第五話 鳴かぬ蛍の恋のお話。
このところ日増しに夏めいて参りまして、夕刻涼しい風が吹きますと、思わずほっと溜息をついてしまいます。
みこと姐さまのお部屋の軒下で揺れる、風鈴のちりちりという上品な音に耳を澄ませつつ、私は不意に沸き上がってきた疑問を口にいたしました。
「蛍狩りって」
「…何?」
水晶玉を磨く手を止めず、しかし姐さまは優しい声で聞き返してくださいます。
「何で『狩り』っていうんでしょうね。実際に蛍を捕まえる訳でもないのに」
「そんなん言うたら、紅葉狩りかて別に紅葉は集めへんやない」
「でも、紅葉は木ですけど…蛍は生き物なんですよ?鹿を狩る、と言えばほら、命を取ることでしょう?」
占い道具の手入れをしていた手を止め、みこと姐さまはきょとんとした瞳で私をご覧になります。
「…妙なこと思いつくなぁ、あんたは」
まあ確かに…と頷いて、艶やかな長い髪に手をやり。
姐さまはふわりと微笑んで、穏やかな口調でおっしゃいました。
「きっと昔の人らが…蛍さんは命も短いし、悪さしたら可哀相やて思わはったんやろ」
………なるほど。
「難儀やと思わへん?一生のうちほとんどの時間を暗い水ん中で過ごして、ひと夏の間に目一杯輝いて、恋をして、子を残す…て」
「…そうですねぇ」
そんな儚い美しいものに心惹かれてのことか。
街の皆さんの間では、夏の風物詩、蛍狩りが大はやりなのでした。
「蛍にも…化人さまはいらっしゃるのですか?」
「ええ。ここの河原、あちらの河原て…縄張りみたいなんはあるみたいやけど」
そっか。
街の外れの小さくて清らかな川に棲む化人さまは、大層お綺麗な方なのだそうです。
蛍の恋…か。
蝉や鈴虫とは違い、高らかに鳴くことなど決してなく。
それでも、大好きな人に見つけてほしくて…ただ静かに、身を焦がすように光を放っているのでしょうか。
そんなことに思いを馳せておりましたら…ふと。
昼間の奇妙な客人さまのことが、脳裏に蘇ってまいりました。
「何か…お困りですか?」
いつも通り『めいぼくそう』の前を十回行き来した方に、私は笑顔でお声をかけました。
すると。
姐さま方と同じくらいの年の頃の、上品な着物に身を包んだその男性は、あの…と躊躇いがちに口を開きました。
『ここでは………』
『…はい?』
『と…そのぉ………恋………の…悩みなども…聞いていただけるのですか?』
あら。
少し年上らしい男性のかわいらしいご相談に、思わず笑みが零れてしまいます。
『ええ勿論です。若い方ですと、そういったご相談の客人さまがほとんどで』
『………そう…ですか』
不安げな瞳に一瞬、光が点ったように思えたのですが。
彼はふう、と小さく溜息をついて、ありがとうございましたとお辞儀をなさると…ふいと館に背を向けてしまわれました。
『あの…お待ちください!お話だけでもして行かれては』
『いえ…結構。失礼いたしました』
猫背がちなその後ろ姿は、明るい陽射しの中にあって…淋しげな影を帯びておりました。
「私…何か失礼なこと申し上げたかしら」
呟いた私に、微かな衣擦れの音とともに立ち上がったみこと姐さまがおっしゃいます。
「夢みたいな可愛い子に聞かれて…恥ずかしなってしまわはったんやない?」
「そっ…そんな、可愛いなんて私…」
思わず顔を赤らめた私に姐さまは愉しそうに目を細め、顔を上げて半分に欠けた月をご覧になりました。
「まあ…ほんまに悩んではるんやったら、またお越しになるやろ。あんたは心配せんでもええ」
ほのかな白い光に照らし出される、みこと姐さまの横顔はそれはそれは綺麗で。
でも………
何故だか少し…哀しげで。
みこと姐さまにも…
私の知らない…身を焦がす恋があるのでしょうか。
「…そうですね」
私は小さく頷いて、自分の部屋へ戻ろうと立ち上がりました。
すると。
「おーいみこと、ぬしに客人じゃぞ」
戸口に立って欠伸まじりでおっしゃったのは…つづみ姐さまです。
「私に?」
「こんな夜更けに…ですか?」
んー…と困ったように頭を掻き、姐さまは床に視線を落とします。
「わしもそう言うたんじゃがの…明るくなってから出なおしてくれと。じゃが…杏珠さまがどうしてもとおっしゃって聞かぬゆえ」
「杏珠さまが?」
「…一体どういう」
なんでも…と私達を導くように、つづみ姐さまは背を向け、廊下を歩き始めます。
「『こんな夜更けに』しかここへ来れぬ事情の…客人らしい」
みこと姐さまのお仕事部屋に座っていたのは、一人の美しい女性。
白地に紺で紫陽花の花模様が染め抜かれた浴衣を通して、全身から…淡い黄色い光を放っていらっしゃいます。
姐さまが座につかれますと、彼女は膝の前で両手を揃え、黙ってお辞儀をなさいました。
驚く気持ちを鎮めるためか、みこと姐さまは青い石の耳飾りに手をやり…
静かに…お尋ねになります。
「あんた…化人さんやね?」
『……………』
「あの………川の…蛍の」
『………はい』
なるほど…と呟き、一緒に部屋を覗き見ていたつづみ姐さまが私の方をご覧になります。
「そういえば、久しくなかったな。ああいう…」
化人の…客人さま。
『めいぼくそう』へは、様々な客人さまがいらっしゃいます。
街の皆さんだけでなく、占いの評判を聞き付けた遠方の方もいらっしゃいますし、話の種にと近くの港町に仮住まいをしていらっしゃる、異人さまがお越しになることもあります。
それに………悩みをお持ちの化人さまも。
「先の破れ提灯も客といえば客だが、どちらかというと…『転がり込んできた』というほうが近かったからの」
「そうですね」
丁度先程、みこと姐さまと彼女の噂をしていたばかり。
美しい蛍の化人さまに…一体、どんなお悩みがあるのでしょう。
蛍様がその男性と出逢ったのは、三年前の夏の夜だったそうです。
蛍の飛び交う季節が終わると、彼女はまた次の夏まで長い眠りにつかねばなりません。
川原を散策する、愉しげな街の皆さんの様子に心惹かれ。
『川のほとりに立ち…行く季節を惜しんでいたのです。そうしましたら』
『蛍がお好きなのですか?』
愛しい人を脳裏に思い描いてのことか、蛍様は嬉しそうに目を細めます。
『私は蛍は嫌いです』
「それはまた、何故じゃ?」
覗き見をやめ部屋に足を踏み入れたつづみ姐さまが、興味津々な表情でお尋ねになります。
『蛍の光はぼんやりとして、はっきりしないのがお嫌なのですって。そんなことをおっしゃるものですから、さぞはっきりとした男気のある方なのだろうと思ったのですけど』
『はっきりしないのは、まるで自分の姿を写し見ているようで…嫌なのです』
…何だか、不意に体の力が抜けてしまい。
隣のつづみ姐さまも、ずるっ…と前のめりになっておられます。
「その…なんや、おもろいお人やなぁ」
目を丸くしたみこと姐さまがおっしゃいますと、そうなんです、と嬉しそうな表情で頷く蛍様。
『面白くて、それにとっても愛らしくて。しばらくお話しているうちに、私何故だかとても…別れ難くなってしまって』
『また明日も…ここで会えますか?』
同じ思いだったらしい彼の言葉に、胸が熱くなると同時に…淋しい思いに囚われたのです、と蛍様。
『それは…その夏を過ごせる最後の夜だったのです。かといって、事情をお話しする訳には参りませんし…困惑する私に、慎一郎様は『明日が無理ならば明後日でも構いません。私はあなたがいらっしゃるまで、毎日この川原でお待ちしています』…と』
「それはまた、随分と手練手管の巧みな御仁じゃのぉ」
はっとして…
私は、あっけらかんと言い放ったつづみ姐さまの袖を引っ張りました。
しかし、姐さまは強張った表情の蛍様に、だって…と悪びれない様子でおっしゃいます。
「そんな殺し文句、街の凡庸な若い衆には言えんじゃろ。よっぽど遊び慣れておるな、と」
「けど…そない口説き上手なお人が『はっきりしない性格』やなんて、自分のこと言うたりするやろか」
非難するでもなく不意に湧き上がった疑問を口にした…そんな素振りのみこと姐さまに、つづみ姐さまはさも当然のことと言わんばかりの表情で、ひょいひょい手を振って答えます。
「わざと弱い男を装うほうが女受けの良いこともあるからな。押したり引いたりしてみて、相手の琴線に触れるような態度を探るのは…花街の常識ではないか」
「ちょっと…姐さま、いい加減に」
なさってください、と私が言いかけた…その時です。
蛍様がすっくと立ち上がり、怖い顔でじっと…つづみ姐さまをご覧になりました。
そして…きっぱりとおっしゃったのです。
『慎一郎様はそんな方じゃありません』
「そ…そうか」
『そんなおっしゃり方、この私が…断じて許しませんから』
「何であんなことおっしゃったんですか?」
「だって…ぬしは思わなんだか?」
「思いませんよ…そんなこと」
みこと姐さまに部屋をやんわりと追い出され、私達は縁側で傾きかけた半分の月を眺めておりました。
つづみ姐さまはといえば、悪びれる様子など微塵もなく。
「わしゃ、ああいうのが大嫌いでの。あんな色惚け話をうっとりした目で語られては、体が痒うて痒うて仕方が無いわ」
愉快そうにけたけた笑う姿に…思わずため息をついてしまいます。
だから…恋占いの類は、みこと姐さまに一切任せてらっしゃるのね。
「私、そんな風に…真剣に誰かに恋をしてらっしゃる方を笑うものではないと思います」
眉間に皺を寄せて言う私に、不思議そうな顔をする…つづみ姐さま。
「姐さまは…ないんですか?真剣に誰かを好きになられたこと」
ぽりぽりと頭を掻いて。
「………どうじゃったかのぉ」
とぼけた姐さまの口ぶりに、私はまた一つ…ため息をつきます。
「夢こそ…まるであの化人どのの気持ちが分かるような話ぶりだが?」
「………えっ?」
かぁっ…と、顔が熱くなるのがわかりました。
してやったりという顔をした姐さまは、綺麗な紅色に塗られた指先でちょい、と私のおでこを突っつきます。
「なんじゃなんじゃ?ぬしは…半人前のくせに、いっちょまえに想い人でもおるのか?」
「そっ…そんな方、いらっしゃいません!何おっしゃってるんですか!?」
「本当かぁ?何なら当ててやろうか?ほぉれ顔に書いてあるぞ、ぬしが惚れておるのは」
「やっ…やめてくださいってば!!!」
「なんや愉しそうやなぁ、二人してこんな夜中に大声出して」
振り返ると、みこと姐さまが穏やかな笑みを湛えて立っていらっしゃいました。
「客人はん、帰らはったえ?」
「で………どうじゃった?」
「どうて…何が『どう』やの?」
「だから!化人どのの要求じゃ。あの様子から察するに、縁結びの相談はもう間に合っておるようだし」
「……………」
興味津々なつづみ姐さまに…私はまたもう一つため息をつきました。
みこと姐さまは笑顔のまま黙って、私達の側にちょこんとお座りになります。
「なぁ、勿体振らずに言わぬか」
「………そう言われても、あんたらが部屋出て行ってからこっち、あの人たんと口数減ってしまって。明日彼がここへ来るて…そんだけ言うて、姿消してしまわはったわ」
「そうか…明日かぁ」
大層残念そうな声でおっしゃったところで…
つづみ姐さまは何かに気づいたようなご様子で、依然として涼しい笑顔のみこと姐さまにお尋ねになります。
「まさかとは思うが…」
相手の出方を探るような…押し殺した低い声。
「みこと…ぬし、もしや………怒っておるのか?」
「まさか」
みこと姐さまは静かに浮かんだ月のように穏やかな表情で…
きっぱりと、おっしゃったのでした。
「怒ってるんやのうて、呆れてるんや」
その日のつづみ姐さまのご様子といったら…ございませんでした。
「なぁ、夢!」
客人さまが帰られる度に…
「例の御仁は見えたか!?」
私を探して、そう…お尋ねになるのです。
私が…ご注意するのも億劫になり、黙って首を振りますと。
そうかぁ!と指を鳴らして悔しがり、その度こうおっしゃるのでした。
「よいな夢!占いの最中でも何でも構わん、見えたら必ず!わしに一言知らせるように!」
………もう。
あんなに『色恋なぞ虫酸が走る』って…おっしゃっていたのに。
「本当は…大好きなんじゃない、つづみ姐さま」
つづみ姐さまにも、私の知らない身を焦がす恋が…?
いえ………到底想像出来ません。
でも。
…こんなこと、不謹慎とは重々承知しているのですが。
つづみ姐さまのせいで、私も…『慎一郎様』とやらのご訪問が気にかかり、つい仕事がうわの空になってしまうのです。
「…いけないいけない!これも修業のうちだもの、しっかりしなきゃ」
大きく首を振って、館の前の掃き掃除に取り掛かった…その時でした。
地面に向けていた視線の先に…見覚えのある草履の鼻緒が写ったのです。
何故そんな些細なことが記憶に残ったのか、大層不思議なことではあるのですが。
黒に金の糸が織り込まれた、それは上品で美しい布地で出来ております。
どきどきする胸を深呼吸して鎮め、私はゆっくりと顔をあげ。
『慎一郎様』に…昨日と同じ笑顔を向けました。
「お待ちしておりました…やはり、あなただったのですね」
ご自身を『はっきりしない』と称されたという、慎一郎さんですが。
今日は門前で逃げるようなこともなさらず、神妙な顔でみこと姐さまの前にお座りになりました。
そして…
「人間に?」
「…はい」
「あの………化人はんを?」
力強く頷いて、慎一郎さんは深々と頭を垂れました。
「おっしゃる通り。蛍子を…どうか、人間にしてやってはいただけませぬでしょうか?」
私は戸惑ってしまい…視線を畳に落とします。
そんなこと………
「夢のようなことを申しておるのは重々承知しております。ですが私は…どうしても彼女を妻にして、一緒に暮らしたいのです」
夏の初めの、ほんの僅かな逢瀬しか許されぬ二人。
そんな間に育まれた恋を、なんとか成就させてあげられたら…と、胸が苦しくなりますが。
こればかりはいくらみこと姐さまでも…さすがに難しいのではないでしょうか。
………ですが。
みこと姐さまは、今までに見たことがないくらい厳しい表情で…じっと慎一郎さんを見据えていらっしゃいました。
しばし、沈黙が流れ。
姐さまは長い睫毛を伏せ…静かに問い掛けます。
「あんた…本気なんやね?」
「…はい」
「化人はんが人になる…いうんは、並大抵のことやない。あんたに…それに見合うだけの覚悟はある?」
「……………」
なんだか………不思議。
お二人の願いがまるで、すぐにでも叶うようなおっしゃり方。
慎一郎さんは穏やかなみこと姐さまの厳しい言葉に、一瞬…言葉を詰まらせましたが。
目を伏せ、ふうっと一つ息を吐き。
真剣な眼差しで姐さまを見据え、はい、と…静かにお答えになりました。
すると。
姐さまは黙って珊瑚の髪飾りに手をやりながら…意外なことをおっしゃいます。
「実は…こんなことやないか、って思てたんや」
「…みこと姐さま?」
「それでな…さすがに私の手には負えへんから」
いつもの柔らかい笑顔に戻った姐さまは、水晶玉の載った机の小さな引き出しから黒く光る小さな石を取り出しました。
石には穴が空いていて、紫と金の交じった組紐が通っています。
慎一郎さんの手の平につるんと丸い石を滑らせると、姐さまはにっこり微笑んでおっしゃいました。
「杏珠さまがこれをあんたに…て。毎日欠かさず、よーくお月さんの光に当てたげてな」
「月の光に…ですか」
「そ。毎日ちょっとずつ時間も変わるし、難儀やとは思うけど」
とんでもない!と大きく首を振って、彼は目を輝かせます。
「頑張ります!これを続ければ、蛍子は人間になれるんですね!?」
「ええ…月が真ん丸くなって、欠けて、姿現さへんようになるまでな。そうすれば………あんたらの願いは叶う。杏珠さまがおっしゃるんやから間違いないわ」
私は思わず………深いため息をつきました。
思えば…蛍様が館を訪ねて来られた昨晩の出来事から、杏珠さまには全てお見通しだったのでしょう。
その上、こんなに不思議なおまじないを授けてくださるなんて…凄い。
ですが。
杏珠さまのお力は、時に人の域を飛び越えているようにさえ思われて…
少し、背筋が寒くなる気がいたします。
元気いっぱいにお辞儀をして帰って行かれる慎一郎さんを、手を振ってお見送りした後。
みこと姐さまは顎に手を当て、考え込むような表情をなさいました。
「さて、と…ここからが問題やな」
「………問題?」
あんなに張り切っていらっしゃったのです、彼ならばきっと難しいおまじないもやり遂げてくださるはず、と…思うのですが。
私がそう申し上げますと、姐さまは可笑しそうに微笑んで、ことりと首を傾けました。
「そっちやないの。私が心配なんは…」
それから、何週間か過ぎ。
私が庭の掃き掃除をしておりますと、縁側にぶらりとつづみ姐さまが出ていらっしゃいました。
「聞いたか?夢」
扇子をぱたぱた動かしながら…どこか含みのある声でおっしゃいます。
「件の慎一郎殿の…奇行とやらの話」
「………姐さま?」
咎める私にお構いなしで、漆塗りの下駄を突っかけながら、姐さまはけらけらと高笑いを上げていらっしゃいます。
「月夜を一人、灯りも持たずさ迷うておられるそうじゃ。その前は一人で川原に立っておることが多かったそうでなぁ…『川の神に乗り移られた』なぞと…なかなかどうして、街の衆もいい所をついてくるとは思わぬか?」
「もう…そういう言い方をなさるものではありませんよ?慎一郎さん…真剣なんですから」
陽射しが日増しに強くなるにつれ、夕刻の蛍の光は次第に淡く小さくなってゆきます。
何も、そうむきにならんでも…というみこと姐さまの言葉を振り切って、街の皆さんが笑うのにもお構いなしで、夜通し『石』に月の光を当てておられる慎一郎さんの胸は…きっと、焦りと不安でいっぱいなのでしょう。
「幸せだって思いませんか?あんな風に…ひたむきに一人の方に愛される、なんて」
はぁ?と呆れ顔で眉を吊り上げ、青い指輪の光る白い手をひらひら振ってみせる…姐さま。
「やめておけやめておけ、あんな女々っちい男なぞ…ぬしには釣り合わぬぞ」
くるりと踵を返した背中に、私は思わずお声をかけました。
「ちょっと…姐さま!お仕事ほったらかしてどこへ行かれるんですか!?」
「散歩じゃ、さ、ん、ぽっ」
見ると、無造作に肩に掛けていらっしゃるのは…小さな徳利のようです。
「…もう」
「あら、つづみおらへんの?」
暢気なみこと姐さまの声に…私は振り返ってお答えします。
「今出かけられましたよ、こんな明るいうちからお酒なんかぶらさげちゃって」
あらあら…と困り顔で笑って、姐さまは琥珀の耳飾りに手をやります。
「そういえば…前にもあったんですよ?こういうこと」
「…そうなん?」
「ええ!お二人の純愛をあんな風に笑っておきながら、ご自分はふらふらなさってて…本当、何をお考えなんでしょうね」
ふふふ…と微笑んで、姐さまは空に浮かんだ柔らかそうな雲を仰ぎ見ます。
「まあ………仕方ないか」
「仕方ないって…どういう意味です?」
姐さまはつづみ姐さま同様、縁側から庭に出て、私を館の外へと誘いました。
「さてと、夢も行くやろ?」
「…どこへですか?」
咄嗟に聞き返した私に、姐さまは意味ありげな笑みを返します。
「そろそろ、お月さんも細く暗くなってきて…明日あたりはとうとう新月や」
「はい。でも………え?」
はっと…息を呑みました。
『もう一つの心配事』
あの時の、みこと姐さまの言葉が蘇ってきたのです。
姐さまは、涼しい笑顔で館の方へ視線を投げ。
「ほな…行ってまいります」
「ああ…気をつけるんだよ」
驚いて振り返ると。
いつの間に…襖が開いて、杏珠さまが立っていらっしゃいました。
「夢も、ぐずぐずしないでみこととお行き!」
「え…っと………はい!」
大きな声でお返事をした私に、満足げに頷いて。
杏珠さまは、腕組みをして…おっしゃいました。
「まだ陽は傾き始めたばかりだが…かなりの道程だ。早く行かねば日は暮れ夜が明けて…大事な日を迎えてしまうからね」