十 変わらず
「いってきます」
玄関を出て歩き出す。
外は夏らしいいい天気。暑くなりそうだな。
七月になって、大半が就職活動を始めてる。
この先自分がどうしたいのかはまだわかんねぇけど。
焦らずに考えればいいかと思ってる。
自分だけ取り残されてるような気持ちになったこともあったけど、今はなんか落ち着いてる。
俺の知らないことなんてたくさんあるから。
ゆっくりそれを知ってから決めてもいいんだって、今は思えるようになった。
遠回りも悪くないって。どっかで聞いたしな。
バイトに向かいながら、皆月のことを思い出した。
最近、偶然会ったんだっけ?
同い年なのに。頑張ってるよな。
たまにはお参りがてら顔を見に行ってもいいけど、やっぱりお供えは甘いものの方が…って。
お供えなんて。なんでしようと思ったんだろ?
首を傾げて歩くうち、カフェのポスターが目に入った。
お祭りで食うようなやつじゃなくて、コダワリシロップのかき氷、らしい。
甘いもの好きじゃないからあんまり気にしたことなかったけど、色々あるよな。
でも案外普通のでも美味そうに食うんだろうな……って、誰のことだ?
見るもの見る景色に何かを思うのに、イマイチはっきりしない。
何をするでもない、流されてるだけみたいな生活だから。日々の印象が薄いだけなのかもしれねぇけど……。
バイト帰りはすっかり暗くなってた。
空には細い月。星も少し。
町中は明るいから全然見え方が違う。
周りが暗いと星だって埋め尽くすぐらい見えるんだよな。
記憶に残る満天の星。俺、どこで見たんだろう?
ぎゅうっと胸が苦しくなる。
空に広がる星に、町の色とりどりの明かりに、何かを思うのに、何かがわからない。
温かな気持ちと、幸せな気持ちと、押し潰されそうな寂しさを感じるのに、なぜかがわからない。
ノイズのある記憶。
いくら振り返ったってわからない、けど。
きっと、俺は大事な何かを忘れてる。
俺は何を忘れてる?
そう自分に聞いたところで、もちろん答えなんかなく。
でも、俺は確実に以前と違う。
将来のことを焦る気持ちもなくなって。
こんな風に景色を見て何か思うことだって今まではなくて。
穏やかに自分と周りを見ることができるようになってる。
俺を変えた何か。
あるはずなのに、思い出せない。
食べないくせに甘いものが気になったり。
ふと空を見上げたり。
握りしめてた左手を開いて、じっと見る。
隣に誰かいたことなんてないのに、気になって仕方ない。
募る喪失感。
どうして俺はこんなに寂しい気持ちになってるんだろう。
次の日はなんとなく町を歩いてみた。
何かを探してるけど、何かはわからないから。ただ気の向くまま歩く。
近くのケーキ屋、一度入ったっけ。
焼菓子買って。皆月の神社にお供えしたんだよな。なんで焼菓子買おうと思ったのかはわかんねぇけど。
通りがかった公園、たんぽぽが咲いてる。たんぽぽになんて気付いたの久し振りだな。
小さくて素朴だけど、かわいらしい花。
元気かな、ってふと浮かんだけど。誰のことだ……?
何かに気付く度に胸が苦しいのに、何かが足りないままで思い出せない。
自分の中からすっぽり抜け落ちてるそれがなんなのか、どうしても掴めない。
でも確実に、俺から何かが抜けてる。
何かすごく大事なものを忘れてしまってる。
締めつけられるような気持ち。
俺は何を忘れてる?
どうしたら思い出せる?
何かはわかんねぇけど。
俺にとって、本当に大事なものだったんだって、それだけはわかる。
景色を見て優しい気持ちになれるのも、そのあと寂しくなるのも。全部そこから来てるってわかるのに。
それが何かだけ、見えないままで。
もどかしい気持ちだけ募るばっかりで、そのうち日も暮れて。
半日近く探してみても。何もわかんなかったな、なんて。夕焼け空を見上げて思ってみたり。
こんな日だったな、と。ふと思う。
何かはわからない。ただ、こんな日だった。
柄にもなく、夕焼け空が綺麗だよな、なんて思って。
ずっと何か聴こえてて――。
どくん、と鼓動が跳ねる。
何か。聴こえてる。
どこからかわからないけど。何か聴こえてる。
ぎゅうっと胸を締めつけられて、なんだか泣きそうになってくる。
聴こえてるのは歌声だった。
歌詞はわからない。けど澄んだ綺麗な音。
多分、いや絶対、俺はこの声を知ってる。
ノイズのかかった記憶の向こう。泣きそうな瞳を細めて。
『幸せに』って――。
〈ここからいつも祈っている〉
歌声とは別に、頭の中に声が響く。
〈いつまでも響が幸せであるように〉
聴こえてくる歌の歌詞だって、頭で理解できる。
〈私は変わらず祈っているから〉
頭の中に聴こえる言葉。その声は――。
俺はその場を走り出した。
嬉しいし泣きそうだし腹が立つし。自分でもどんな感情なのかわかんねぇけど。
どこに行けばいいのかだけは、わかってた。
今はもうはっきりと浮かぶその姿を。
その微笑みを。握った手を。かけられた言葉を。
どうして忘れてしまってたんだ、なんて。考えるまでもない。
ほんっとムカつく。
俺の言葉を聞きもしないで。
何ひとつ、聞きもしないで。
勝手にも程があるだろ!
あんな風に切り捨てておいて。
それなのに、聴こえてくる歌詞は俺の幸せを願うものばかり。
どっちが本心かなんて、もう俺だって聞いてやらねぇ。
俺はとっくに覚悟を決めてた。
そっちがその気なら、俺だって――。




