第六話 蛍と月と星の石のお話。
杏珠さまのおっしゃることは、まったくいつも正しいのです。
「もっと…慣れた履物にすればよかったな」
「大丈夫?夢…」
私は指の間のまめが痛む足を摩りながら、なんとか笑ってお答えしますが。
みこと姐さまは…この蒸し暑い空気など何でもないご様子です。
浅黄色の着物も一切乱れる様子がなく、館を発った時と同じ歩幅ですいすいと歩いておられ。
なんと申しましても、額に汗の雫一つ浮かんでいないのです。
お綺麗な方というのは…私達と少し、体の仕組みが違っていらっしゃるのかも知れません。
「もうすぐやし、あんじょう気張ってな」
「…はぁい」
これも全て、蛍様と慎一郎さんの幸せを思ってのこと。
私は大きく息を吸い込むと、思い切り大股で歩き始めました。
………そして。
静かで清らかなその沼のほとりには、沢山の蛍が舞い踊っておりました。
ようやく姿を現した弱々しい月の光の映し込む隙がないほど…水面は無数の黄色い愛らしい光を受けて、きらきらきらきら輝いて。
息を呑んで黙り込む私を…みこと姐さまはご自身の背中に押しやり。
凛とした声で、化人さまをお呼びなりました。
すると。
水面の黄色い光が一層増したかと思った、次の瞬間。
藍色の着物を纏った女性の姿が…沼の上に浮かび上がったのです。
『誰かと思えば…杏珠のところの占い師か』
年の頃は、人にして五十ほどでしょうか。
髪に白いものが混じり、その目元には微かな皺も見えますが。
若かりし日をご想像すると、あれほどの美貌の持ち主である川の蛍様も叶わぬのではないかと思えるほど…お美しい方でした。
それに…
全身から放たれる光も、不思議なお力も…ずっと強いように思われます。
空気を震わすような緊張感で…まるで金縛りにでもあったかのように、私の体は動かなくなってしまいました。
悲鳴をあげることもままならず…息をするのがやっとです。
ですが。
そこはさすが…みこと姐さま。
まったく動じることなく、ゆっくりと髪をかき上げ。
「光栄ですわ。あんたはんみたいに力のある化人はんが、私のことご存知やなんて」
あんたはんほどのお方やったら…と、いつもの穏やかな表情で微笑んでおっしゃいます。
「私らが何を頼みに来たか、なんて…とうにお見通しですやろ?」
『………あの川のことか』
せっかくの美しい顔を歪めるようにして、不愉快そうな声を出す…化人さま。
『人間になりたい、なぞ…愚かしいにも程がある。おぬしはそう思わぬか?』
「さあ、私は人間やし…けど、ええお話や思いますけど?せっかくのお力をこの小さな沼に留めておくのは勿体無い。こちらの川まで勢力伸ばさはっても支障ありませんやろ?」
………そう。
みこと姐さまと杏珠さまの『懸念』とは…『蛍様がいらっしゃらなくなった後の川の蛍を誰が治めてゆくのか』というもの。
町から少し離れたこの沼の主である蛍の化人さまならば…と見込んで、お願いに伺ったというのが事の次第なのです。
『わしが申しておるのは…そのようなことではないわ』
「…はあ。では、どんな」
『あのような浮かれ心が未来永劫続くものと、おぬしは本当に信じておるのか?』
………浮かれ心?
『人間の心は移ろい易い。あの若造を見よ、まだまだ親の脛を齧っておるような青二才ではないか。所帯を持つなぞ…それだけでも夢物語であるというのに』
慎一郎様の、気弱な笑顔が脳裏に浮かびます。
『それだけではない。化人が人間になれば…寿命は遥かに短くなり、今持っている力も消えてなくなる…人間の生活に慣れるのに、戸惑い迷うことも数多あるであろう。あの若造に、あの娘を支えてゆけると申すのか?』
「…確かに、おっしゃる通りかもしれませんなぁ」
『娘もやがて年をとる…今の美貌がいつまでも続くわけではないのだぞ?皺々の老婆になった娘を、若造はずっと愛し続けられると思うか?』
みこと姐さまは…黄色く光る水面に視線を落とし、不意に黙ってしまわれました。
どんなお考えでいらっしゃるのか…
長い睫毛を伏せたその表情からは、一切うかがい知ることが出来ません。
『蛍様が人間になることが出来たら』
『二人が一緒になれたら』
そう思っているうちは、まだ…夢を見ているのだということ。
お二人の願いが叶う時…それは、夢が現実に成り代わる時でもあるのです。
今は想像もつかないような困難が、お二人の前に数多く立ちはだかることでしょう。
本当に、沢山の困難を乗り越えていくことが出来るのか?
化人さまのおっしゃっていることは…おそらく、そういうこと。
しばし、重苦しい沈黙が流れ。
みこと姐さまは視線を上げ、じっと…化人さまを見つめます。
「実は私も………あんたはんと同意見でしてなぁ」
………え?
「今は甘い夢に酔いしれているだけや、その願いがほんまはどんだけ重いことか…まったく分かってへん。二人が夢から醒めたとき…そんなこと、想像しただけでぞっとしますわ」
『………左様か』
…そんな。
誰にだっていつだって、わけ隔てなく優しいみこと姐さま。
面白半分のつづみ姐さまと違って、本当にお二人のことを応援していらっしゃるのだと…思っていたのに。
私は胸が痛むのを懸命に堪え、じっと姐さまの言葉に耳を傾けます。
『ならば、今すぐ戻ってあのまじないを止めさせぬか。あと一晩…さすれば願いは成就してしまうのだぞ?』
「…そうですなぁ」
化人さまは、みこと姐さまの歯切れの悪いお返事に苛立つような表情をなさり、深いため息を一つ。
『かようなことを申してもそちらは…若いものに対する、老婆の嫉妬とでも思うておるのだろうが』
「…別にそうは思てまへんけど」
いや思うておる、とおっしゃって…不意に寂しげな表情をなさいます。
『わしとて伊達に年は取っておらぬ。かような甘い夢を見たことも…無かったとは申さぬ。だが顛末は…見ての通りじゃ』
ずっと厳しい顔つきでいらっしゃった化人さまは…ふっ、と優しい表情になり。
だからこそあの娘が気がかりなのだ、と…小さな声でおっしゃいました。
みこと姐さまは…
真剣な表情でお話に最後まで耳を傾け。
「あんさんの言わはることも…よう分かるけど」
不意にそんなことをおっしゃり、目を輝かせて…化人さまをご覧になりました。
「けど、だからこそ…あの二人に賭けてみようとは思わはりません?」
『ほう…賭けるとな』
そう、と頷いて、姐さまは未だ動けずにいる私を優しい眼差しでご覧になります。
と。
ふっ…と、金縛りが解けたように、体に自由が戻ってまいりました。
ほっとため息をつき、ぺこりとお辞儀をする私ににっこり微笑みかけ。
姐さまはまた、化人さまに視線を戻し。
「あんたはんはもしかしたら、むかぁしそれは辛い恋をしはったのかもしれへん。私かて…そうそう甘いもんやないことくらいは分かるつもりや。けど今度こそ!て」
ぽん、と小気味良い音を立て、両手を合わせておっしゃいました。
「そないな可能性に賭けてみる…いうんはどうですやろか?」
化人さまは、ゆっくりとした大きな身振りを交えたみこと姐さまのお話に、じっと耳を傾けていらっしゃいます。
「それに、あの二人ほんま真剣なんや…その上ああ見えてえらい頑固で。親兄弟や私や杏珠さま、それにあんたはんが言うたかて、聞く耳は持たへんやろ」
『だから…したいようにさせればよい、と申すのか?』
いいえ…と姐さまは穏やかな表情で、真珠の耳飾りを蛍の光に煌かせながら首を振ります。
「そういう投げやりな気持ちやのうて。私には…あの二人に、蛍よりずっと明るい希望の光が見えるような気がして」
「希望の………?」
思わずつぶやいた私に笑顔で頷き。
みこと姐さまは、はっきりとした声で…おっしゃいました。
「そうや、確信は持てへんけど…万が一の奇跡が起こって二人は幸せになるかもしれへんなって。だから私、無理やて最初から決めてかかるんやのうて二人のこと…信じてみよう思てますんや」
化人さまはしばらく無言で、黄色に光る水面を眺めていらっしゃいました。
ですが。
夜が明け始め、空が淡い紫色に染まりかけた頃。
晴れ晴れとした表情でゆっくりと頷き…こう、おっしゃったのです。
『承知した。私も信じてみようではないか。若く愚かしく、そして…この蛍共より明るい光に満ちた…二人を』
あくる日は真っ暗闇に包まれた、静かな夜でした。
神妙な面持ちで待つ、慎一郎さんの掌のその石は。
淡く鈍い…黄色い光を放っております。
月のやさしい光を映しこんだようなその色は、まるで蛍の輝きのようでもあります。
「月の光をいっぱいに吸い込んだあの石は、今日の暗闇を奇異に思い…近くの光を手当たりしだいに吸い込もうとするらしい」
頭の上からつづみ姐さまの囁き声が降ってまいります。
「光を、ですか」
「左様。それ故ここに現れた蛍殿の光を、化人の力もろとも吸い込んでしまうのだと。光を吸って吸って腹いっぱいになった石は、天の昇って星になるそうな」
「…素敵」
私は思わずため息をつき、声のほうへ視線を向けますが。
黒と藍の溶け合ったような闇の中で、隣に立つ姐さまのすがたはほとんど見てとれないのでした。
「なんせあの石、元々空に光る星だったのが光を失って落ちてきたものなのだからな」
「本当ですか!?」
「ええ…杏珠さまが言うてはったんやもの。間違いない」
みこと姐さまも明るい声でおっしゃいます。
杏珠さまは…
夕方ふらりとお出かけになったまま、未だ戻って来られません。
また、どこか遠くへお出かけなのでしょうか。
姐さま方はさも当然のことのように振舞っていらっしゃいますが、私はいつも…少しだけ心配になってしまいます。
旅装束ではなく、いつもの更紗の着物姿で。
その上、今夜はこんな真っ暗闇なのですから。
いったい杏珠さまは、いつもどこへお出かけになっているのでしょう。
どなたに会いに?
何をなさるため?
何にせよ、旅路でこのような不思議な物を見つけて持ち帰られているのは…確かなようです。
そんなことに思いをめぐらしつつ…蛍様をお待ちいたしましたが。
待てども待てども…彼女は姿を現すことはなく。
「私…川まで様子を見に行って参ります!」
痺れを切らした私は、小さな提灯を持って川原へ一走りいたします。
「蛍様、いったいどこにいらっしゃるのですか!?どうか姿をお見せください!」
何度もお呼びしてみますが…川面はしんと静まり返り、蛍の微かな光が行き交うのみ。
「慎一郎さんがお待ちですよ!早くいらっしゃらなくては、夜が明けてしまいます!蛍様!?」
…そして。
彼女がやっと姿を現してくださったのは。
後から駆けつけたつづみ姐さまの、意地悪な一言の後でした。
「とうとう現れなんだの。最後の最後に怖気付いたか…いやはや思っておった通りじゃ」
厳しいお顔できっ、とつづみ姐さまを睨み。
蛍様は悲しい目をして…慎一郎さんをご覧になりました。
『慎一郎さま…』
「蛍子!いったいどうしたんだ!?早くこっちへ」
『私は…一緒には参れません』
思いがけない言葉に…呆然と立ちすくむ、慎一郎さん。
「…なぜ」
『…聞いてしまったのです、昨夜』
祈願成就まであと一夜。
ふらりと街を歩いていた蛍様は、ふと…慎一郎さんのお宅の前を通りかかったそうです。
『出て行け!!!』
初老の男性が怒鳴る声と…奥方らしき女性がすすり泣く声。
『親の命に背き、どこの誰とも分からぬような娘を嫁にするなどと…そのような世迷言を言う者なぞ、我が家には要らぬわ!』
『あなた…やめてください!』
『黙れ!お前なぞ勘当だ!!!』
奥方が止めるのも聞かず、男性が怒鳴りつけた相手。
それは………慎一郎さんだったのです。
『どこへでも…好きなところへ出て行くがいい!!!』
慎一郎さんは………
父上の荒げた声をじっと黙って…聞いておられたそうです。
そして。
二人に小さく、折り目正しいお辞儀をして…
どこかへ…消えてしまわれたのでした。
『お父様の決めた…お相手がいらっしゃるそうですね』
痛々しくも落ち着いた、蛍様の声が響きます。
『大事な縁談を断り、継がねばならぬ家も捨てて、私と一緒にと…おっしゃっているのですね?』
「それも…聞いてしまったか」
だが、と…慎一郎さんはきっぱりおっしゃいます。
「そんなことより、私にとってはお前が大切だ。見ていてくれただろう?この半月あまり、どれだけ一生懸命祈願成就の為に力を尽くしてきたか」
『ですが、私なぞのために…慎一郎様の幸せを壊したくはないのです』
「…何を言っているんだ?私はお前が」
『本当に…宜しいのですか?』
彼女の問いかけの後。
ふっ…とひととき沈黙が流れ、川のせせらぎだけが優しく耳をくすぐりました。
『そんな風に全てを捨て、私と一緒になって…あなたは本当に幸せなのでしょうか』
思わず、私は…
傍らに立っていた、みこと姐さまの着物の袖を掴みました。
『甘い夢』と『厳しい現実』。
彼女の口に上った言葉は昨夜、姐さまと沼の蛍様のものと…全く同じだったのですから。
『二人が夢から覚めたとき』
ぞっと背筋が寒くなります。
蛍様は…夢から醒めてしまわれたというのでしょうか。
お二人の願いは…やはり蛍のように淡く甘い夢だったというのでしょうか。
どうか私のことなぞ忘れてください、と囁くようにおっしゃる蛍様の頬を、一筋の涙が伝います。
『そして、お父様の跡を継ぎ…どうか穏やかに幸せに暮らしてください』
「………蛍子」
『あなたが幸せで、笑っていてくださるのなら…私は………辛くとも淋しくとも耐えられます!ですから』
慎一郎さんは、黙ったまま。
静かに…前に進み出ると。
蛍様の体を強く強く…抱きしめました。
「私には…耐えられぬ」
『…慎一郎様?』
「お前も知っているだろう。私は…お前が居なくては駄目なのだ」
この半月の間。
夜は石に願をかけ、昼は父上の店の手伝いをして…眠る暇などほとんどなく。
朦朧とした意識でふと…思ったそうです。
『こんなことをしていて…本当に自分は幸せなのだろうか』
目を閉じると、心の奥底に潜む魔物が…耳の中で悪戯に囁くのだそうです。
『もう良いのではないか』
『願いが成就などするものか』
『成就したところでどうする?お前のような甲斐性無しが、蛍子を幸せに出来るものか』
『父上は決してお許しにはならぬだろう。親不孝をして彼女を不幸にすることが…本当にお前の幸せなのか』
首を振って魔物の声を振り払い、なんとか迎えることが出来た…今朝の日の出。
赤く染まる地平線を見つめ。
『願いが叶わぬなら、それでも良いではないか』
そんな思いが、胸の深い深い所からこみ上げてきたといいます。
『自分にとって彼女がどれほどに大切な存在か、それが分かっただけでも大収穫だ』
そして…
「もし本当に蛍子が人間になれたなら…私は確かに甲斐性無しだが、何をしてでも蛍子を幸せにしてみせる。朝の白んだ空の下、そう…誓ったんだ」
だって、と…蛍様の髪を撫でながらくすぐったそうに微笑む、慎一郎さん。
「この半月…死ぬ思いだったのだぞ。正直自分でも、ここまで出来るものかと驚いたよ」
そう。
それほどまでに彼の愛は…強いものだったのです。
「お前は嫌かい?私と一緒になれば、食うや食わずの生活をせねばならぬかもしれぬ。たとえ貧しい暮らしになったとしても、一緒に…耐えてくれるか?」
愛する人の胸の中で、蛍様は涙を流しながら…小さく、頷きました。
慎一郎さんは潤んだ瞳を空に向け、少しおどけた振りでまたお尋ねになります。
「だが…人間というものは厄介だ。腹が減っては苦しいぞ?それでも」
蛍様はくすくす笑いながら、今度ははっきりと…はい、とお答えになりました。
と………
ぎゅっ…と私の手を握る、冷たくて柔らかい手。
はっとして見ると。
『な?大丈夫やったやろ?』
そんな風にみこと姐さまが微笑んで、私をご覧になっていました。
私も少し胸のあたりが暖かくなり、姐さまに微笑み返します。
それと…ほぼ同時。
慎一郎さんの懐に仕舞われた石が、急に眩しい光を放ったのです。
石がふわりと宙に浮き上がると、蛍様の体の光は一層増し。
黄色い光が…周囲を包みこみます。
光の珠となった石は、音もなく高く高くへ舞い上り。
そのまま空に昇り…
黄色く輝く、小さなお星さまになりました。
辺りはまた真っ暗闇に戻り。
私はあわてて川の蛍の淡い光をたよりに、消えてしまった提灯に明かりを燈します。
呆然としたご様子で周囲を見渡し…眩暈を起こしたように、ふらっと慎一郎さんにもたれ掛かる…蛍様。
「蛍子!?」
「…少し………体が重くなったような気がします」
よく見ると顔色も悪いご様子で、少し心配になってしまいますが。
「大丈夫。人間の体に馴染んでないだけや…じき良くなるやろ」
みこと姐さまは何でもないように、にこにこ笑いながら頷いていらっしゃいます。
つづみ姐さまも欠伸をしながら、よかったではないか…と、一言。
「これからは夜な夜な密会せずとも、四六時中一緒におれるのだから…せいぜい飽きて嫌気がささぬよう頑張るのだな」
………もう。
本当はご自分だって嬉しいくせに…こんなおっしゃり方しか出来ないのですもの。
今度はそれが、蛍様にもきちんと伝わったようで。
まだ少しだけ青い顔で、微笑んで頷いていらっしゃいます。
「これからは二人の足で…しっかりと歩んで行くんだよ」
突然聞こえてきた声に驚いて振り返ると。
杏珠さまが…初老のご夫婦を伴い、立っていらっしゃいました。
慎一郎さんは驚いたように目を見開いていらっしゃいます。
「父上…母上………」
これは…
驚いて黙り込んだ私達に、呆れたように笑いながら杏珠さまがおっしゃいます。
「夕刻散歩をしていたら声を掛けられてね。倅殿の奇妙な行動はこの館に出入りしているせいだと…お相手もどうやら、みことだと思うておられたようだよ」
「………私?」
きょとんとした目でご自身を指差すみこと姐さまを、つづみ姐さまはお腹を抱えて笑いながら見ておられます。
真っ赤になって俯く慎一郎さんに、杏珠さまが優しい視線を向け。
穏やかに諭すように…おっしゃいました。
「勘当になったのはまあ、仕方がないかもしれない。だがね…一生を共にしようという伴侶を、一目くらい両親に引き合わせたとて…罰は当たらぬのではないか?」
慎一郎さんの父上は…苦々しい表情で、じっとこちらを見ていらっしゃいます。
暗い表情で押し黙り、俯いている蛍様に。
何と声をかけてよいやら、という顔で…ご両親を見つめる慎一郎さん。
誰も何も言葉を発することが出来ず、張り詰めた空気が辺りを包んでおります。
今回ばかりは杏珠さまも、手助けはしてくださらないご様子で。
私は居た堪れない心地になって…暗い地面に視線を落としました。
………が。
「そちらが…お前の大事な人なのかい?」
長い長い、重苦しい沈黙を破り。
堪りかねたように前に進み出た慎一郎さんの母上が…そう、お尋ねになったのです。
はっと我に返った様子で…大きく頷く慎一郎さん。
おい、と袖を引く父上の手を振り払い。
母上は蛍様に近づいて…深々とお辞儀をなさいました。
そして、涙を流しながら…おっしゃったのです。
「うちの息子を…慎一郎を、よろしくお願いします!見ての通り、頼り甲斐のない子ですが…どうか支えてやってください」
「お前!何を言っておるのだ!?」
怒鳴る父上をきっと睨んで、母上は蛍様の手をぎゅっ…と握り締め、目を細めました。
「こんなに綺麗な方だなんて…まるで夢でも見ているみたい。慎一郎、あんたに付いてきてくださる奇特な方なんだから…末永く、大切にするんだよ」
「母上…」
「いい加減にせぬか!それとはもう、親子の縁は切れておるのだぞ!?」
父上の言葉に大きく首を振って、母上はきっぱりとおっしゃいます。
「例え縁を切ったとしても、この子は私がお腹を痛めた一人息子なんです!妻になってくださる方によろしくとお願いするのは…当然のことじゃありませんか!?」
父上ははっとした顔で…声を詰まらせました。
「慎一郎…体に気をつけて、どうか幸せになっておくれ。私は毎日、あんたの無事を…仏様にお祈りしているからね」
慎一郎さんは、涙声で言う母上に…涙を流しながら答えます。
「はい!蛍子と…きっと、幸せになります。母上も…父上も、どうかご達者で」
「お前なぞに心配される筋合いはない」
低い声で呟くと…
父上はくるりと背を向けて、ぽつり…と、遠くの街の名をおっしゃいました。
「そこへ行けばわしの古い馴染みがおる。勘当になった身とはいえ、今までわしが叩き込んでやった目利きが何かの足しにはなるであろう。訪ねてみるがよい」
「………ありがとうございます!」
慎一郎さんと蛍様は去っていく父上と母上の背中に、いつまでも頭を下げていらっしゃいました。
つづみ姐さまとみこと姐さまと一緒に…出来たばかりの、小さなお星さまを見上げます。
「どうやら、八方丸く収まったようだの」
しみじみと呟く…つづみ姐さま。
ええ…と頷いて、みこと姐さまがおっしゃいます。
先程別れたお二人の…幸せそうな笑顔が脳裏に蘇ってきました。
「石は元いた星の世界へ帰っていって、二人は新しい道を歩み始める…か。なかなか詩的でよろしいやないの」
吹き抜ける涼しい空気を、胸いっぱいに吸い込んで。
私はうーんと背伸びをいたします。
「あの石は元に姿に戻って…二人の守り星になったのですね」
私の言葉に、ふっ…と一瞬黙りこみ。
姐さまは怪訝そうな声で、ぽつりとおっしゃいます。
「夢…なかなか気の利いたことを申すな」
みこと姐さまはくすくす笑って…私達の顔を交互に見つめ。
帰ろか、とおっしゃいました。
振り返ると、そこには主を無くした蛍達。
少し淋しげではありますが…来年はまた、別の化人さまがお世話してくださるのです。
今年のように沢山の黄色い光で、街のみなさんの目を楽しませてくれるでしょう。
『そして私は、川原の蛍を見るたびに、慎一郎さんと蛍様のことを思い出すと思います』
丁寧な字でそう締めくくられた夢の日誌を閉じると。
館の庭には、いつの間に門をくぐってきたらしい…いづこがにこにこ笑って立っていた。
「なんや…来てるんやったら声掛けてくれたらよかったのに」
ごめんごめん、と笑いながら、彼は縁側に腰かける。
「みことがすごく熱心に日記帳読んでたからさ、声掛けるの勿体無くて」
「…勿体無いて?」
「なんだか優しい目してて、すごくいい感じだったよ」
「……………」
私は返事をせずに、ふわふわした雲の浮かぶ空に目をやる。
全く…この子は。
こういう物の言い方が、一体どのくらい街の娘はん達を誤解させてるか…まるで分かってへんのやから。
「聞いた?反物問屋の若旦那が駆け落ちしたって」
「…へぇ。お相手は誰やの?」
「それが誰もわかんないらしくてさ。街の人間じゃないらしいんだけど…なんだ。ちょっと妙な感じだったから、てっきり杏珠さまやお前達が絡んでると思ってたんだけど」
どうやら当てが外れたらしい…とつまらなそうに口を尖らせ。
いづこもまた、穏やかに晴れた空を見上げる。
「………馬鹿な奴だよね」
「………そう?」
「そうだよ。あの慎一郎って男はこの街を出たことがないし、はっきり言って才覚があるとも思えない。それなのに、恵まれた環境を捨てて一時の感情に流されるなんて…身の程知らずもいいところだ」
………そう。
穏やかそうで情緒的に見えるが…本当はひどく現実的なのだ、いづこは。
「みこともそう思うでしょ?」
「………そやなぁ」
「だって、そういうのって…嫌いでしょ?そいで、つづみはああ見えて好きだよね?情にもろいっていうか」
さすがに長い付き合いだけあって…よく分かってる。
いつになく厳しい目をして、どっかで行き倒れになったりしなきゃいいけど…とつぶやく、いづこ。
「けど、同業のおっきい店に跡継ぎがおらへんようになって…あんたの実家はもっと繁盛するようになるんやない?」
跡を継ぐ気がないのは俺も同じだけどね、といつもの柔らかい表情になって笑うが。
また遠い目をして…いづこは唱えるように言った。
「本当…恋は人の心を惑わすんだな。そして人の一生を大きく狂わせる。そんなものに振り回されるなんて…愚かだよ」
「けど、そう分かっていても…どうしようもなく、恋してしまうものなんやない?」
だから、恋に『落ちる』というのかもしれない。
今朝まだ涼しい時分、一人で水晶玉に向かい。
あの二人の運命を占おうとして…やめた。
そんなもの、知らなくても良いではないか。
二人はあんなにも幸せそうで…明るい未来が待っていると、心から信じているようだった。
私なんかよりずっと長い長い時を生きてきた蛍の化人の決断が、そんなに軽いものであるとは思えないし…思いたくもない。
それに。
あんなに夢が嬉しそうだったのだ。それに…つづみも。
それに………杏珠さままで。
あの場に慎一郎の両親を伴って現れたのは…
『生涯を共に過ごす相手を、生みの親に一目遭わせても罰は当たらないだろう』
あの一言に…尽きるのだろう。
そんなことをぼんやり思った。
恐ろしいね、といづこは神妙な顔で頷く。
「恋心なんて、鍵をかけて蓋をして、どこかへ閉じ込めてしまえればいい…みことは知らないの?そういうまじない」
「…そんなん、あるんやろか」
そうだな、と笑い。
いづこは不意に真剣な表情になって、私を見た。
「………え?」
「どうかした?」
「…いや」
本当に…どうしたんだろう。
今…確かに彼は、何かを私に告げたはずなのに。
「何や私…今あんたが何言うたか…聞こえへんかったわ」
「…嘘?」
「嘘やないて。だって…ほんまに」
私の言葉を、いづこは本気にしていないらしい。
またそんなこと言ってはぐらかして…と笑って立ち上がり、館の外へと歩き出す。
「じゃあね、みこと…また」
「………ええ」
いづこの去った、静かな庭を眺めながら。
私はぼんやりと…いづこの口の動きを真似、それを声に出してみた。
「『てがみがきたよ。げんきそうだった』」
多分…そう。
『みことは元気かって』
『心に鍵をかけて蓋をしてしまうまじない』…か。
どうやら私は知らないうちに…自分で自分にかけてしまったらしい。
日差しの強く照りつけるようになった庭では。
人の気も知らないで…蝉が、元気な鳴き声を響かせていた。