11節 サガシモノ。
「セゥノ、逃げるんだ!!」
そこからの記憶は不思議と客観的なもので、荒れ地をさまよっていた私たちが飢えたヨーゼフ2頭に襲われたのは考えてみれば至極当然の出来事であった。
逃げろ、と弟が叫ぶ。それはきっと、この中でヨーゼフにとっての唯一の食料が私だったからだろう。
弟はルマン=リヒテの背に私を残し、ヨーゼフの気を引くために地を転がり落ちた。ルマン=リヒテは逆方向へと走る。弟からくだされた、「セゥノを守り抜け」との命令に従うべく。
世界を代表する肉食獣の中で双璧を担うのはリグリとヨーゼフだ。両者の違いは、猫科であるか犬科であるか。
猫科であるリグリは群れを形成せず、単独での狩りを行う。ゆえに瞬発力に優れ、一瞬にして獲物を仕留める。
犬科に属するヨーゼフは集団での狩りを得意とし、獲物をどこまでも追いつめる。
持久力に乏しいリグリは、敵から一瞬にして逃げ切らなければならない。対してヨーゼフは自慢の持久力で敵を探し続ける。逃亡時間が長引けば長引くほど、片方の優位性が明らかに高くなる。
両者の決定的な違いが顕著に現れ始めた頃、リグリであるルマン=リヒテがヨーゼフから横腹への手痛い頭突きを食らい、横倒しとなった。
「痛……」
全身に鈍痛を浴び、私は考える。
(シォハが引きつけたはずのヨーゼフが、どうして2匹ともここにいるんだろ)
考えられることは2つ。
1、シォハが食料ではないことに気付いたヨーゼフが、引き返してきた。
2、シォハはすでに狩られている。
(どっちだろう)
目の前で、起き上がったルマン=リヒテが2頭のヨーゼフに対して牙を剥き、爪を立て、毛を逆立て、必死になって命令に従おうとしている。全速力で荒野を走り抜け、体力などとうに尽きているはずなのに。
私は、ルマン=リヒテの手足がもがれ、噛みつかれた腹の肉が破れていく様をただぼんやりと見つめていることしかできなかった。
ぐったりと、まるでボロ雑巾のように横たわっているルマン=リヒテの肉体には目もくれず、1頭のヨーゼフが私を見下ろす。
(あれ? もう1頭のヨーゼフは?)
目を凝らすと、ルマン=リヒテの遺体のすぐ傍らに頭を無くした状態で崩れていた。
(ああ……リヒテさん、1勝、です)
私は浅く笑みをこぼし、起き上がる。息がかかるほどの距離にヨーゼフの顔があるが、別段、怖いとは思わなかった。だって、お腹をすかせたヨーゼフが餌を求めるのは当たり前のことだから。
視線を上げる。そこには、イーヴォちゃんとよく似た獣の顔がある。大きくて、灰色の体毛に覆われていて、私の赤い髪と同じ色の瞳の色。
緋色の瞳の中に映った私の顔には、やはり恐怖の色は窺えなかった。
「お腹、減ってるですね。可哀想です」
どちらかというと同情心の方が恐怖を遥かに上回っていた。
「食べます?」
指を差した私自身は、美味しいのかどうかわからない。しばらくまともな食事をとっていなかったし、痩せてしまって脂の量は少なめ。せっかく捕まえた獲物がこんなのでごめんなさい。
なんだか申し訳ない気持ちになった。
「あ、私、死ぬの、怖くないです。大丈夫です。だって、死んでもまた生まれ変われますし、それより何よりもシォハが探しに来てくれるですよ。こんなに嬉しいことはないです」
私は慰めるようにヨーゼフの右耳に触れる。イーヴォちゃんはここを触ると、とても気持ち良さそうに身をよじっていたから。けど、触れた手はそこから先の感覚を無くし、力無く地へ落ちる。断面からはどす黒くて、生ぬるい液体がドクドクと音を立てて流れた。
どうやら私の右手は喰い千切られてしまったようだ。何日ぶり、いや、何ヶ月ぶりかの餌を味わい、ヨーゼフはご満悦だ。しかし底を尽いた腹を満たすには、右手一本では足りないだろう。
「美味しいです? せっかくなんですから、味あわずに食べちゃうのは止めてくださいです」
そう聞いてみて、私は少しだけ後悔をする。噛みつかれ、自分の意思とは関係なく地を滑る身体を思いながら、悔しさを滲ませた。
「しまったです。今更、アドルフが言っていたことを理解したです」
腹に突き刺さる衝撃。私は口からおびただしい量の血を吐き、声を出せなくなった。
(どうせ食べられるなら)
衝撃は繰り返し腹を襲う。ずるずると引き抜かれていくものは腸だろうか、大腸だろうか。まだ意識はあるから心臓ではないはずだ。
(どうせ食べられるなら)
ここで初めて、私は涙を流した。痛みゆえではない。
(どうせ食べられるなら、せめて、一部分だけでもシォハに食べてもらいたかった)
この身体はどんな甘美な味がするのだろう。シォハは博学だから、色々な言葉を使って表現してもらいたい。
甘美だと決めつけてしまっているけど、おそらく間違っていない。だって、大好きな肉の味だもの。
もう、手遅れだけど。
(でも……)
薄れてゆく意識の中で、私は”今回の死“について自分なりに前向きな結論を無理やりに作り上げることにした。
(肉なんて、次の人生でもそのまた次の人生でも、いつでも食べてもらえるです。今回の人生で大切なことは、私たち双子の死にランス・メルローズが関わっていないことであります。メルローズに追われて投身自殺をした前世から考えると、かなりの進歩です)
きっと私たちは、こうやって少しづつゴールを目指していくのだと思う。
(ああ、考えたいことはまだまだいっぱいあるのに)
死の間際に限って私は欲深くなる。考えたい。もっと考えたい。時間が足りない。
いつか世界を自由に移動をすることができたら、シォハと一緒にどこへ行こう。そのときこの世界は、この世界のままなのだろうか。もし変わってしまっていたら、ずっと行きたかったセンフェロンへ二度と行けないことになってしまう。後悔。せっかく塔から逃げ出せたのに、あまり遠くへ行けないまま、しかも1週間前後の逃亡生活で終わってしまった。これも後悔。
シォハ、ごめんなさい。一緒に物語を巡る旅、全然できなかった。
私が死んでしまったら、悲しんじゃうね。
なによ。
やっぱり、今、死んじゃうの勿体無い。
(ああ)
ついに心臓をもっていかれた。もしかしたら脳味噌かもしれない。
私の思考はそれを最後に停止し、二度と物事を考えることはなかった。
*
荒れ地に散らばったリグリの遺体を見渡し、赤い髪の少年は呼吸をすることすら忘れて”探しもの“をしていた。
探しものは程なくして発見される。それは砂に埋もれた球体。砂を取り払うと、美しいガラス球が現れた。エメラルド色とパール色のコントラストが美しく、宝石のような輝きを放つ。
少年は赤い髪を掴み、震え、首を何度も振る。そして。
「うあぁぁぁあああぁぁあぁあぁあああああ!!!!!!」
絶叫した。
何故なら、少年が探していたものは、見つかってほしくないもの、だったのだから。
次話の更新まで、少し間が空きます。
しばらくお待ちくださいませであります。




