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第十話 彼岸花の咲く泉のお話

ちゅんちゅんと、すずめの鳴く声に耳を傾けながら。

「…そうかい」

杏珠さまはそう呟いて、朝日に目を細めました。

「大家が…あの泉へ」

「あの泉の話…本当なのでしょうか」

『命を取られた人がいる』という、街の噂のことです。

杏珠さまは『そんなことある訳ない』と、最初おっしゃっていたのですが。

「北の方から…妙な風が吹いてくるような気がしてね」

「…妙な風?」

姐さま方も、杏珠さまの言葉に神妙な顔で頷いておられます。

「何か…境界に裂け目でも出来ているのだろうかね」

「境界、とおっしゃいますと」

『あっち』と『こっち』の境界だよ、というお言葉に…はっといたします。

そんな危ない場所へ、しかもあんな夜更けに行こうだなんて。

やはり………


奥様は、笑顔の愛らしい優しい方でした。

大家さんが怒っておられると、奥様はいつもくすくす笑いながらおっしゃったものです。

『あなた、いい加減になさいまし』

すると、カチカチに固まった心は、たちまちほぐれてしまうようで。

『まあ、うむ、そうだな。そうたいしたことでもあるまいて』

大家さんはむず痒そうにつぶやいて、奥様の待つうちへと帰って行かれるのでした。

『夢ちゃん、ちょっと上がっていらっしゃい』

ふっくらした小さな手をひらひらさせ、奥様は小さかった私を招き入れてくださいました。

『甘いものは好きかい?』

そうおっしゃって、お菓子をご馳走してくださったり、お手玉やおはじきで一緒に遊んでくださったり。杏珠さまも姐さま方もお忙しい方々ですので、奥様のおかげでどれだけ淋しい思いが紛れたことか。いくら感謝してもしきれないくらい…私も奥様が大好きでした。

ですから。

霧雨の降る、奥様のお葬式は…悲しい思いではち切れそうでした。

『穏やかなお顔をされてらっしゃいますね』

私が申し上げますと。

大家さんは…掠れた声で呟きました。

『まったく…呑気な顔じゃ。あの調子では、自分があの世へ行ってしまったことにも、気づいておらんのかもしれん』

憔悴しきった、げっそりとした横顔。

あの日の…大家さんの一見いつも通りの、不機嫌なご様子には、底知れぬ悲しみが潜んでいるようでした。


そうだ。

私は小さく手を打って、眠そうに目を擦る瑠璃ちゃんに笑いかけます。

「お彼岸だし、今日はお昼に牡丹餅を作りましょうか」

「わあい!」

以前作ってあげたところ、甘い牡丹餅が大層気に入ったようで、瑠璃ちゃんは両手を挙げて喜んでくれました。

「じゃあ、おもちゃを片付けて頂戴。今日は瑠璃ちゃんにもお手伝いしてもらうんだから」

「はあい!」


差し出された赤い風呂敷包みを一瞥して。

大家さんは険しい顔で、何じゃこれは、と…低い声でお尋ねになりました。

「牡丹餅です。大家さん、これが大好物だって、前に奥様が」

「要らん」

「…でも」

「小便臭い小娘の作ったものなぞ、食える筈なかろうが」

こんなことだろうとは…思ってたけど。

思わずため息をついて、私は…助っ人について来て下さった、みこと姐さまの顔を見ました。

「まあまあ、そう言わんと…私も少ぅしだけ、手伝いましたんや」

「だっ…だから何だと申すのじゃ!?要らんものは要らん。ほら、とっとと帰ってくれ!」

「でも………」

ここで引き下がっては、『お節介焼き』の名が廃ります。

そうおっしゃらずに、と食い下がり、私は包みをぐい、と大家さんに突き出しました。

しかし。

そこはさすがに、『街一番の頑固者』と名の通った大家さん。

ええいしつこい、と、包みをこちらに押し返して来られます。

「受け取ってくださるだけでいいんです。私達が帰った後、黙って捨ててくださったって構いませんから」

「半人前の小娘が分かったようなことを言うでない!食い物を粗末にしたら神仏の罰が下る。そんなことも知らんのか、きょうびの若いもんは」

「そんなの、言葉のあやじゃありませんか。ね?」

「いらん!いらんものは何度言われたっていらんのだ!!!」

そんな…押し問答の最中のことでした。

私と大家さんの間を行ったり来たりしていた、柔らかな朱色の包みが。

「いいから、とっとと帰っとくれ!」

不意に動いた大家さんの手に当たり、大きく跳ね飛ばされてしまったのです。

あっ、と…瑠璃ちゃんが大きな声を上げ。

突然のことに、受け止める暇も無く…自信作の牡丹餅は、地面にばらばらに散らばってしまいました。

「あ……………」

罰の悪そうな、気まずそうな表情を浮かべた大家さんは。

すぐに踵を返し、私達に背を向けてしまわれます。

「だから…要らんと言ったのだ!用が無くなったんなら、とっととあの鬼婆の館に帰っとくれ!」

「そんな…大家さん」

「夢」

みこと姐さまの…いつになく、尖った声が響きます。

「ええから…帰ろ」

「でも」

「言うてもわからへんお人に、何遍言うたって無駄や」

黙りこむ私の頭をそっと撫で、大家さんの背中に向かって小さくお辞儀をなさって。

「ほんなら、お邪魔しました」

姐さまは…何やら奇妙なことをおっしゃったのです。

「そういえば、大家はんが言うてはった泉やけど…昨日また、死に人…出たそうですなぁ」

「…本当ですか!?姐さま」

いつもの穏やかな笑みを浮かべて頷き、姐さまは私に言うとも、大家さんに言うともつかないような風に、お話を続けられます、

「小さな泉らしいけど、底無しに深いらしいわ。妙な噂も立ってることやし、大家はんが言うてはったみたいに、周りを囲って入れへんようにするんやて」

「へえ………」

姐さまは、不意に顔を大家さんに向け…大きな真珠の耳飾りが、ふわりと柔らかな光を放ちました。

「行かへんかって…良かったんと違いますの?」

大家さんの眉が、ぴくり…と動きました。

姐さまのお顔から、いつの間にか…優しい笑みは消えており。

いつにない、厳しい表情に…背筋がぞくりといたしました。

「一体」

長く重い沈黙の後、大家さんがぼそり、とおっしゃいます。

「何を言うておるのか…さっぱり」

「あんたはんの大っきらいな占い師として、一言…よろしいですか」

くるりと背を向け、家の中へと戻っていく大家さんに。

姐さまが、よく通る声で呼びかけられました。

「あの泉、よくない感じがしてます…近寄らんほうがええ」

引き戸をぴしゃりと閉めた大家さんに、その言葉は…届いたでしょうか。

「こんだけ言うても聞かへんのやったら…さすがの私も、もう知らんわ」

ため息をつく姐さまの横顔は、相変わらず厳しいままでした。


その日の真夜中。

不思議なことに、急にぱっちりと目が覚めたのです。

誰かに呼ばれているような気がして、私は布団から這い出して。

何かに誘われるようにして、羽織を羽織ってふらふらと道に出ました。

どこをどう通ったのか、全く覚えていません。

気づいたら………薄暗い、竹林の中に立っていました。

「あれ………」

周囲を見回すと、何やらほのかに明るい光が見えて。

そちらに向かって足を進め。

はっ…と、息を呑みました。

小さな泉は、月明かりを受けきらきらと輝いていて。

周囲をぐるりと囲むように、燃えるように真っ赤な彼岸花が、満開に咲き誇っていました。

ですが…私が驚いたのは、その不思議な美しさのためだけではなく。

「大家さん!!!」

ふらふらと泉に近づく、頼りない背中に向かって、私が思わず叫びますと。

周囲の竹林から、沢山のひよどりが飛び立ち、甲高い鳴き声が静寂の中に響き渡りました。

しかし。

大家さんには、私の声も鳥達のさざめきも、どうやら…届いていないらしく。

うつろな目は、ほのかな光を放つ水面の、少し上あたりを見つめていました。

「いったい…」

慌てて駆け寄り、隣に立った…そのとき。

気づいたのです。

大家さんが見つめていたのは………

「奥様…」

白い淡い光に包まれて微笑む…奥様の姿でした。

亡くなる前の、ふっくらとしたお元気なお顔がくっきりと見え、ですが…肩から腰、足に向かうと…次第にその輪郭はぼやけていき、膝から下はないように思われます。

これは………奥様の、幽霊なのでしょうか。

彼女は、私に気づいたようで…こちらに目を向け、にっこりとなさいました。

『あら…夢ちゃん』

そのとき…われに返ったように、大家さんが振り向き、ぎょっとした顔をなさいました。

「小娘…なぜ」

「あなたが、姐さまの言いつけを守らないような、その…胸騒ぎがして」

「いらぬお世話だ」

ぶんぶんと首を振り、大家さんは奥様の幽霊に向かって呼びかけます。

「さあ、お前…連れていっておくれ」

「駄目です!大家さんっ」

私は必死に、大家さんに腕に縋り付きますが。

強い力で…それは、大家さんの本来の力より、もっと強いように思われました…振り払おうとなさり、それでも懸命に握りしめていると、私の体ごと、泉に向かってぐいぐい引っ張って行かれます。

「大家さん!…駄目!…あなたは、まだ…こっち側にいらっしゃるんです!…ですから」

「黙れ小娘!おぬしに何がわかる!?わし一人いなくなったところで、何が変わるというのだ!?」

「大家さんがいなくなったら…私、悲しいです!」

ぴたりと、大家さんの足が…止まりました。

私は次に、目を丸くしている奥様に呼びかけます。

「私だけじゃなくて…みこと姐さまも瑠璃ちゃんも…普段は口には出されませんがつづみ姉さまも、杏珠さまだって!!!大家さんがいなくなったら、絶対…絶対悲しみます!ですから奥様…どうか」

「やめろ小娘!お前、こやつの言うことはいいから」

「どうか!大家さんを、連れていかないでください!!!」

しん…と、静寂が辺りを包み込みました。

そして。

くすくすという…奥様の笑い声が、静かに響きました。

そのお顔に…邪悪なものは、かけらも感じられず。

奥様は、ただ無垢な笑みをゆっくりと大家さんに向けられ。

『引き止められましたね…あなた』

「まっ…待て」

『私…お尋ねしましたね?あなたにお会いした最初の晩に。引き止める方はいらっしゃらないのですか?って。あなたはいない、とおっしゃった』

「待ってくれ!こやつは」

『私はあなたを、無理にお連れしたいとは思いませんよ。これも最初に申し上げましたけど…引き止める方があれば、一緒には参れませんと。あなたがお一人で辛く寂しく過ごしておられるというのなら、私も悲しいですし、いっそのこと…と、思ったのですけれど』

そこまでおっしゃって、奥様はふわりと微笑んで、私をご覧になりました。

『夢ちゃん』

「はい!」

『この人は、大層石頭で…あなた方にお世話をかけていることでしょう。でもね…本当は優しくて…寂しがりやさんなの』

「よっ…余計なことを言うでない!!!小娘、早くあっちへ」

『だからね、夢ちゃん…この人を…よろしくお願いします』

深々と頭を下げられた奥様の姿は…白くまぶしく光輝き。

次第に…その輪郭を失っていきます。

『あなた』

「…そんな」

『これからは、夢ちゃんたちを、家族と…厚かましいお願いでなければ、お願いしてもいいかしら?夢ちゃん…そう、家族と思って、末永く健やかに…私の分まで、俗世の色々を見てきてくださいましな。私はのんびりと、あなたのお越しをお待ちしてますからね。好物の牡丹餅を、たーくさん、拵えて』

「待ってくれ!!!頼む!!!」

『お願いね、夢ちゃん』

私は………

「はい!」

奥様に微笑み返し、ぐい、と…今にも泉に飛び込もうとする大家さんの肩を掴みます。

「離せ小娘!待ってくれ!お前!!!」

『お待ちしてますよ…あなた』

最後にそう、おっしゃって。

奥様の姿は…暗闇に消えていきました。


再び静寂が…あたりを包み込みました。

悲嘆にくれた大家さんは、地面に膝をつき…俯いていらっしゃいます。

なんと言葉をかけたらよいのか…分からなくて、私はただ、大家さんと、今しがた奥様の消えた泉を交互に眺めておりました。

「………小娘よ」

消えてしまいそうな、大家さんの声。

思わず私は…膝をついて、ごめんなさい…と、頭を下げてしまいます。

「私…きっと、また、余計なお節介を」

「わしとあれには、子が出来なんだ」

ぽつり、と寂しげに、でもはっきりと、大家さんはおっしゃいました。

てっきりまた、怒鳴られると思っていた私は…びっくりしてしまい。

大家さんの次の言葉を、待つことにいたしました。

「あれはの…おぬしがうちに遊びに来るのを、まるで自分の孫のように、楽しみにしておったのだよ」

「…奥様が?」

「おぬしだけではない。おぬしの姐弟子達や、そう…母上のこともな」

ずきり、と胸が痛みましたが…ぐっと我慢いたしました。

せっかく大家さんが、こんな風に私と向き合って、話してくださっているのです。邪魔するわけにはいきませんから。

「あれが嬉しそうに笑うと…わしも、無性に嬉しくての」

「…そう…だったんですか」

いつもしかめっ面をしておられる大家さんが…そんな風に思ってくださっていたなんて。

「だからこそ…あれがいなくなってから、おぬしらを見るのが辛くての…余計に意地悪く当たってしまっていたかもしれん。昨日も」

「いいんです、昨日は…無理強いした私もいけませんでした」

「いや…すまなかった」

大家さんは…今までになく、やわらかい表情で…じっと私をご覧になりました。

「ありがとう、占い師の…」


その時です。

静かだった泉の水面が、急に波立ち、目が眩むほどの赤い光に包まれました。

「…何!?」

赤い光は空に向かって暗闇を一直線に照らし出し、火柱のようにも見えました。

そして、その中には………

『爺はどこじゃ』

『死に損ないの爺はどこじゃ』

のっぺらぼうの、人の形をした…亡霊のようなものが、うじゃうじゃと蠢いていたのです。

『あの耄碌婆は、最後の最後にしくじりおった』

『せっかくの獲物を、むざむざ手放しおって』

『こうなったら、邪魔な童も一緒に、黄泉に連れ帰ってしまおうぞ』

『おう』

『それがよい』

口々にそう話し合うと、亡霊の群れは一斉に、こちらに向かって手を伸ばします。そして、私と大家さんの体を、無数の真っ赤な手で絡めるように掴むと、ぐいぐいと…泉に向かって引っ張り始めました。

「なっ…なんじゃこれは!?」

大家さんが悲鳴をあげます。

「止めろ!止めぬか!!」

「大家さん!?」

私はもがきながら、必死で奥様の名前を呼びますが。

奥様はもう、あちらの世界にもどってしまわれたようで…呼べども呼べども、何の答えも返ってまいりません。

『無駄じゃ無駄じゃ』

『ぬしの師匠も、今頃ぐっすりと寝入っておろう…諦めよ』

大家さんの声が、だんだんか細くなっていき。

私の意識もだんだん…薄れてまいります。

…助けて。

杏珠さま。

つづみ姐さま、みこと姐さま。

助けて………お母さん。


その時でした。

赤い光の中に、ぽつんと青い光が生まれ。

それが急に勢いを増して、赤い光を飲みこんでいきます。

悲鳴をあげる亡霊たちの腕の隙間から、青白い顔をした大家さんの姿が見え…私はもがきながら大家さんに近づき、必死でその手を掴みました。

どこか遠くで…呪を唱える、澄んだ声が聞こえます。

杏珠さま?

いえ………違う。

あれは……………


気がついたら、私は静かな泉のほとりに、膝をついて座り込んでおりました。

傍らには…ぐったりとした、大家さんの姿。

「…大家さん!?」

「大丈夫よ。気を失っているだけ」

見知らぬ女性の声が、頭上から降り注ぎ。

仰ぎ見ると。

「あなたと違って、化人に慣れていないから…気に当たってしまったみたいだけど、一晩眠ればきっと元気になるわ」

立っていたのは…美しい女性でした。

腰に届く艶やかな黒髪は、束ねることなく夜風に吹かれるままにしておられ。

濃い藍色の着物の上に、淡い藤色の羽織を纏っておられます。

きっと、姐さま方よりずっとお年は上でしょうが…皺のない真っ白な肌から、それ以上のことは一切窺い知ることは出来ません。

ほっそりとした指の間には、何枚か…墨字の浮かんだ薄紙が。

「それは………」

「札、見たことあるでしょ」

「ええ…でも」

ということは。

「あなたも…」

「そうよ」

色素の薄い茶色み掛かった、澄んだ瞳で、いつのまにか滑らかになった水面を、じっと見据えたまま、顎を引き。

「私もあなたと同じ、占い師」

ふっ、と目を細め、紅の鮮やかな唇の端を上げました。

「娘時代は、杏珠さまにもお世話になったわ」

「杏珠さま!?」

「みこと達は、元気かしら」

「姐さま達も…ご存知なのですか?」

女性が、まあね、と呟くのと同時。

大家さんの口から、小さな呻き声が漏れ聞こえてまいりまして。

「…大家さん!?」

思わずしゃがみこむ私に、女性の声がかかります。

「よかった…後は、よろしくね」

「あっ………」

待って、と呼び止める私の方を一度だけ、振り返り。

「私は、華月」

にっこり微笑んで、女性は。

「よろしくって伝えて…皆さんに」

暗闇の中へ…消えてしまわれました。

一瞬の、静けさの後。

「…めー…おーい」

遠くから、聞き覚えのある、私を呼ぶ声。

「夢ー、どこじゃーーー」

「みこと姐さま!!!」

大家さんを抱き起こし、ほっとして、泉を振り返ると。

月明かりの中咲く、彼岸花は…かげつさまの唇と同じ、真っ赤な色で咲いておりました。


『まだ帰れそうにないけれど、必ずいつか』

癖のある、懐かしい文字。

『必ず迎えに行く』

文机の一番奥から、この手紙を引っ張りだしてきたのは、きっと…夢の日記のせいだ。

『私もいつか、一生想いあえるような人と、出会えるのでしょうか』

ふう、と細く長い、ため息をつく。

『いつもみことを思っているから』

「みこと」

はっ、と、部屋の入口を見ると、つづみが硬い表情で立っていた。

「どうしたん…もう遅いえ?」

「日記…読んだか」

「ええ…つづみも?今日は私の当番やのに」

「気になってな」

そう言って、彼女は私の前にちょん、と正座して…黙った。

月明かりの射す庭からは、りんりんりんりん…という、虫達の呼び合う声が聞こえる。

愛しい相手を呼ぶ、切ない声だ。

しばらく耳を済ましていると、痺れをきらしたらしいつづみが、重く口を開いた。

「聞いたろ。夢………かげつに、会うたらしい」

「かげつ『さま』」

仮にも姐弟子を呼び捨てにするつづみを咎めるが、彼女に気にする様子はない。

「一体どういうつもりじゃ…あいつ」

まったく。

「これまで長いこと、姿を見せなんだというのに」

「そうやねぇ…十年ちかくなるなぁ」

「そうじゃ。あの時も、ちらりと姿を見せただけ」

月明かりに照らされた、不機嫌そうなつづみの横顔。

「帰って来ぬのだろうか、あやつ」

「さあ…どうやろ」

私もそれは、同意見だけれど。

「どうせまた、『風の向くまま』とでも言うのじゃろうが」

『占い師は、風の向くまま』

そう言い残して、彼女がここを去ったのは、夢のやって来る、ずーっと前。

「風なんぞ…吹くものか」

眉間に皺を寄せる、つづみ。

「風なんぞ…そんなものなんぞ、吹かぬ。私はずっと、ここを離れない」

少なくとも、娘を泣かせるようなことはしない。

きっぱりとした口調で言い放つ、つづみに。

「隣街の揉め事やったからやない?」

つい、彼女を弁護してやりたくなる。

「かげつさま、帰ってきはったの」

「そんな気があるなら…娘にも会うて行くじゃろが」

「会うたら、別れ辛くなるからやない?」

「ならば初めから、離れたりなぞせぬわ」

それだけ言うと、つづみは立ち上がり、部屋を出て行った。

「風…か」

私にも…吹くのだろうか。

どうしようもなく、どこかへ、どこかへ…そんな風に促す、質の悪い『風』が。

その時までに、私は。

「………久人」

何度も何度も読み返した手紙を、胸にぎゅっと押し当てる。

私は再び…巡り遭うことが、出来るのだろうか。

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