6節 私の可愛い子どもたち。
頭がぼんやりとする。
舗装されていない道を走る馬車が乱暴に揺れるたびに私の思考は現実へと引き戻される。
ああ、ダメだ。なんだか今の私は、いつもの私じゃない。美味しそうな人間を見つけてイーヴォちゃんに与えてあげようとか、考えられない。考えてしまうのは、1つだけ。
(シォハ……)
私とそっくりの、可愛い妹。少し生意気なところもあるけれど、それを成長過程だと捉えれば尚更に可愛い。
出会ったときから、塔の最上階にある部屋にいる妹。何故かそこから出てこないし、お父様も気にしていないご様子。
そんな妹のために私は頑張った。最初はお屋敷の敷地内から出てみることだった。そこでイーヴォちゃんに出会ったんだっけ。体長は5メートルもあって、灰色の体毛はとてもじゃないが柔らかそうではなかった。
イーヴォちゃんに大きな口を開けられ、追いかけられ、とても怖かったけど、お屋敷の敷地内へ入ったら不思議とイーヴォちゃんはそれ以上追ってこなかった。――この最初の体験を妹にお話ししてあげた。10歳の頃だったかな?
次にお屋敷から出るときに私は気がついた。敷地の外には、常にイーヴォちゃんがいた。まるで狙われているみたい。だから怖くて、敷地から出られなくて私は困った。これじゃあ妹にお話ができなくなってしまう。
しばらくイーヴォちゃんを観察するようになって、私は気がついた。イーヴォちゃんは、私ではなくお父様を気にしていた。更に言うと、お父様の食事の風景をそれこそ涎を垂らしながら凝視していた。
ああ、お腹がすいてるのね。だからあんなに痩せていて、そして動けないからずっとここにいるんだわ。
私は、すとんと納得した。
私はキッチンから鶏の丸焼きを持ってきて、イーヴォちゃんへ向かって投げつけた。さぁ、たんとお食べ――とかワクワクしながら観察していたけれど、イーヴォちゃんは鶏をクンクンと臭うだけで口をつけなかった。
そんな馬鹿な!
私は本で見たのだ。イーヴォちゃんみたいな犬科の動物が、他の動物を足で押さえて肉を食い千切っている絵を。
私は首を傾げ、イーヴォちゃんを観察する日々を送った。そしてある日、偶然なんだけれど、私は気がついた。お父様が食事をとっていないときは、イーヴォちゃんはそれと同じ目で私を見ていることを。トレジャスさんやジーノさんには目もくれないのに。
ああ……私を食べたいんだ。
またもやすとんと納得した私は、しかし困り果てた。食べられてしまっては、妹とお話ができない。だから、私以外のご飯で満足をしてもらわないといけない。
私はトレジャスさんにお願いをして、お父様が保管しているご飯を1人、屋敷の外に出してもらった。私はおよそ60キロあるご飯を引きずり、敷地の境界線へと向かう。そこでは痩せ細ったイーヴォちゃんが、眼球をギラギラとさせて待ち構えていた。世にも恐ろしい唸り声に私はヒッと身を縮こませたが、歯を食いしばってご飯を外へ押し出した。あれだけ重かったご飯は私の手を軽々と離れ、イーヴォちゃんの大きな口の中に含まれていた。
1秒も経たないうちに完食してしまったイーヴォちゃんは、足りない、と私の身体を同じくギラギラとした眼球で舐め回した。
私は再び困っていた。イーヴォちゃんを満腹にさせるには、お父様がストックされている食事だけでは足りない。それにこのままではお父様もお屋敷から出られない。
私は当時、自分でもビックリするほどの決断をくだした。
「ねぇ、私の言葉、わかるですか?」
なんと、私は獰猛な肉食獣に対して話しかけていたのです。
「ご飯、あげることに協力します。だから、私を外に出してください。食べないでください」
伝わったのかはわからない。けど、そのときイーヴォちゃんがまるで「俺に乗れ」と言わんがばかりに頭身を低くしてくれたということは、きっと合意してくれていたのだろう。
私は恐る恐るイーヴォちゃんに跨り、森を抜けた。多少なりとも食事をとったイーヴォちゃんは、森を抜けるくらいの体力は身につけたようだった。
森を抜けると、そこには私の知らない世界が広がっていた。自分たち、そしてお父様の食事以外の人間をこんなにたくさん見たのは初めてだった。町、というのだろうか。人間が集まって社会を形成していた。これならイーヴォちゃんも餌に困らない! ――と喜んだのも束の間、イーヴォちゃんが全て喰い尽くしてしまったら、そこにあるはずの物語を拾えない。そしてイーヴォちゃんを恐れて誰も近寄らなくなってしまう。
私は足りない頭を使って考えた。そして安直に導き出した結論は――
「お嬢ちゃん、こんなところで1人でどうしたんだい。お母さんは?」
イーヴォちゃんを町外に隠し、私は単身、町へ乗り込んだ。すると、すぐに声が掛かった。おじさんだ。いかにもお人好しで、優しげな。
「やめなよ、あんた! その子、赤毛じゃないか!」
制止の声が降りかかったのは、おじさんを町の外へ誘導しようとしたときである。妻であろう女性がおじさんに近づき、私をきつく睨みつけた。
「なにを言ってるんだ、お前。こんなに小さな子がさ、迷子だっていうから……」
おじさんは妻に言う。
「迷子? 馬鹿言いなよ! この子が着ているものを見てみな! 私たちがどれだけ頑張って働いても買えないくらい高級な代物だよ! どうせどこかの貴族の子か、または妾の汚子だ。放っておきな! 第一、赤毛だなんて不吉な……」
妻は負けじと反論する。
なにを言われているのかさっぱりわからなかった私は、小さな賭けに出てみた。
「うわぁぁあああん」
と、泣き叫び、町の外へ逃げること。おじさんは慌てて私を追い、妻はそんなおじさんを追った。
――かくして簡単に餌を与えた私にイーヴォちゃんは懐き、私が頭を撫でると子犬のように鼻を擦り寄せて甘えるようになった。
大きくて怖い、でも可愛いペットと物語を得た私はさっそく妹にお話をしてあげることにした。
「セゥノの奮闘、この窓から見てたよ」
そう笑顔で言う妹が憎らしく、そして可愛かった。
私がイーヴォちゃんと睨み合いを続けていた日々の一部始終を見られていたようだ。
「そのイーヴォちゃんっていうの……ヨーゼフっていう生き物だよ」
妹は、本から得た知識を私に教えてくれる。
「ヨーゼフ?」
「そう。大きくて、灰色の毛に覆われていて、赤い眼。そして主食は人間――うん、間違いない」
「でも私のことは食べないです。あ、厳密に言えば狙われてはいました……」
「えーと、ヨーゼフは人間を好むけど、餌を与えてくれる人間に対しては従うそうだよ。まぁ、親みたいなもんかなぁ」
「へぇ! 私はイーヴォちゃんのママですか!」
「――対して」
妹は口調を強くし、本を開きながら説明を続ける。
「”ヨーゼフと同じく人間を主食とする獣――リグリは、たとえ餌を与えてくれる人間がいてもその人には従わず、また、餌の対象ともする“――だって。イーヴォがヨーゼフで良かったね、セゥノ」
リグリという獣にはまだ出会ったことはないけれど、どうやら私は運が良かったようだ。
その日から私は、妹とペット、どちらも可愛い子たちの世話を焼いているのだ。
(なのに……)
本で読んだことがあるし、お父様にも教えられた――”親愛のキス“とは、額や頬にするもの。家族や友達、その他大切な人に対しての愛を行動でもって示す一番単純な方法。対して唇へのキスは、それらの意味とは全く別物の、特別なもの。そう、簡単に言えば”恋の印“。
実際、頬や額にされたキスと違って唇へのキスは感触も感覚も全てが違った。相手の痛い想いを流し込まれたような、受け止めきれないような。
(変なの。シォハ、突然に人が変わってしまったみたいです)
窓の外へ視線を滑らせると、灰色の獣が馬車と併走している姿が飛び込んできた。
(イーヴォちゃん!)
どこへ行くにも付いてくるヨーゼフは、本当に私の子供のようだった。獰猛で恐ろしいのに、こんなに可愛い子はいないとさえ思ってしまう。
「あらあら、ヨーゼフが付いてきてしまいましたか。どうします? セゥノお嬢様」
馬を先導する下僕のジーノが、苦笑いを含ませながら私へ問う。私は真珠のネックレスを掴み、「うぅん」と考えた。
「ギリス公爵家って、確か崖っぷちに建ってるですね?」
「はい。約800年前、敵に攻められにくいように選ばれた場所らしいです」
「なら、崖の下にイーヴォちゃんを隠します。餌なら、崖から落とせば簡単にあげられるですし、色々と好都合な立地です」
私の答えを聞き、ジーノは声をあげて笑った。
「子供の世話は大変ですな」
「ええ、そうともですよ」
所用でパーティーに参加できなくなったお父様はなんて酷いのと思っていたけれど、イーヴォちゃんが付いてきてくれたことは正直、心強かった。
これまで色々なところへ1人で行ったけれど、私のことを知る人達ばかりの場所へ行くのは初めて。貴族らしく上手く振る舞えるかしら、とか、お父様のお顔を汚さないようにしなくちゃ、とか、気に病むことばかり。
「はぁ……私にこの身分は不要ですよ……」
思わず漏れた不満は、ジーノの笑い声を誘うだけだった。




