その二
「……な、なんかぼく、とんでもないことしちゃったかも……」
今さらではあるが、事の重大さに恐くなってきた。
ポケットにいれた携帯電話を取り出し、彼女の電話番号てメールアドレスを見た。
「うう、夢でもなければ幻でもないよ……」
そう。あのときの沈黙(交換)は今もしっかり頭の中に残っていた。
……まったく、あんな恥ずかしくなったのは生まれて初めてだよ……
携帯電話を充電器にセットしてベッドに寝っ転んだ。
「……ふ~う。疲れた……」
しばらく頭を空っぽにしていると、ドアが静かに開いた。
ぼんやりしながらも頭の中では認識してはいたが、それに対応しようとする気にはなれず、そのままにしておいた。
部屋へと入ってきた人物は、ベッドの端に足を乗せると大きくジャンプした。
空中で猫のようにクルンと回転。お尻から落ち───って、油断したっ!
そう思うのが精一杯。体が反応する前にお尻が腹に命中。意識が少しだけ吹き飛んだ。
「───おっしゃーっ!」
うずくまる横で従妹のさくらちゃんが腕を振り上げて喜んでいた。
……いくらぼくでも不意打ちされたら痛いんだよ……
従妹のさくらちゃんは中学一年生。標準より細い女の子だが、それは鍛えこまれているから細いんであって、決して貧弱だからではない。
小学三年生から始めた空手は今では黒帯だし、この前の大会では圧勝だったほど。もう空手少女というよりは格闘少女といったさくらちゃん。少しでも強くなろうと毎日襲ってくるんだよ。全力で……。
「……酷いよ、さくらちゃん……」
いつものこととはいえ、力が抜けているときにこれは効く。下がベッドじゃなければ胃液を吐いているところだ。
「ふんだ! 油断してるほうが悪───」
襲ってきた右蹴りを軽く受け止め、左足を払ってやった。
とはいえ毎日襲ってくるだけあって、ただやられることはない。
倒れる途中で体を捻らせ猫着地───したものの直ぐに猫ジャンプ。ぼくから距離を取った。
かわいいお目々が怪しく光り、痴漢を一殺しそうになった蹴りを放ってきた。
それを紙一重で回避して背後に回り、右腕を股へと入れすくい上げ、ベッドへと叩きつけた。
それで参るさくらちゃんではない。反撃がくる前に背中へと飛び乗り、弱点たる脇腹をくすぐってやった。
「うひゃっひゃっひゃっ───」
柔軟な体を駆使して逃れようとするが、腕力はぼくが上。加えて経験豊富。この程度、リスを捕らえるくらいの労力だよ。
完全に動きを封じ込め、耳に息を吹きかけた。
「ひゃんっ!」
最近しったさくらちゃんの弱点その二。ここを攻められると力がなくなるのだ。
「放せ! このスケベ! 変態!」
「そーゆー汚い言葉を使う子にはお仕置きが必要だね」
「放せったら放せ! このっ!」
玉砕覚悟の頭突きを軽く避け、耳たぶに噛みついた。
「───────」
悲鳴にならない悲鳴を上げさくらちゃん。
さらにカプカブ甘噛みしてると、体がピクピク痙攣し、ぱたりと崩れてしまった。
「……えーと、さくらちゃん、大丈夫……?」
慌てて体の上から退き、ベッドに顔を埋もれさすさくらちゃんに呼びかけた。
と、目にいっぱいの涙を溜め、真っ赤に染まった顔が現れた。
……ちょっとやり過ぎたかな……?
「さっきからなに騒いでるの?」
その声に振り向くと、ドアのところに従姉のすみれちゃんが立っていた。
そんなチャンスを無駄にしないさくらちゃん。猫ジャンプでぼくへと迫り、強烈な空中回し蹴りを放った。
完全に油断していたぼくはまともに食らい、体勢を崩してしまった。
「バカァーッ!」
さらにくる回し蹴りをなんか回避。急いで距離を取り反撃に備えるが、なぜか反撃がこない。見ればプルプル震えながらぼくを睨んでいた。
「───夕太郎のアホ! 死んじゃえっ!」
いつもの捨て台詞を残し、弾丸のように部屋を出て行った。
「まったく、ウブなくせに突っかかるんだから。大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ……」
いってベッドに腰を下ろした。
ぼくと同じ"血"を持っているらしくさくらちゃんの攻撃は尋常ではない。ぼくだからいいようなものの今のこと普通の人にやってたら確実に死んでるから。
「ゆーくんもからかわないの。あれでも年頃の女の子なんだから」
「う、うん……」
「それよりどうしたの? 帰ってくるなり部屋に閉じ籠っちゃったりして」
部屋に入ってくるすみれちゃんから壁の時計に目を移す。
うお! もう8時を過ぎてるじゃないか。ぼくったら2時間も考え込んでたのかよ!?
そんなぼくに呆れたすみれちゃんが横に座り、いつものように腕を回してきた。
従姉のすみれちゃんは大学一年生。将来、トータルコーディネーターなるもの目指し、写真屋さん兼モデル事務所に仮就職して雑用からモデルまでやっているのだ。
細いながらも力強い腕に包まれながら彼女からの告発をどう説明しようかと考えた。
女の子と無縁なぼくが告白されたなんて犬が猫に告白するくらいありえないことだ。
「……いえないことだった……?」
なるべくすみれちゃんを見ないように首を振った。
「だったら話して欲しいな。ゆーくんがそんな顔してたらママが心配するよ」
「笑わない?」
「あら、ゆーくんが話してくれたことでわたしが一度でも笑ったことあったかしら?」
ううん。一度もない。疑ったことすらなかった。
ぼくが変だからとか、年下だからとか、そういった大人の心で接している訳じゃなく、ちゃんとぼくの目線……というか、まるで知ってたかのようにぼくの話を聞いてくれるのだ。
そこまでくるとこちらが疑いたくなる。すみれちゃん頭大丈夫って。
でも、直ぐに訂正する。すみれちゃんはバカじゃない。夢に生きる人でもない。ウソには敏感だし、ウソを見抜く"眼"を持っている。一度、これは絶対に信じないだろうということしゃべったときでも疑わず、驚きながらも受け入れてしまったのだ。
そんな人を疑うなど自分自身を裏切るに等しく、もっとも大切な人を自らの手で汚したようなものだ。
「ごめんなさい。疑ったりして……」
「ううん。わたしこそごめんなさい。踏ん切りがついてないのに無理やり聞いちゃって」
とっても優しい眼差しに体がこそばゆくなった。
……ほんと、すみれちゃんの"眼"は強力だよ……
「とにかくごはんにしよう。ママもパパもゆーくんが下りてくるまで待ってるんだからさ」
うんと頷き、すみれちゃんのあとに続いた。
「まぁまぁ、スゴいじゃないの!」
告白されたとの言葉にまずおばさんが驚いた。
椿おばさんは元女子プロレスラー。身長180という大きい体を持ち、現役当時は"黒薔薇の破壊神"と悪名を轟かしていた人らしいが、今では佳き母であり佳き専業主婦であった。
大の男を捻り殺せそうな体をくねらせ、夢見る女の子のようにはしゃいでいた。
「それでそれで、どんな子なの?」
「こらこら、落ち着きなさい」
自分のことのようにはしゃぐおばさんをおじさんが席へと引き戻した。
朝霧家でも異色な藤次郎おじさんは、歴史小説家で高校の頃から活躍していた謎多いの人だ。
そんな2人がどこで出会ったか謎だが、結婚して19年経っても仲が良い夫婦であった。
「それでどこのどういう子なの?」
「同じクラスで綺麗な子だよ」
余り説明になってないが、おばさんもおじさんも変な顔にはならない。そうかと納得されてしまった。
「……もしかして……」
おじさんが首を傾げながら呟いた。
「告白したのは隣の子かい?」
「ど、どうしてわかったの!?」
思わずおじさんを凝視してしまった。
「夕太郎から出てくる女の子の中でちゃんと夕太郎を理解しているのはあの双子ちゃんぐらいなもの。だが、あの双子ちゃんは夕太郎を男とは見てない。どちらかといえば仲の良いおにいちゃんと見ている。その双子ちゃんでなければ毎日のように夕太郎を見ている女の子となる」
まるであの双子ちゃんのように鋭く分析するおじさん。
「でも、それだけでその子が告白したとは限らないじゃないかしら?」
おばさんの疑問にぼくもうんうんと同意した。
「挨拶というものはね、そこにいると認識しなければ出てこないものなんだよ。もちろん、礼儀正しい子なら隣の席に挨拶しても不思議ではない。だが、夕太郎は気配を消している。目立たないように、気づかれないように、まるで空気に溶け込んだかのように存在を消している。そんな夕太郎に挨拶しているということは、常に夕太郎を意識してなければ無理というものだよ」
ぼくには全然わからなかったが、おばさんにはわかったらしく、そうねと頷いている。
わからないときはすみれちゃんだと、斜め前に座る従姉に助けを求めた───ら、なぜかすみれちゃんが頬を膨らませて怒っていた。
怒るすみれちゃんにオロオロしていると、プイとぼくから視線を外した。
「どうしたの、すみれ?」
娘の異変に気がついたおばさんが、ぼくに代わって尋ねてくれた。
「ゆーくん、わたしと結婚してくれるっていった」
「えーっ!!」
と、なぜかぼくより先にさくらちゃんが驚いた。
その衝撃的発言に驚くよりさくらちゃんに驚いてしまい、すみれちゃんよりさくらちゃんに釘付けとなってしまった。
大声を上げたさくらちゃんは、ぼくたちの視線に気がつき、顔を真っ赤にして席に沈んでしまった。
それ以上なにもないのですみれちゃんに視線を戻すと、目をうるうるさせていた。
「……酷いよ。あの天狗岩のところで結婚してくれるっていったら『うん』っていってくれたじゃない……」
「えっ!? ぼ、ぼく、そんなこといったっけ?」
「いったもん」
なっ、なんてことしたんだ、ぼくったら。すみれちゃんとの約束を破ったばかりかその約束を忘れていたなんて……。
「ご、ごめんなさい!」
うう、最低だ、ぼくったら……。
「明日、神崎さんに断ってくる」
怒られて泣かれるかもしれないけど、ぼくが悪いのだ、誠心誠意謝って、気が済むまで殴られよう……。
「このおバカッ!」
ゴスッ!
おばさんの一喝とともに鈍い音が響いた。
なにごとかと見れば、凶器に等しい拳を振り下ろしたおばさんと、頭を抱えてうずくまるすみれちゃんが見て取れた。
「……いっ、たぁーいっ! 今、本気で殴ったでしょう! 川の向こうでおじいちゃんが手を振ってたわよっ!」
「そのまま渡って怒られてきなさい!」
「……渡ったら帰ってこれないじゃないのよ……」
その口答えに再度おばさんの拳が振り上げられるが、すみれちゃんの勘の良さはぼく以上。振り上げられると同時に椅子を蹴って逃げ出した。
「暴力反対!」
そういっておじさんのうしろに隠れた。
「まあまあ、落ち着きなさい」
おじさんの言葉でおばさんは席に座った。
戦えばおばさんが強いのに、なぜかおじさんに弱いんだよね、おばさんって……。
「すみれもバカなこというんじゃない」
「バカじゃないも~ん」
「すみれっ!」
心臓の悪い人なら今ので死んでいるところだが、すみれちゃんにしたら風鈴が鳴っているようなもの。顔色一つ変えないでそっぽを向いてしまった。
「椿もすみれもそのくらいにしなさい」
これぞ鶴の一声。どちらも反論することなく席へと着いた。
「夕太郎もすみれのいったことは気にするんじゃないぞ」
「できないよ」
それがおじさんの言葉でもすみれちゃんとの約束を破る訳にはいかない。それこそぼくの誇りに反する。
「椿」
ゴスッ!
と、また鈍い音が響いた。
見れば先程と同じ光景が再現されていた。
「夕太郎がこういう性格なのはお前が一番わかってることだろう。なにがあったか知らないが、八つ当たりなら他の誰かにしなさい」
「……ごめんなさい……」
すみれちゃんには珍しくしゅんとしぼんでしまった。
なんとも気まずい空気が流れる。
「夕太郎」
そんな空気を払うかのようにおじさんが優しい口調でぼくを呼んだ。
「今度その彼女を紹介してくれるかい?」
うまく言葉にできないぼくは黙って頷いた。