強運の竹中が死んだ
強運の竹中が死んだ。
ちょうど、駅前の交差点で信号待ちをしている時だった。友人である戸澤からのメッセージに「竹中いく」と、短くそう記されていた。
戸澤に電話を掛けると、彼はいたって冷静な口調で、「病院に行こう」と言った。そして、戸澤は病院前の喫茶店を待ち合わせ場所として指定すると、すぐに電話を切った。戸澤は普段からキザでクールな奴なのだ。
しかし、よくよく考えてみれば、竹中は僕たちの高校3年生の時の担任だったとはいえ、親族でもないのに急に病院を訪問するのは無遠慮すぎる気がした。後日、葬式に参列するならまだしも、亡くなったばかりの時に病院に行くのは気が引けた。そこはやはり、近親者のみが集まる場所だろう。それに、僕たちが到着した頃には、竹中は病院の遺体安置室に移されて会えないかもしれないし、すでに葬儀屋さんに運ばれてしまった後かもしれない。いずれにしても、もう生前の竹中には会えないし、すぐに帰ることになるだろう。僕は、あらためて戸澤に病院に行くことを取りやめるよう説得しようと電話をかけた。しかし、戸澤は電話に出なかった。
戸澤からの折り返しを待つことも考えたが、一度決まったことに対しては考えを変えないのがキザでクールな戸澤という男なのだ。折り返しが来る可能性は低いだろう。やれやれ、それじゃ仕方ない。とりあえず病院に行くことにするか。竹中に会えなかったら会えなかったで戸澤の気が済むようにすれば良いじゃないか。そして、そこで竹中の元教え子として、お世話になった看護師さんにお礼でも言うとするか。それで「あの人は律儀な人」と病院内で評判になり、なんやかんやで、看護師さんたちと仲良くなるとするか。それでまた、なんやかんやで、その中で1番かわいい看護師さんと連絡先を交換するとしますか。それでまた、なんやかんやでその看護師さんとお付き合いをすることにしますか。それでまた、なんやかんやで結婚することにしますか。それでまた・・・と、なんとなく、なんやかんやが多すぎて不確定要素しかない気がしないでもないが仕方ない。なんやかんやの数だけ、人生はドラマチックなものなのだ。
僕は、病院行きの電車に、足取りも軽く乗り込んだ。夕方17時の乗客はまばらだった。僕はドア近くの座席に腰をかけた。ふと見上げると、誰かが忘れていった雑誌が網棚に置いてあることに気がついた。僕はその雑誌をパラパラと読み始めた。芸能情報や今週の占いなど、色々な情報が様々に掲載されている、よくあるタイプの週刊誌だった。
強運の竹中は、僕の担任になる前から強運なことで有名だった。強運と言えば竹中だったし、竹中と言えば強運だった。ただ、それがどれほどの強運だったのかは知らない。残念ながら、その由来も不明なままである。さらに言えば、強運を発揮した場面に僕は遭遇したこともないし、そもそも、いつ、誰が言い始めたのかも謎である。いや、はじめから誰も何も分からないのかもしれないし、それは、竹中本人にしても、そうなのかもしれない。しかし、とにかく強運だったのだ。そして、だから、と言ってはおかしいが、竹中には逆らえない風潮がどこかにあった。運の良い人に逆らうと運が悪くなる気がしたし、運が良いということはつまり、神様が味方している、という、今思えば根拠のない方程式が、その当時の僕の頭の中では成立していたからだ。
竹中との個人的なエピソードとして思い出されるのは、高校3年生だった当時、僕のパチンコ通いが見つかって補導された一件である。それは夏休みのある日のことで、パチンコ屋からの通報を受けて竹中が車で駆け付けてくれた。高校生がパチンコ屋に出入りすることはもちろん条例違反なのだが、家まで送ってくれる道すがら、僕を叱るに際し、竹中はそういった話しは一切持ち出さなかった。代わりに「パチンコみたいなギャンブルに運を使うな。運が必要な場面で運が悪くなるぞ」と運気を根拠に僕を咎めた。当時は、そうか、それで僕には彼女ができないのだな、と、目から鱗な思いがしてパチンコ通いをやめたわけだが、しかし、その後の高校生活でも、彼女は出来ないままだった。そして、それから10年たった今でも彼女が出来ないのは、条例違反を犯してパチンコで勝ちまくったことが未だに影響しているからに違いない。また、例のキザでクールな戸澤も共犯だったわけだが、戸澤にはなぜだか不思議と当時から彼女がいた。その戸澤の言い分としては、「仮にパチンコをやめたとして、そこで節約できるのはギャンブル運であって、他の金運や恋愛運はまた別の運である。だから、パチンコで運を使ったからといって、恋愛運まで減って彼女が出来ない、ということはない。そこに相関関係はない」といったものだった。彼の理屈も一見するとクールで筋が通っている気がしないでもない。ただ、彼の場合、キザなくせに当時から常にパチンコで負けてばかりいたから、その論理は今持って説得力を持たない。
とにかく、竹中は、なにかと運気の話しを持ち出すことが多かった。娘の名前も「運」がつくという噂だった。もちろん、運子とか運智ではないので、その点で言えば、竹中もトイレ的には踏みとどまったようだ。もっとも、「運」がつく時点で、やはりギリギリアウトと言えなくもない。
今思えば、強運と名乗り出したのは竹中本人だったのかもしれない。見た目はゴリゴリの男臭い竹中も、すでにその頃は齢50を過ぎており、体力的にも不安を抱えていた。竹中は体育教師だったこともあり、生徒指導もその役割の一つだった。そこで、強運という、前述した根拠のない方程式を利用して、生徒からの反発を抑えていたのではないか。今となっては確かめるすべはないが、そんな気がしないでもない。
雑誌をパラパラめくっていると、牡牛座の今週のラッキーアイテムは、「ピンク色の下着」とあった。僕は、あらためて目の覚める思いがした。これだ、これに違いない。昨日の婚活パーティーも、ピンク色の下着を身につけていなかったから、うまくいかなかったのだ。もちろん、この雑誌の性質から言って、ピンク色の下着とは女性向けのものだろう。それは理解できる。しかし、同じ牡牛座であれば、やはり男であっても多少は影響するのではないか。とすれば、男性用でも良いだろう。そして、もし仮に女性用でないとダメだったとしても、下着であれば誰に見られるものでもない。これからかわいい看護師さんたちに会うわけだから、多少は運気を上げていくに越したことはないだろう。すでに別の雑誌のラッキーアイテムは取り入れているが、取り入れすぎていけないこともないはずだ。幸いにも、戸澤との待ち合わせ時間までまだ余裕がある。そこで、僕はピンク色の下着を買いに行くことにした。
何軒か回ったが、男性用のピンク色の下着は見つからなかった。悩んだ末、僕は女性用のピンク色の下着を彼女へのプレゼントであることを装い、購入することにした。いずれ彼女が出来た時に手渡せるように、自分好みのフリフリの可愛らしいものを選んだ。ただし、病院へ持参することになるから、派手なラッピングは避け、見た目からはそれとわからないように無難にまとめてもらった。一瞬、この下着を履くことも頭によぎったが、それは流石に変態が過ぎるだろう。ラッキーアイテムは、なにも身に付ける必要はないはずだ。手にしているだけでも効果はあるに違いない。僕は、そのピンク色のフリフリの下着の入った紙袋を手に、無事にミッションをクリアしたことを静かに喜んだ。
待ち合わせ場所である病院前の喫茶店にて、アイスココアが到着したところで、戸澤から「少し遅れる」と連絡が入った。戸澤を待って一緒に行くことも考えた。しかし、葬儀屋さんの到着時間にもよるが、確かに、訪問時間が遅れれば遅れるほど、竹中に病院で会える可能性は少なくなる。いくら看護師さんたちに会いたい気持ちがあるとはいえ、今回の訪問の1番の目的は竹中である。僕は下着の入った紙袋を喫茶店に忘れないように持ち手をぎゅっと握りしめた。そして、戸澤に「わかった。先に行っている」とメッセージを送り、アイスココアを飲み干した。
夕方の病棟は忙しそうで、患者さんの夕食の介助のために看護師さんたちは個々の病室に出突っ張りだった。1人で自由のきくうちに、なにかときめくようなアクションを起こしたかったのだが、仕方ない。僕は真っ直ぐに竹中の病室に向かった。
強運の竹中は生きていた。さすが強運である。死んだと思ったら、死んでいなかった。確かに、当時と比べると痩せてはいたが、彫りの深い、ゴリゴリな男臭さは健在で、筋肉もまだそれなりに保たれており、昔の面影を残していた。
竹中は病室で静かに眠っていた。やれやれ、人騒がせにもほどがある。そう思ったが、それはすべて僕の勘違いだった。後にわかったことだが、戸澤からのメッセージの「竹中いく」の「いく」は「逝く」ではなかった。つまり、そのメッセージの行間を埋めるとこうである。「今日、竹中のお見舞いに病院に行く?」これだからキザでクールなヤツは。やれやれだよ、まったく。
突然の訪問ではあったが、竹中の奥さんは僕のお見舞いを歓迎してくれた。
「わざわざ来てくれて、ありがとう」
「いえいえ、先生には学生時代にお世話になったので、当たり前のことです」僕は努めて、恩師思いのかつての生徒を演じることにした。「それで、先生の容態はいかがですか?」
「それが、あまり良くないの」そう言うと、奥さんは少しため息をついた。「もともと慢性心不全を患っていたのだけど、ここ最近は入退院を繰り返していて、その度に体力も落ちてきていて」
「そうなんですか」
竹中は強運のくせに心臓病なのかと思ったが、強運だから心臓病でも死なないのかとも思えた。強運の基準をどこに置くかでこうも印象は変わるものかと考えたわけだが、とにかく、強運の竹中は健在だった。
「今回の入院も2週間経つけど、退院の見通しは立っていないのよ」
「それは心配ですね」
ただ、そうは言っても、僕には竹中の状態がそんなに悪いとは思えなかった。整えられた無精髭と、清潔に保たれているパジャマのせいもあってか、顔色はむしろ良さそうに思えたからだ。しかし、それは奥さんが毎日、甲斐甲斐しく世話をしているからなのだということにも気がついた。そして、少し疲れた様子の奥さんのことが気になった。
「奥さんも大変ですね。毎日何時間付き添っているんですか?」
僕がそう奥さんに水を向けると、「病院にいれるだけ、いるようにはしているけどね」奥さんはチラリと竹中の方を見た。「でも、大変だと思ったことはないわ。お世話をすることも、やらされているわけじゃないし」
「自分から進んでやってる、ってことですか?」
「そうよ」奥さんはそこで、少し頬を緩めた。「お父さん、『いつもありがとう』って言ってくれるから、世話をやく甲斐もあるのよ」
「へー。先生が」
僕はそこで、竹中を見つめる奥さんに対して、ここまでの浮かれていた自分の行動を恥じた。いくら男性用とはいえ、ピンク色の下着を履いて恩師の死を悼もうとしていたなんて、どうかしていた。のみならず、一時は女性用のピンク色のフリフリの下着を履くことも辞さない構えでいたのだ。履き替えなくて本当に良かった。僕は、ピンク色のフリフリの下着の入った紙袋を病室に忘れないように、絶対に忘れないように、あらためてしっかりと持ち手を握り直した。
「この間もね、『僕は本当にラッキーだ』って、お父さんが言ってくれたの」
「ラッキーですか?」僕が反省している間にも、話しは進んでいく。
「そう。『モテなかった僕が結婚できただけでもラッキーなのに、その相手が君だったんだから』って」
「へー。それは嬉しいですね」
「そうなの。それで、『私もラッキーよ』って」
「へー。それは先生も喜んだでしょう?」
「そうね、そうだと良いけど」奥さんはそこで、1つ間を入れた。「でも、私はお父さんと違って、モテなかったわけじゃないのよ」
「そうですよね、そう思います」
「日頃の行いが良かっただけ」
「そうですよね、そう思います」
恩師のお見舞いに行ったら、なぜか熟年夫婦ののろけ話に付き合わされている。やれやれなのはキザでクールな戸澤だけじゃなかったよ、まったく。
それから、しばらく2人の馴れ初めを聞いていたが、戸澤は一向に現れなかった。竹中も、目を覚まさなかった。
「それにしても、お父さん、起きないわね。せっかく戸澤君が来てくれたのに」
「いえいえ、良いんです」
僕はそこで、初めて奥さんが勘違いしていることに気が付いた。僕は笹田であって、戸澤ではない。これまでも戸澤ではなかったし、これからも戸澤になるつもりはない。
そうか。戸澤のやつ、何人でお見舞いに行くとか奥さんに連絡しなかったんだな。僕はしかし、それもキザでクールな戸澤らしいか、と思い直した。そして、それならそれで都合が良いかもしれない、とも思えた。流石にもう、戸澤も間に合わないだろう。見れば、時計の針は18時50分をさしていた。面会時間の終わりまで、残り10分というところだった。僕は竹中の無事を確認したし、僕のことを戸澤と奥さんが勘違いしたまま帰ることにした。そうすれば、戸澤が見舞いに来たという事実だけが残り、奥さんの戸澤への評価も変わらないはずだ。
そこで、僕は「そろそろお暇します」と奥さんに声をかけて少し後ずさった。
「あら、そう?ごめんなさいね。お父さん、眠ったままで」
「良いんです、良いんです」と僕。
「何もお構いもせずに」
「良いんです、良いんです」
「そこまでお見送りするわ」
「良いんです、良いんです」
去り際の、ありがちなやり取りを終えようとしたまさにその時、案の定、と言うべきか、お約束通り、と言うべきか、キザな戸澤がクールに病室に入ってきた。
「失礼します。奥さん、遅い時間にすみません」
「あら、もう一人来てくださる予定だったの、戸澤君?」
「はい」
僕と戸澤は同時に返事をした。それは二人が返事をしても自然な会話の流れだった。別に僕は僕で「今更ですが実は僕は笹田でした」と言っても良かったのだが、訂正するのも面倒だし、奥さんが気まずい思いをしないで済むようにやり過ごすことにした。どうせすぐ帰るし。
「先生、ご無沙汰しています。」
戸澤は、寝入っている竹中のそばまで近づくと、そこで深々と一礼した。それから、僕に向かって「悪かったな、遅れて」とだけキザに言った。
「いや、良いんだ」そんなことより、ここで僕を笹田と呼ぶのだけはやめてくれよ、戸澤。
「奥さん。これ、つまらない物ですが、お見舞いの品です」
見ると、戸澤は大きくてクールな紙袋を奥さんにキザに手渡そうとしていた。
「そんな、良いのよ、わざわざ」
「いえ、これは先生の好きだったバームクーヘンです。一口でも先生に食べてもらえたらと思って、買ってきました。ぜひ、受け取ってください」
「そんな、ごめんね。来てくれただけでも嬉しいのに」
「良いんです。僕に出来ることといったら、これくらいしかないので」
わざわざ手土産を買ってきた戸澤と、手ぶらで来た戸澤(笹田)、その図式が浮き彫りになった瞬間だった。いや、奥さんからしたら、なんだか知らないが手土産を持って来てくれた見知らぬキザでクールなヤツと手ぶらで来た戸澤といった格好だろう。図らずもクールな戸澤の面目を潰すことになってしまった。僕は悪くないはずなのだが、なんとなく流れに身を任せていたら変な感じになってしまった。だとすれば、手に持っているこの紙袋を「りんごです」とかなんとか言って奥さんに手渡してしまおうか。いや、ダメだ。そんなことをしたら、中身を見られた時点で戸澤の評価はガタ落ち。それは友の社会的な死を黙って見過ごすという卑怯者の行いと同義。言うなれば、「走れメロス」で言うところのセリヌンティウスを見殺しにして走らなかったメロス状態になること受け合い的な雰囲気である。これは渡してはならぬ。渡してはならない、とも言えなくもないかもしれない。が、しかし・・・
こうして、友への葛藤に苦しむ僕を尻目に、戸澤はバームクーヘンをキザに奥さんに手渡した後、僕の手元をクールに見つめた。
「それは?」手土産じゃないのか、といったキザな顔をしていた。
「これは‥」フリフリのピンク色の下着だ、とは言えなかった。渡すことも出来なかった。奥さんの「ようやく手土産を渡してくれるのね」という期待に満ちた視線も感じなくはなかったが、どうすることも出来ないまま、気まずい時間が流れた。
しかし、まずいことになった。お見舞いに紙袋持参というシチュエーションであれば、それは相手にプレゼントだと期待されても仕方がない。手渡す流れにもなっている。あるいは、もしこのまま手渡さないでいたら、「それは奥さんからのプレゼントで、それをすでに僕が受け取った後なのでは?」と、戸澤が勘ぐる可能性もある。そして、戸澤がなぜ自分にはくれないのか?とクールで至極真っ当な疑問を持たれることになるかもしれない。うーむ。それはそれで面倒だ。それなら、いっそ渡してしまおうか。いや、だとしても、ゴリゴリの竹中にフリフリのピンクは絶対に駄目だ。奥さんにならありかもしれないが、しかし、齢60過ぎたババア(失礼)にフリフリのピンクはやはりアウトだ。そもそも、恩師の奥さんに下着をプレゼントする時点で論外である。それがあろうことかフリフリのピンクとあっては・・・
これはしかし、恋愛運をあげるラッキーアイテムのはずが、とんだ災難を呼ぶ代物になってしまった。
僕がそんなことで頭を痛め答えに窮していると、突然、「ブビー!」大きな音がした。と同時に、なにやら芳ばしい香りが病室内に漂い始めた。どうやら、竹中がものすごい放屁をかましたようだった。
「あらあら、お父さん」奥さんは竹中に近寄ると、ズボンの中を覗いた。「すぐに取り換えますからね」そう言ってベッド脇の戸棚を開けた。しばらく、何かを探していたが、「変ねー。オムツがないわねー」と独り言をつぶやくだけだった。
「いったん、外に出るか」戸澤にそうクールに促されたので、「いや、今日のところは帰ろう」僕は言った。最早、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「そうだな。面会時間も終わりに近いしな」戸澤はキザに言うと、「奥さん、すみません。僕たちはここで」そう声をかけた。
「あら、ごめんなさいね、お構いもせずに」
奥さんは手を止めて、僕らをその場から見送ってくれた。
「いや、良いんです、また来ますから」僕らはそこで「お邪魔しました」と言って病室を後にした。ドアを閉めた後、「お父さん、オムツがないみたいね。明日買って来なくっちゃね」という奥さんの声が聞こえた。
エレベーターを待っていると、戸澤が「それ、渡さなくて良かったのか」と僕の紙袋をクールに指差した。
「いや、良いんだ」僕が答えると、「良いよ。俺、ここで待ってるから渡してこいよ」戸澤がキザに言った。
もう一度断ったが、戸澤はキザでクールに強情だった。幸か不幸か、竹中夫妻も、下着的な物を欲しがっている。僕はこれ以上、この流れに逆らえないことを悟った。
「失礼します」僕は病室に戻ると、「戸澤です。これ、使ってください。戸澤からです」と、半ば強引に紙袋を奥さんに押し付けて、「戸澤でした」と言い残し、急いでエレベーターに乗り込んだ。ゴリゴリにフリフリなんて、もう考える余裕もなかった。セリヌンティウスは結局、処刑された。
帰りの電車で、僕は努めて今回の件を良い方向に考えるようにした。ピンク色とかフリフリとか女性用とか抜きにすれば、下着があったというそのただ一点においては、運が良いというか、ツいているというか、トイレ的にもギリギリセーフかな。急場凌ぎにはなっただろう。明日の朝には、奥さんが替えのオムツを買ってくるはずだ。そんなことを考えながら、家路についた。ただ一つ、看護師さんとの恋は、とっくに諦めていた。
翌朝、目を覚ますと、戸澤からメッセージがきていた。今度は間違いなかった。
強運の竹中が死んだ。