悪魔の誘惑味を飲んだら
「おでんあり〼」
その字の下には、紫と黒が混ざり合った妖しい光を放つ小さな売店が、ひっそりと佇んでいる。湯気の匂いが微かに漂い、どこか懐かしい出汁の香りが鼻腔をくすぐる一方で、売店の周囲には不自然な静けさが広がっていた。
会社帰りの疲れ切ったサラリーマンである俺は、その奇妙なコントラストに足を止めた。
「こんな時間に、こんなところで、おでん…?」
腹は減っている。
温かいおでんの文字は魅力的だが、店の醸し出す異様な雰囲気は、俺の警戒心を刺激した。
しかし、好奇心と空腹には勝てず、俺は引き戸をゆっくりと開ける。
店内は、外観以上に奇妙だ。
壁は光沢のある黒い布で覆われ、天井からは小さなランプがまばらに光り、床には見慣れない模様の絨毯が敷かれている。
カウンターの中には、赤い瞳を持つやたら背の高い細身の店員が、静かに座っていた。
その瞳は、暗闇の中で宝石のように輝き、俺をじっと見つめている。
「いらっしゃいませ。」
店員の声は、甘く、それでいてどこか無機質だった。
「あ…おでん、ありますか?」
俺がそう尋ねると、店員は薄く微笑んだ。
「ええ、ございますよ。温かいおでんもございますが…よろしければ、こちらの『悪魔の誘惑味』はいかがですか?今ならサービスです」
店員は、カウンターの奥から小さなエナジードリンクを取り出した。
店員がプシュッと缶を開けると中には、妖しい紫色に輝く液体が入っている。そのネーミングに、俺は思わず眉をひそめた。
「悪魔の…誘惑味?」
「はい。一口飲めば、きっと特別な気持ちになれますよ」
店員の言葉に、俺はますます興味を惹かれた。警戒心はまだあったが、疲れた心は何か刺激を求めていた。
疲れ果てた俺の心は、どこかで現実を忘れたいと願っていたのかもしれない。
毎日同じ電車、同じデスク、同じ愚痴を繰り返す生活の中で、この妖しい店は、まるで別世界への入り口のように見えた。
「じゃあ…それ、ください」
グラスを受け取り、一口飲むと、意外にもそれはフルーティーで、ほんのりとした甘さの中に、微かなスパイスの刺激が感じられる飲み物だった。
しかし、驚いたのはその後の感覚だった。
飲んだ瞬間、俺の心の中に、今まで感じたことのない清らかな気持ちが湧き上がってきたのだ。
長年の仕事のストレスや、些細な人間関係の悩みなど、全てが洗い流されたように、心が澄み渡っていく。
「これは…すごい…」
思わずそう呟いた俺は、ふと店の隅に置かれたブリキの募金箱に気づいた。
募金箱の横に描かれた天使のマークは、どこかで見たことがあるような気がした。Tポイントのロゴと並んでいるのが妙に不自然で、俺の疲れた頭に小さな疑問符を残した。
(悪魔の誘惑で天使の募金か。)
俺は、その奇妙な組み合わせに首を傾げた。しかし、清らかな気持ちになった今の彼には、迷いはなかった。
財布から千円札を取り出し、募金箱に迷わず入れた。カラン、と軽い音が店内に響く。
その音を聞いた店員は、にこやかに俺に言った。
「Tポイントカードはお持ちでしょうか?」
俺は、募金箱に吸い込まれていった千円札の感触をまだ指先に感じていた。
悪魔の誘惑がもたらした、まさかの清らかな衝動。
その直後、あまりにも現実的な問いかけが、彼の意識を急激に引き戻した。
「え…?」と、間の抜けた声が漏れる。
財布から取り出したTポイントカードの「T」の文字が、ふと目に留まる。
今日の出来事を象徴しているような、不思議な記号に見えた。
店員は、淡々とカードを端末にかざし、「はい、3ポイント加算されました」と告げた。
その声は、背後の妖しい光とは対照的に、どこまでも日常的だった。
「ありがとうございます」
俺は、そう言って軽く頭を下げた。胸の奥には、言葉にならないような、
奇妙な感覚が広がっている。
「おでんはいかがいたしましょうか?」
店員の問いかけに、俺は我に返った。
そうだった、自分はおでんを食べに来たのだ。
しかし、今の心境では、なぜかもう何も欲しくなかった。
「あ…いえ、今日はもう大丈夫です」
「そうですか。では、またいつでもお越しください」
赤い瞳の店員は、ゆっくりと瞬きをした。
その瞳の奥に何が宿っているのか、俺には分からなかった。
店を出ると、夜の冷気が肌を刺す。
見上げると、満月が雲の切れ間から顔を覗かせている。
先ほどの清らかな気持ちは、まだ体のどこかに残っているような気さえした。
モバイルでチェックしてみると手の中のTポイントカードには、確かに3ポイントが加算されているようだ。
あの売店は、一体何だったのだろうか。
赤い瞳の店員は?悪魔の誘惑味は?そして、この募金とTポイントは何を意味するのだろうか?
俺は、考えるのをやめた。
今日の出来事は、理屈では説明できない。
ただ、彼の心に小さな波紋を残したことは確かだった。
数日後、会社の帰り道だった。
いつものように駅前の人混みを歩いていると、困った顔をした若い女性に声をかけられた。
「すみません、スマホの充電が切れちゃって、地図が見れないんです。もしよろしければ、少しだけお金を貸していただけませんか?明日必ずお返しします。」
普段の俺なら、「そうですか」と一言で済ませていたはずだ。
警戒して見知らぬ人にお金を貸すなんてありえない。しかし、あの売店で「悪魔の誘惑味」を飲んで以来、俺の心にはどこか人を信じやすい、優しい気持ちが残っていた。
「ああ、いいですよ」
俺は迷わず財布から一万円札を取り出し、彼女に手渡した。
女性は何度も頭を下げ、「本当にありがとうございます!」と感謝の言葉を述べた。
その笑顔が、なんだか天使の羽のように見えた気がした。
しかし、次の日になっても、彼女から連絡はなかった。それどころか、同じような手口で他の人からお金を騙し取っている女性の目撃情報がネットニュースで流れてきた。まさか、あの時の女性だったとは…。
「なんてことを…」
俺は自分の愚かさに愕然とした。あの時の一瞬の清らかな気持ちが、まるで俺の目を曇らせたかのようだった。
財布から消えた一万円札の感触が、まだ指先に残っている。善意を踏みにじられた怒りと、信じた自分への苛立ちが、胸の中で渦巻いていた。
それだけではなかった。
清らかな気持ちになったせいか、普段なら絶対にしないようなこともしてしまっていた。
会社の帰り道、いつもは素通りする路上ライブの物販で、今思えば熱心でもない若いミュージシャンの話を聞き、応援したいという気持ちが湧き上がって、高価なCDを衝動買いしてしまった。
後で冷静になって考えると、本当に必要だったのか疑問に思った。
また、ネットで見かけた「困っている人を助けたい」というクラウドファンディングにも、深く考えずに大金を寄付してしまった。
そのサイトの信頼性を確かめることすらしなかったのだ。
数日後、そのクラウドファンディングが詐欺だったというニュースを目にした時の衝撃は、言葉では言い表せない。
普段の俺は、もっと現実的で、警戒心が強い人間だったはずだ。
それが、あの「悪魔の誘惑味」を飲んだ一瞬の清らかな気持ちによって、まるで別人のようになってしまった。
善意のつもりでした行動が、結局は悪意のある人たちの懐を温める結果になってしまったのだ。
その事実が、俺の心を深く蝕んでいた。
数日後、いつものようにTポイントアプリを開くと、あの時の3ポイントはしっかりと加算されていた。
そして、ふと目に留まったのは、Tポイントのロゴの隣に小さく描かれた、ハートを抱く天使のマークだった。
(あのマーク…あの売店の募金箱にも描かれていたな…)
あの時、一瞬気になっただけだったそのマークが、今は妙に引っかかる。
俺はスマホで「Tポイント 天使 マーク」と検索してみた。
検索結果には、Tポイントの公式サイトやキャンペーン情報ばかりが表示される。
しかし、いくつか個人ブログやSNSの書き込みの中に、興味深い情報を見つけた。
「Tポイントの天使マークは、実は『天使ポイント』の隠されたサインらしい」「善行をすると貯まる特別なポイントで、悪運を払う力があるとか…」。
都市伝説のような内容ばかりだったが、あの奇妙な売店といい、悪魔の誘惑味といい、今回の詐欺といい、あまりにも符合することが多すぎる。俺は、これらの情報が単なる噂話ではない気がしてきた。
もしかしたら、あの「悪魔の誘惑味」は、一時的に俺の心を清らかにしたように見せかけて、実は判断力を鈍らせ、騙されやすくする呪いのようなものだったのではないか?
そして、あの時無意識に入れた募金で得た天使ポイントは、その呪いを打ち消すためのものなのかもしれない。
そう考えると、あの店員の言葉が蘇ってきた。「深い意味など、実はないのかもしれませんよ…」いや、そんなはずはない。あの店には、何か特別な目的があるに違いない。
俺は、あの詐欺の件で失ったお金を取り戻すためではない。
あの時の一瞬の清らかな気持ちが、結果的に悪事に繋がってしまったことへの贖罪のために、天使ポイントを貯めようと決意した。
それからというもの、俺は積極的に善行を行うようになった。
電車で席を譲ったり、道に落ちているゴミを拾ったり、困っている人に声をかけたり。
会社の帰り道には、近所の商店街で少しでも多く買い物をするようにした。
Tポイントなら、普段の買い物でも増えるはずだ。
毎日Tポイントアプリをチェックするのが日課になった。
少しずつ増えていくポイントを見るたびに、俺は微かな希望を抱いた。
いつか、このポイントが、あの日の呪いを打ち破る力になるかもしれないと。
そして、ある満月の夜、いつものように会社からの帰り道、あの路地を通りかかると、あの妖しい光を放つ売店が、再びそこに現れていた。
心臓がドキリと跳ね上がった。
まさか、本当に再会できるとは。
あの妖しい光は、以前と変わらず、夜の闇にじんわりと滲み出している。俺は、少し緊張しながらも、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ。」
店員の声は甘く、それでいてどこか無機質で、まるでこの世のものではないような響きを帯びていた。その細長い指がカウンターに軽く触れると、黒い布に覆われた壁が一瞬だけ震えた気がした。
カウンターの中には、あの赤い瞳の店員が、以前と全く変わらない様子で座っていた。
俺の顔を見るなり、店員はいつものように薄く微笑んだ。
「あら、お客様。またお越しくださいましたね。」
「ええ…あの、あなたに聞きたいことがあって。」
俺は、単刀直入に切り出した。
「あの時の『悪魔の誘惑味』のことです。あれを飲んだ後、僕は清らかな気持ちになったんですが、そのせいで騙されて損をしてしまって…。それに、あの時もらったTポイント…いえ、天使ポイントのことです。あれはいったい何なんですか?」
店員は、少しも驚いた様子はなく、むしろ興味深そうに俺を見つめた。
「なるほど。お客様は、ご自身の身に起きた出来事の意味を探ろうとなさっているのですね。」
「そうです。あれは、ただの偶然だったんでしょうか?それとも、何か理由があるんでしょうか?」
店員は、コンビニに似つかわしくないグラスをゆっくりと磨きながら、静かに語り始めた。
「『悪魔の誘惑』とは、お客様の心の奥底に眠る、普段は抑えられている感情や欲望をほんの少しだけ刺激するものです。それは、必ずしも悪いものとは限りません。時に、人は普段の殻を破ることで、新たな一面を発見することがあります。お客様の場合は、それが善良な行為へと繋がった。しかし…」
店員は、そこで言葉を切った。
「しかし?」
俺は身を乗り出した。
「善良な心は、時に騙されやすさを生み出してしまうことがあります。清らかな気持ちは、人を疑うことを忘れさせ、悪意に気づきにくくする。それは、『悪魔の誘惑』の、もう一つの側面なのです。」
「じゃあ、あの天使ポイントは?」
「あれは、お客様が善良な行為を行った証です。そして…同時に、お客様が陥ってしまった騙されやすさから身を守るための、ほんのわずかなお守りでもあるのです。」
「お守り…?」
「ええ。エンジェルポイントは、善行をすることで貯まります。そして、そのポイントが一定数に達した時、お客様を惑わせた『悪魔の誘惑』の呪いは、打ち消されると言われています。」
俺は、自分のスマホで確認したエンジェルポイントの数を思い出した。あれから、積極的に善行を積み重ね、普段の買い物でも意識してTポイントを使うようにしてきた。確か、もうすぐ目標のポイント数に届くはずだ。
「あの…目標のポイント数というのは?」
俺は尋ねた。
店員は、カウンターの下から、湯気を立てる大きな鍋を取り出した。中には、美味しそうなおでんが煮込まれている。
「目標のポイント数…それは、お客様ご自身で見つけるものです。しかし、一つだけヒントを差し上げましょう。この店で最初に、お客様は何を求めていましたか?」
俺は、ハッとした。「おでん…だ。」
「そうです。悪魔の誘惑を打ち破る力を持つのは、天使の加護を受けた、温かいおでんなのです。」
店員は、そう言ってにやりと笑った。赤い瞳が、闇の中で妖しく輝いた。
「天使ポイントで、おでんを買う、ということですか?」俺は店員の言葉を反芻した。
店員はゆっくりと頷いた。
「お客様が善行によって集めた光は、温かいおでんに注ぎ込まれ、悪意を打ち消す力となるのです。」
俺はすぐにスマホを取り出し、Tポイントアプリを開いた。目標のポイント数までは、あとわずかだ。
この数週間、本当にありとあらゆる場所でポイントを貯めてきた。
コンビニでの買い物、ドラッグストアでの日用品、ネット通販…まさか、こんな形でポイントが役に立つとは。
「あの…ポイントは、どうすれば?」
俺は尋ねた。
店員は、カウンターに置かれたおでん鍋を指差した。
「そのおでん、一つにつき、お客様のエンジェルポイントを全て頂戴いたします。」
全て、か。
少し躊躇したが、あの詐欺に遭った時の悔しさ、そして何よりも、最近困りごとばかりだった自分を変えたいという強い思いが、俺の背中を押した。
「お願いします。」
俺はそう言い、スマホの画面を店員に見せた。店員は赤い瞳を細め、一瞬だけ画面を見つめると、満足そうに頷いた。
「かしこまりました。」
店員は、湯気を上げるおでん鍋のふたを開ける。
大根、たまご、こんにゃく、ちくわ…どれも出汁が染み込んでいて、見るからに美味しそうだ。
それを、と大根を指差すとおでん鍋から、大きな大根を一つ、丁寧に器に盛り付けた。
「さあ、召し上がってください。天使の加護が宿った、特別なおでんです。」
俺は、熱々のおでんを一口食べた。
出汁の優しい味が、じんわりと体中に染み渡る。
それは、ただ美味しいというだけでなく、どこか懐かしく、安心できるような味わいだった。
二口、三口と食べ進めるうちに、俺の心の中にあった、今では鬱陶しい愚かさが、段々 と消えていくのを感じた。
警戒心が戻ってきた、というよりも、もっと本質的な、人を見抜く力が蘇ってきたような感覚だった。
最後の一口を食べ終えると、体の中から温かい光が湧き上がってくるような気がした。
俺は、店員に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげで、呪いが解けたようです。」
店員は、静かに微笑んだ。
「それは、お客様ご自身の力ですよ。天使ポイントは、あくまでその手助けをしたに過ぎません。」
俺は、もう一度自分のスマホでTポイントアプリを開いた。
ポイントは、綺麗にゼロになっていた。
しかし、不思議なことに、喪失感は全くなかった。むしろ、心がすっきりと晴れ渡っている。
「あの…あなたは一体、何者なんですか?」
と、俺は最後に尋ねた。
店員は、少しだけ寂しそうな、それでいてどこか達観したような表情で言った。
「私はただの…雇われの店員ですよ。この世界には、様々な誘惑と、それに対抗する小さな光が存在する。私は、その狭間で、ほんの少しだけお手伝いをしているだけなのです。」
そう言うと、店員の姿は段々と薄くなり始め、気がつけば、カウンターには誰もいなくなっていた。
妖しい光を放っていた売店も、いつの間にか夜の闇に溶け込み、跡形もなくなっていた。
俺は、一人、夜の路地に立っていた。空には満月が明るく輝き、さっきまで感じていた冷気は、どこか温かさに変わっているような気がした。
あの「悪魔の誘惑味」と「天使ポイント」、そして赤い瞳の店員。全ては夢だったのかもしれない。しかし、俺の心には、確かにあの温かい大根の味が、そして、以前よりも少しだけ賢くなった自分の感覚が残っている。
帰り道、道端で困った顔をした若者に気づいた。
以前の俺なら、すぐに財布を開いていたかもしれない。
でも今は違う。
冷静に相手の目を見て、少しだけ言葉を交わしてから、心から助けたいと思える人にだけ手を差し伸べよう。そう決めた。
もう悪魔 に騙されるような俺じゃない。
あの時の経験を胸に、俺はまた、明日から新しい一日を歩き始めるだろう。
そして、ふと疲れた時には、あの妖しい光と、温かいおでんの味を思い出すのかもしれない。
タダより高いものはない、な作品でした。
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「星の魔女リナは、エリクサーがつくりたい!」
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