男と天女のあいだに水をあふれさせた。やがてそれは川となり、天上の二人を分かつ天の川となった――。とまあ、このような話だ」
へぇ、結局離れ離れなんだね。せっかく頑張って天上まで上ったのに。
「それでも死ぬだけ死んで会えぬよりまし、というものだろう」
死ぬだけ死んで?
「天上に上る人間が生者であるわけがないだろう?」
うーん、たしかに。
でもそうなると、半分は人だった子供も死んじゃったんだろうね。
「しかり。この話に生き残りなど一人もいない。もともと天女を引き止めた男の行為が過ちだったのだ。大団円は望む方が図々しい」
そうはいっても天女の方もそれなりに情はあったんでしょ? 死者の魂拾って天界に召し上げるくらいだもん。愛がないんじゃ悪趣味すぎる。
「一応は、お前の言うとおりなんだろうね。故郷への道を断たれてまで褪せぬ愛とは、俺には見当もつかないが。情が移ったというには、あまりに途方もない」
同感。
相手を悲しませてまで引き止める男の気持ちも、私は全然わからないけどね。
「わからなくていいさ、そんなもの。お前はずっとな」
~~~~~~~~~~
「そういえば、もう一つの七夕伝説で思い出したんだけど」
「機を織る織姫の方か」
「うん、そっち」
織姫・彦星バージョン。ちなみに彦星は牛飼いだ。
織姫にあやかって、七夕の日には女子らが裁縫上手になりたいと願をかける。
「お狐さま、『月のよざらし』って知ってる?」
機織りにまつわる――というか、機織りが関わってくる民話なんだけど。
「ふぅん、知らないなあ。有名なのかい?」
いや? 知名度はかなり低いと思うよ。知る人ぞ知る、ってレベルだし。
ざっくり話すと、こんな内容だ。
【昔々あるところに、若い夫婦がおりました。
この二人、初めのうちは仲良くやっておったのですが、妻の方がある時分から、どうにも夫に嫌気がさしてしまったのです。
一度嫌えばあとはもう、食事の際の咀嚼音から、歩くときの衣擦れの音まで、何もかもが腹立たしくてなりません。
考えた末に妻は、山奥に住まうという大婆様のもとへ、なにかいい知恵をと訪れることにいたしました。
大婆様は妻をひと目見ると、しゃがれた声で言いました。「心に残すものはないかい?」と。妻は据わった目で答えます。「いいえ、まったくかけらもございません」
すると大婆様は、ひとつ頷いて言いました。
「月の美しい夜にとった繭で、月の美しい夜に糸をこしらえ、月の美しい夜にそれを着物にしなさい。そうしてそれを月光に晒して、月の美しい夜、夫に着せてごらん」
妻は礼を言って、大婆様の言うとおりにいたしました。
ひと月にほんの数度しかない月の美しい晩、妻は眠りも忘れて機を織ります。
長い時間をかけ、幾年かが過ぎた頃、ようやく織り上がった白い着物を、妻は夫に着せてやりました。
すると夫は上機嫌になり、霧中にいるようなもやりとした目つきで、そのままふらふらと家を出ていきました。
満月が明るく道を照らす、ある晩のことでした。
これでようやく夫から解放されたと、妻はしばらくの間喜びに浸りましたが、しかし時が経つにつれ、夫の消えた先が気にかかるようになりました。
そこでもう一度大婆様のもとを訪ねると、またも大婆様はひと目で言いました。あの独特の、しゃがれた声で。
「美しい月の夜、海へ続く辻で待っていなさい」
妻は言われたとおりに辻に立ち、月が登りきるのを待っておりました。すると海の方から人影が。目を凝らすと、それは消えた夫ではありませんか。
夫は妻の姿が見えないのか、陽気に歌などを歌って、村の方へと歩いていきます。
「月の~夜晒し~知らで着て~、今は~夜神の~供をする~」
妻は怯えて言葉もなく、夫の姿が闇に消えるのを見送ったとか。】
妻の情念の凄まじさを描いた話。あるいは人に化けた死神の手下が、正体を見破られて退散する話だ。夜神=死神らしい。村の方へ歩いて行ったのは、生者の魂を狩るためだそう。
「死神がどうとは言っても、やはり数年がかりで夫を失踪に追いやった妻の情念は空恐ろしものがあるな」
話を聞いたお狐さまが、ぶるりと体を震わせた。
男の人としては、やっぱりそこだろうねー。
「私なんかはそれを知ってて教えた大婆様のほうが、よっぽど薄気味悪いと思うけどね」
まず山奥に住んでるところからして怖いし。山姥みたいで。
「歳をとるというのは向こう側に近付くということだからね、少しくらい変な知識を持っていてもおかしくはない。ましてや独り身の老婆。かつて自分の夫にでも同じことをしたのではないか?」
ちょっとお狐さま、それじゃなおさら怖いよ。
それもこれも結局は、人の執心のなせる業なんだろうけど。
「妻は夫を気味悪がったが、そうなるとどうだろうね、案外夫の方は本気だったのかもしれない。初めから着物の呪いを知って、それでも上機嫌なふりをしていたとすれば――」
「それが本当なら、そんなに盲目の愛もないね」
盲目、というか、偏執的な。
どのみち妻の憎悪に押し負けちゃうんじゃ、女の恨み勝ちって感じだけど。
「仕方あるまい。信仰は現実を変えるからね。今も昔もそれは不変だ」
科学も物の怪も未だ人には勝てず。言霊が化け物を生かし、殺し。
「おかげでこちらは思うに任せぬ」
お狐さまの茶色の目が、ぴかりと月光を反射した。
~~~~~~~~~~
「せっかくだし、私も機、織ろうかな」
夏の大三角形を探しながら言うと、隣でもう発見済みらしいお狐さまが、こっちに顔を向けたのがわかった。
「えらく唐突だな。腹に据えかねる相手でもいるのかい?」
「その逆、逃げ出さないように鎖にするの。襟巻きなら使いやすいかな?」
真っ白いマフラーなんて、今時悪趣味だけど。狐がつけるなら趣味なんて関係ないからいいだろう。
チキン派狐を繋ぐ鎖なら、織姫様も力を貸してくれる気がする。
……ほら、見つけた。ベガ。織姫様。
「話とは逆にさ、新月に編もうか。憎悪じゃなく親愛を込められるように」
「巻いただけで首が絞まりそうな念の強さだな」
「もしも本当に編んだら、受け取ってくれる?」
「よろこんで。信仰は俺たちの糧だからね」
お狐さまはそんなふうに、わざと嫌な言い方をした。
「……やっぱりやめる。不器用な私じゃ、きっとすぐに飽きちゃうだろうしね」
信仰なんて、糧なんて。
そんな言い方されるなら、いっそない方がまだましだ。
「それがいい。時間と資源の無駄遣いはするものじゃないからね」
「ちぇー。そんなに正直に言わなくてもいいじゃない」
これは形残るものを極端に避けるから、受け取らない口実には、ちょうどいいんだろうけれど。
それでも。
私のこれは貢物じゃない。あなたのそれは好手じゃない。
「そろそろお帰り。もうすぐ九時を回る」
「うん、じゃあおいとまします。また明日」
「また明日」
満天の星の下。食わせものが二人、笑う、笑う。
今宵は半月。新月にも満月にも、平等に遠い七夕の日。
天の川よりなお遠い、あなたのおわす向こう岸。