最後の狙撃
東京湾沿いの再開発地区にそびえる高層ビル。
その上層階にセルゲイは潜んでいた。
防弾ガラス、完全電子制御の出入り口、屈強な私兵――誰も近づくことはできない。
この要塞に踏み込む術は、もはや斎藤にしか残されていなかった。
そして今――静かにその時が来た。
⸻
病院の最上階、特別管理区画。
通常は立ち入り禁止のその一室に、特殊な機材が搬入されていた。
無反動遠隔狙撃ライフル。
人工知能補助によるスタビライザー。
すべては斎藤の判断と一撃に合わせて設計された、かつての殺し屋が最後に使うべき道具。
モニターには、セルゲイが潜むビルの映像がリアルタイムで映し出されている。
死角に設置された小型ドローンカメラが、常に室内を監視していた。
斎藤は車椅子のまま、ゆっくりと機器の前に座る。
かつて研ぎ澄まされていた身体は今、動くのは指先だけ。
だが、その指先はなお、生きていた。
美月は隣に立ち、静かに祖父を見守る。
顔はこわばり、しかし目は真っ直ぐだった。
「じいちゃん……」
「……あとは、私に任せろ」
斎藤の声は低く、穏やかだった。
真田がシステムの最終チェックを終え、小さく頷く。
斎藤は深く息を吸った。
その呼吸の間に、長い歳月のすべてが流れ込んでいた。
「――セルゲイ……」
画面の奥で、セルゲイがソファに腰掛け、酒を傾けていた。
まるで、斎藤の狙撃を待っているかのように――。
「来い……古き友よ」
斎藤の指先が、微かに震えていた。
モニターの中でセルゲイが動かずに座っている。
この男を倒さなければ、すべてが終わらない。
この男にしか、過去の罪を償えない。
だが、認知症の霧が脳裏に広がる。
「ここはどこだ……私は誰だ……」
目の前の景色が揺らぎ、かすかに吐き気が襲った。
手が止まる。
引き金に触れる指が、まるで意志を失ったかのように揺れた。
「じいちゃん!しっかりして!」
美月の必死の声が背中を押す。
彼女の手が肩に触れ、温かさが走った。
真田がモニターのデータを必死に調整しながら言う。
「風速、距離、角度…補正完了。後は引き金を引くだけです!」
斎藤はゆっくりと目を閉じた。
過去の数々の殺し屋としての記憶がフラッシュバックする。
冷たい銃口、響く銃声、消えゆく命……
そして忘れられないあの夜、娘を守れなかった自分の無力さ。
「これが、最後の仕事だ……」
彼は自分にそう言い聞かせた。
そして深く息を吸い込む。
凛とした空気が肺に満ちていく。
指先がゆっくりと引き金に触れ、かすかな震えが伝わる。
しかしその震えは、恐怖ではなく覚悟の証だった。
「行け……終わりにしろ……」
長い間抑え続けた感情が一気に解き放たれる瞬間だった。
引き金がゆっくりと、だが確実に押し下げられる。
まるで時が止まったかのように感じられた。
静寂の中、遠隔ライフルの一発が放たれた。
モニターの中でセルゲイの身体が僅かに跳ね、
やがて崩れ落ちた。
斎藤は、目を閉じたまま、静かに息を吐いた。
「……終わった」
美月はそっと祖父の手を握りしめた。
「じいちゃん……お疲れ様」
斎藤の表情は、初めて心から安堵したように、穏やかに緩んでいた。
真田がゆっくりと言葉を添えた。
「これで……全てが、終わりました」
しかしその瞬間、斎藤はぽつりと呟いた。
「いいや……全てではない」
美月は驚いて顔を上げた。
「これからだ。美月――」
斎藤は優しく微笑む。
「私は、お前と、これからの日々を生きる。残された人生をな」
美月の瞳に、再び涙が溢れた。
今度は、痛みではなく、救いの涙だった。




