3節 美味しい料理を作る、美味しい人間
シォハはノートを抱えて立ち上がり、牢屋の奥へと消える。最後にお礼の言葉を残して。
「今日はありがとう。また新たな物語を期待しているよ……僕の愛する姉様」
冷たい鉄格子の前でしばらく呆然と座り込んでいたセゥノは、やがてぷりぷりと怒りながら屋敷へ戻る。
「もう! キスくらいしてくれたっていいのにです!」
観音開きの玄関扉を勢いよく開け放ち、尖ったヒールをカツカツと鳴らしながら廊下を乱暴に進む。両サイドの壁に建ち並ぶ彫像が嘲笑いながらこちらを見下ろしているようで、腹立たしさは増すばかりだ。
脳が熱い刺激を帯びたままの判断は鈍く、父親から開けてはいけないと言われている冷蔵庫の扉をセゥノは間違って開けていた。
「……ひっ、ひえぇっ」
そこはセゥノが普段は使わない大きめの冷蔵庫であり、通常は南京錠付きの鎖でぐるぐる巻きにされている。しかし今日は使っている最中なのか、鎖も錠も外されたままであったのだ。
悲鳴をあげたセゥノの視界に飛び込んだのは、多種多様に切り分けられた人体だった。ある者は首と四肢を切り落とされた達磨状態で、ある者は上半身のみで、または手や足の指ばかりを集めたワイン漬け、眼球の串刺しなど、見る者を卒倒させるに十分な威力を発揮する光景が冷蔵庫の中に敷き詰められていた。
セゥノは開けた扉を素早く閉めた。しかし鼻の穴から体内へ流れ込んだ臭いが気持ち悪く、嘔吐を繰り返す。
「ふへっ……ふへぇぇ……でも、発酵した人間の臭いよりはマシです!」
セゥノは気持ちを切り替え、倉庫へ掃除用具を取りにいく。その間、食料についてぼんやりと考えながら。
「中は3人分だったですねぇ……お父様、そんなにお腹がすいてるのでしょうか。それとも、いつもあれだけストックされてるのでしょうか」
冷蔵庫から流れ出た血液と自らの嘔吐物を処理しようとするも、これまで数えるほどしか掃除をしたことのないセゥノの手際は悪い。シルク製のドレスが汚物で染まった様を見たメイドのトレジャスが慌ててセゥノから雑巾を取り上げるのは、ほんの数秒後のことだった。
「お、お嬢様っ……私が出掛けている間になんとまぁ……!」
トレジャスは初老の女性だ。セゥノが生まれる前からこのメルローズ邸に住み込みで働いている。
おそらく共に出掛けていたであろうランスも帰宅し、娘の姿を見て溜め息を吐きながらも、頭を撫でた。
「だからあれほど大きな冷蔵庫は開けてはいけないと言ったでしょう。しかし鍵をしなかった私にも落ち度はありますね」
ランスはさほどセゥノを責めることなく、注意だけでとどめた。セゥノはランスの右手を握りしめる。
「ごめんなさい。でも私、見るのは全然平気なのですよ! ただ臭いにまだ慣れなくてっ……」
「セゥノ、着替えてきなさい」
ランスは、セゥノの言葉を柔らかく制する。
「昼食にですね、バルバラン帝国から招いた一流シェフの料理を用意していますから」
「あ……それは楽しみです! ……お父様は食べないのですか?」
ランスは微笑み、首を振る。ランスはこれまで、娘と共に食事をとったことがない。
着替えてからダイニングルームへ至る途中の廊下で、セゥノは森の中に潜むヨーゼフのイーヴォを発見する。先日のマルゲッタ町での食事以来なにも食べていないようで、お腹をすかせて鳴いていた。セゥノはポンと両手を叩き、口笛を吹いてイーヴォを呼び寄せた。
「……ひっ、ひいいっ」
ダイニングルームでは、バルバラン帝国に高級なレストランを構える一流シェフのダミアンが、料理を盛った皿を並べている最中であった。父親の姿は無い。
ダミアンは、姿を現したセゥノを見た途端に悲鳴をあげ、皿を落としていた。セゥノは、床に散らばった料理へ視線を落とし、「勿体ない」と呟いた。そしてダミアンを見る。
「お前、今、私を見て怯えたですね?」
セゥノは抱いた疑問をすぐに投げつけた。
ダミアンは必死に平静を装おうとするが、掃除をする手が尋常ではないほど震えている。
セゥノは椅子に座らず、ダミアンの前に立ち、迫る。
「白状するですよ。実は私、他人にそういう反応をされるのはこれが初めてではないのです。一体、私のどこに怯える要素があるです? ただの15歳の子供ですよ」
その、ただの15歳の子供を前に震えているダミアンは、正直に答えるべきかそれとも誤魔化すべきか悩んだ挙げ句、前者を選択する。
「……髪が」
「え?」
ダミアンは尚も震える唇でそれだけを吐き出し、たまらずといった様子で屋敷から飛び出した。セゥノは眉をさげ、逃げるダミアンの後ろ姿――その背中に喰らいつくイーヴォの姿を窓から眺めていた。最初こそ痛い痛いと暴れまわっていたダミアンの身体も時間を追うごとに人形のように力を無くし、ゴクンとイーヴォの胃の中におさまってしまった。
セゥノは己の赤い髪を握り、目の前まで引っ張ってくる。
「これでイーヴォちゃんのお食事も完了なのです。餌を与えることも主人の仕事なのです」
セゥノは掴んでいた髪を背中へ流して椅子へ腰を下ろし、ダミアンが遺した料理を口にする。それは職人が血の滲む思いで作り出した最高級のアイデアであり、決して誰にも真似ができない代物。セゥノは満足そうに咀嚼し、飲み込み、頷いた。
「とっても美味しい料理を作れる人間はきっと、食べても美味しいはずです。私はまだ慣れないですが、イーヴォちゃんは満足したようです」
口の周りを新鮮な血で濡らしたイーヴォは窓越しにセゥノへ視線を送り、セゥノが手を振ったことを確認してから森の中へ戻った。
「おや、シェフの姿が見えませんが」
料理を全てたいらげたあと、ランスがダイニングルームに姿を現した。
「イーヴォちゃんにあげましたですよ!」
セゥノがそう報告すると、ランスは困り顔で注意をした。
「あの方が私の昼食だったのですが。まったく……今後イーヴォに餌をやるときは、まず私に相談をしてくださいね」
優しく注意をするランス。セゥノは眉をさげて頷き、次から家へ来る餌の処遇については必ず父親の指示を仰ごうと反省した。
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