雨の日の祟り
その日は朝から大雨だった。バケツをひっくり返したような雨が一日経ってもまだ降り続き、夜の町まで叩きつける中、車を走らせていた直人は、ふいにブレーキを踏んだ。
「危ないな!」
──道の真ん中に、誰かが立っていた。
びしょ濡れの白い服。長い髪が顔に貼り付き、その表情は見えない。こんな時間に、こんな場所に、何故人がいるのか。
クラクションを鳴らしても、動かない。直人は窓を少しだけ開けて、怒鳴った。
「危ないだろ! 何してるんだ!」
女はゆっくりと顔を上げた。青白い唇が、かすかに動いた。
「……龍神さまを怒らせたからだよ。この町はまもなく水に沈む……」
その一言で、直人の背筋に氷のような寒気が走った。
直人の故郷には「水の神」が祀られていた。山奥の神社、龍神を祀る社。かつて村を洪水から守った神として語られてきたが、時代が進むにつれて忘れ去られ、社も朽ち果てていた。
「あれ、壊したの俺たちの会社だったな……」
ふと、数ヶ月前の記憶がよぎった。開発予定地の整地作業中、祠を撤去した。その後からだった。社員の一人が水死し、もう一人は家の風呂で溺れ、子どもはプールで事故に遭った。
偶然だと、思いたかった。
だが──
気付くと女の姿は消えていた。
家に戻ると、誰もいないはずのトイレから、水の流れる音がしていた。
ジョロジョロ……と細い水音。トイレの電気はついていない。恐る恐るドアを開けると、中は空っぽ。だが床は、濡れていた。まるで、誰かがびしょ濡れのまま立っていたかのように。
直人は震える手で風呂場の電気をつけた。鏡が曇っている。風呂に誰かが入ったのだろうか? いや、鍵は閉めていた。確かに閉めたはずだ。
水音が、また聞こえる。
今度は台所から。
どこか遠くで、女の声がした。
「……返して」
──何を?
次の日、気を紛らわせるために海へ出かけた。
風が強く、波が高かったが、懐かしい海を見ていると少しだけ落ち着いた。もうあんな幻覚には振り回されない、と自分に言い聞かせながら。
だが、帰ろうとしたときだった。
冷たい何かが、足首を掴んだ。
「う……わっ!?」
バランスを崩し、転倒する。水中に沈みかけた視界の中、白くぬるりとした手が、二本、三本と足に巻きついてくる。
耳元で囁かれる。
「……水に還れ……」
それは、何か怒らせてはいけない巨大な者を感じさせる声だった。
その後、直人の姿を見た者はいない。
ただ、あの道の真ん中にまた女が立っていたという話だけが、再び雨の夜に囁かれた。