その七
その話題から逃れるように食べ始めたのでぼくも芸術作品へと箸をつけた。
見た目の素晴らしさに応えるように味も素晴らしく、どれもが無農薬のものばかり。この弁当なんだから作ったおとうさんは余程の娘思いの父親なんだろうな……。
あっという間に食べ終えたぼくは、ご馳走さまと手を合わせ、元のように包み直して神崎さんの横に置いた。
チラっと神崎さんを見ると、まだ半分も食べてなかった。
1人だけ食べ終わって待ってるのも悪い気がするのでライ麦パンは神崎さんに合わせてゆっくり食べた。
「ご馳走さまでした。とっても美味しかったわ」
ちょうど水を飲んでいたので頷きで応えた。
神崎さんもペットボトルの蓋を開けて飲み出した。
その姿を横目で見ながら昼食を片付け、カバンの中からデジタルカメラを取り出した。
「神崎さん、1枚いい?」
振り向いた神崎さんにデジタルカメラを掲げて見せた。
「写真? あたしの?」
「うん。家の人が神崎さんを見たいっていうから。あ、嫌なら止めるから。無理やりはしなくていいっていわれてるから」
「ううん。大丈夫だよ。あ、ちょっと待ってて」
いってバッグに手を突っ込み、中から手鏡を取り出して前髪を整い始めた。
これまで女の子の習性に興味など持ったことはなかったし、謎の生物だったけど、こうして落ち着いて見ると、なんかいいよね。
あ、いやまあ、自分でいっててなにがいいのかわからないけど、その姿を見ていると心が穏やかになるのだ。
「ん。なーに?」
自分を見詰めるぼくに気がついた神崎さんが不思議そうに首を傾げた。けど、よくわからない感情に支配されているぼくには直ぐに反応できなかった。
「夕太郎くん?」
「……あ、うん。ごめん。見詰めたりして……」
神崎さんの視線から逃れるようにデジタルカメラを見た。
「……気分が悪いの?」
「あ、ううん。そうじゃないよ。ただこうしている自分が不思議だったからちょっと戸惑っただけだよ……」
「不思議なの?」
「うん。とっても不思議だよ。物心つく前からぼくは山が好きで、人間より山の生き物や犬と遊ぶのが多かった。幼稚園など行かず、小学校も行った回数のほうが少ないくらい。獣のように生きるぼくを心配した両親はなんとか普通の子供にしようとがんばった。無理やり学校へと連れて行き、授業が終わるまで教室が横にいた。そんなぼくに友達などできる訳もなくいつも1人だった。それが寂しいとは思わなかったけど、ぼくを見る目やぼくに恐怖する気配が気持ち悪かった。教室に満ちる邪気で気が狂いそうだった。我慢できなくなったぼくは家を飛び出し、14になるまで仲間たちといろんなところを放浪さてたんだよ」
こんな話、とても信じられないだろうに、神崎さんはぼくの話に真剣に耳を傾けていた。
「家族が死んだと聞かされ1人家に戻った。裏山の木は家を守る楔だってじいちゃんが口すっぱくいってたのに、それを無視して切っちゃったからものの見事に土砂に飲み込まれていたよ。神崎さんには変に聞こえるかもしれないけど、ぼくはとっくに親離れしてたし、じいちゃんから生きる術を教えてもらってたからなんの悲しみも出てこなかった。それどころかこれからは自由だと思ったくらいさ……」
あの頃の自分を思い出したら笑えてきた。
「ほんと、人の心をなくしていたぼくが人の中で暮らしているんだから不思議だよ」
「違うと思う! 人の心はあったと思う!」
「家族が死んだことに悲しまないのに?」
「夕太郎くん、ちゃんと帰ってきたじゃない! ちゃんとここにいるじゃない!」
その強い瞳の輝きはあのとき『ゆーくんは人間よ!』といったときとすみれちゃんに匹敵した。
「……神崎さんは、どうしてぼくの話を信じるの……?」
ぼくの問いに神崎さんはなぜか微笑んだ。なんとも穏やかな気配を出して……?
「写真、また今度でいい?」
「え、あ、うん……」
なにがなにやらわからないが、とりあえず頷いた。
「それと、今週の土曜日ってなにか用事あるかな?」
「え、あ、よ、用事っていう用事はないけど、ちょっと顔を出すところはあるかな」
「顔を出すところ?」
「う、うん。バイト先にね」
「夕太郎くん、バイトしてたんだ」
「まあ、アレをバイトといっていいのかは謎だけどね」
「じゃあ、無理か……」
「あ、ううん! 大丈夫だよ! 暇ならタイムカードを押しにこいっていわれてるだけだし、用があるなら電話して断ればいいだけだからね。それで、土曜日がどうかしたの?」
「うん。2人で遊びに行きたいなぁ~と思って
それはデートというやつだな。
「ぼくは全然構わないよ! うん行こう、遊びに!」
すみれちゃんからもいわれている。誘われたら彼女を優先させろと。
「本当に大丈夫? 無理ならいいんだよ」
「全然大丈夫! あ、なら神崎さんもバイト先にこない? どういうバイトか説明するより見てもらったほうが早いからね。それに、あそこなら見るところもあるしね」
ぼくは見て楽しいとは思わないけど、神崎さんのような若い女の子が好きそうな店がいっぱいある。デートするなら最適なところだろう。
「いいの?」
「いいのいいの。あ、もしかして行くところ決めてた?」
「ううん。夕太郎くんと決めようと思ってた」
「じゃあ、そこに行こう。待ち合わせどこにする?」
こーゆーことがあるかもと、すみれちゃんが対処法を教えてくれたからスラスラ出てくるよ。
「日の出駅って知ってる?」
「うん。知ってるよ。東華線の駅でしょう」
散歩圏のバス停や駅名は頭の中に入っている。
「そこに朝の9時でどうかな?」
「いいよ。じゃあ9時に待ち合わせで」
いって右の薬指を出すと、神崎さんが目を大きくして驚いた。
「え、あれ? 約束するときって小指を絡ませるんじゃなかったっけ?」
それがどういった由来か、どこの風習かは知らないけど、重要な約束をするときはこうするって思ってんだけど……。
「……ごめん。違ったみたいだね……」
小指を下げようとしたら突然神崎さんの両手が伸びてきて無理やり小指を絡ませた。
「───うんっ! 約束はこれだよねっ!」
瞳を潤ませ幸せそうに笑った。
その笑顔になにもいえず、背くこともできず、されるがままに絡まる小指をブンブンと上下に振られた。
……本当、不思議な娘だよ、神崎さんは……
ベランダで星を見てると、窓が開く音が聞こえた。
「あら、今日は散歩に行かないの?」
振り向くと、すみれちゃんがベランダへと出てくるところだった。
ぼくの中ですみれちゃんは別格中の別格。無条件で信じられる人だが、ぼくの領域に入ってもわからないほど別格ではない。なのに、声をかけられるまで気がつかないとは。ほくったらそうとう参っているようだ……。
「う、うん。気分が乗らなくてね……」
横にきたすみれちゃんは、いつものように優しい眼差しを向けてきた。
「……なにか、嫌なことでもあった……?」
囁くような問いにぼくは首を横に振った。
やはりすみれちゃんは追及してこない。そうとだけいって星空へと目を向けた。
お互いなにもいわず星を見ていると、さくらちゃんの部屋の明かりが灯り、しばらくして窓が開かれた。
ベランダにいたぼくたちがいたことにびっくりしたみたいで目を大きくしていた。
「……なにしてるの?」
「夜風を浴びてるのよ。さくらも一緒にどう?」
すみれちゃんの問いになぜかぼくを見てからブンブンと首を横に振った。
「眠いからいい」
ちょっと不機嫌な感じでいい、ベランダから身を乗り出した。
「アルテミス」
「わんっ!」
ベランダを見上げるカン太が忠犬よろしく吠えた。
「おやすみね」
「わんっ!」
いつもの挨拶を済ませ、またぼくを見てから中へと戻った。
いくらぼくが無知でもなにかあることぐらいわかる。それもぼくに関係していることだと。
さくらちゃんのあとを追おうとしたらすみれちゃんの手で遮られた。
「今はそっとしておきなさい。さくらもゆーくんと同じで戸惑っているのよ」
その言葉に首を傾げた。
「さくらはともかくとして、ゆーくんの心を占めているのは『彼女のことがわからない』でしょう」
すみれちゃんの"眼"は高性能。いつもぼくの心を見透かすのだ。
なにもいわないぼくに、すみれちゃんがそっと寄り添ってきた。
「戸惑うは当然。疑問に思うのも当然。でもね、わたしはそれが嬉しいの」
どうしてとは問わず、黙ってすみれちゃんを見る。
「これは傲慢でゆーくんには迷惑かもしれないけど、わたしはあの日、ゆーくんの手を取ったことを正しいと信じている。人間の中で人間として生きることがゆーくんのためになるって信じている」
表情や言葉に少しも揺らぎがない。けど、その心には後悔や不安があることをぼくは知っている。知っているからぼくはすみれちゃんが大好きなのだ。
「傲慢かじゃない。迷惑でもない。ぼくが自分で考えて決めたんだからさ」
大好きな従姉を安心させるために柔らかく笑った。
「まあ、仲間たちと別れるのは寂しかったけど、一生会えない訳じゃないし、会おうと思えば会えるし、連絡ならいつでもできるもん。それに、おじさんやおばさん、すみれちゃんにさくらちゃんとの生活は、仲間たちといるときと同じくらい楽しいよ」
すみれちゃんの気配が柔らかくなり、それ以上に柔らかい頬をすりすりさせてきた。
「……ほんと、ゆーくんは最高だよ……」
「すみれちゃんも最高だよ」
ぼくも負けじと頬をすりすりさせた。