2節 早く、早く、塔へ。
「ただいま戻りました」
玄関の扉を開き、セゥノは自分の家の中へ向かって呼びかけた。しかし誰もいないのか、返事が返ってこない。あるのは、掃除されていない血溜まりのみ。
昔からよく知る我が家であるが、覚悟を決めたセゥノの瞳に懐かしいメルローズ家は存在していなかった。
セゥノは後ろに立つジーノに目配せをし、彼が頷くとそのタイミングを見計らって塔を目指して走った。代わりに屋敷に残ったジーノは、父親やメイドのトレジャスの気を引く役目を担っていた。
走りながら、塔の最上階に開いた小さな窓を見上げる。
(シォハ。待っててくださいです。今、助けるです)
いつもの道のり。だがすごく遠く感じた。
早く、早く、早く――塔へ。
「そんな!」
塔の出入り口まで来たセゥノは、悲鳴を上げていた。5年前から開いたままだった扉には、ずっしりと重い南京錠が掛けられていたのだ。
「え、え、え。これどーするですか。鍵は、鍵は、鍵は。あ、でもシォハの部屋にも鍵が掛かってるです。ここを開けられたとしても、鉄格子はどうしたら。ああ、ああ、ああ」
らしくなくセゥノは慌てる。混乱し、頭を抱えて南京錠を睨みつけている。
(イーヴォちゃんの牙なら、南京錠くらい噛み切れますかね……)
閃き、イーヴォを呼び寄せる。しかしイーヴォが太い尻尾を後ろ足の間に入れて両耳を垂れる仕種を見たとき、セゥノはヒヤリとした冷たい汗をかいていた。
イーヴォが下げた頭はどんどんと低くなってゆき、数秒後には尻尾をまいて逃げ出す。
「イーヴォ……ちゃ」
「おやおや、イーヴォはどこへ行くのですかね。せっかく餌を持ってきてあげたのに」
久方ぶりに聞くその声は、とてもよく知る――そして大好きな父親のものなのに、今のセゥノには鳥肌が立つほどの戦慄音となっていた。
セゥノは、カクカクとぎこちない動作で後ろを振り返る。父親が立っていた。ランス・メルローズ伯爵であり、15歳の娘をもっているとは思えないほど見た目が若々しい。金色の長い髪に血色の悪い肌、右頬に十字傷。すらりと伸びた身長と合わせて、絵に描いたような美青年である。
その美青年は、とても美しい笑顔を浮かべながら片手に下僕のジーノを掴んでいた。
「あ……あ……」
つい数分前まで動いていたそれの肌は紫色に変色している。だがまだ息はあるようだ。
「おじょ……さま……逃げ……」
もしかして、とセゥノは悟る。
「おと……お父様、なにをおっしゃってるのですか。イーヴォちゃんの捕食対象は……人間のみなので、人喰鬼であるジーノは食べないです……よ。うふふ。同じ人喰鬼のお父様なら、おわかり、ですよね。うふふふ」
指摘をされ、ランスはわざとらしく驚いてみせる。
「ああ、そうでしたね。忘れていました。ははは」
「うふふ、ふ」
「――セゥノ」
掴んでいたジーノの首を解放したランスは、その手でセゥノの首を鷲掴みし、低く問う。
「あなた、どうして私が人喰鬼であることを知っているのですか?」
悲鳴を、あげたかった。
「に、人間を食べる人は人喰鬼なんだって、教えてもらったのですっ……」
「誰に?」
爪がギリギリと首に食い込む。指がまるで血が通っていないかのごとく冷たくて、鉄の剣を当てられているようだった。
「あ、あど、アドルフ……です」
答えると、ランスは「ああ」とその顔を思い浮かべる。
「あの小僧ですか。それで? 小僧は今どこに?」
ランスに呼び寄せられたリグリのアガレスが、げっぷりと胃からガスを吐き出す。ランスは納得し、セゥノの首を放した。
「あっ……あが……が」
セゥノは首から流れる血を押さえてうずくまる。
「セゥノ、立ちなさい」
ランスの指示にセゥノは従わない。
「セゥノ」
首を押さえ、歯を食いしばるセゥノの脇を掴んで立たせ、その身体を塔の壁に叩き付ける。
「セゥノ」
ランスは、僅かに開かれたセゥノの視界に自身の顔を侵入させる。
「セゥノ、ご飯の時間ですよ」
「…………。は……ぃ」
ランスは、地面に突っ伏しているジーノを軽く蹴り飛ばし、セゥノを連れて屋敷へ戻った。
屋敷へ入るなり、ランスはメイドのトレジャスにセゥノを任せ、どこかへ消える。
「お帰りなさいませ、セゥノお嬢様。なにやらジーノが無礼を働いたようで、代わりに謝罪を申し上げますね」
血がドクドクと流れる首に包帯を巻きつけながら、トレジャスが優しく言葉を落とす。
「ギリス公爵家は如何でしたか。なにかにつけパーティーを開きたがるあの家は、己の権力でも誇示したいのでしょうかねぇ。崖っぷちに建てられた屋敷グレイディンは、元はバルバラン帝国の要塞であったという話です。センフェロン王国と和平条約を結んだ800年ほど前から要塞は不用となり、当時のフリード・ギリス公爵が自宅として改装するべく買い取ったらしいですよ」
このときのトレジャスは妙に饒舌だった。幾人もの血を付着させたセゥノのドレスを取り替えながら、次々と湧き上がる話を聞かせる。しかし、そのどれもがもはや歴史となっている大昔の話ばかりだ。
「ちなみにメルローズ家はですね、とても長い間この場所を拠点としています。時間にして、およそ1000年くらいですか。しかし1000年前のメルローズ家は、もっと違う場所にあったのですよ。ええ、そう記憶しています」
いつものダイニングルームにて料理を待たされるセゥノは、テーブルの上にグラスが2つ置かれていることに嫌な予感を覚える。皿に乗った2人分の料理をせっせと運ぶトレジャスに聞くことができず、ただ窓から見える塔の最上階へ向けて思いを伝え続けた。




