出立と苦い黒
私は家に入り、必要最低限の荷物を背負い鞄に詰めた。ナイフ、サンロ銅貨が詰まった袋、そしてよくわからない殆ど母が旅人時代に使っていたと言う品々を順に入れて行く。かなり年代を重ねているので、使えるかわからないが役に立つかもしれない。鞄を背負うと、かなりの重さが背に加わった。
私は外に出て、家の前に建てた母とソリスおじさんの墓に祈った。ありがとう、行って来ます、と。遺体は埋まっていないけど、きっと届いていると、私はそう信じた。
『その程度の荷物で王都まで持つのか?街に溢れる物資も持てるだけ持って行けばいい。その為に残したのだからな』
「…いりません」
私は旅立つにあたり、実家の荷物以外を持っていくつもりは無かった。咎める人がいないとはいえ、勝手に物を盗っていく気にはとてもなれない。そこまで割り切れるほど、非人間的では無いつもりだった。そんな事より…。
「…その姿はなんですか?」
『これならば汝に同行するのに不都合無かろう』
犬ほどに小さくなったニルヴァーナ様はそう言うと、空中でくるりと回った。
「ついてくるつもりですか?」
『無論だ』とニルヴァーナ様は頷いた。この龍は自分の言ったことは曲げない。私は深く息を吐いて、湧き上がる激情を沈めた。
「小さくても龍は目立ちます。他にないのですか?擬態するとか…」
『生物が持つ能力には理由がある。我も生物であるからその例に漏れん。擬態は己より強い生物から身を隠す能力だ。故に、頂点である我が必要とするはずもない』
「はあ…小さくなるのは身を隠す能力ではないのですか?」
『星の規模に己をあわせる為の力だ。そのままの姿でこの地に降り立ったのでは、星を破壊してしまう故な』
そういうと、ニルヴァーナ様は前足で器用に私の後ろ髪を退けると肩に降り立って寛ぎ始めた。
私はニルヴァーナ様の言葉に軽い絶望を覚えた。先に見せた太陽をも覆い隠す巨体ですら小さくなった姿だと言うのだ。
本当に、自分の人生の全てを使ってでも彼の龍の命に刃を届かせられるのか、まだ始まってもいないのに不安になった。今の私には、彼の龍の言葉尻を捉えてそこに希望を見出す事しか出来ない。
「生物という事は、ニルヴァーナ様も死ぬと言う事ですよね?」
『生憎、死んだ事がない故分からぬな』
ニルヴァーナ様はそう言って笑った。この龍の相手の神経を逆撫でする様な態度が本当に気に入らない。
私はニルヴァーナ様に構わず、南門へ歩みを進めた。 途中、道に散らばった服飾品に目をやる。母とおじさんの様に埋葬してあげたいが、私一人では難しい。私は目を伏せて、このままにしていく事を詫びた。
もぬけの殻となった南門をくぐり、私はトリイ公国を出国した。
さようなら、私の故郷。安らかに。
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物言わぬ祖国に別れを告げて、私はサンロ王国の王都に続く道を歩いていた。
出国するには身分証が必要だ。身分証はギルドと呼ばれる寄り合い所で登録が必要になる。ギルドはトリイにもあったのだが、今まで利用する機会は無かった。もうトリイのギルドは存在しない為、大きなギルド支部があるサンロ王都まで行くしかない。
本来なら、徒歩で王都を目指す場合サンロ王国の西側を流れるテミズ川に沿って、飲み水を確保しながら5日程かけて進むのが定石だ。だが、私には龍珠がある。ゲントから湧き出る果汁は飢えや渇きを一瞬で癒してくれるので、多少の無理も押し通してしまえるのだ。
こちらの馬車用に整備された道なら、徒歩3日な上、定期的に獣の間引きが行われている為比較的安全だ。
とはいえ、楽な道のりでは無い。何より私には野営の心得が無かった。母の旅道具の中に、火起こしの道具らしきものが有ったのだが、使い方が全く分からない。
日もすっかり落ちてきて、いよいよ野営地を決めなければならなくなってきた。
「…ニルヴァーナ様。火は起こせないんですか?龍ですよね?」
『火起こしごときで我に頼るな。己でなんとかせよ』
私は心の中で役立たずと吐き捨てて、渡りを見渡した。馬車なら1日で王都まで着ける為に、この道の周りには野営地に適した場所が比較的多い。運良く暗がりに一筋の灯りを見つける事ができた。私はその灯りに近寄ると声をかける。
「こんばんは。少しいいですか?」
焚き火にあたっていたのは白髪混じりの男性だった。彼はこちらを見て目を瞬かせた後、柔らかい笑みを浮かべた。
「これはこれは、可愛らしいお客様だ。お一人かい?」
私は、「いえ…」と言って右肩を差し向けた。現れた龍の顔に、男性の眠たげに閉じられた瞼が見開かれる。
「これは驚いた!子龍とは、君は獣飼いだったか」
獣飼いとは、獣を飼い慣らす人全般を指す職業名だ。獣から乳を絞って売る人、共に狩りをする人、芸事をする人などをまとめてそう呼ぶ。
私とニルヴァーナ様はそんな関係では無いが、それを説明するのは憚られるので素直に頷いた。
男性は私にそっと手招きをして、焚き火の側に来る様誘った。私は彼の導きに従って、男性の横まで行って腰を下ろした。
「私はテゼレットと言う。こいつで各地を回って、商いをしている者だ」
そう言って、彼は背後の荷馬車を叩いて言った。馬車は汚れ具合からかなり年季の入った物と分かる。少し離れた所にある木に繋がれていた。足を折りたたんで静かに眠っている。
「私はパトリシアです。」
私が名乗ると彼は「よろしく」と言って、焚き火にかけられた鉄鍋の取手を持つと、中身をコップに入れて差し出してきた。中には黒い液体が注がれていた。飲むべきなのだろうかと逡巡していると、テゼレットさんは笑って自身のコップに口を付けた。
「これはある国で商売をした時に手に入れた代物でね。多少の苦味はあるが、癖になる。身体も温まるよ」
私は恐る恐るコップに顔を近づける。香ばしい様な、深みのある香りが鼻腔をくすぐる。口を付けてみると、テゼレットさんの言う通り、独特な苦味が口内を席巻した。急激な刺激に、私はすぐさま口内の液体を飲み込んでしまった。
「ははは!お嬢さんには少し苦味が強かったかな?」
眉を顰める私の姿に、テゼレットさんは気を悪くする事もなく笑った。
「お嬢さん、旅は初めてかい?」
彼の問いに、私は内心同様した。疑問の形を取ってはいるが、彼の言葉には確信の色が、確かに籠っていたからだ。
「…どうして、そう思ったんですか?」
「警戒心が薄すぎる。旅慣れた者は知らない者の野営地には近づかないし、得体の知れない物を差し出されても口にしたりしない」
彼曰く、盗賊など悪事を働く者達の可能性もあるから気をつけた方が良いとの事。私は、確かに迂闊だったと反省した。
「一人旅なら尚更気をつけなさい。最も、君には頼りになる仲間がいるようだがね」
テゼレットさんはそう言って私の肩を見やった。正直、彼の見立ては間違っている。私はこの龍を仲間だとはカケラも思っていないし、頼りにしたいとも思って居ない。でも現状、旅を続けるには、この龍の力が必要なのも事実。私はその現実に歯噛みするしかない。
ふと、テゼレットさんは思い出したかの様に言った。
「そういえば、先日の親龍様騒ぎは凄かったね」
私は内心の同様を悟られない様「そうですね」と軽い相槌のみに留めた。渦中にいた者としては、この話題を続けるのは心臓に悪い。そんな私の思いなど知るはずもないテゼレットさんは続ける。
「まさか生きてる内に伝説を拝めるとはなぁ。しかもあんなに近くで。ついついご加護にあやかりたくてねぇ。ここに止まってしまって、今日で2日目なんだよ」
彼はコップと鉄鍋を片付けてながら言った。
「君の旅にも、龍のご加護があるといいねぇ」
龍は加護なんて与えはしない。ただ全てを奪って行くだけだ。私は焚き火を踏み消すテゼレットさんの背中を見ながら胸中で一人ごちた。
テゼレットさんから毛布を借りて、彼の荷馬車の上で眠らせてもらった。余計な考えをしない様に、すぐ寝てしまった。明日はきっと早いから。
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翌朝、テゼレットさんが私に王都までの同道を求めてきた。どうやら彼は王都を経由して隣国タルマールへ行くらしい。私はありがたくその申し出を受け入れた。
テゼレットさんが手綱を握ると、馬車はゆっくりと動き出した。馬は2日も休憩したお陰で活力十分。軽快に歩を進めた。
整備されているとはいえ、なだらかな道という訳ではない。ガタつく荷台の上は快適とは言い難く、荷は頻繁に喧しい金属音を響かせるし、下から突き上げてくる衝撃に時折お尻を浮かせて耐えるしか無かった。私があんまり辛そうにする物だから、見かねたテゼレットさんが毛布を尻に敷く様にと渡してくれた。
しばらくそうしていると、今までだんまりを決め込んでいた龍が話しかけてきた。
『王都で身分証を作ったら、すぐ出国する事だ』
ニルヴァーナ様の声は私にしか聞こえて居ないらしく、テゼレットさんは無反応。私は一人で話していると思われたくないので小声で、半ば反射的に彼の龍に反論した。
「嫌です。少しぐらい観光してもいいではないですか。」
『その様な無駄事に使う路銀が汝にあるのか?まさかただで身分証が手に入るとは思っていまい?』
ニルヴァーナ様の言うことは正論だ。路銀はそれほど多くない。だが、彼の龍の言葉を素直に受け入れる事は、今の私には難しい事。私は込み上げた熱量のままに忠告を跳ね除けた。
「貴方の言う事は聞かない!黙って!」
私がいきなり大声を出したが為に、馬が驚いて少し暴れた。テゼレットさんも大層驚いた様で、馬を宥めると御者席から振り返り声をかけてきた。
「お嬢ちゃんどうした!?何かあったかい!?」
「ごめんなさい…!何でもないです!」
私は右肩に乗った龍の頭を睨みつけた。しかし、ニルヴァーナ様はどこ吹く風と言ったふうに笑って言った。
『カッカッカ!迂闊も迂闊よ!その迂闊さにいつか足をすくわれんとよいな、小娘?』
「うるさいですよっ!!!」
「ごっ、ごめんね???お嬢ちゃん???」
カッカッカ、と私にしか聞こえない笑い声が平原を響き渡る。騒がしい旅路は刻々と過ぎていった。
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なだらかな平原を越え、遥か彼方に見えて居た小さな城塞がその存在感を増すごとに、透き通る風が活気溢れる喧騒を運んでくる。
親龍を讃える祭り、親龍祭。親龍教圏では四年に一度開催される催しで、そのために今王都は人々の熱気で溢れていた。門の周りには検問が敷かれて居て、多くの人でごった返している。
「どうやら馬車とそれ以外では受付が別れている様だねぇ」
見ると、離れた場所に立ち並んで順番を待つ人々が見える。馬車は積み荷を改める為に時間がかかるので、分けられているのだろう。テゼレットさんが顔だけ振り返っていった。
「お嬢ちゃん、私たちもここで別れるとしようか」
「え…」
私はテゼレットさんの言葉に、何となしに寂しさを覚えた。いつかは別れる事になる、いつまでもお世話になる訳にはいかないとわかっていたのに。
「私は物資を補充したら直ぐに発つつもりだ。お嬢ちゃんがどうするつもりかは知らんが…」
テゼレットさんは前を向いて、少し震えた声で言った。
「君の旅路に、龍の御加護がありますように」
私はテゼレットさんにお礼を言って別れた。再会の約束も無い、淡白な最後だった。彼の最後の祈りだけが、何故か心に残った。
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門兵の指示に従い、私は前へと進み出る。検問で主に行われるのは手荷物検査、そして徴税だ。手荷物検査は言わずもがな、徴税は都に入るに際し、その人物に一定の負担を課す目的で行われる。国の収入という面もあるが、邪な目的を持った人物を足切りするのが目的だ。金を払ってまで悪事を働きたい人は少ないだろう。
検問所にはテーブルが複数置かれており、そこに手荷物を広げて検査する様だ。しばらく進むと、壮年の男性兵士が手を振って私を呼ぶ。
「君!こっちだ!」
壮年の兵士の元へ向かうと、彼以外にもう一人の男性が待っていた。彼らは皆私の肩を見て固まっている。初めに硬直から立ち直った、若い兵士が問うてくる。
「君…その子龍は…?」
私はテゼレットさんが勘違いした通り、獣飼いと言う事にして説明した。
「私の飼い龍です」
「指定の首輪を装着していない様だが、登録はしてないのか?」
若い兵士の言葉に心臓が跳ねる。登録が必要だとは知らなかった。咎められるだろうか。
私が言葉に詰まっていると、右肩から助け舟が出される。
『田舎から出てきたと言う事にしておけ。そうであれば、登録のこと自体知らなくとも不思議ではない』
私はニルヴァーナ様の案に乗った。
「いっ、田舎から出てきて…登録が必要だって、知らなくて…」
若い兵士はこちらを訝しげに見つめている。焦りで肝を冷やしていると、私を呼んだ壮年の兵士が嗜める様に言った。
「おいおい、そんな怖い顔で見つめるから、この子怖がってるじゃないか?確かに子龍は珍しいが、未登録のまま連れてくる人だって結構いるだろ?」
若い兵士は、得心がいっていないながらも渋々引き下がってくれた。
「獣連れ込みの仮許可証を発行しておく。街で警邏に声掛けられてもこれ見せれば取り敢えず大丈夫!ただ有効期限は今日までだから、急いでギルド行って本登録するんだぞ。てかおとなしいな?良い子ちゃんかー?」
そう言って、壮年の男性はニルヴァーナ様の頭にゆっくりと手を伸ばした。瞬間、息を忘れる程の怖気を感じ、気付くと私は右肩を引いていた。
二人の兵士が訝しげにこちらを見ている。乱れた息を整えつつ、私は何とか言葉を紡ぎ出す。
「あの…この子、噛むので…」
兵士達は悪かったねと納得してくれた。
その後手荷物検査と納税を済ませて、私は都入りを許可されたのだった。
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初めての景色への感動も、喧騒への眩暈も、残念ながら今の私には感じる余裕は無かった。汗で張り付く前髪がそれを許してくれない。
人の流れに沿って大通りを進みながら、私は右肩に向かって語りかける。
「ニルヴァーナ様…殺そうとしましたね…」
先程の一幕、壮年の兵士は恐らく、ニルヴァーナ様の頭を撫でようとしたのだろう。直後に感じた怖気、それは間違いなく殺気だった。トリイの時と同じだ。この龍は人の命を、まるで野花を手折るように軽々と踏み躙ろうとしたのだ。
『ふむ。少々不愉快な気配がした故な。手が出かけたわ』
邪龍は事も無げにそう言った。旅の雰囲気に飲まれて忘れていた、汚泥の如き感情が胸を満たすのを感じる。
「人殺しは…やめて下さい…!」
怒鳴り散らしたい欲望を歯を食いしばることで耐え、ニルヴァーナ様を咎めた。
『然り。やや軽率であったな』
ニルヴァーナ様は不思議な程あっさり承諾した。
この龍が私の言う事を素直に受け入れた事に、腑に落ちない所はあるものの、この龍は嘘は言わない、必ず守るだろうと、私は当初の予定通りギルドを探す事にした。
「君!止まりなさい!」
突然鋭い言葉を投げかけられ、私は咄嗟に声の方を振り向くと、ピンクブロンドの髪を風になびかせた麗人がまるで竜胆の様な佇まいでそこにいた。
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