雨宿り
「すみません」
男はずぶ濡れで玄関先に立っている。まるで頭のてっぺんから足先まで綺麗に水の膜に包まれているみたいだ。私は彼の随分とみすぼらしい格好に、好奇心が頭の後ろの方からやってくる。
「なんの用でしょう」
努めて澄まし顔をしながら聞き返す。一度犬のように頭を振った男はすみませんが、と前置く。水滴が溜まる顎先が微かに震えている。
「この玄関で、すこし休ませて欲しいのです」
「はぁ、なんでまた」
「実は帰る家がないのです。ここらは街灯もなく、雨が降り止む様子もないので」
ホームレスというやつだ。初めて見た。
「なるほど。わかりました。どうぞと言いたい所なのですが、あいにく私はこの家の持ち主ではないので、主人に聞いてまいります」
「はぁ、いえ、恐れ入ります。すみません」
男は鼻水をすする。別段謝ることでもない。玄関にあったティッシュ箱を指さす。
「そこのティッシュはご自由に使ってください。後でタオルも持ってまいりますので、座ってお待ちください」
「いえ、お構いなく。すみません」
また謝った。動こうとしない男に少し呆れてティッシュ箱を渡す。またぺこりと短く首を振る。すると、伸びきった前髪から雫が、私の手の甲に滴り落ちた。
男は今度は何も言わなかった。変だ。
☆☆☆
「ほうむれすぅ?」
ソファで身体を斜めにしていた主人は、そのままの格好でオウム返す。天窓にたたきつける雨と轟々と吹く風の音も聞こえないくらいの大音量で、6インチを眺めていた。
「はい、玄関で雨宿りさせてくれと」
「あー、変な奴だな」
主人には見えていないだろうが頷く。そうそう。
「べつに玄関先で雨宿りするだけならわざわざうちに断りを入れる必要なんてないのに。じゃなきゃお前もいないし、鍵だってかけてる。お前も俺に聞いてくると言っただけだろう?」
「はい」
「そいで、そいつはなんて?」
「すみません、と」
風船のように膨れた肢体をしばらくバタバタさせると主人が身体を起こす。それからつむじであろう場所をポリポリ搔く。額には既に大粒の汗が浮かんでいた。
「……おい」
「なんでしょう」
「すみません、ってなんだ」
「はぁ」
気のない返事をしたが、私が引っかかったのもそこだ。なぜ、すまないこととわかっていながらそれを言うのだろう。そして、こちらがすむことなら『すみません』は全く意味のないことのように思える。
「やはり、断りないほうがむずむずしないな」
首肯で応える。いつの間にか音量は、外の雨が聞こえるほどに下がっていた。主人は大きく伸びをしてペキパキペキ、と空気の弾ける音を奏でた。
「すまなくていいと言ってやれ」
主人の部屋の扉を閉めると、また大音響が始まる。
男は、私が最後に見た姿のまま突っ立っていた。すまなさそうな顔をしていた。
「すみません。どうでしたか?」
「すまなくてよいそうです」
尖った顎先が微かに震えた。水滴は随分と乾いていた。光沢のない男は酷く小さく見える。
「すみません.......すまなくてよいとは?」
「だから、あなたが、すみませんならすまないでしょう? だからすまなくていいのです」
男は首を傾げると、居心地悪そうに片方の手でもう片方の手首を掴む。それからまた、同じフレーズを繰り返す。
「あの、すみ──」
「だから、すまなくていいって言っているんです」
☆☆☆
私の報告に、主人は一言「そうか」とだけ言って、テレビに向き直った。
男は顔を真っ赤にすると、帰っていった。どうも彼はどうしてもすまなくてはならない理由があったようだ。ティッシュ箱を私に投げつけると、せっかくの乾きかけた身体をまた雨に晒して消えていった。
それこそ、すまないことだと思う。