消火器さん
それは「消火器さん」と呼ばれていた。
お地蔵さんよりも一回り二回り大きい、真っ赤な消火器だった。
アパートの廊下の端を、占拠するように
どっかりと居座っていた。
アパートの皆に親しまれているようで
拝む人や、頭(?)を撫でる人もいた。
新しく引っ越して来た当時の自分には、
不可思議であり
夜帰宅した時など、
ぬぼーっと立っているその姿に、
心底びっくりした。
昔話を思い出させるような大きさと姿だが、
意外なことに当時の最新式であり、
全自動で動き、消火する。
アパートの廊下で、
たばこを吸っている隣人を
見かけた時には大変だった。
消火器の下から車輪が出て来る訳でもなく、
その巨体が横揺れし
揺れが大きくなり
右、左、交互に
ゴン
ゴン
と、進んで来る。
と思ったら、つるっと滑り、転び
大きな音を立てて横倒しになった。
隣人と二人、呆然と見ていると、
突然
ゴロゴロゴロゴロ
その巨漢が猛スピードで
転がって来た。
俺は瞬時にドアを閉め、自室に逃げた。
こちらを見て、あっと言う隣人の驚いた顔が
ドアが閉まる瞬間、見えた。
禁じられた
「アパートの廊下でたばこを吸ったこと」への罰を示す
回転の轟音と、隣人の甲高い悲鳴が、
ドアの向こうで
物悲しく響いていた。
寝タバコがあった時も、大変だった。
突然夜中に
何度も何度も
ゴワン
ゴワン
と、大音響が鳴り響き
アパート全体を揺らした。
見ると、
「消火器さん」が、
そのドアに向かって
何度も何度も体当たりをしている。
その部屋の住人は、
起きて、自分の寝タバコに気付き、消し止めた後、
外で轟音が響き、
何事かと思い、
ドアを開けた。
瞬間、
炭酸ガスとリン酸アンモニウムが
住人の顔に噴射された。
飛び上がるようにして
部屋の中に入った「消火器さん」は
いつまでも
噴射を繰り返した。
部屋中を
破壊の痕と
白色に染め上げるまで。
そして、あの日。
あの日は、
朝から曇り、昼から雨になった。
そのストーブは、
この後、不良品として回収されることになったが、
その部屋の住人が家を出て数分後、
熱が残ったストーブから火が出て
あっという間に燃え広がった。
火災報知器が鳴り、
アパートの住人達は逃げ出した。
火は2階から出て1階にも広がり、3階へ4階へ。
平日で学校や職場に行っていた人が多く、
アパート内に人が少なかったのが、不幸中の幸いだった。
何台もの消防車が来て、
雨が降っていたのもあり
アパート全体に広がる前に
火は、思いの外すぐに消し止められた。
火が消えたアパートで
消防士が見たのは
3階の奥の部屋、
そのドアの前で倒れ、
汚れ、焦げている
「消火器さん」だった。
焼け焦げた壁が
その部屋の周りだけ、
白く綺麗なままだった。
火も煙も
その部屋には入れなかった。
そこには
壮絶な戦いの痕跡だけが
残っていた。
部屋の中では、
赤ちゃんが一人
元気に泣いていた。
「消火器さん」は
住人達だけでなく、街中の人々の善意により
元通り綺麗になり、廊下の端に鎮座している。
夫婦の無関心と押し付け合い、
思い込みの中で、取り残されていた赤ん坊は
その後、別の家族を得て、
アパートから去って行った。
それが数年前。
今日、その子が
初めてのランドセルを見せびらかす為に
「消火器さん」の元に
やって来た。
「消火器さん」は
それを見ながら
嬉しそうに
ゆっくりと
横揺れしている。




