私と先生と三角関数
恋に落ちるのなんて一瞬だ。
先生と廊下ですれ違いざま何となく目が合った。
「数学ちゃんとやってるかぁ?」って馬鹿にしたように私に話かけてきて。
「数学できなくても生きていける道を選ぶし」と、憎たらしく答えた私の頭をぽんぽんと、優しく微笑みながら叩いたんだ。
たった、それだけ。
それだけで簡単に恋に落ちた。
私の両親は国語の先生。だからって言い訳かもしれないけど、数学なんてちんぷんかんぷん。sin、cos、tan。一体何の役に立つの?
離れている木の高さを知りたいとき、地球の半径や月と地球との距離を測るときに、三角関数が役に立つんだよって教えてくれたのは先生だった。
だから先生、私数学頑張ったんだよ。
「x軸とy軸が交わるところはゼロって言わないの?」
「それはゼロじゃない、原点だ」
「何でゼロじゃないの」
「…ゼロのときもあるし、そうじゃないときもある」
「数学のくせに、何か曖昧」
「ちゃんと理解したら曖昧じゃなくなるよ」
笑いながらそう言って、私の頭をぽんぽんする。
そんなことされると、勘違いしちゃうよ?
私と先生の座標軸は、ずっと原点から動かないまま。そこから動かない背中合わせの交差点。私が交差点から抜け出そうとしても、先生が動いてくれないから私も動けない。
でも原点にいれば点は重なっているから、一緒にはいられるのかな。一緒にいてもふたりの想いはゼロのまま…永遠に解けない三角関数の解を求めて私の心は宙に浮く。
時々先生が頭ぽんぽんしてくれるそのときだけ、心電図のように三角関数のグラフが揺れ動く。
私が高校を卒業して、先生とはそれきり。卒業後、先生は私の父が教鞭を執る高校に異動した。父から時々先生のことを聞いたけど、私もそれなりに恋愛をして次第に先生のことは忘れていった。
それから十数年。父が急逝した。悲しむ間もなく、バタバタと時間が過ぎていく。
お通夜に来る人もだんだん少なくなってきたとき「この度はご愁傷さまです」と、どこかで聞いた声。
…先生。
外に出て少しふたりで歩く。
「来てくれてありがとう」
「大変だったな」
「ううん」
先生と話していたら、我慢していた涙がポロポロ溢れてきた。
「…ごめん、大丈夫だから」
先生はあの時と同じように、頭をぽんぽんしてくれた。そして小声で私に何かを囁く。
「…こんなときに、ばか」
「うん、ばかでごめん」
ずっと止まっていた先生と私の座標軸の原点から、グラフが少しずつ描かれ始めた。