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婚約者は人間を食べる  作者: 伯灼ろこ
第四章 幸せな目覚めのその先で
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 4節 戸須田 遥

「……松風、児童福祉局に連絡をしろ」

 取り調べ室を覗いていた伊邑が突然、低い声でそう指示を飛ばした。有無を言わさぬ気迫に押され、松風は反射的に備え付けの電話の受話器を取る。

「えっと……なにを連絡するんですか?」

「薔薇丘蘭人という職員が実在するのかどうか、を聞け」

「は……伊邑さん、なに言って」

「早く!」

「は、はいっ」

 松風は言われるままボタンを押すが、すぐにこちらを振り返る。

「伊邑さんっ……」

「なんだ!」

「電話、回線が切られているようで、福祉局どころかどこへも繋がりません……」

 その報告を最期に、松風の首から上が消えて無くなり、断面から噴水のように吹き出した血液が伊邑の半身と、そして廊下を真っ赤に染めた。

「は……?」

 指令部を失った身体は前のめりに倒れ、その両手は助けを求めるように伊邑へ向けて伸ばされていた。

 電話機から垂れ下がった受話器から天井へ、ゆっくりと視線を上げると――そこには物言わなくなった松風の頭部をガチンガチンと音を鳴らしながら咀嚼している獣の姿があった。

 ――リディック。

 漆黒の体毛に、黄色く濁った眼。体長は5メートルに及び、気性は非常に獰猛である。――月世野市立動植物園にて飼育されている世界最強の肉食獣が今、警察署内の最奥にいた。

 考えたって理由などわかるはずもない。だが、月世野総合病院を襲った犯人がこいつであると確信をし、そして現在の事態を把握した伊邑はすぐさま取り調べ室へ飛び入っていた。

「凜堂!!」

 部屋の隅で、両手で顔を覆い、涙をぼろぼろと流している赤髪の少女の元へ駆け寄った伊邑は、可能な限り優しく呼びかける。

「凜堂、大丈夫だ。俺が護る。今度こそ……」

 自分でも何を考え、行動し、発言しているのかはわからなかった。ただ首の周りが熱を帯びたかのごとく痛み、激しさを増した。伊邑は歯を食いしばって痛みに耐え、味方がここにいることを世ラに伝える。

 警察署が何者かによる襲撃を受けた際の対応の仕方も、成すべき優先順位も全て放り投げて、目の前の孤独な少女を助けることだけに全神経を捧げること――それが最も正しい判断だと、伊邑は思っていた。

 伊邑は世ラの肩を抱いて立たせると、部屋の隅に立つ薔薇丘を鋭い瞳で睨みつけた。

「お前があの獣を呼び寄せたのか?」

 指摘はどうやら正解だったようで、金髪の青年は目を見開いて唸った。

「驚きました。まさかこの状況下で、攻撃もせず逃げもせず、また脅えもせずに少女を助けにくる人間が存在しようとは」

「目的はこの子か? お前にとって凜堂世ラは、多くの犠牲を払ってでも手に入れたい宝なのか?」

 間髪入れずに問いただすと、薔薇丘は声をあげて笑う。

「宝! それは素晴らしい表現ですねぇ。ええ、そうですとも。その少女は私の宝です。これまで野蛮な盗賊に2回も奪われてきましたが、ついに取り返す機会に巡り会えたのです。その邪魔は――させませんよ?」

 薔薇丘が視線を横に滑らせた。それが合図であったようで、取り調べ室の壁を頭突きで破壊をしたリディックが顔を覗かせた。すぐ隣りには、茫然自失と立ち尽くす戸須田遥の姿が見える。伊邑は「しまった」と舌打ちをした。

「戸須田! 逃げろ、皆を避難させるんだ!」

 そう叫んでいる隙に、戸須田の細い身体など獣の前では簡単に――そう思われた。

「……伊邑さん。駄目じゃないですか、私のご主人様に逆らったりしたら」

 だがにっこりと微笑む戸須田の左手には、何事かと集まってきた警察官たちのうちの1人の腕が掴まれている。

「戸須……田?」

 そんな名前であるはずの女性を、伊邑は確かめるように呼んだ。

 伊邑の部下となって1年目であった新人の戸須田遥は、とてもひょうきんな性格をしていた。暗く真面目な現場には不釣り合いで、だがそれが励みになると言う同僚もいた。

 戸須田は、そのいつも通りのひょうきんな笑みを浮かべたまま、掴んでいた同僚の腕を引きちぎり、伊邑へ向けて投げつけた。

「ランス様ぁっ! 警察署ってのは精神的に鍛えられた猛者の集まりです。とぉっっても豪華なフルコースになりますよぉぉ!!」

 痛みに叫び狂う同僚の悲鳴をも押さえつけ、戸須田は声を張り上げた。目は血走り、口は裂けるほど開かれ、人間のあるべき様相をしていない。

 頬に付着した血を舐めとり、薔薇丘は浅く笑む。

「この長い時のなかで、私の好みも随分と変わりました。今は恐怖に屈した弱者の肉が好物ですねぇ……覚えておきなさい、トレジャス」

 互いに伊邑の知らぬ名で呼び合った2人は、主人とそれに仕える者の関係性となって立ちはだかる。

 薔薇丘蘭人が何者で、戸須田遥が何者であったのか。そんなことわからないし、考えている余裕も無い。伊邑は投げつけられた片腕を寸でのところで避けると、うなだれる世ラを抱きかかえ、リディックの攻撃範囲である出入り口へ足を滑らせる。

「襲わない、のか?」

 松風や他の署員に対して容赦のない攻撃を指示した薔薇丘は、宝と称する少女を抱える伊邑の動きをただ見ているだけだ。その理由について、薔薇丘は両肩をすくめながら答えた。

「ハンデをあげると――先ほどセゥノに伝えたのですよ」

「ハンデ?」

「前回の鬼ごっこは、スタートをする前に終わってしまったので。――セゥノ」

 伊邑の腕の中に顔を隠している世ラへ、薔薇丘は低く言葉を落とす。

「セゥノ、あなたの弟は、愚かにも無知だったのですよ」

 世ラは応えず、俯いたまま。

「私に背いたために、弟は姉を失った。2度も。さて、今回はどうするでしょうか」

「……さい」

「なんです?」

 小さく、しかし少女は強く喉を震わせる。

「うるさい、って言ってんの。私はねぇ、何度死のうが何度生まれようが……シォハを愛するのよ!!」

 囲われた伊邑の腕を払いのけ、世ラは戸須田の隣りをすり抜けて廊下を駆けた。その後を伊邑が慌てて追う。

 2人の姿が小さく見えなくなっていく様を眺めていた戸須田が、ぼそりと呟く。

「ランス様、そのハンデってのはぁ……どれほどの? 距離? 時間?」

 ランスと呼ばれた薔薇丘は、床にころりと転がっていた眼球をヒョイと摘みあげ、舌舐めずりをする。

「彼らが警察署を出たら、追いかけます」

「へぶっ! それ、ハンデにもなんにもなってないですよ。署を出た瞬間に伊邑さんの方はアガレスにぱくりじゃないですか!」

 つるり、と喉の奥へ消えてゆく眼球。舌に残った感覚を最後までゆっくりと味わい、薔薇丘は悪びれることなく種明かしをした。

「ええ、その通りですよ? 何故か憎き息子の姿が見えないことが気がかりですが、とりあえず我が婚約者の身を確保することを優先事項に置いております」


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