1節 人間って不味い
「ふふふん、ふふふん」
機嫌よく漏れる鼻歌が、臭気に満ちた闘技場の中を漂っていた。
鼻歌をうたっている主は、ふんわりとした赤い髪と白い肌が印象的な15歳くらいの少女だ。布切れだけを着用したみずぼらしい服装と不釣り合いな気品ある顔立ちは、肉と血と臓物に溢れたこの場所と、やはり釣り合っていなかった。
「ふふふん。遠く離れたこの町では、とっても素敵な殺戮ショーが行われていました。闘技場は連日大賑わい。でもある日突然にショーは終わりを告げるのであります。この私、セゥノ・メルローズの手によって! ……あはははぁ、良い物語がまた一つ増えましたねぇ」
赤髪の少女――セゥノは、達成感に満ち足りた表情で闘技場を見渡した。すぐ近くでは、肉食獣のヨーゼフが新しい餌に喰らいついている。灰色の体毛で覆われた獣の身体は赤く塗り代わり、てらてらと鈍い光を揺らめかせている。咀嚼音がとても心地よく、セゥノは咀嚼のリズムに合わせて鼻歌をうたった。
「よしよし、お腹いっぱいですねぇ、イーヴォちゃん」
イーヴォという名前のヨーゼフの頭を撫で、その大きな口の中を覗き込む。途端、セゥノは悲鳴をあげてヨーゼフの口内へ片手を突っ込んだ。ヨーゼフは目を剥き、むせるような咳を繰り返す。
「こらぁ! イーヴォちゃん! これ、私が食べるって言ったじゃないですかぁ」
ヨーゼフの口内から引っ張り出したものは、赤黒い球体だ。ヨーゼフの咀嚼によって変形こそしてしまっているものの、セゥノの手のひらに収まるそれは間違いなく人間の眼球であった。
セゥノは眼球をしげしげと見つめ、ペロリと出した舌で舐めた後、少しだけ噛んだ。目を細め、いわゆる難しい表情で眼球の一部を味わう。食感は絶妙な弾力と、コリコリとした軟骨のような部分がある。肝心の味は――
「うへぇぇぇえええうぇえッッッ」
味覚を司る舌が出した反応は強い拒絶であり、セゥノは首を自らの両手で絞めつけ、のたうち回る。あれが喉を通りすぎる前に吐き出さなくてはならない。セゥノは頭を地面にこすりつけ、何度も嘔吐を繰り返した。
「なにこれぇぇっ、腐った生卵を更に腐らせた感じ? そのうえ鉄臭さもある! うぇぇっ、人間って不味ぅぅうううぅ!」
ペッと吐き出した眼球の一部を忌々しげに踏みつけ、残った部分をヨーゼフの口内へ押し戻した。
「ぐえぇ……まだあの味が口の中に残ってますよぉぉ……クソマズ……げろげろ。もうう……ガラス玉のように綺麗なお目めをお父様はとても美味しそうに食べてらっしゃるから、私もどんな味かと楽しみにしていたのに」
尖らせた唇は、しかしすぐにニンマリと弧を描く。セゥノはその瞳に映った人物を確認するなり、足取り軽く駆け出した。
「――お父さまっ」
つい数分前までセゥノが囚われていた餌部屋から、ゆったりとした足取りで青年は現れる。長い金色の髪と右頬の十字傷が最大の特徴と呼べるこの青年は、屈託ない笑顔で走り寄るセゥノの姿を見たとき、叱りつけようと決めていた己の心が崩れてゆくことを感じた。
「……まったく、もう……貴女という人は。探しましたよ、我が娘」
青年はセゥノの身体をすくいあげるように抱き上げ、愛おしそうに額へ唇を付けた。くすぐったいのか、セゥノは身をよじる。
「お父様っ、よく私を見つけましたね? すごい偶然です。まさか、闘技場の獣をイーヴォちゃんにすり替えてくださったのは、お父様なのですかっ?」
確信と期待に満ちたセゥノの問いには答えず、代わりに青年はにっこりと微笑んでみせた。
「やっぱりね!」
「ですがセゥノ、これで勝手に家を抜け出した回数は50回に上りました。罰として、ギリス公爵家の婚約パーティーに参加して頂きますからね」
「ええぇっ」
「ギリス公爵の長女アイリス様が、今度ハイアット子爵家のご子息さまと結婚されることが決まりましてね。その祝いのパーティーです」
セゥノはわかりやすく目を泳がせ、小さく首を振った。
「……私、そういうの苦手ですの……。お父様もご存じですよね?」
「存分に知っていますよ。ですから、”罰“だと言ったでしょう」
セゥノは顔を引きつらせて笑う。
「それに、様々な体験をしておいた方が、後に物語としてシォハに聞かせてあげることができるでしょう。……今回のように」
「まぁ、うふふ。お父様ってば、やはり全てお見通しでしたのね。私の過去50回にのぼる家出の理由は、全てシォハに聞かせてあげる物語探しであると」
表情を一転してニヤリと妖しく微笑むセゥノを見下ろし、青年は言い聞かせるように口を開く。
「当たり前です。何故なら、私は貴女の父親なのですから」
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