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婚約者は人間を食べる  作者: 伯灼ろこ
第一章 物語を集める
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 5節:01 名付け親の君

 物心ついた頃から少年は石造りの部屋の中に閉じ込められていた。部屋の隅に、置かれたというよりは誰かが忘れていった絵本だけが少年にとって世界を知る術であった。

 逃げ出したいとか、己の境遇を嘆くとか、そんな概念は始めから備わっていなかった。暗くて、冷たくて、寂しくて、ただぼんやりとそんなことを感じながら意味無く生きていたのだ。

 この部屋がとても高いところに位置していることがわかったのは、壁に空いた小さな穴から外の世界を覗くことができたからである。

 部屋の外は、空だった。薄くて広い青空や、雲や、飛んでいる鳥や、それら全てに手が届きそうで。本の中だけだったはずの小さな世界が、そこには広がっていた。――空を眺めることが少年の日課となった。

 空は様々な表情を見せる。ご機嫌なときもあれば不機嫌なときもある。ひどく悲しんでいると思えば、とても憤慨したりする。少年はそんな空とお話をしてみたくなり、唇を開いた。――言葉は1つも出なかった。当然である。少年は、言葉を知らなかった。わかるのは、絵だけ。

 表紙が手擦れで剥がれてしまった絵本を開く。適当に選んだ部分である。そういえば絵の隣りのページには、必ず細かな絵が描かれていることに気がつく。当時それが文字であるとわからなかった少年は、小さな絵を睨みつけるように見ていた。するとページとページを結んでいる糸がほどけ、本から千切れ落ちてしまった。

 何故だかとても悲しくなった。視界が滲み、水が零れた。石の床にポタリと雫が落ちたとき、少年は、雨の意味を知った。


「それ、『悪いことをした魔女を殺すか、それとも殺して食べちゃおうか悩んでいる』シーンなのですよ!」


 それまでの少年の世界において、異物が混入したのはこのときだった。

 少年は小さな身体をビクリと震わせ、音が発せられた方向を振り向いた。

 ふんわりとした赤い髪、まんまるとした緑色の目、細くて白い身体、薄ピンク色のドレスを着用した子供――それが鉄格子の向こうからこちらを興味深そうに凝視している。少年がおよそ10年間を1人きりで過ごしてきた世界の中に紛れ込んだ異物は、とても無邪気で、残酷で、可愛くて、そして自分そっくりの女の子であった。

 女の子がどうして少年の前に現れたのかはわからない。しかし、その日から空ばかりを見ていた少年の興味は地上へと注がれるようになった。


「名前、何て言うです? え? 名前っていうのは……特定の人間を呼ぶときの名称で……ええっと、とにかく、あると便利なやつです! 私はセゥノです! セゥノ・メルローズ。え? メルローズはファミリーネームですよ! 全部名前です」


 セゥノが塔の最上階まで来た経緯は、ひどく単純なものである。セゥノはその日、兼ねてより気になっていた塔――家のすぐ近くにあるにも関わらず、いつも頑丈に施錠されている為に入れなかった――の扉が偶然に開いており、侵入した。そして偶然に少年を発見した。あまりにも自分とそっくりな為、セゥノは少年が自分の妹であると瞬時に考えた。

 重なり合った偶然は、少年が歩むべき人生を大きく狂わせた。


「……シォハ!」

「え?」

 少年の顔を力強く指差し、セゥノは断言した。

「名前、無いなら私があげるですよ。妹の名付け親ってやつです」




 ――ぼくは。

 どこか満足げに頷く彼女の真意はわからなかった。与えられた名前の意味もわからなかったし、彼女に聞いてみても、彼女自身もわかっていないみたいだった。だから、名付け親だなんて言ってみたりするなんてただのおままごとの延長線かと思っていたけど、『シォハ』という名前のあとに『メルローズ』という姓を付けてくれたことが、僕と彼女の間に繋がりをつくってくれたみたいで、少し嬉しかったことを覚えている。

 彼女が僕にしてくれたことは、名前を与えたことだけにとどまらない。僕が知らなかった言葉、文字、外の世界のこと、なんでも教えてくれた。それでも彼女自身も幼かったため、教えられる範囲は容易く限界点へ辿り着く。そのときは父親の書斎から拝借してきた本を鉄格子の間から押し込んでくれるのだ。

 僕は多くの本を読んだ。今では彼女よりも知識の量は多い。でも、経験においては彼女の方が遥かに多く、彼女自身もそれを承知していた。だから彼女は自身が体験したことを可能な限り詳細に、そして僕も追体験できるように身振り手振りを使って語ってくれた。

 たぶん暇潰しに僕の相手をしていたに過ぎないだろうが、出会ってから5年余り――彼女は手を抜くことなく毎日僕の話し相手になってくれていた。もちろん、彼女が僕に語る物語探しの為に家出をしている間は1人きりだ。寂しいけれど、同時に、彼女が帰ってきたとき、どんな物語を聞かせてくれるのか――そのワクワクする気持ちの方が大きかったから、我慢できた。

「シォハー、ただいまです! 今回は奴隷の真似事をしてみたですよー」

 彼女は無邪気だ。そんな危険なことを、と僕が眉間に皺を寄せることを平気でやってのける。彼女が余裕たっぷりでいられるのは、彼女の父親と彼女を慕う獣がいつも彼女を守ってくれているからだ。彼女は無邪気だから、それには気付いていない。

 無邪気な彼女は、どうして僕がこんなところに閉じ込められているのかを知らない。

 無邪気な彼女は、どうして父親が僕の存在を隠していたのかを知らない。

 無邪気な彼女は、僕の気持ちを知らない。

 無邪気な彼女は、父親がグールであることを知らない。

 無邪気な彼女は、人間を食べてはいけないことを知らない。

 無邪気な彼女は、父親から歪んだ愛情を受けていることを知らない。

 無邪気な彼女は、自分が父親の本当の娘ではないことを知らない。



 無邪気な彼女は

 僕の正体を

 知らない。



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