命と代価
暗闇の中に光があった。それは大きな龍の形をとっていて、私をその大きな背に乗せて、何処までも、何処までも、遠くへ…
「かはっ!はぁ!はぁ!はぁ…!?」
息苦しさを感じて飛び起き、貪る様に空気を吸う。一呼吸するごとに視界に色が戻ってきて、ようやく自分の置かれている状況に目を向ける余裕が出て来た。
身体を見下ろすと、山を登る前の様に汚れ一つ無いワンピースが身体を包んでいて、肩から腕に掛けては日焼け跡すら無い。両の手を見ると火傷や赤切れまで綺麗に消え去っていた。
『目覚めたか』
声に振り向くと、黄金に輝く縦割れの虹彩が私を見ていた。
「ニルヴァーナ様、私は……」
死んだ筈では…そう口にする前に、ニルヴァーナ様は折りたたんだ翼を広げる。するとそこには白く光り輝く宝玉が浮かんでいた。
『此れの名を龍珠と言う、我が力の結晶たる宝珠よ。雫の一滴で乾きを癒し、飢えを満たし、一欠片口に含めばあらゆる傷、病を立ち所に癒す。此れを用いれば、死に瀕した汝を救い上げるなど容易い』
「あらゆる、病を……」
『汝は我が命題を成せなかった。だが不可能と理解しながら、己が生命を投げ出し、我に奉仕した。賞賛に値する。故にこの宝珠を持って褒美とする事にした。』
ニルヴァーナ様のお話は、殆ど耳に入ってきませんでした。『あらゆる病を癒す』ニルヴァーナ様は確かにそうおっしゃいました。私の脳裏に、母の姿が過る。
龍珠がゆっくりと私の方まで降りてきて、丁度胸の前で止まった。掬うように持つと、両手に確かな重みが加わる。拳大の大きさのそれは、冷んやり冷たくて、暖かい銀光を放っていた。
「……ニルヴァーナ様、これを母に与える事を許して頂けないでしょうか?」
『否。其れは汝の行いに対しての代価である。故に、汝以外の者が口にする事は罷り成らぬ』
私は密かに歯噛みした。一筋の光明が暗雲に閉ざされ落胆する。私はその様子を悟られない様、龍珠を右腰に縫い付けられたポケットに突っ込み、勢いよく頭を下げた。
「有り難く頂戴します」
ニルヴァーナ様は満足そうに頷いた。
私は考える。ニルヴァーナ様に認められ、こうして宝まで授けていただけたものの、依然として当初の目的は果たせていない。私はニルヴァーナ様に、国の安寧を守って頂ける様、お願いするために来たのだから。
しかしこれ以上、ニルヴァーナ様に何かを求めるのは憚られる。これ以上は分を弁えぬ強欲と取られかねないだろう。どうしたものかと頭を抱えていると『小娘』と呼ぶ声。
『我は約束を違えん。強き決意を示した汝の願いに、我は答えよう』
『我が名に誓い、今後如何なる災厄からも汝を守ろう』
私はその場に膝を突き、頭を垂れた。偉大なる祖龍に抱く敬意を示す為に。深く、深く。
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ニルヴァーナ様の言質を頂いて、いよいよ帰途につく時がやってきました。親龍様の贄にならなかったとはいえ、安全に帰れる保証はまだ有りません。
行きは何故か獣に出くわさなかったが、帰りもそうとは限らない。そう考えていると、頭上からニルヴァーナ様の柔らかい声が降ってくる。
『我がこの山を根城にしている限り、野獣共は顔を出せまい。緩りと帰るが良い』
なんと慈悲深いのだろう。だからきっと、多少約束を違えても許して貰える。そんな浅はかな考えと共に、私はポケットの中の龍珠を握り込んだ。
涼やかな風が草木を押し除けて、まるで私を帰り道へと誘う様に吹き抜けて行く。道の先は薄暗いものの、私はそこに光りに照らされた未来を幻視した。
私は一度後ろを振り返り、ニルヴァーナ様に尋ねた。
「また、お会いできますか?」
『ああ』
『近い未来にな』
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風に導かれるまま草木生い茂る山道を下って、ようやく山から出る事が出来た。ニルヴァーナ様の計らいで道中、獣と遭遇せず、お腹が空けば龍珠からしたたる雫を一口すするだけで満たされる、実に緩い帰り道。
小高い丘を下り、広がる平野の先に目を向けると、丸く築かれた砦に囲まれた、我が祖国トリイ公国が見える。トリイ公国はサンロ王国の領内に包括された一都市のみの小国で、元はサンロ王国の公爵だった初代国主様の一族が、代々治めている。
丘を下って平野をまっすぐ突っ切ると、整備された道が現れる。道なりに行くと、トリイ公国の正面砦門に到着した。親龍様の住むとされる龍山の麓に位置する要所だけあって、砦門には多くの来訪者が訪れる。特に今年は四年に一度の親龍祭。列に並ぶ訪問客も、通常の比ではなかった。
私は、通常よりも増員されているであろう検問に並ぶ長蛇の列、その最後尾に並ぶ。
検問は町の東西門にも設置されていて、それでもこの始末なものだから検問に着く前に訪問客の訪問理由を事前に聴取し、円滑に入国審査へ入れる様にする聴取官なる人員が置かれている。列の先に目を向けると、運良く聴取官が近くまで来ていたようだ。私はその見知った姿に、手を振って声をかけた。
「ソリスおじさん!」
彼は母が働いていた酒場の常連で、私が母の仕事を引き継ぐ様に働き出した後も、あしげく通ってくれていた。私たち親子をよく気にかけてくれていて、私がお役目に行くと決まった後も、母の事は任せろと言ってくれていた。
私に気づいたおじさんは、目を瞬かせて、こちらに駆け寄って来る。
「お、おめぇパティ!どうしたんだ!?一体、お役目は…」
言葉の途中で、ソリスおじさんは口をつぐむ。
「実は山で親龍様にお会いして…」
潜めた声でそう言うとソリスおじさんは、「ついて来い」と、私を列から連れ出した。
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「そんで、親龍様に会ったってのは本当か?」
私は砦に備え付けられている聴取室で、憲兵であるソリスおじさんと対面した席に座らされた。室内は広く一般的な民家ほどあり、高価そうな壺や絵画などが品を損なわない程度に置かれている。推察するに、お貴族様を接待する為のお部屋なのだろう。
私たち二人は部屋の中央にある机を挟んで対面の席に腰をすえている。机の上にはあらかじめ羊皮紙と羽ペンが用意されており、ソリスおじさんは「悪いが記録をとらなきゃならんからな」と言って、羽ペンを左手でもち、こちらに視線をむけた。
「お前さんを疑いたくはないが、なにぶん突拍子もない話だ。一から話してくれ」
私はニルヴァーナ様と出会ってから今までの話を包み隠さず話した。室内は水を打ったように静かで、私の話す声とソリスおじさんのペンが不規則に羊皮紙を叩く音だけが聞こえる。ペンの音が止まった時には、ソリスおじさんは右手の親指と人差し指で眉間を揉みながら唸り声をあげていた。
「荒唐無稽だが……それを見せられたら信じるしかないな」
彼の視線は、私の両の手に乗せられた龍珠に向けられていた。彼は龍珠をじっと見て「きっと祖龍様もお前の頑張りに報いてくださったんだ、よかったな」と右手を伸ばして私の髪を撫で崩した。おじさんの手のあたたかさが伝わって来て、目頭が熱くなる。その時、思わず口から漏れた様に「そうか…ナヒリは治るのか…」と、ソリスおじさんが呟いた。
私は、緩む口元を手で隠しながらソリスおじさんに顔を近づけ、囁く。
「お母さんにアタックするなら応援するよ?」
するとソリスおじさんは頬を赤くして「ばっ!なに言ってんだ!」と、声を抑えて弁明する。しかし、彼が母に惚れているのは、母がまだ酒場で働いていた頃から公然の秘密だった。おじさんは「何にせよ、お前が無事でよかった!」と、再び私の頭を撫でて誤魔化した。
「さて!」とおじさんは立ち上がり「お前さんへの聴取は終わりだ、帰っていいぞ!」と退室を促す。
「事が事だからな、このことは公爵様の耳にいれなきゃならん、場合によっちゃあお前さんも登城する事になるかもしれん」
予想はしていたので素直に頷いた。おじさんは手を振って「早く家に帰ってやれ」と言ってくれた。私は彼に、「お母さんと二人で待ってるからね!」と言って手を振りながら駆け出した。ソリスおじさんが何か叫んだ様だったが私はもう振り返らなかった。
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大通りを左に逸れて紫の龍胆が咲く花壇がある角を曲がった先の裏道を進む。民家の並ぶ通りを走り抜けて、そのうち見慣れた黄赤色の煉瓦壁を見つけた。
扉の前に立ち、胸に手を当てて呼吸と鼓動を落ち着ける。ドアノブに手を掛けて少し力を掛けて押すと、嗅ぎ慣れた煤けた匂いが私を室内へ誘う。
古い木椅子と机。小さなクローゼット。寝泊まりするだけの様な閑散とした部屋を、思い出に浸る様にゆっくりと見回していると、「パトリシア…?」と呼ぶ声。涙が止めどなく溢れ出して来て、私は駆け出した。こぢんまりとした部屋に一つだけある窓に横付けされた古ベッドから身体を起こす、その痩せぎすな身体に私は優しく抱きついた。
「お母さん、ただいま……!」
「おかえり、パトリシア」
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私は母の口元に龍珠を持っていき、一口齧らせた。すると変化は顕著に現れた。母の身体から光の粒が仄かに立ち昇り始めたのだ。
私自身もこの宝珠を口にしているはずなのだが、その時の記憶が定かでは無いので、この現象には酷く驚いた。だが変化はこれだけにとどまらない。青白く、もはやドス黒くすらあった肌がスゥッと、明るくなり頬にほんのり朱が差した。コケた頬が膨れ健康的な丸みを帯びる。その内、母は長い間自身を貼り付けていたベッドから立ち上がり、身体を見回した。もう長い間見る事が叶わなかった、快活な母の姿がそこにはあった。
私たちは顔を見合わせると、どちらからともなく抱き合い、泣いた。笑いながら、泣いた。
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ひとしきり泣いた母が最初にした事は、私を叱りつける事だった。母曰く「例え治療を受けて身体が良くなっても、あなたがいなくなったら意味がないでしょう!」との事。
「私はあなたの事が一番大事なんだから、あなたが幸せでいてくれればいいのよ」
「うん」
母の言葉を受け入れつつも、私は自分が行動を起こした事を後悔してはいなかった。自分がとった行動が、元気な母を取り戻したのだと言う確信があったからだ。今はただ、この幸せに浸っていたい。私は母の胸に飛び込んで、額を擦り付けた。
「もう…甘えん坊なんだから…..」
柔らかな感触が優しく、私の後頭部を撫ぜた。
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名前も知らない小鳥の囀りに肩を揺すられて、私は微睡から目を覚ます。すると目の前には、母の柔らかな微笑みがあった。
「もう、病み上がりくらいゆっくりしたらいいのに…」
「おはよう。パトリシア。朝ごはん、できてるわよ」
母は、まるで幼い子供を慈しむ様に私の頭を撫ぜた。
布団に入ってから眠りにつくまで、私は母にニルヴァーナ様との出来事を事細かに話した。母は私の話を聞いて、時に笑い、叱り、褒めた。話疲れて眠る間際にも、母はこの様な、慈愛に満ちた顔をしていた。そんな母を見ていると、昨夜から感じていた、言いようの無い不安が払拭される気がした。
食卓につき、約2年振りに食べる母の朝食に舌鼓を打つ。母が病床に伏せってから、家事の一切は専ら私の役割だったが、やはり母の仕事には敵わない。私たちは、やれこれが美味しいだの、今日は何をしようだのと談笑しながら朝食を食べ進めていく。
母の「今日は祖龍祭を見に行きましょう」と言う一言で今日の予定が決定した時、不意に玄関の扉が叩かれる。腰を上げた母を制止して、私は玄関に駆け足で近寄ると扉を引く。するとそこには、よく見たこの国の警邏隊の制服を着た男が一人。
「ソリスおじさん!」
平手を挙げて「よぉ」と軽い調子で言うのは身長5フィルド10イーチ(180センチメートル)の偉丈夫。今日は何やら無精髭が整えられ、雑多に切られた髪も、整髪料で整えられていた。制服の着こなしも心なしかしっかりとしている。どこか落ち着かない様子の彼の様子に合点がいった私は口角を上げた。
何やら察した様子の私に眉を顰めたソリスおじさんだったが、私の背後を見遣って頬を緩めた。背後に目をやると、いつの間にか母が立って来ていた。知った来客と見て、顔を見せようと思ったのだろう。
「ナヒリ」
「ソリス、いらっしゃい」
「治ったたんだな」
「ええ、お陰様で、貴方にも心配かけたわね」
ソリスおじさんが後ろ手に隠していた花束を母に手渡す。母は「ありがとう」と言って嬉しそうに受け取った。
母は実際のところソリスおじさんの事を憎からず思っている節がある。いつもならお客さんの好意でもこういった贈り物は受け取る事が無いのだ。でも、そうとは知らないソリスおじさんが中々踏み込めないのもわかる。けれどもいい加減焦ったくなってきた。ここは一つ助け舟を出してやろう。私はソリスおじさんに提案する。
「私たち今日は親龍祭を一緒に見て回るの。ソリスおじさんも一緒に行こうよ」
ソリスおじさんは分かりやすいくらいに顔を明るくした。けれども、その表情はすぐに陰ってしまう。
「誘ってくれるのは嬉しい!でもなぁ…」
ソリスおじさんは両腕を組んで唸り声を上げる。不意に「ソリス!」と呼ぶ男性の声が聞こえてくる。「いつまで待たせる気だ」とやや急いた声で呼ぶのはソリスおじさんにも引けを取らない体格のいい男性だった。ソリスおじさんとは異なった制服を見に纏う彼の右腕には、サンロ王国騎士団所属である事を示す腕章が巻かれていた。男性は右手を左胸に当て、右腕の腕章を指し示す特徴的な敬礼をすると、名乗りをあげる。
「サンロ王国騎士団トリイ公国領駐屯大隊所属のサルカンだ。君がパトリシアだな」
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聳え建つ城門から吹き下ろす風で煽られた髪を押さえ付ける。見上げる門の屋根の両先にはサンロとトリイ、両国の龍をあしらった国旗が掲げられていてその更に奥に、一際大きな城が見える。
「ここが公爵様の居城だ。許可は取り付けてある。入るぞ」
私はサルカンさんに促されるまま、城の敷地内へ足を踏み入れた。
ソリスおじさんとサルカンさんが我が家を訪ねて来た理由。それは彼の龍の件で話があるので登城する様にと命令が下ったので、私を招致する為だった。当然当初の予定は変更を余儀無くされたのだが、母はまた後日にしようと言ってくれた。親龍祭は3ヶ月丸々使って開かれているのだ。まだまだ機会はある。が、それはそれとして気は乗らない。足の重さを自覚しながら、私は広い城内を歩く。
目線を左右に動かすと、見慣れない白亜の壁がシャンデリアに照らされて煌びやかに光っている。その上に豪奢な垂れ幕や装飾品が飾られていて、その全てに 龍の荘厳な意匠が施されていた。
「物珍しいのはわかるが、あまり見回さないことだ。ここには貴族などもいる。見咎められたら事だぞ」
私はサルカンさんの忠告に従い、その大岩の様な背中の観察に努めた。
そうして暫く歩くと、一際大きく荘厳な扉が姿を現した。サルカンさんは歩みを止めると、扉番に報告した後こちらを振り返った。
「着いたぞ。謁見の許可が出次第すぐ入場する。準備しておけ」
準備しておけと言われてもする準備と言えば心の準備くらいだ。龍山に出立する前に一度経験しているとはいえ、この国の頂点と合うのだから緊張は免れない。私は胸に手を当てて呼吸に集中する。やがて扉番の号令がかかり、大扉がゆっくりと開かれた。
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