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B-23

ALL TOGETHER NOW

作者: あQ


 時刻は深夜一時を過ぎた。この田舎の山村では夜は街の灯も届かず、人も動植物も時が止まったように沈黙している。今日は雲の間から所々星が浮かんでいるが月は出ていない。反応を示す物体といえば、夜間に一通か二通、ゴウゴウと風のように音を立てて貨物列車が無人の駅を通過するだけである。

 上下左右に流れる山の道路を中年男が一人歩いていた。眉毛が歪んで目に魂が入っていないようである。手に荷物はなく、黒色の靴は色褪せ擦れていた。男は錆びたり曲がってりしているガードレールに時たま手をかけ、自分の呼吸とある思いを心中で整えながら進んでいた。男の上着の両ポケット、ズボンの尻の両ポケットには手錠が計四つ、一つの穴に一つの割合で入っていた。それには大きな意味があった。男は死のうとしていた。その為には手錠が不可欠だった。

 ちょっとした坂道を上りきると、漸く目的地の無人駅が見えた。駅の周りの古そうな店や郵便局は閑散としているとはいえ、流石に駅には街灯やプラットフォーム内の電灯が青白く光っていた。男は蛾のように光を目指したが、歩みを速めようとはしなかった。今こうやって歩いているという生きた証を最後に実感したかった。

 駅は異次元を思わせる網のフェンスで囲まれ、駅の出入口にそのままなっている改札口

には弛んだチェーンが掛かっていた。男はそれを暖簾をくぐるように体を屈め、下から手で押し上げ中に入っていった。駅構内のコンクリートの地面には乾燥した虫の死骸や潰れたジュースの缶が散乱していた。プラットフォームに立ってみると、電線か電灯の接触が悪いのか、ツーという音が耳鳴りのように聞こえてきた。当然のようにこの駅には男一人しかいなかった。男は汚れた青いベンチに腰を下ろし、遠くを眺めようとしたが、水墨画のような木々が近くに見えるだけで、背景は宇宙と同化していた。

 ふと天上を見上げる。時計が気になったのだ。

 (1時37…)

 男はその時計を長いこと見ていたが、それが動いていない事に暫く気が付かなかった。 (時間は無限にある。しかし、自分の時間は無限には無い)

 男の気持ちはそのアイロニーで一気に高ぶり、行動を起こさせた。

 男はホームから線路に重力に任せ飛び降りると、駅の内線を駆け抜け暫く走った。息が詰まる感覚に襲われ、足を緩め後ろを振り返ると、青白い光が遠くに見えた。男は荒い息のまま線路に座り、ズボンの両ポケットから手錠を取り出した。決心が付いた。

 (ここにしよう)

男はレールと枕木をボルトで固定させている小さな鉄片の僅かな隙間に、手錠を差し込み輪を閉じた。反対側も同じように手錠を付ける。閉じた時のジジジという感触が心地良い。男は汗ばんだ靴と靴下を脱ぎ、バラストに形を整え並べた。死ぬ前は靴を脱ぎたくなるものだ。それは死ぬ前のけじめだからであろう。

 男はレールに沿って両足を構え、空の輪に自分の足首をそれぞれ配置し、輪をきつく閉じた。そして足元に注意しながら、そのままゆっくりと全身を線路に倒し、仰向けに寝た。鉄のレールが氷のように冷たい。次に男は上着から手錠を出し、右手が落ち着きそうな所の近くのレールに手錠を掛けた。左側も同じように掛け、まず左手を輪に掛け閉じた。右手も難儀ながらも指を上手いこと使い、手首に輪を掛けようと藻掻いていると、ジャケットの胸ポケットから小さい鉄の何かが落ちた。空いている右手でそれを取り、暗がりで眺めた。目で確認できなかったが、手触りからしてそれが四つの手錠全てに共通する鍵であると分かった。

 (こんなもの、今となっては必要ない)

 男はそれを遠くに投げようと手首を振った。しかし自由が利かない姿勢の為、思うように腕が回らず、力点で投げる前にするりと鍵は滑り、レール外のバラストの上に落ちてしまった。男は不満を感じたが、

 (悪魔の仕業か)

 と心中で呟き、苦笑した。

 右手も何とか手錠が掛かると、男は一仕事終えたように長い溜息を空に吐きだした。事実、これが男のこの世での最後の仕事だった。あとはじっと待つのみである。

 この線路には重油を積んだ巨大な貨物列車が通る。速度を制限しているとはいっても、山からの下りの為、あるいは夜間の運転手の心理状態からいっても、スピードは上がりがちになる。さらには曲がりくねった山路では遠くの線路を確認するのは容易ではないし、ましてや夜ともなれば視界は悪くなる。このような悪環境では加速した列車は喩え障害物を見付けたとしてもブレーキは間に合わないだろう。

 男は自分が死んだ時の事を考えにやけた。レールに手錠と手足首だけが儀式のように残り、マスコミはこの事件を大きく取り上げるだろう。そうなればしめたものだと男は思った。

 (死ぬ前に——死んだ後の方が正しいか——一花咲かせてやろう。世間を騒がせてやろう。今まで平凡な人間のフリをして耐えてきたんだ)

 かなり時間が経ったようだが列車は来る気配がなかった。

 (今日はもう全て行ってしまったのだろうか。だとしたら、明日朝の列車に生きたまま見つけられてしまうかもしれない。その時はどうしようか。こんな醜態は許せない)

 やる事も無くなり、男は熱くなった身体をレールの鉄で冷やし休ませた。快い。

 (空にもう少し星が出ていれば、この死に様は絵になるのにな…)

 男は枕木に頭をもたげ、若干残念がった。

 ここは静かな所だった。本当に列車が来るのかと疑いたくなるほど何の音も無かった。

やがて男の意識は時間の経過と共に薄れていった。そして長時間歩いた疲労も相俟って男はつい眠ってしまった。別に寝たまま列車に轢かれても良かった。その方が寧ろ本望だったと言っていい。だから男は眠れたのである。


 暗闇。静寂。男の寝息が静かに流れた。



 膝の部分がびくんと痺れた衝撃で目が覚めた。体が汗ばんでいる。まだ生きている——要するにまだ列車が来ていない——様子からするとそれほど時間は経っていないだろう。

 男の胸が高く鳴っていた。夢を見たからである。それは今の自分の状況、意志を全く反映させない素敵な代物だった。男はそれを夢とは知らず、大変な幸福を感じた。さっきの事を夢と理解したものの、男には微かながら生きてみてもいいような戸惑いを感じた。しかし、自分の決意を裏切るような気がして素直になれなかった。

 月が出ていた。横山大観が力強く描いたような丸い月だった。男は月を見た。都会よりも月に近いこの場所。男はこれほど見事な満月を見たことがなかった。

 (生きようかな)

 男にぼんやりと魔が射した。それはかつて芥川龍之介が抱いたものに反する、漠然とした期待だった。この状況故に、生命の生きる象徴のように見えたあの月を見ていると、死ぬ事がつまらないもののような気になってしまった。

 「生きよう」

 

 男はそれから慌てた。急がなければ列車が来てしまう。男は深い脳裏に、列車は今日はもう来ない、という事実を祈った。むやみやたらと手錠を引っ張ってみたが、頑丈な手錠やレールはびくとも動かなかった。

 「おーい、だれかー。たすけてくれー」

 男は声を出して助けを請ったが、何の呼応もないのにいよいよ焦り始め、嗄れるほどに力一杯叫んだ。しかし男の声ばかりが響き、辺りは静かなままだった。

 (そうだ、鍵)

 男はバラスト上の鍵を睨み、思い切り手を伸ばした。40センチもない距離ではあるが、それは届きそうで届かなかった。

 と、男は息を殺した。レール内部から鉄と鉄を引きずり擦るような音が聞こえ、遠くから光が顔を一瞬照らし、通過したのだ。

 (まさか)

男はそれが嘘であることを願った。しかし無常にも近くの踏切では、警報機の赤ランプがカンカンと大きく不吉な音を立てて鳴り、遮断機が降りていった。

 (悪魔が来やがった…)

 男の顔から血の気が引いた。

 「止まれー。人がいるぞー。助けてくれー」

 男は強引に輪から手足を引き抜こうと闇雲に暴れ、誰かに向かって叫んだ。その時、曲がったレールから直線に入り、暗闇から突如として、列車が大きな二つの目を光らせて出現した。

 「あぁ…悪魔の顔だ」

 男の脳中はその光で意識を真っ白にされてしまった。そして男に生への諦めを植え付けた。男は聞こえてくる鉄の怪物の轟音にガタガタと震えながら冷静を装った。

 (そうだ、死ぬ前に楽しかった事を考えよう)

 それが男のせめてもの生への最後の欲だった。

 「オール、トゥゲザーナウ…」

 男が最後に考えた事。それは、幼少の頃に親から受けたアガペーでもなく、美味い食べ物でもなく、愛した女でもなかった。バカ騒ぎをしながら徐々にリズムが早くなりエンディングをむかえるビートルズの『ALL TOGETHER NOW』だった。 

(完)


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