:02 この唇に残る君の感触
「シォハ! お出かけしてくるのです。いつ帰れるかはわからないのであります」
彼女はいつもの無邪気な笑顔で、鉄格子で隔たれた僕にそう声をかけた。
「今度はどんな物語を集めてきてくれるの?」
そう問いかけると、彼女は「うーん」とはっきりとしない唸り声を出す。
「今回は物語探しが目的ではないです。でも物語があればラッキーです」
お出かけに対して気乗りしない様子の彼女から、普段とは違う雰囲気を感じ取った。
「お父様の言いつけで、ギリス公爵家の婚約パーティーに顔見せしなくちゃならなくなったです」
理由を聞き、僕の心臓は握りつぶされたように痛くなった。
「顔見せ? 貴族同士のパーティーでさ、それだけでは終わらないこと……知ってるよね?」
無邪気な彼女は、知っているのだろうか。その類い希なる美貌を。彼女はもう15歳で、結婚適齢期に達していることを。ギリス公爵家の子供は長女のアイリスを除き、残り8人全てが男であることを。その8人は今、婚約相手を探すことに躍起になっていることを。
「んー。面倒なことになったら、イーヴォちゃんにくれてやるですよ」
僕はそんな呑気なことを発言する彼女の胸倉を掴み、少し乱暴ではあるがこちらへ引き寄せた。彼女の身体は簡単に鉄格子へぶち当たり、小さな声で「痛っ」と悲鳴をあげていた。
僕は言った。口調を荒げて。
「絶対っ、帰って来いよ!」
彼女は答える。いつもの独特な口調で。
「そりゃ当然、帰るでありますよー。待っててくださいね、可愛い妹よお」
頑固なところがある彼女は、僕を妹だと信じて考えを改めようとしない。彼女が僕の傍にいてくれるなら別にそれでも良いかと思っていたけれど、成長と共に育まれたこの感情は、妥協を許さなくなっていた。
僕は、へらへらと笑う彼女の笑顔がたまらなく憎らしくなり、鉄格子と鉄格子の間から覗くその薄紅色の唇を容赦なく奪っていた。
温かな色味をしていたそれは触れてみるととても冷たくて、友達もいなく、いつも1人きりで行動をしている彼女の寂しさが唇を通して伝わったような感じがした。
そうか、と思う。彼女が飽くなく僕の相手をしてくれていたのは、彼女自身も寂しかったからだ。父親は仕事で忙しく、召使いたちは彼女と距離を置いて接している。知り合いは年上の貴族ばかりで、親しいという間柄ではない。学校にも通っていないために友達はいない。いや、多分、学校へ通っていたとしても「髪が赤いから」という理由で除け者にされていただろう。
僕は彼女の寂しさを補う為の、しかしそれ以上の存在になれるだろうか。
「むっ……んむううう!」
突然に酸素を奪われた彼女は、口内に声を響かせて僕に対する指示を飛ばしていた。――唇を放せ、と。
どうして? これは、いつも君が僕に願っていたことじゃないか。
僕の胸を叩いて抵抗をする君。拒絶を示す反応が、とても痛く突き刺さる。
唇を放すと、君は両手の力をいっぱいに使って僕の身体を突き飛ばす。目には涙がたまっている。
どうして? これは、いつも君が――。
「……シォハ。なんだか、変です」
――なにが?
「いつもと違います」
――だから、なにがだよ。
「妹は、妹らしくしていてほしいものです」
――僕は男だ。何度言えばわかる。
「私はちゃんと帰るです。だから、シォハは変わらないでください」
――…………。
「……。行ってくるで……あります」
いつからなのだろうか。無邪気に見えていた君は、君なりに変わりゆく世界に脅えていた。いや、変わったのは世界ではない。僕の為に世界へ出るようになり、世界の残酷な真実を知ってしまったのだ。
君は、幼い頃にグールに攫われた人間の娘。
1000年前より、理由があって赤い髪の少女を選んで殺していたグールは、ついに探し人を見つけた。それが君。
けど、これはまだ君が知らない事実。
全ての事実を知ったとき、きっと君は僕のことを嫌いになってしまうよ。
変わるのは僕じゃない。君なんだ。
「……いってらっしゃい」
僕はいつもの言葉を返した。
君は去る。僕の手が届かないところへ。
この唇に残る君の感触は、しばらく僕を苦しめそうだ。
*