第二話 環さんのお話。
箒で店先を掃いていたら、ふと。
お店の前を何度も何度も通り過ぎる、一人の男性の姿が目に留まりました。
『いいかい、夢』
杏珠さまのお言葉が、脳裏を過ぎります。
『占いというものは、医師にも学者にもお役人にもさじを投げられて、縋るものが何一つ無くなった人間が…最後の最後に縋るものなんだよ。だから…』
いち、にい、さん…
私の前を通った回数を、指を折りながら数えてみます。
再び、私の目の前を通り過ぎる、少し擦れた着物の男性。
これで…とお。
「あの…何かお困りですか?」
『店の前を十回往復する人がいたら、奥にお通ししなさい』
それが、杏珠さまの教えなのです。
目を丸くして男性は、店の前から立ち去ろうとなさいます。
慌ててその方の腕を両手で掴み、私はにっこり微笑みかけました。
「私達占い師は、お困りの方をお助けするのが仕事…お代はいつでも結構ですので、お話だけでもして行かれませんか?」
出されたお茶をずずずっと一気に飲み干して。
男性は感極まった様子で、つづみ姐さまを見ました。
「………夜逃げぇ!?」
素っ頓狂な声を出す姐さまに、声が大きいです!と、人差し指を立ててご注意いたします。
環さんとおっしゃるその男性は、真剣な表情でこくりと頷きました。
「いかにも。夜逃げにいい日を教えていただきたい」
いつもは陽気で強気なつづみ姐さまが…救いを求めるような目で私を見ますが。
私にはただ…首を傾げることしか出来ません。
もっとも、私は見習いで占いはまだまだ出来ませんので…
首を傾げるより他、為す術はないのでした。
いつになく歯切れの悪い声で、つづみ姐さまは環さんに尋ねます。
「夜逃げに………日取りも何も………無いような気がするが」
「やり直したいのです、人生を」
「…やり直す?」
そう、と頷いて立ち上がり、環さんは両拳を握り締めます。
「はい!私は悪い友人に騙され…高利な借金を背負わされてしまいました。ですから…新しい土地で家内と子供三人と…生まれ変わった気持ちでやり直したいのです!!!」
そんな日はありませんか?と…目を輝かせて尋ねる、彼の勢いに押され。
つづみ姐さまは困り顔で、磨きあげられた水晶玉に目を遣ります。
私も、横から覗き込んでみるのですが…
残念ながら、未熟者の私には何も見えません。
立て膝をついた姿勢で、んー…と低い声で唸る、つづみ姐さま。
どうでしょうか?と、環さんは姐さまに迫ります。
「そう…だな」
「はい!」
「しいて………言えば」
その時。
「ちょっとお待ち!」
低くて綺麗な杏珠さまの声が、薄暗い部屋に響き渡りました。
目を丸くする環さんをちらりと見て、姐さまは眉間に皺を寄せます。
「何か………?」
「その客人…私に任せなさい」
「………杏珠さま」
姐さまは、何か言いたげな表情。
…不思議です。
だって、困ったお客人を杏珠さまが引き受けて下さるというのに。
どうかなさったんですか?とお尋ねしようと思ったのですが…
「夢」
杏珠さまの凛とした声に阻まれ…それは叶いませんでした。
「は…はいっ」
「客人を…私の部屋までお連れしなさい。私は先に行っているよ」
「はい」
杏珠さまの言いつけですので、ひとまず考えごとは中断。
環さんを伴って、つづみ姐さまの部屋を後にします。
「………夢?」
背後から、遠慮がちな姐さまの声。
「…何ですか?」
「あの……………やっぱいいわ。行きな」
「………はい」
杏珠さまの部屋には、白檀のお香のかおりが充満していました。
杏珠さまは占いの時、いつもそのようになさるのです。
黒い薄絹の天蓋がかかった、暗い杏珠さまのお部屋に、環さんは少々緊張していらっしゃるみたいです。
「客人どの、何をしておられる?早くこちらへ来られぬか」
奥から杏珠さまの低い声が響き、環さんは何か救いを求めるような目で私をご覧になりますので。
私はにっこり笑って部屋の中に進み、環さんを奥へと誘いました。
数本のろうそくの明かりに照らされた部屋の奥で。
杏珠さまは環さんに、ご自身の目の前の座布団に座るよう指示なさいました。
ごくり…と唾を飲み込んで、環さんは杏珠さまの言葉に従います。
すると。
杏珠さまは突如身を乗り出し、環さんの顔をじっと見つめました。
瞳の奥の奥まで、ずっと見通すような眼差し。
ひ………と、環さんは小さく悲鳴を上げます。
「これ客人どの、顔を背けるでない。それではきちんと占えぬではないか」
「はっ………は…い」
環さんは意を決した様子で、杏珠さまの顔をじっと見つめ返しました。
『顔相』というのも、占いの中にはあるのですが、杏珠さまの得意とする占いは、それともまた違っておりまして。
瞳を見てその人の過去を知り現在を知り、未来を知る…というものです。
杏珠さま曰く、人の悩みも苦しみも、そしてそれらを解決する術も、全て瞳の光に現れるのだそうで。
ただ、そういった占いはあまり広く知られておりませんので。
「占い館の杏珠さまは、眼光鋭く人を睨みつけ、飲み込んでしまうそうな」
なんて………
不名誉な噂が流れることも、ままあります。
真剣な表情の杏珠さまと、強張った顔の環さん。
二人の奇妙なにらめっこは、そのまましばらく続きまして。
「………環どの、とおっしゃったか」
杏珠さまが口を開き、やっと長い沈黙は破られました。
「…い…いかがでしょうか!?」
焦ったように尋ねる環さんを制し、杏珠さまはさらりとおっしゃいます。
「環どの。申し訳ないが…今はまだ、占いの結果を伝えることは出来ぬ」
「………で…では、いつならばお教えいただけるのです!?」
切羽詰った表情の環さんに、杏珠さまはにっこり微笑みかけられました。
「まあ、明日の朝…といったところかの。今宵はこの館に泊まり、ゆるりと休まれよ。そうじゃ、奥方達もこの館に呼ばれるといい」
………杏珠さまが、こんなことをおっしゃるなんて。
私の知る限りでは…初めてです。
腑に落ちない顔の環さんをよそに、杏珠さまはすっと立ち上がり、私の名前をお呼びになりました。
「夢?」
「はい」
「そんなわけだから…ご一家のため、部屋を一つ用意しなさい。そうそう…奥の空いている広間、あそこを使うといい」
「………はい」
「あの男をこの館に泊めるだとぉ!?」
つづみ姐さまは、目を丸くして叫びました。
「夢っ…それは一体どういうことじゃ!?」
「一体…って………杏珠さまがそう…」
「………杏珠さま…か」
額に手をやり、はぁ…とため息をつく、つづみ姐さま。
「あのお方は本当に…何をおっしゃられるやら、分かったものではないなぁ」
「………あの…つづみ姐さま」
何がそんなにいけないのですか?と…私は思い切ってお尋ねいたしました。
すると。
さっき同様困り果てた目で、姐さまは私の顔をちらりと見て。
じきにわかる…と、つぶやきました。
環さんご一家と一緒に夕食をとっておりますと。
不意に、館の扉をものすごい勢いで叩く音が…聞こえてまいりました。
子供達は一斉に環さんに取りすがり、奥さんは怯えたように体を縮ませています。
「………借金取りです」
低い声で環さんがおっしゃいます。
「私を追って来たのでしょう…杏珠さま、やはり私達はこちらに泊めていただくわけには」
「夢?」
「…はい!」
杏珠さまは環さんの言葉を遮るように、私に声をかけられました。
「あいつらに言っておやり…ここに、お前さんらの探している人間はいないとね」
………え?
「私が………ですか?」
そうそう、と…手を口にあて、小さくあくびをしながら杏珠さまは頷いていらっしゃいます。
「私やつづみ達が出張っていったら、仰々しくて如何にも何か隠している風じゃないか。まだ人通りもある、何もこわいことはないさ」
「いえ…それには及びません」
環さんがじっと…私の目を見ます。
「いいんです。元はといえば、逃げようなんて考えた私がいけないのですから。夢さんを危ない目に遭わせるわけにはいきません」
奥さんの胸でしくしく泣いている子供達に目をやり。
環さんは寂しげに微笑みました。
「大丈夫。きっと…なんとかなります。ですから夢さん…ここは私が」
「………環さん」
戸を叩く音は、止む気配がありません。
ふう、と大きなため息をついて、環さんは立ち上がります。
奥さんは不安そうにその背中を見つめており。
怖い顔をしてお茶碗を見つめているつづみ姐さまと、柳のような静かな佇まいでお茶を啜るみこと姐さま。
杏珠さまは、試すような目をして…私を見つめていらっしゃいます。
…どうしよう。
でも………
表へ出ようとする、環さんの背中に向かって…私は大声で叫びました。
「いけません!!!」
そして。
すうっと息を吸い込んで、環さんの肩を掴みます。
「駄目です!まだお子さん達も小さいのに、こんな風に毎日毎日、怯えて暮らさなきゃならないなんて…」
きっと環さんご家族は、ずっとこんな風に取り立て屋に追われ、怖い思いをしてこられたのでしょう。
それに比べれば、一回あの人達を追い返すことなんて…何でもないことです。
そうすれば、きっと…
杏珠さまが、環さん達を助けてくださるのですから。
夢さん、駄目です、危ないです…という環さんを奥の部屋に押し込んで、私は…
重い館の扉を開きました。
扉の前に立っていたのは、大きな男の人でした。
しかも…三人。
背中をひやっと…冷たい汗が流れます。
縮み上がりそうになる背すじを…ぐっと伸ばして。
私はにっこり微笑みました。
「あの…何か御用ですか?」
「…出してもらおうか。あの男を」
「………は?」
「ここで匿っているのはわかっておるのだぞ!?」
「…おっしゃっている意味が、よく………」
「しらばっくれるでない!!!」
野太い怒鳴り声に、思わずぐっと目をつぶります。
「娘、貴様我々を謀るつもりか!?環という男はここにおるのであろう!さっさと出さぬとひどい目に遭うぞ!!!」
「で………ですから」
こわい。
どうしよう。
でも………
さっきの環さんご一家の姿が、ふっと脳裏をよぎります。
楽しそうな笑顔と…怯えた子供達と、疲れきった様子のご夫婦と。
そうしましたら。
お腹の底から、何か熱いものが込み上げてくる気がしました。
「ここにはそんな方、いらっしゃいません!」
突然口から飛び出した言葉に、自分でもびっくりしてしまいます。
とはいえ。
言えた自分に、ちょっとだけ…ほっとしながら。
私はもう一度、男達に向かってぴしゃりと言い放ちました。
「よろしいですか!?私共の務めは客人さま方の占いをして差し上げること。客人さまを匿うことは、占い師の仕事ではございません!」
不意打ちに目を丸くする男達を指差して、大きく息を吸い込み。
私はきっぱりと、言い放ちました。
「おわかりになりましたら…どうぞお帰りください」
その一連の出来事は私にとって…それはそれは大きな冒険でありまして。
部屋に戻って残りの夕食を掻き込み、後片付けをして、部屋に戻って明かりを消すと…
どっと…体の力が抜けてしまいました。
ぼんやりした頭で目を瞑ると…瞼の裏に、鮮やかな色彩が浮かびあがります。
赤、青、緑…花火のような、万華鏡の中を覗いたような、美しい文様が次から次に現れては消え。それは描きとめる間もない、一瞬の出来事です。
いつも不思議に思うのです。
これらの光は一体…どこから現れて、どこへ消えて行くのでしょう。
杏珠さまがいつもおっしゃるように、『物事は須らく意味を持つ』のであるなら…この光にも、何か意味があるのでしょうか。
この世の全ての事象の意味を汲み取り、お伝えするのが占い師の仕事…と言います。
私も一人前になったら、色々な事が見えるようになるのでしょうか。望むと望まざるとに関わらず…
でも、それは………
少し、怖いことです。
その時。
柔らかい何かが、ひやり…と額に当たりました。
「きゃっ………」
慌てて布団から起き上がると…みゃあ、という呑気な鳴き声。
「もう…びっくりするじゃない、美都」
「…みゃあ」
みとは杏珠さまに拾われて、私よりもずっと長くこの館で暮らしています。
そんな訳で、勝手知ったるこの館を、我が物顔で闊歩している…というわけ。
「どうしたの?」
「みゃあ」
冬場の寒い時期ですと、こんな風に布団に入れてくれというように、おでこや肩を突かれることはよくあるのですが…
みとは長い尻尾を振りながら、私を部屋の入口へと誘います。
「ちょっと…みと?」
板張りの廊下に、みとのかちゃかちゃという爪の音だけが響きます。
そして…そのまま縁側へ。
しなやかに跳躍し、白い砂利敷きの庭に降り立つ…みと。
一体………私をどこへ連れて行こうというのでしょう。
と…その時。
今までご機嫌そうな声を出していた彼女が。
突然…背中の毛を逆立てました。
そして。
………何かの…焦げるような臭い。
「………大変」
目を凝らすと、離れた所の垣根が…煙を上げておりました。
ぞおっと背筋が寒くなり…
私は思わず…叫びました。
「火事!!!姐さま、杏珠さま、火事です!!!」
幸いなことに被害は小さく、火は庭先の木々を少し焦がした所で消し止められました。
煤けた木肌に手をやり、杏珠さまがおっしゃいます。
「この程度なら大丈夫、幹の中心には被害はないからね…枯れてしまうことはないだろう」
ほっとする私の後ろで、でも…と、ゆづきさんが眉をしかめます。
「火付けに大丈夫も大丈夫じゃないもありませんからね…一体誰がこんなこと」
「それを調べるのが…おぬしら警察の仕事じゃろ」
欠伸をしながらつづみ姐さま。
むっとした様子で、ゆづきさんが姐さまを睨みます。
「つづみ…何か心当たりないの?この館に恨みを持つような人」
「さあなぁ」
「…あなたねぇ」
「………お、そういえば」
どきっとして姐さまを見つめてしまいますが。
姐さまは依然、呑気な声でおっしゃいます。
「あれだ、あの…昼間の助平野郎」
「………もういいわ」
あなたに期待した私が馬鹿だった…とため息をついて、ゆづきさんは警察の方々を引き連れて帰って行かれました。
静まり返った館の庭には、杏珠さまと姐さま二人、そして私とみとの四人と一匹だけ。
しばし沈黙が流れた後。
「さあて」
杏珠さまがぱちんと手を叩きます。
「後はゆづきに任せて、我々はもう休もうじゃないか。明日も朝から仕事だからねぇ」
「………杏珠さま!!!」
それは…
さっきまで、ゆづきさんの問い掛けにのらりくらりと答えていた…つづみ姐さまの、怖い声。
「…なんだい?つづみ」
「杏珠さまはまだ…あの家族を匿いなさるのですか!?」
何も答えない杏珠さまに、つづみ姐さまが迫ります。
「何もかも分かっておいでなのでしょう!?あの環という男」
「…つづみ姐さま、一体何が」
「あの男にはとてつもない凶相が出ておる…私なぞには到底祓いきれぬほどの、な」
「………何ですって?」
方違えに、清めの札…何とかあの家族を迫る不幸から救い出すことは出来ないものか。
つづみ姐さまは一生懸命考えたのだそうです。
「だが…私の手には負えなかった。凶の力が強すぎて、周囲の人間も巻き込まれてしまう。現に………」
さっきの…火事?
私は、ふいに背筋が寒くなるのを感じました。
このままでは…と、姐さまは拳を握っておっしゃいます。
「我らも、あの家族の道連れになってしまいます。早く彼らを館から遠くへ…もうそれしか方法はありません」
「…つづみ」
「人里離れた所へ逃がせば、少しは彼の不幸を薄めることも出来ましょう。一難去った今なら、おそらく災難が降りかかることもない」
「つづみ?」
「ですから、杏珠さま」
「おやめと言ってるんだよ、つづみ!」
杏珠さまの厳しい声が、宵闇の中に響きわたります。
「そんなに大きな声を出しては…中の客人に聞こえてしまうだろ」
夢、と…杏珠さまがふいに私の名を呼びました。
「お前はどう思う?」
「私…ですか!?」
かあっと…顔が熱くなります。
「私…その………まだ…占いも出来ませんし」
「占いのことを言ってるんじゃない。お前自身の意思を聞いてるんだよ」
「私は………」
答えは、もう…決まっておりました。
「この館に災難が降りかかるかもしれない、としても…私には、環さん達を追い出すなんて、とても出来ません」
厳しい声で、つづみ姐さまがみこと姐さまに尋ねます。
「お前は…どうだ?」
「私………?」
きょとんとした顔をして。
穏やかに微笑んで、みこと姐さまはつづみ姐さまを見つめ返しました。
「つまり…私があんたの味方したらええ、いうこと?」
ぱっと顔を赤くして、つづみ姐さまは唇を噛み、俯いてしまわれました。
そんな姐さまに…杏珠さまは穏やかな調子でおっしゃいます。
「お前は少々…目先の事にとらわれ過ぎているようだね」
「…目先の事?」
やれやれ、とため息をついて。
杏珠さまは頭を掻きながら、館の中へ戻っていかれました。
「私の言葉の意味が分からぬうちは、つづみ…お前もまだまだ未熟。そういうことさ」
その夜。
つづみ姐さまが、ご自身の部屋に戻られることはありませんでした。
夜更けにふいに目が覚めて、私がそっと部屋の襖を開けてみますと…
庭の大きな石に腰掛け、じっと垣根の外に目を向けた、つづみ姐さまの姿があったのです。
さらに…外が明るくなり、朝餉の支度に起き出した私の前にも。
同じようになさっている…姐さまの姿がありました。
「姐さま…?」
お声を掛けますと、私に気づいていたらしい姐さまは、黙って片手を上げて応えてくださいます。
「お休みに…ならなかったんですか?」
遠慮がちに…お尋ねしますが。
姐さまは答えず、夢…と、私の名をお呼びになりました。
「…何でしょうか?」
「お前には………何か見えたか?」
「………え?」
「あの………環という男だ」
真剣な表情のつづみ姐さまに、思わず慌ててしまいます。
「いえっ…だって…昨夜の火事も、みとが私に教えてくれたんです、それに………私はまだ…未熟者ですし、何も………」
「…そうか」
悪い、と…つづみ姐さまは優しい笑顔でおっしゃいました。
「変な事を訊いてしまったな。まあ、お互い未熟者同士…頑張るか」
「…はい」
つづみ姐さま………
もうそろそろお昼の支度を…と思っていた矢先のことです。
店先で、客人さま達が騒いでおられるのに気づき、急いで向かってみますと…
そこには…昨夜の男達。
「…また、いらっしゃったのですか?」
どきどきしながらお尋ねしますと、当然だ!と…低い声で怒鳴ります。
「ここに匿われているのは分かっている!今日こそは出してもらおうか、あの男…」
「ですから…」
「…この館、火付けがあったようだな」
はっとして…頭から、すうっと血の気が引いていきました。
ざわざわしている客人さま達や街の皆さんをよそに、男はいやらしく笑って私に耳打ちします。
「昨夜は大事にならず済んだようだが…またあのようなことが起こらぬとも限らぬ。悪いことは言わぬから、あの男…こちらへ渡した方がお前達の身のためだぞ?」
………なんて…ひどい。
体の芯から力を振り絞って…かすれた声で答えます。
「あまり…身に覚えのないことばかりおっしゃるようですと…杏珠さまを呼びますよ?」
「おお!そうするがいい。お前のような小娘を通すより、その方が話も早かろう」
「で…では」
その時。
「夢さん!!!」
館の奥から聞こえてきたのは…
環さんの声でした。
環さんはじっと男の人達を見据え、静かにおっしゃいます。
「もう…逃げも隠れもしない。だから…夢さんや杏珠さま達を危ない目に遭わせるのは…もう、やめてくれないか」
「…何だ。やっぱりここにいたんじゃないか?なぁお嬢ちゃん」
「………環さん」
彼は私に向かって微笑み、小さく頷きました。
「これ以上ここにいて、皆さんにご迷惑をお掛けするわけには参りません」
「…でも」
「いいんです。本当にお世話になりました」
昨夜は借金取りに怯えることなく、家族でゆっくり夕餉の食卓を囲むことが出来た。
そして、子供達の安らかな寝顔を見ながら、安心して眠ることが出来た。
それもこれも杏珠さまのお陰だと…環さんは深々頭を下げられました。
「皆さんのご恩…一生忘れません」
………そんな。
館の奥に目をやると、つづみ姐さまとみこと姐さまが、奥さんと子供達を庇うように立ち、こちらの様子をじっとうかがっておられました。
そして………
一番奥で、何もかも見透かすような静かな眼差しで…皆を見つめる杏珠さま。
私は環さんご一家の為に、何もしてあげられないのでしょうか…
私達のやり取りをにやにや笑いながら見ていた、三人の男達。
その中の一人が愉快そうな様子で、殊勝な心がけ中々結構…と呟きます。
「だが、さっきの『危ない目に遭わせる』とかいうのがちと…解せんな」
「…何だと!?」
「ここの館に火を付けたのが…まるで俺達のような口ぶりだったじゃないか」
「そんなの…お前達がやったに決まっている!」
真っ赤な顔で怒鳴る環さんに、ぐいっと顔を近づけ…男は下品に笑います。
「まるで見てきたようなことを言うが…貴様、俺達が火をつけるところを見ていたとでも言うのか?」
「…それは」
「何か…証拠でもあるのか?」
「……………」
「だったら…そんな決めつけたような言い方は、あまりに失礼ってもんじゃねえか」
大笑いする男達に、顔を歪める環さん。
と………
「証拠なら、ここにありましてよ?」
街の皆さんをかき分け、現れたのは…
「ゆづきさん!?」
「こちらの方…」
街の立ち飲み屋のご主人をちらりと見て、ゆづきさんはにやりと笑います。
「昨夜、あの時間帯に…あなた方が館の傍を立ち去る所、見てらっしゃったそうですわ」
「………何だと!?」
「それも、こちらのご主人だけじゃありませんの。お店にいらっしゃったお客さんも、あなた方に間違いないって」
呆然とした顔で、そんな…と呟く男達。
ゆづきさんの隣に警察の署長さんが立ち、厳しい声で他の警察の方を呼びます。
「連行しろ!」
「ま…待て!俺達は…」
「あなた方の罪状は…それだけではございませんのよ?」
腕組みをして、ゆづきさんが男達をじっと見据えます。
「あなた方は金貸しを生業にしてらっしゃったようですが、その金利、期限、取り立ての方法…全て、法律の定めに反しています」
「………何!?」
「ですから…どうか、ご同行を」
ゆづきさんは厳しい顔で男達に言い放ち。
私の方へ視線を向け…にっこり微笑んでくださいました。
暴れる男達を手慣れた様子で拘束し、警察の方達は詰所へ戻って行かれました。
街の皆さんや客人さま達も引き上げ、静かになった館の中で。
ゆづきさんが、明るい表情で私達をご覧になります。
「皆さんのおかげで、悪徳高利貸し一味を逮捕することが出来ました。ありがとうございました!」
あの男達が、悪どい方法でお金を貸していること…警察の方々は以前から薄々感づいてらっしゃったのだそうです。
「ただ、証拠といった証拠がなくて。そんな中で…昨夜の不審火です。つづみ?」
「…なんじゃ」
「あなた昨夜『犯人探しはお前達警察の仕事』って言ったでしょ?それで私、つづみをあっと言わせてやろうって、俄然やる気出ちゃってさ。徹夜で証拠探して早朝から聞き込みに回って…めでたく犯人をお縄に出来たってわけ!おまけに、高利貸しの証拠までついてきちゃって。本当あなたには感謝してるわ!あくまで今回に限って、だけどねっ」
清々しい顔で笑うゆづきさんに、けっ…とつづみ姐さまが悪態をつきます。
「人を嫌がらせるために頑張る、とは…本当にぬしはいい性格じゃの」
「………まぁ…今日のところは聞かなかったことにしてあげる」
「あの…ゆづきさん」
眉を顰めるゆづきさんに、恐る恐る伺います。
「環さんは、その…どうなるのでしょうか?」
彼女はにっこり笑って、環さんご一家をご覧になりました。
「環さんのご友人に掛けられた借金自体、そもそもちゃんとした手続を踏んだものじゃありませんし、法外に高い金利を除いたら、きちんと返済も済んでらっしゃいます」
「…じゃあ」
「勿論、もう借金取りに追われることはありません。どうか、ご安心なさってください」
一瞬、沈黙が流れ。
環さんの奥さんは、口元を押さえ…肩を震わせて泣き出しました。
お母さんのそんな姿に、不思議そうな顔をする子供達。
環さんは愛する家族を抱きしめ、涙ぐんで杏珠さまにおっしゃいます。
「ありがとうございました…これで…私達は平和に暮らすことが出来ます」
「はて。では…例の日取りの件はどうなさるのかね?」
ああ、と…環さんは困り顔で笑います。
「それならばもう…必要ありません」
「ほう…そうかいそうかい」
「お代ですが、今すぐにとは参りませんが、近いうちに必ず…」
「ああ…それならば必要ない」
杏珠さまは何気ない素振りで、ひらひら手を振っておっしゃいました。
「こちらも、占いの結果を伝えてこその商売だからね…客人に何も提供していない以上、お代を頂戴するいわれも無いさ」
はっとした顔をして…環さんは深々と頭を下げられました。
「本当に………本当に…ありがとうございました。ご恩は…一生忘れません」
私も…傍らのみこと姐さまと、顔を見合わせて笑います。
本当に…よかった。
『私も、早く一人前の占い師になって、環さんのような方を助けて差し上げたいです』
几帳面な文字の並んだ夢の日誌に目を通し、ふう…とため息をつく。
見上げると、今日は綺麗な満月だ。
「つづみ?」
軒下からひょこっと顔を覗かせたのは…みことだ。
「あんた、またそんな所で…」
「…うるさいのぉ」
悪態をついて煙管をふかすと、白い煙が月明かりの空にふわりと浮かび、消えた。
みことは軽い身のこなしで屋根に上り、私の隣にしゃがみ込む。
「今日は…綺麗なお月さんやね」
「…そんな所、じゃなかったのか?」
「あら。私はええんや」
…何じゃ、それは。
「あんたゆうべ寝てへんのやし…下手にここで転寝でもして、転がり落ちたら事やと思て」
「………ほっとけ」
今朝、夢に思わず訊いてしまったこと…
みことにも、この際だから訊いてみることにする。
「ぬしには…何か見えたか?」
「私………?」
大きな目を不思議そうに見開いて、明るい満月に視線を移す…みこと。
「私に見えたんは…火付けのことくらいやったけど」
「火事………みこと、気づいてたのか!?」
「まぁ…えらい薄ぼんやりした感じで、昨晩かどうかもはっきりせえへんかったけど」
「みとをけしかけたのは…ぬしか」
思わず身を乗り出した私に、まあな…と笑う。
「『何かあるかも知れへんし、見回り厳重にしといてな』って、声かけといたくらいやし…あの子が起こしに行ったんも夢やったやろ?だから実質、何もしてへんようなもんや」
………そう言えば。
「まぁ…あんな夜更けにたたき起こされて、ちゃんとついていってやるのは、律儀な夢くらいのものだから…みとの判断は至極当然てとこだろう」
「あら…慰めてくれてんの?」
「…馬鹿者。そんなんじゃない」
あんたも、と…私の煙管を取り上げて、ふう…とふかしてみことが言う。
「今回は難儀やったわね」
「……………」
「私…別にあんたが意地悪で言うたとは思てへんよ?あんたはただ…この『めいぼくそう』を守りたかっただけや」
…慰めてくれてるのか。
「言いにくいこと、ちゃんと杏珠さまに進言して…立派やったと思うけど」
杏珠さまには…全てお見通しだったのだろうか。
それに………
「夢は…知らず知らずのうちに、何か感じ取っていたのかもしれないと…思うんだが」
「さあ…どうやろな」
煙管をくわえ、ふう…と白い息を吐くみこと。
「………血筋、か」
まぁそれはわからへんけど…とつぶやいて、髪をかきあげ立ち上がる。
「あの子に、天性の才能があるのは…確かなんやない?」
「…なんだ?それは」
「お節介」
ふふふ、と肩をすくめて笑い、みことは私に手を差し延べる。
「そろそろ降りよか?早く寝ないと美容に悪いし」
「…そうだな」
白い華奢な手を握り、私は屋根瓦の上を歩き始めた。
お節介………か。
みことに気づかれないように、俯いてひっそり笑う。
確かに…夢のあれは天性のものだ。
あいつは果たして…どんな占い師になるんだろう。
いずれにせよ…
「なぁ、みこと」
「何?」
「私達も…悪い手本にならぬ程度には、頑張らねばなるまいな」
「…あら。随分と殊勝なこと言うんやな、つづみ」
くすぐったそうに笑う彼女の顔が青白い月明かりに照らされ、水晶の耳飾りがきらりと光った。
夢も呼んでやれば良かったな。
本当に今日は…いい月夜だ。