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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【短編ざまぁシリーズ】婚約者様

ところで、婚約者様は今までどちらで逢瀬を重ねていらしたの?

作者: 居坐 るい



「あら、そこにいるのはチック様の従妹の……どなたでしたっけ? 

 あぁ、お節介かもしれませんが、一応お声がけさせていただきました。

 私? 彼の婚約者ですわ。 よく聞いてくださいね?

 ……彼は我が家の前に路駐したかと思いきや、毎回違う女性と密室で『楽しいこと』をしているそうなのです。私の口からはとても言えませんが。

 ……どこから漏れたのか? 御者の方が教えてくださいましたのよ、つい二ヶ月前に」



 その言葉をぶつけてやったのは、路駐が始まってからぴったり百日記念の朝だった。


 晴れた青空の下、いつものように家の前に勝手に馬車を停め、のんきに車内のソファーに腰を埋めているメリルの婚約者――チック。

 自分の行いに一片の後ろめたさもない顔で、連れの女性と抱き合っていた。

 それは仲睦まじそうに。


 しかし――


 チックは青ざめた。

 連れの女性は真っ赤になった。

 そして次の瞬間、乾いた音が連続して響いた。往復ビンタだ。しかも速度が尋常ではない。

 まるで怒りの化身が腕を操っているかのような勢いで、バチン、バチンとチックの頬が揺れた。


 メリルとしては、正直、自分も殴りたい。百日分なのだから当然である。

 だが彼女が鬼神のような形相でビンタを繰り返すのを見ているうちに、なぜだか胸の奥底に溜まっていた苦いものが、すうっと引いていくのを感じた。


 ――ああ、これは、もういい。

 そんなふうに思えてしまうほど、見事なビンタだった。


 だが、そもそもなぜここまでこじれてしまったのか。


 メリルはまだ怒りの収まらない女性を横目に、ふとあの出来事を思い出す。


 


 あれはつい、二ヶ月前のこと。







 「邪魔よねぇ……あの馬車」


 伯爵令嬢メリルは、自宅の庭でそっとため息をついた。


 朝露を含んだ花々が陽光を受けてきらめき、庭の先には、丘陵地帯特有のゆるやかな稜線がどこまでも伸びている。遠くの湖面は薄く風に揺れ、光を反射して銀の鱗のように瞬いていた。

 季節ごとに色を変える森と、澄んだ空気。その美しさこそが、代々この伯爵領が誇ってきた最大の資源だった。


 この地は雄大な自然と美しい景観で有名で、貴族向けの別荘地や避暑地として栄えるほどの観光地だ。

 とりわけ領主の館は、一等景色の良い丘の上に建ち、過去に招いた客人たちは口々に「ぜひまた来たい」と褒めたたえた。

 メリルも幼いころからその景色と共に育ち、胸を張って我が家の宝といえるほど愛している。


 しかし、その美景が今、危機に瀕している。


 昨今、観光の流行が景色から食へと移り始めた。

 だが伯爵領には、食文化のノウハウがほとんどない。景観だけを武器にしてきた領地経営は、次第に時代に合わなくなり、客足は遠のき、税収は最盛期の半分ほどにまで減少した。


 ――だからこそ、婚約が結ばれた。


 相手は近年、食の観光地として勢いを増しているノーダス子爵家。

 彼らは料理や食材の開発に優れ、観光地として急成長していたが、その反動で治安や景観が悪化し始め、管理に苦労していると聞く。


 互いの欠けている部分を補い合い、領地を発展させましょう――。

 そうして取り交わされた婚約……もとい契約である。


 メリル自身、子爵家から多くの知識を学び、実際に経験し、伯爵領の食文化の底上げに尽力してきた。その成果は確かに現れている。税収も今では緩やかに上昇し、領民の生活にも少しずつ余裕が生まれてきた。


 その点については、心から感謝している。

 婚約者であるチックにも、本来であれば礼を言うべきなのだ。


 ――本来ならば。


 しかし、そのノーダス子爵令息――メリルの婚約者が、最大の問題だった。


 名をチック・ノーダスという。

 食に関する腕と知識については、誰もが認めるほどの天才。

 だが、それ以外が壊滅的だった。


 引きこもりがちで、約束は平気で投げ出し、

 些細なことでメリルに突っかかってくる。

 さらに、大がつくほどの女好き。

 月に数回ある商談の場でも、社交の場でも、

 彼の隣にいる女性はいつも違っていた。


 ――メリルにすれば迷惑極まりない。


 そんなチックの馬車が、今日も自宅前に止まっている。


 美しいはずの庭の景色に、不釣り合いな塊がぽつんと居座っていた。


 ここ最近ずっと、彼の馬車は伯爵家の門前に居座り、

 まるで根でも生えたかのように動かない。

 最初は、「やっと伯爵家に顔を出す心積もりができたのかしら」と思い、

 急ぎ客間を覗いても、不在。

 館を一周してもいない。

 侍女長に確認しても、「本日は一件も訪問予定はございません」と返されるばかり。


 メリルは本気で首を傾げた。


 ――我が家の前に路駐して、そのままとはなにごとか?


 一週間ほど観察してみた結果、

 その馬車は朝早くから太陽が沈むまで動かないことが分かった。


 しかもその馬車ときたら、相変わらず豪華すぎる装飾で、

 ひとつひとつの意匠は悪くないのに、

 組み合わさると互いの良さを潰し合うという悲劇。

 遠目に見ても近くで見ても、情報量の暴力である。


 ――はっきり言って、あれはない。ゴミと同じだ。


 そしてよりによって、そのゴミと等しいものが、

 伯爵家の最も美しい庭を背景に、

 ど真ん中に鎮座しているのだ。


 メリルのお気に入りの花壇の色合いも、

 四季折々の庭の景観も、

 その馬車ひとつで全て台無しになる。


 胸の奥で、押し込めていた怒りがじわじわと膨れ上がる。


 「今日こそは言ってやりますわ。

 なんのために止まってるか存じませんが、そろそろ退いていただきたいものです」


 そう、ここ最近は花を見ようとしても、

 視界の端にあの馬車が映るだけで気分が削がれ、

 心穏やかに過ごすことすら難しくなっていた。




 メリルは深く息を吸うと、自邸の門をくぐり、まっすぐにあの悪趣味な馬車へ向かった。

 朝の光を受けて、過剰装飾の金細工がぎらぎらと反射し、庭の美しさを塗りつぶすように視界へねじ込まれてくる。見るたびに胸の奥がざらつくその馬車の前に立つと、そこには馬と、そして顔色の悪い御者だけがいた。


 車内からは、案の定、「楽しそうな声」が漏れ出している。

 不規則に揺れる影が窓越しに見え、耳障りな笑い声が風に混じって流れてくる。


 メリルは深い、実に深い溜息をついた。


 「はぁ……」

 「はぁ……」


 御者と、ぴたりと揃った。


 「……ふふ、偶然ですね。

 あなたはいつもここへ来るように命じられているのですか?」


 メリルの問いに、少しよれた帽子を深く被り、緑の瞳をした青年――御者は、肩を竦めながら応じた。


 「ええ。ちょうど一週間前から、毎日。よく続いたものです」


 「まぁ! あの三日坊主なチック様が? それはおめでたいですわね」


 頭がね、と暗に含ませると、御者もメリルも小さく笑った。

 妙にこの御者は、テンポが良い。

 価値観もツッコミどころも似ているのか、共感の仕方が同じように感じる。


 お互い涙を浮かべながら笑っていると、特に御者は肩を上下に震わせ、涙を拭おうと帽子を外した。


 ──ん?

 帽子の下から現れた顔を見て、メリルは気付いた。


 この御者、チックよりかっこいいのでは?


 思わず胸の内で呟く。

 そして、そこからひとつの仮説が形を成した。


 今までずっと不思議だったのだ。

 なぜあの引きこもりのチックが、毎回違う女性を連れ歩けるのか。




 「……あの、もしかしてですが、チックはあなたに言い寄ってきた女性に手を出して行為に及んでいるのですか?」


 メリルの問いに、御者は目を大きく見開き、すぐに苦笑いへと変えた。


 「……あはは……そうなんです。『その方が手っ取り早いだろ?』

 ってチック様が命ずるので、仕方なく」


 そして続けた。


 「僕が馬車の前で時間を潰していると、数十分にひとり、確実に女性が釣れるんです。

 それをチック様が扉を開けて、文字通り掻っ攫っていく、というのが常套手段です」


 まるで盗賊みたいでしょう、と御者は本当に愉快だといったように肩をすくめた。

 主人に恵まれないとは、少し同情してしまうほどだ。


 メリルは他人事めいた気持ちで思う。

 本当に、可哀想に。


 「そうなの、ではなおさら、あなたのことは放っておけないわね」


 その声には、「横暴な婚約者の暴挙から使用人を守る健気な令嬢」というニュアンスをしっかり含ませた。

 もちろん、意図的に。


 「私に──買収される気はあるかしら?」


 御者は目を見開き、そして堪えきれぬようにくつくつと笑った。


 「大変ですねぇ、メリル様も。

 賄賂を渡してまで不貞の記録を取らなきゃいけないなんて」


 「あら、正当な報酬をお支払いするまでよ」


 ――こうして、取引が始まった。


 メリルはほぼ毎日、御者に成功報酬として金銭を渡しながら、淡々と証拠を集めていった。

 この国では、三ヶ月以上、信用できる記録を積み上げれば、浮気として正式に認定される。

 その証拠を認めるのは、もちろん裁判所だ。


 チックの習性なら、余裕で集まるだろう。

 そう踏んだメリルは、ただ淡々と、冷静に、証拠を積み重ねていった。







 そして現在。

 馬車の扉が乱暴に押し開けられ、汗に濡れた女がメリルの方を見て手招きをする。


 「はぁ、はぁっ……ふう。あーすっきりしたわ!

 チックお兄様とキスすればあの御者との関係を取り計らってくれると言ったのに、全然そんな気配がないのですもの」


 言い捨てる女性の頬は赤く、どこか恍惚とした色さえ帯びている。

 なるほど、今日はそんな交渉で密室に誘い込んだらしい。


 メリルは戦慄した。

 御者の美貌に釣られる女も女なら、それを餌にできるチックもどうかしている。

 そして何より──この子もたいがい馬鹿だろう。


 馬車の中では、チックが血みどろの顔で倒れていた。

 往復ビンタの連撃を受け、造形がよくわからないほどに腫れ上がっているのに、舌だけは元気に回っている。


 「め、メリル! まってくれ、誤解なんだ! 俺は言い寄られてこまっ──」


 「最初に言う言葉がそれですか?」


 メリルはとうとう馬車の階段に足をかけた。

 冷たい視線でチックを見下ろす。


 「ごめっ──あ、愛してる! 俺にはメリルだけだから!」


 「それ、わたくしも言われましたわ」


 と、チックの従妹が横から追従した。

 御者も帽子を軽く持ち上げ、のんびりした声で続ける。


 「俺も毎回聞いてます。一言一句違わずですよ? ひねりがないですよねぇ」


 その言葉に、メリルは心のどこかで乾いた笑いが込み上げてきた。

 ──ああ、ほんとうに。世も末だ。


 ノーダス子爵家から得られる知識も経験も、もうすべて吸収し終えている。

 そして今、手元には三ヶ月分の不貞の証拠が揃っている。


 この婚約を切っても、痛くも痒くもない。

 だからこそ、メリルはこれまでで一番穏やかで、幸せそうな微笑みを浮かべ、チックを見つめた。


 その笑みに、チックの腫れた顔が一瞬ゆるむ。

 もしかして許してもらえるとでも思っているのだろうか。


 メリルは一応、最後に、罪の認識があるかを確かめてみることにした。




 「──ところで、婚約者様は今までどちらで逢瀬を重ねていらしたの? 答えられますよね?」




 あまりにも唐突な質問だったが、チックは油断しきった緩んだ思考をそのまま口に出した。


 「あ、あぁ。それはもちろん伯爵邸の前──」


 言った瞬間、メリルはチックを殴り飛ばした。

 そこで正直に言うバカが居ますか? ああ、目の前にいたわね。


 「婚約者としての責任もろくに果たさず、よくもまぁ」


 いけしゃあしゃあと、とメリルは乾いた音を立てて手を叩いた。

 その音だけが、無風の庭にやけに鮮明に響く。


 「おそらく本日の夕方には裁判所からの手紙……婚約破棄に関する書類が届くでしょう。

 約三ヶ月間、私の庭の前に路駐したことを悔やんでください。

 残りの長い人生を健やかに過ごされますようお祈りしていますわ」


 メリルは女の手を引き、馬車から降りた。

 春の風が、馬車の残り香を吹き散らしていく。


 「──馬車をノーダス子爵邸まで。後は頼みましたよ」


 「もちろんです、料金のうちですからね」


 御者は軽やかに帽子をかぶり直し、馬の手綱を握った。


 こうして、庭の景観を何よりも汚していた馬車がようやく消え、

 メリルの穏やかな日常は静かに戻ってきたのだった。




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このお相手の女性ですけど、護衛も兼ねた侍女として引き抜きはしないのですか? 中々の腕っぷしですし、度胸もあるみたいですから♪
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