もりのくじら
純文学の長編(八万字程度)です
一
草いきれの強い匂いに、くらりと目眩がした。
足を止めて、首筋に浮かぶ汗を乱雑に拭ってから顔を上げる。深い緑の山を背景に、黒々とした瓦屋根と漆喰の壁の二階建ての家がある。久々の、伯父の家だった。
その家の庭先には、三メートルほどの木の棒が立ててあり、先端には白く四角い灯籠が吊るされている。このあたりでは、新盆を迎える家はみな同じような高灯籠を立てるのだ。
窓が開けられているのか、鼻先を線香の匂いが掠める。門をくぐってからジャケットの襟元を正して、玄関先のチャイムを押す。しばらくして、小柄な老人が出てきた。
「貴一か」
男は貴一を見上げ、ゆっくりと瞬きをしてから問いかけてくる。聞き覚えのある声に、それが伯父であることをようやく理解した。
「お久しぶりです、敏夫伯父さん」
「立派になったな。今いくつだ」
「二十七ですよ」
「そうか。まあ、入れ」
伯父の小さな背を追って家の中に入る。通されたのは、仏間だった。線香の匂いが強く漂っている。仏壇の横に、小ぶりな三段の階段のような棚が置かれ、まだ十二日だというのに、位牌や仏具が仏壇からすっかり移されている。この地方では一般的な新盆の盆棚だった。
天井近くに飾られている複数の遺影の末席に、伯母の顔が加わっている。母の歳の離れた姉である伯母の顔は、記憶にあるよりもずっと歳を取り、深い皺が刻まれていた。
「志保伯母さんのこと、お悔やみ申し上げます。葬式にも出られなくてすみません」
盆棚に線香を上げてから伯父に向き合い頭を下げる。伯父は小さな声で、急だったからな、と答えた。
「海外赴任だったんだろ。気にしなくていい」
伯父は皺の寄った口元をわずかに綻ばせた。歳を取った、と思う。昔はもっと厳格で、滅多なことでは笑みを見せたりはしない人だった。それだけの月日が流れたのだ。
「膵臓癌でな。腰が痛い、痛いと言ってはいたが、病院で検査をしたらもう末期で何もできなかった。入院して二ヶ月ももたなかったな」
「そうだったんですね」
伯母の志保とこの敏夫は、まだ互いに十代の頃に結婚して、三ヶ月ほど前に伯母が亡くなるまでずっと連れ添った。
同じ空間にいても言葉は多くはなかったが、寄り添って生きてきた夫婦だったのだろう。伴侶を失った伯父はすっかりと覇気を失っており、もともと小柄だった体も一段と小さく見える。
「あいつはお前のことを心配していたよ。お前、いつこっちに戻ってきたんだ」
「ご無沙汰してしまってすみません。今日の昼に戻ったところです。短い盆休みの間だけですが……」
「そうか。辰則も会いたがっていた。仲が良かっただろ」
伯父の口から出たのは、同い年のいとこの名前だった。貴一の母は三姉妹で、一番上の姉が志保伯母だった。貴一は次女の子であり、三女の子が辰則である。貴一と辰則は同い年で、確かによく一緒に過ごしていた。志保には子はおらず、辰則と貴一を自分の子供のようにかわいがっていた。お母さんには内緒よ、と言ってよくふたりに小遣いをくれた。
「ああ、噂をすれば。辰則が来たぞ」
「え?」
窓の外を、影が通る。すぐに玄関先から、こんにちは、と声が掛かった。返事を待つこともなく、痩せぎすの若い男がひょっこりと仏間にやってくる。にきびの跡の残る幼げな顔には、確かに見覚えがあった。
「あっついあっつい。伯父さん、麦茶飲んでいい? あれ、お客さん? お茶くらい出してよ」
人好きのする顔で、こんにちは、と頭を下げたその男は、もう一度、貴一を見ると、はっと目をまん丸くした。
「あれ、きいちゃん。きいちゃんだろ」
うわあ、懐かしい、と高く声を上げながら、辰則は貴一の手を握る。幼い頃と変わらず、人なつこい仕草だった。
「久しぶりだなあ、きいちゃん。ずっと里に帰ってこなかったから俺も伯母さんも心配してたんだ。ほらきいちゃん、ときどき大熱出すだろ」
「もう出さねえよ」
素っ頓狂な辰則の声に呆れながら貴一は答えた。貴一は今ではすっかり健康体で風邪さえあまり引かないが、確かにかつて、風邪を引き込むと重くなる傾向があった。数年に一度は四十度の熱を出し、両親に車で一時間以上かかる総合病院まで連れて行かれたこともある。
だがこの村を離れてからは、そんな熱を出すことはなかった。
「元気そうでよかった」
「お前もな、辰則」
辰則は笑うと、片方の頬にだけえくぼができる。もうずっと忘れていたその笑みを見て、この村に帰ってきたのだと実感が湧いた。
貴一は辰則と連れだって伯父の家からさらに十分ほど歩いた場所にある墓地に向かった。
丘陵にある墓地からは、山々に囲まれた田畑が見渡せた。ところどころに家もあるが、夏の夕まぐれに人の姿はほとんど見えなかった。
線香の煙が立ち上る中で手を合わせてからまた徒歩で歩いて帰る。
「きいちゃんさ、須藤さんのところのみどりちゃん、覚えてるか」
ふと、歩きながら辰則がそんなことを尋ねてくる。
みどり。須藤碧。
田舎にありがちなことで、このあたりには同じ姓が多いが、須藤というのはほとんどない苗字だった。古くはこのあたりの祭事の全般を担っていた家で、今でも村では一目置かれている。
碧というのは、そこの家の娘だったはずだ。
「ああ、髪の長い子だろ。三つ編みにしてた」
須藤碧について最初に思い当たったのは、本当は髪型云々ではなく、その障害のことだった。碧は、先天的なものなのか後天的なものなのかは分からないが、精神に重度の障害があり、他人との意思の疎通はほぼできなかったはずだ。だがそれを口にすることは憚られた。
「そう、その碧ちゃん。亡くなったんだ」
「亡くなった? いつ。どうして」
辰則は故人を悼む静かな声で、病気だよ、と言った。
「冬に風邪を引いて、それが肺炎になったんだって。志保伯母さんとほとんど同じ頃、春の終わりに亡くなった」
「そうか……」
他に口にすべき言葉が、貴一には浮かばなかった。碧は貴一や辰則と同い歳だったはずだが、同じ学校に通うことはなかった。村外の支援学校に籍があったのかもしれないが、いずれ彼女が学校に通っている姿を見たことはない。
貴一の知る碧は、いつもうつむき加減で、長い三つ編みがだらりと肩から落ちていた。十五の歳に見たのが最後のはずだが、同世代の少女より明らかに細い首筋や肩が頼りなく哀れで、思わず目を逸らしてしまうほどだった。
貴一にとっての碧の記憶は、ただそれだけだ。悼むほどの言葉を持てるはずもなかった。
「四十九日も過ぎて今年は新盆だからさ、同い年くらいのみんなでお参りに行こうって話してたんだ。よかったら、きいちゃんもどうかな。明日なんだけど」
「明日か。それなら行ける」
淡々と答えると、辰則は嬉しげに頬をほころばせた。貴一はこの村の人間とはもうあまり関わりを持っていない。断られると思っていたのだろう。
「きいちゃんが来てくれたら、みんなも喜ぶよ。それに、碧ちゃんも。さみしい子だったから」
そのしんみりした言葉に、思い当たることがあった。
「須藤のおじさんも亡くなったんだっけか」
「うん。ずいぶん前だったなあ。俺たちがまだ中学生の頃だったよ」
そうだっただろうか、と貴一は思う。突然死に近い死に方だったようだと聞いたことがあるが、詳細は覚えていない。
「あの子、ご両親もいないしさあ」
「弟がいただろ、確か」
それを告げた途端、辰則はふと歩みを止める。うーん、と唸りながら頭を掻いていた。
「人ごとだなあ。きいちゃんも同じクラスだっただろ?」
「え?」
「碧ちゃんの弟。涼だろ」
涼。確かに聞き覚えのある名だった。須藤涼。ぱっと、痩せた端正な少年の顔が脳裏をよぎる。だがその記憶は、ひどく曖昧だった。
「同じクラス……?」
「そう。碧ちゃんと涼は双子だったから。顔はそれほど似てなかったけど」
そうだったのか、と驚く。碧にかなり歳の近い弟がいたと記憶していたが、双子だとは思っていなかった。
この村にある学校は、生徒数が少ない。クラスも学年にひとつしかなく、それもせいぜい十人程度だ。それなのに、涼の姿は驚くほど印象に薄い。
「あいつ、中三の後半はあんまり学校来なかったからなあ。俺たちともほとんど関わらなかったし」
辰則の言葉の端々に、苦々しい響きがある。脳天気で明るい辰則だが、須藤涼に対してはそれほどいい感情は持っていないようだった。
「あんまり双子って感じしなかったな。涼のやつ、碧ちゃんのことにもずっと無関心だった」
とげとげしささえ混じる声だった。辰則はかなり碧に対して同情的なのだろう。
碧は、母親に連れられて、六歳のときにこの村に弟とともにやってきた。母親は須藤家の娘だったが、大学で出会った男と駆け落ち同然で結婚したらしい。それが突然、ふたりの子供を連れて戻ってきたのだ。だがすぐに、母親はふたりの子を置いて出奔した。
それ以来、ふたりの子供は、母親の歳の離れた兄で須藤家の当主である須藤康司が面倒を見ていた。ふたりの伯父にあたるその康司も十年以上前に亡くなり、実の弟とも不仲だったというのなら、確かに碧はひどくさみしい身の上だったのだろう。
墓の点在する丘を降りて辰則と別れると、貴一はゆっくりと自宅を目指す。徒歩で十五分ほどの道のりは、もう十年以上前にこの街に住んでいた頃と変わらないように思える。だがこうして褪せたアスファルトの道を歩いてみると、村が廃れてきていることをありありと感じた。
道脇に、深い緑の蔦が茂っている。それは電柱や電線にまで及び、この村の建造物を食らいつくそうとしているようだった。さらに進むと、ふるい木造の平屋がこの蔦に覆われ、荒んでいた。
貴一がまだこの村にいたとき、あの平家には老夫婦が住んでいた。通りがかった貴一をよく老婆が「少し中で休んで行きなさいな」と呼び止め、茶菓子を出してくれた。老爺は足が悪く、いつもぶすくれた顔で椅子に腰掛けていたが、貴一が来ると元々細い目をさらに細め、「きちんと食ってるか。食わにゃならんぞ」といつも言ってきた。
割れた窓ガラスにも蔦が伝い、家の中にまで浸食していて、家自体も傾いでいる。この荒みようからして、もう何年も人が住んではいないのだろう。
瞼の裏に、あの老夫婦の姿が浮かぶ。こどもに恵まれなかったあの夫婦が今どこにいるのか、あるいはもうどこにもいないのか、貴一は知らなかった。
この村は、緩やかに、しかし間違いようもなく死に向かっている。それをまざまざと感じた。
もうまもなく夕方の五時になろうというのに、まだあたりに宵闇が落ちる気配はなかった。蝉が絶えず鳴いている。
墓地からしばらく歩いた道端に、黒の瓦屋根とクリーム色の壁の、このあたりでは珍しい洋風の家が建っている。それが橘貴一の自宅だった。
乱雑に額の汗を拭いながら玄関を開けると、とうもろこしをゆでる甘い匂いが鼻先を掠めた。
「ああ、きいくん。いいところに帰ってきた、ちょっとロニを探してきてくれる? さっき出て行っちゃったの」
母親が台所から顔を覗かせた。ロニというのは、もう十年以上前からこの家で飼っている猫のことだった。
「あいつならそのうち戻ってくるだろ」
「うーん、まあそうなんだけど。最近あの子、夏バテ気味でちょっと元気がなかったから、夜はうちにいてほしいのよね」
わずかに開いたドアや窓から勝手気ままに出歩く飼い猫は、腹が減ればまた戻ってくる。しかし齢十歳を超えた猫のことを、母親はひどく心配していた。貴一は小さく息を吐き出す。
「わかった、探してくる」
「ごめんね、とうもろこし、冷ましておくから」
茹でたあとに塩を揉み込み冷ましたとうもろこしを、貴一は昔からよく好んでいた。昼に実家に久々に帰ってきた貴一のために、母親がたくさんとうもろこしを買い込んでいたことは知っている。記憶にあるよりもわずかに小さくなり、丸まった母親の背に、行ってくるよ、と声を掛け、貴一はもう一度、家を出た。
ロニは、貴一が拾った猫だった。中学三年の夏のことだ。酷暑の夏の日に弱っていた子猫を貴一が家に連れ帰ったのだ。そのとき、さして動物が好きでもない両親はあまりいい顔をしなかったはずだ。特に母親は、猫嫌いだった。
だが、すぐにロニは母親の足にすり寄りえさをねだり、父親のあぐらの間にすっぽりと丸く収まって惰眠を貪るようになった。それから半年後、貴一が東京の私立高校に進学するためにこの村から離れる頃には、すっかり両親の愛情を当然のものとして受け入れていた。
ロニ、と名前を呼びながら、道路脇を歩くと、やがて田圃の隙間を通る脇道がある。深く考えずにその脇道に進み、ふと貴一は足を止めた。
道の先に、立派な門があった。黒々とした瓦屋根を戴く数寄屋門と、それに連なる黄土色の土塀に囲まれて、その奥に二階建ての巨大な家の瓦屋根が見えている。塀の中には、新盆であることを示す白い灯籠も掲げられていた。
貴一はふらふらとここまで来たことを後悔した。あの黄土色の塀に囲まれた家こそが須藤家である。
こんなところに用はない。だがきびすを返そうとしたとき、もう一度、猫の鳴き声を聞いた気がした。甘ったれて掠れたその鳴き声に、聞き覚えがある。
「ロニ。いるのか」
呼びかけても、気まぐれな猫は返事をしない。仕方なく、須藤家の土塀をぐるりと回る。外壁の反対側は森につながっていた。ほんのそよ風が吹きすぎるだけで、ざわざわと葉擦れの音が渡る。屋敷林というには、この森はいささか深い。
もう一度、今度は幾分はっきりと、森の中から猫の鳴き声が聞こえる。意を決して森に近づくと、ふと木陰から人影がひとつ、音もなく出てきた。その人影は、貴一に気付くと足を止める。若い男だった。白いシャツにジーンズというありふれた格好なのに、はっと目を引くほど整った容姿をしている。
ようやく日も傾きはじめ、かなかな、かなかな、とひぐらしの鳴き声が降ってくる。その鳴き声に添うような小さな声が聞こえた。
「きいち」
名を呼ばれ、貴一は男の顔をまじまじと見た。背は長身の貴一より少し低いという程度だが、どこか頼りなく細い体つきをしている。夏の緑の木々を背景に、色の薄い長めの髪が影を落とすその顔つきは、端正だった。その顔に、わずかに覚えがある。
「お前、涼、か」
「そうだよ。久しぶり」
にこりと笑うと、唇が薄いせいか、男の顔は酷薄に見えた。
「やっぱりお前、来たんだな」
独り言のように男が言った。
「碧のこと、聞いた。残念だったな」
貴一は悔やみの言葉などよく知らない。視線をうつむけてただそれだけを伝える。すると涼は吐息で笑った。
「何も残念なんかじゃないさ」
軽やかな声だった。
どういう意味だ、と問い返そうとしたとき、ふと涼の背後から灰色の猫がするりと出てくる。ロニだった。
「ほらロニ、ご主人様が迎えに来たぞ」
足もとにまとわりついてくるロニを、涼が慣れた仕草で抱き上げ、貴一に渡す。そのとき不意に土塀の奥から、女の声が聞こえてきた。甘えるような声だった。
「涼ちゃん、どこ?」
「ああ、ここだ。いま戻るよ」
女の声に、涼が応じる。そうして涼は貴一と顔を見合わせ、苦笑した。
「帰れって言ってるのになかなか帰らないんだ、あいつ」
軽い口調でそう言うと、涼はきびすを返して黄土色の塀に向かっていく。それを唖然と見送っていると、ふと涼が振り返った。
「貴一。お前はどんな夏に向かった?」
何を問われたのか分からず、ただじっと見つめる貴一に対して、涼は苦笑して、すぐに土塀に取り付けられた出入り口から塀の中に入っていった。
その後ろ姿を見送り、貴一は腕に抱いたロニを見下ろす。おとなしい気質で人なつこいロニは、調子よく貴一の胸元に鼻を押しつけてきた。
どうして涼は、この猫の名を知っていたのだろう。そんなことを、考えた。
○
ロニが須藤家の裏の森にいたことを告げると、両親はそろって不思議そうな顔をした。
「須藤さんのところ?」
「ああ。なんだ、よく行ってる、ってわけじゃないのか」
「さあ……、でもお邪魔していたなら申し訳ないわ。今、新盆で忙しいでしょうに」
ため息交じりに母親が言う。
「あの家は、今は涼しかいないのか」
「ええ、碧ちゃんが亡くなって……。涼くんには会ったの?」
「ああ、ロニを探していて偶然な。少ししか話せなかったけど。あいつ今、何してるんだ?」
母親はそっと父親の顔を窺う。寡黙な父は、小さく苦笑していた。
「役場にいるよ。臨時職員だが」
父は、この村の役場で働いている。父は大学を卒業してすぐに県職員になったが、二十代後半に人事交流でこの村に派遣された。何もないこの山間の村の何が気に入ったのか、父は県職員を辞して改めて正式この村の役場に入ったのだ。長年、役場にいる父親ならば、普段の涼のこともよく知っているのだろう。
「まじめに働いてるのか」
貴一のその問いには答えず、父親は苦笑を深める。つまりそれが答えなのだろう。
「碧ちゃんが具合を悪くして、涼くんも辛かったのよ。たったふたりきりの姉弟だもの」
底抜けにお人好しの母親が、そんなことを言う。それも怪しいものだ、と貴一は思った。貴一の悔やみの言葉に、何も残念なんかじゃない、と言った軽やかな口調がよみがえる。とても碧を悼んでいるようには思えなかった。
「碧は、風邪をこじらせたって辰則から聞いたけど」
「そう。もともと体が弱い子で、去年の秋頃からずっと具合が悪かったみたいなの。村で見かけると咳が辛そうでね。ひゅう、ひゅう、って音がしていたもの。それがおさまらないうちにまた風邪を引き込んでしまって……」
「間違いなく病気なんだな?」
「貴一?」
思いがけず厳しい口調で尋ねてしまい、母親に訝るような視線を向けられる。
「いや、まだ若いのに病気なんて哀れだと思ってな。俺もあんまり会ったことがなかったけど、やさしい子だったよな」
「そうね。言葉は話さなかったけど、あの子の傍には不思議とひとが集まっていたもの」
母親は小さくため息をついた。
碧は、人間というよりもむしろ、木々や花、星々に近い存在だったのではないだろうか。そんなことを、今になって貴一はふと思う。
学校帰りの神社の境内で、貴一はたまに碧を見かけていた。たいていその少女は、石の鳥居の奥に続く階段の、木々の落とす深い緑の影に座り込んでいた。碧は俯きがちで、しかしその瞳は穏やかに凪いでいた。
精神に異常のある者というのは、得てして敬遠されるものだ。こんな田舎の村ならばなおさらそうだろう。だが彼女は、不思議と誰からも好かれていた。
──おねえちゃんとケンカして泣いてたら、みどりちゃんが頭を撫でてくれたの。
いつか、クラスメイトの女子がそんなことを言っていたことがある。
──そうしたら、嫌なきもちなんて忘れられた。
同じような経験をもつ者は、この村には多い。ごく幼い頃から、碧にはそういう不思議な力があった。
一方で、双子だという涼はどうだったのだろうか。貴一の中で涼の印象の薄さは異常だ。
冷めかけた白米を噛みながら、夕闇の中で会った男の姿を思い浮かべる。はっと目を引く端正な容姿を裏切る軽薄な声が、残念なんかじゃないさ、と悼む言葉を切って捨てた。
碧の死に疑問を持ったのはお前だけではない、とそっと告げたのは、父だった。
間もなく日付も変わるという時間のことだ。母親はすでに寝入っている。貴一は風呂上がりに、なんとなく父親とともにビールを開け、さして酒が好きでも酒に強くもない父子ふたりで近況を告げ合いながら飲んでいた。その会話が尽き、ふと沈黙が落ちたときだった。
「涼君の関与を疑う者もいたさ。涼君は碧ちゃんを邪魔だと思っていただろうからな」
寡黙だが温厚なこの父親にしては、かなり直接的な言葉だった。
「邪魔、って」
「須藤の家は資産家だからな。先代が東京に出て起業して成功した。早々に隠居してここに戻ったが、資産は相当あったはずだ」
先代──碧と涼の伯父である康司──は生涯独身で、家族は妹ひとりだった。出奔したこの妹に資産が相続されているのかどうかは知らないが、いずれ、碧と涼はそれぞれに、相当の資産を相続していたはずだ、と父は言う。
碧が死ねば、その遺産は涼のもとに入るし、その上、障害のせいで自分で働けず、なんらかの介護が必要となる碧の存在は、涼には煙たいものだっただろう。
「碧を施設に入れる気はなかったのか」
「さあ、わからん。ヘルパーは通っていたようだが」
いずれ、涼が碧に愛情を持っていないことはこの村では誰もが知るところだった。だから、碧の死については涼が関わっているのでは、と噂されていたのだろう。
「まあ、最期の頃、碧ちゃんは隣町に入院してたんだ。涼君が手を下したなんてことはないだろう。だが碧ちゃんは、本当に不憫な子だったな」
大して飲めもしないふたりの飲み会の締めの言葉は、父親のそんなしみじみとした呟きだった。
その夜、貴一は不思議な夢を見た。
ぬるりと泥濘むような闇の中を、自分は走っていた。汗が滲む体に、闇がまとわりついてきて足を取られそうになる。どうしてこれほど必死に走るのか、貴一には分からなかった。誰かに追いかけられているのだろうか。それとも、何か成さねばならないことが、この闇の先にあるのだろうか。それも分からないまま、ひたすらに走り続けた。
もう、いい。もう苦しくて走れない。そんな諦念が湧き上がり、立ち止まろうとする。そのとき、誰かの声が聞こえた。
――貴一、逃げろ!
その声に背を叩かれるように、貴一はまた走り出す。どろりとまとわりつく闇をかき分け、息苦しさに喘ぎ、泣きながら、必死に走った。
がばりと起き上がる。周りには、たった今まで走っていたそれより幾分薄い夜の闇が広がっていた。おかしな夢を見た。息が上がっている。額にじとりと汗をかいていた。
手の甲で汗を拭ってから、貴一はベッドサイドに置いた携帯電話を探り当てる。ディスプレイを光らせて時刻を確認すると、まだ深夜の二時だった。同時に貴一は、一通のメールが来ていることを知る。沙羅からのメールだった。
『久々の実家、どう? みんな元気だった?』
本文はそれだけだ。けれどそれを読むと、ようやくひとつ、詰めていた息を吐き出すことができた。貴一はメールの作成画面を起こす。
沙羅とは、たったひとり上京して通い始めた高校生の頃からのつきあいだった。明るくざっくばらんな性格をしているが、案外、常識的なところもあり、貴一は時折、彼女にアドバイスを求めることがあった。今回の帰省も、貴一の伯母が亡くなったことを知っている彼女が勧めたものだった。
『両親とロニは相変わらず元気だった。でも、この村はやっぱりもう、俺には合わない』
沙羅にそう返信をして、貴一は携帯電話を再びベッドサイドに置く。窓の外から、じわじわ、じわじわと虫の声が聞こえてきた。薄くカーテンを開くと、息苦しいほどの深い闇が広がっている。その重苦しさに、貴一はふう、と一つ息を吐き出した。久々に感じる、ありのままの闇だった。
戻りたい、と思った。都会の、人工灯に緩和された、暗く更けても浅い夜が恋しかった。
二
須藤家に同級生たちとともに行ったのは、次の日の昼下がりのことだった。午前中に迎え火を焚く家が多いので、午後にしたのだろう。自室の整理をしているときに、辰則が貴一を家まで呼びにきたのだ。
集合場所だという村はずれの愛宕神社に向かうと、自分と辰則以外に五名ほどのかつての同級生が集まっていた。男が三人、女が二人。どの顔も、それなりに記憶にある。
「貴一。久々だね」
まず話しかけてきたのは、かつての級長の伊織だった。祖父に幼少の頃から徹底して剣道をたたき込まれていた彼は、今も背筋が真っ直ぐだった。
村のこどもたちは否応なく小中学校が同じとなるため、つきあいは長い。穏やかで何かと世話焼きの伊織は同級生たちの兄貴分だった。今は中学校の教諭として別の市で働いており、盆に休暇を取得し、帰省しているさなかだった。だというのに、涼と連絡を取り、今日訪ねる旨を彼に伝えたのも伊織だ。
「年末に帰省したとき、何も告げずに碧ちゃんの見舞いに訪ねたら、その……、涼とともに女性がいたことがあってね」
気まずい思いをしたのだろう。だから今回は、しっかりと訪問の意を涼に伝えたのだ。脳裏に、塀の中から呼びかけてくる甘ったるい女の声がよみがえる。
「まあ、碧ちゃんはそのときもう入院していて不在だったし、そもそもそういうことを想定していなかった僕が悪い」
伊織は苦笑したが、碧が体調を崩しているときに家に女性を連れ込む涼に対する多少の呆れが透けていた。
だらだらと近況報告をしあいながら須藤家に向かうが、水田の奥にある須藤家の屋敷が見え始めると、誰もが口を閉ざした。深い緑の森を背負うその家は、ひとを陰鬱にさせる。ぽつりと白い新盆を示す灯籠だけが、あえかな光を放っているようにさえ見えた。
屋敷には、涼がひとりで待っていた。常識的な格好をして、しかしあの薄ら笑いを浮かべながら同級生を迎え入れ、茶菓を振る舞おうとする。それには及ばない、と伊織が制すると、涼は静かに仏間に続く襖を開けた。
仏間は、屋敷の大きさに見合いかなり広かった。天井近くから床に届くほどの大きさの白い提灯が二つ提げられているが、障子が開けられていて日差しが入り込み、仏間特有の薄暗さがない。その提灯の間には、白い布で覆われた立派な三段の盆棚があった。思いがけず立派で落ち着いた新盆の風情である。位牌も仏壇から盆棚に移されていた。
涼はまるで蝋人形のような顔で、かつての同級生たちが盆棚で焼香するのを眺めていた。
焼香を済ませてから貴一は、天井近くに掲げられた遺影を見上げる。一番端の、一番新しいものが、碧の遺影だった。おとがいの細い、色の白い娘だ。落ち着いた色合いの和服を着ているので、成人式で撮った写真なのかもしれない。深閑とした黒い瞳をしている。確かに、十代半ばの頃の面影があった。
何気なくその隣に目を遣って、貴一ははっと動きを止めた。壮年をいくらか過ぎた男の写真が掲げられていたのだ。
「貴一? どうかしたのか」
とうに焼香を上げ終えていた伊織に名を呼ばれ、貴一はやっと我に返る。
「いや、何でもない」
涼は、茶でも飲んでいけばいいと常識的に対応したが、成り行きで一行の代表を務めていた伊織は、それを固辞した。
「ほかに訪ねてくるひともいるだろうから」
その伊織の言葉が、新盆を迎えた須藤家に対する心遣いだったのか、それとも、そんなときでも女を連れ込みかねない涼に対する皮肉だったのかは分からない。だが少なくとも、同級生たちは皆、その判断を歓迎しているように見えた。あの屋敷は、長居するには暗すぎるのだ。
門を潜って屋敷を覆う闇から逃れると、誰からともなく自然に安堵の吐息が出る。降り注ぐ蝉時雨が真夏の焼け付く暑さを煽っていた。貴一がぼんやりと歩いていると、伊織が近づいて来た。
「貴一、顔が真っ青だよ。具合でも悪いのか」
「いや。なあ、伊織」
級友の顔を見る。したたり落ちる汗がうっとうしい。
「碧の遺影の隣にあった写真は……」
「ああ、康司さんの遺影だね」
康司。須藤康司。それは、碧と涼の伯父であり、ふたりの養父となった男の名だった。
「貴一もおじさんに会ったことあるだろ? あれで案外こども好きで、俺たちも何度か屋敷に招いてもらったことがあったじゃないか」
「ああ。……そうだな」
そうだ、と貴一は思い出す。どうして忘れていたのだろうか。
須藤康司は、この村では異端者として扱われていた。祭祀を取り仕切る家に生まれながら、東京の大学に進み、そのまま両親が死んでも実家に戻ることなく三十代で起業して成功する。しかし早々に事業から身を引いてこの村に戻ってきた。
戻ってきても彼は村の祭祀に手を貸すことはなく、常に眉間に深い皺を作り、日々、思案に沈んでいるような顔をしていた。
そんな康司を村の者は遠巻きに見て、祭祀が廃れたことの責任を求めるようにとげとげしい視線を送っていた。康司もまた、そんな村人を蔑むような冷たい瞳をしていた。だが子供しかいないところでは、好々爺のような人なつこい顔をすることもあったのだ。
──おいで。本が好きなんだろう。
そう言って彼は、こっそりと貴一と伊織をあの屋敷の二階にある書斎に招き入れてくれたことがある。壁はすべて本のびっしりと詰まった本棚に覆われており、そこから溢れた本が床にうずたかく積み上げられていた。
埃と黴の匂いの入り交じった、古い書物の匂い。指先に馴染む、薄めた珈琲のような色に灼けた髪の頁。どの本でも好きに読めばいいという男の言葉に、胸が躍った。
偏屈な男はいつも不機嫌そうではあったが、貴一が伊織を伴ってあの家を訪ねると、言葉少なにぽつぽつと言葉を交わしてくれた。
――今、学校では何を教わっているんだ。走れメロス? あれの最大の魅力は、友との約束を守ることを諦めかけたメロスの独白だ。呪いの言葉が歌うように軽快に綴られている。
康司の声が耳に蘇る。愛煙家だったためか、嗄れた声をしていた。小説のことを話すときだけは、彼の語りは流暢だった。文豪たちのことを、まるで学生時代の友人のように語っていた。
懐かしい記憶がよみがえる。そうだ、自分は確かにに、偏屈者と噂されていたあの男のことが好きだった。
「もっとも、康司さん、亡くなる前はかなり認知症が進んでいたみたいだけどけどな」
続いた言葉に、貴一ははっと顔を上げる。
「認知症? まだそんな歳ではなかっただろ」
「ああ、おまえ、中三になると勉強に忙しそうで、あんまり康司さんのとこに行ってなかったから知らないだろ。若年性のものだったらしい。俺もじいちゃんにあの家に行くのを止められてた。どうもたまに錯乱したようになるから関わるな、って」
伊織の祖父は長く副村長に就いており、村民から相談を受けることも多い。たとえ康司がそれを隠そうとしていても、漏れ伝わる噂はすべて把握していただろう。
「ひどかったのか」
「うん、急速に進んだみたいだな。後から聞いた話だと、鬱も発症していて、遺書もあったらしい」
弁護士のもとに預けられた遺言書とは別に、死を願う詩のような文章が綴られた紙が書斎に何枚も残されていた。その願いが叶ったのか、須藤康司は認知症が決定的なものとなる前に頓死した。以前から心機能の低下を指摘されていたのだという。
「一時は栄華を極めたあの屋敷に、今は涼がひとりか……」
伊織はため息のような声でそう呟くと、立ち止まって振り返る。須藤の屋敷は、夏の森の影に抱かれ、息を潜めているようにも見えた。
「伊織君、これからどうする? せっかくだから、時間あるひとが何人かで車を出して隣町まで行こうと思うけど」
何歩か前を歩いていた数人の女子のうちのひとりが話しかけてくる。伊織はひとつ頷いた。
「分かった、俺も車を出すよ。貴一、君はどうする」
尋ねられて、貴一は首を横に振った。
「俺はいい」
この村を出て東京の高校に進んだ貴一は、やはり他の同級生たちとの間に多少の溝がある。これ以上、時間をともにしても、その溝を埋めることは難しい。
残念そうな顔をする伊織や辰則に軽く手を振り、貴一は自宅へ帰るために小道を曲がった。
しばらく進んだところで、こどもの影とすれ違い、貴一ははっと顔を上げた。歳のころなら十歳程度の少年なのだろうが、短パンをはいた剥き出しの脚が危ういほどに細い。
小さな村のこととは言え、長く離れていた貴一が知らないこどもがいることはおかしくはない。けれど、少年のその異常な細さに、胸がざわついた。長い前髪のせいで目元が隠れていることも相まって、ひどく暗い雰囲気をまとった少年だったのだ。
少年は貴一が曲がってきた角を曲がり、まっすぐに道を進んでいく。その先には、須藤の屋敷しかないはずだ。やけに気に掛かり、貴一はその少年の背を追った。
少年はやはり、まっすぐに須藤の屋敷に向かうと、正門ではなく裏手に回る。貴一が塀の外から屋敷の様子をうかがっていると、屋敷の中から鋭い声が飛んでくる。涼の声だった。
「もうここには来るなって言っただろ」
少年は、小さく何かを答えたようだが、うまく聞き取れなかった。出て行くべきか逡巡しながら、しかし無視することもできず、裏門を潜り、息を殺して屋敷の方角に向かう。木陰からのぞき込むと、屋敷の濡れ縁に涼がおり、庭に立つ少年に鋭く声を投げつけていた。
「もう碧はいないんだ」
その冷たい言葉に、少年の肩が小さく跳ねる。やはり、不安になるほど痩せた後ろ姿だった。
剣呑な雰囲気を悟り、貴一は戸惑いながらも、一歩踏み出す。涼がそれに気付き、それまでの硬い雰囲気を一変させてあの軽薄な笑みを浮かべた。
そんな涼の視線を追って少年は貴一を見る。ぐしゃりと歪んだ泣き出しそうな顔をしたその少年は、涙を隠すように貴一を睨み付けると、貴一の脇を通り過ぎ、門を潜って出て行った。
「貴一、どうした? 忘れ物か?」
色濃く残る気まずい雰囲気を払拭するように、明るい声で涼が話しかけてくる。
「今の子は……」
「地蔵前に住んでいるこども。碧に懐いていて、碧が死んでからもああやってうちにくるんだ」
迷惑だ、とでも言いたげに、涼は小さく肩をすくめている。
地蔵前というのは、村はずれの地名だった。ほぼ山道のような細い小道に、大人の膝までしかない小さな石の地蔵がある。それも、丸みを帯びた形状をしており、合掌しているように見えるため、かろうじて地蔵だとわかる、というほどに減摩しており、いつ作られたものなのか判然としない。
その地蔵があるあたりが地蔵前であり、確かにそこには何件かの家が点在していた。そのうちのひとつの家のこどもなのだろう。
それにしても、ひどく痩せたこどもだった。自分を睨み付ける瞳も、反抗心が芽生えはじめたこどものものというよりは、野良犬の仔の視線の方が近い。
「下手に手を差し伸べるなよ、貴一」
子供の去って行った方角をじっと見ていた貴一に、涼がそう声を掛けてくる。
「どうせ救えない」
投げつけられたそれは、温度のない声だった。振り返ると、涼は冷たく乾いた視線を貴一に向けていた。それに居心地の悪さを感じ、貴一はそれ以上会話を続けずに、きびすを返した。
だが須藤の敷地を出て百メートルほど歩くと、道端の草むらの前に佇む小さな人影を見つけた。先ほどの少年である。少年はやはり獣じみた瞳で黙って貴一を見上げていたが、しばらくしてから、なあ、と声を掛けてきた。
「あんた、外から来たの」
外、とは、この村の外、という意味なのだろう。山に囲まれたこの村で育ったこどもらしい物言いだった。小さな村のことなので、知り合いではなくとも顔を見知っている者がほとんどだ。だが少年は、貴一に見覚えがなかったのだろう。
貴一は身を屈めて少年と視線を合わせてから、ひとつ頷いた。
「出身はここだけどな。高校からずっと外にいた」
「外の、どこ?」
「東京。世田谷区っていうところ」
「ふうん。俺、前ね、かまくらってとこに住んでたんだ」
少年の声が、少しだけ弾んだ。表情もぱっと明るくなる。
「神奈川県の鎌倉か」
「うん。小さい頃だから覚えてないけど、海が見えたって母さんが言ってた」
その声はどこか、誇らしげでもある。南東北の山間のこの村は、海からは遠い。交通手段の発達した現代であっても、この村にとって、海が見える街という響きは、憧れをもたらすものなのだろう。
「ねえ、海、見たことある?」
「ああ」
「本当? 大きい?」
何らかの理由でこの村に戻ってから、少年は海を見に行ったことはないのだろう。
「大きいよ」
「どのくらい?」
問われて、貴一は困惑した。どのくらい、海は広いのだろう。表面積や地球に占める割合を答えたところで、きっとこの少年には伝わらない。
おかしなものだ。貴一は子供の時分から抜きん出て成績がよく、名門とされる高校に進学し、大学で学位を取って名の知れた企業に入社した。けれど、こんな幼いこどもに海の大きさを教えることもできない。
少年は答えを出せない貴一に見切りをつけたのか、ひとりでさっさと歩き出してしまった。
「おい」
その背に呼びかける。少年は一度振り返ったが、貴一に冷たい一瞥を投げると、すぐに走り去って行った。
少年の素性は、すぐに知れた。
盆休みはないが、町役場の盆はそれほど仕事はないらしい。父は定時には仕事を上がり、家に戻っていた。
母親は新盆を迎えた伯父の家に出かけたので、酒瓶とグラスをふたつ持って父の向かいに座り、それとなく父親に、村でひどく痩せたこどもを見かけた、と話を向けてみると、ひっそりと静かな声が返ってきたのだ。
「多分、弥彦君だろう。三平弥彦。今年で五年生のはずだ」
地蔵前にある家で、祖母と母とともに暮らしているという。
「小さい頃に鎌倉に住んでいたって言ってた」
「ああ。母親が横浜に働きに出て、そこで知り合った男と結婚したんだ。だが六年ほど前に離婚して戻ってきたらしい」
父親は役場勤めだが、もともと社交性に乏しい性格で、情報通というわけではない。それがここまで知っているということは、やはり何かしら問題がある家庭なのだろう。
父親はちらりと玄関の方を見遣った。噂好きの母親の姿がないことを確認したのだろう。
「祖母が胃を患っているうえに重度の認知症でな。母親は隣町のレストランで働きながらその介護をしている。かなり大変なようだな」
低く潜められた声だった。その大変、という短い言葉が内包するものを想像するのは、残酷なことだった。
「弥彦君の担任が、何度か教育委員会に相談に来ていた」
小さな村の教育委員会など、その事務のほとんどを役場の総務課の職員が兼務している。総務課の課長を務めている父親が知っているのは当然のことだった。
「保護できないのか」
「県の児童相談所にも相談したが、虐待と判断できないと言われてな」
弥彦自身が、虐待を強く否定するという。母親や祖母から暴力を受けたことなどない、と噛みつくように言った。食事ももらっている、ただ自分に食欲があまりないだけだ、と言うのだ。
「実際に、痣だのは見当たらない。暴力行為はないはずだ。ただ、精神的にも経済的にも、育ち盛りの少年に適した環境ではないんだろう」
真面目で善良な父親は深いため息のような声で言葉を続けた。
「長期休みは学校の給食が出ないから特に心配でな。担任もちょくちょく様子を見に行くと言っていたが、どうも、本人がすぐに察して逃げてしまうらしい」
どうにもできないんだ、と言って父は、グラスに入った酒を呷った。
ふたりとも黙り込むと、ふと、笛の音が聞こえてくる。音階が洗練されきっていないのは、吹き手が子供だからだろうか。鎮守の森で盆の終わりに祭りが行われるので、子供がその練習をしながら道を歩いているのかもしれない。
貴一は窓を開けた。涼やかな風とともに、笛の音が肌を掠める。単調でどこか物寂しいお囃子の笛の音に耳をそばだてながら酒を飲んでみても、弥彦のあの細い肩が頭から離れることはなかった。
三
弥彦に再び会ったのは、翌日のことだった。
敏夫伯父に、母から預けられた仏花や惣菜を届けた帰り道、貴一はふらりと田の畦に入った。
子供の頃、貴一は畦が好きだった。夏の田は青く、しかしすでに穂は実り、頭を垂れはじめている。夏空の下、短い生を充足させ、収穫のときを待つ稲のすがすがしい匂いが好きだったのだ。
久々に畦を歩きながら、かつて自分が持ち合わせ、今では失われてしまったそんな感性を懐かしんでいたそのとき、ふと、青い稲の向こうの道を歩く小柄な影を見つけた。危ういほどに細い子供の影である。
その影を追うと、その影はやがて小川に至る土手を駆け下りた。
「あんまり水面に近づくな。そのあたりは流れが速い」
声を掛けると、弥彦は振り返って、うっとうしげな顔をした。
「知ってる」
「おまえ、昨日俺に、海のことを聞いただろ。海を見たいのか」
弥彦は水面に視線を戻しながら、うん、と答えた。覚えていないほどの過去に住んでいた、鎌倉の街から見えた海。それは今の暮らしではなく過去への郷愁なのだろう。
「連れて行ってやろうか」
告げると、弥彦は勢いよく貴一を振り返った。
「アンタが連れて行ってくれるの」
「ああ。明日でよければ」
隣町にバスで向かえば、レンタカーを借りられる。車を三時間ほど走らせれば海に着けるはずだ。
だが、弥彦はすぐには答えずに黙り込み、やがて小さな声で、いいや、と言った。
「やっぱりいい」
その答えは意外だった。
「どうして」
「明日は母さん、仕事だし。母さんと一緒に行きたい」
その答えに、胸を突かれた。この少年の望みは、単純に海を見たいというようなものではない。母親とともに、この村の外に置き去りにされた遠い過去へと戻りたいのだ。
どうせ救えない。そう言った涼の言葉が耳に蘇る。気軽に声を掛けてしまったことへの後悔が生じた。
「ねえ、海ってさあ、水平線に鯨が見えるんだろ」
ふと、少年がまっすぐな瞳でそんなことを問いかけてきた。
「水平線に、鯨?」
「うん。涼がそう言ってた」
「涼って、須藤涼か」
うん、と少年は答えた。貴一は意外に思った。
水平線に見える鯨。それはあまりにいとけない発想で、そのくせ雄大で、どこか懐かしくさえある。ざざん、と鯨の尾が海を叩く音が聞こえてくるようだった。
あの涼がそんなことをこの少年に語るとは思えなかったが、少年の黒目がちな瞳に偽りなど見当たらない。
涼は、本当にそんな光景をどこかの海で見たのだろうか。それとも、幼い少年のために語った幻想だろうか。
またしても答えを返せない貴一から視線を外し、弥彦は早々に川面に視線を戻す。魚でも見えたのか、短パンをサンダルとともに脱ぎ捨てると、ざぶりと川の中に入っていった。
「おい」
この川はけして大きな川ではないが、水深がある。止めようとしたが、弥彦は慣れた様子で向こう岸まで泳いで渡ると、高い岩によじ登り、器用にその上に立った。川の遙か先にある海を見ようとしているような仕草だった。
しばらくそうしていて気が済んだのか、弥彦は岩から水面へと飛び降りる。跳ねた水が、夏の日差しを浴びて燦めいた。
だがすぐに、貴一は異変を悟った。弥彦の体が水中で不自然な体勢になり、やがて川の流れに沿って下りはじめたのだ。
「弥彦! おい!」
呼びかけても、少年が反応することはなかった。不格好な仰向けで両手を水上に上げたまま、細い体が流されていく。水に体重をとられたのか、脚でもつったのか。いずれ、溺れているのだと知れた。
舌打ちをして、貴一も川の中に入った。体が冷たい水に包まれる。久々の感覚に、うまく筋肉が反応してくれない。だがそれでも必死で、流れていく少年に追いついた。無我夢中で脚をつかんで立ち上がろうとしたが、思っていたよりも水が深く、うまくいかなかった。
そのとき、貴一の腕に何かあたたかなものが触れた。そのままぐっと強く捕まれる。なんとか振り返ると、すぐ傍に見知った顔が見えた。涼だった。
涼が腕を掴んだためになんとか水の流れに抗えた貴一は、体勢を立て直して水底で足を踏ん張る。弥彦の体を掴んだまま、涼とともになんとか川岸まで歩ききった。
「弥彦、弥彦!」
川岸に少年の体を引き上げて、強くその頬を叩く。少年はすぐにはっと瞳を開け、同時に咳き込みはじめた。飲み込んだ水を吐き出しているのだろう。
意識が戻り、呼吸が確かなことに安堵する貴一の隣で、びしょ濡れの涼が低い声で、弥彦、とその名を呼んだ。少年ははっと顔を上げる。
「川には入るなと言っただろう。何度目だ」
怒気を含んだ威圧的な声だった。弥彦の肩が震える。
「ご、ごめんなさい」
今までになく怯えた表情の少年を哀れに思い、貴一は弥彦を背にかばうように涼と向き合った。
「涼、今はまだ……」
ショックが大きいはずだ、と言いかけた貴一の背から、少年が逃げるように駆けだしていた。呆気にとられる貴一を尻目に、涼が小さく笑う。
「あいつはこんなことで悄気るようなガキじゃない」
「こんなことってな……」
「まあ、今日のはさすがに少しは懲りたんじゃない?」
野生の子猫みたいなもんだ、と涼は笑いながら言った。
「おまえもびしょびしょだな」
貴一を頭から足まで一瞥し、涼はまた笑う。先ほどまでの怒気は失われ、あの軽い口調に戻っている。
「その格好じゃさすがに心配されるだろ。うちに来ればいいよ」
「おまえの家?」
「ああ、俺のでよければ着替え、貸してやるよ」
確かに、帰宅すれば母親がいる。ジーンズはすっかり水を吸い、乾くまで時間がかかるだろう。
ありふれた格好なので、同じような服を借りれば、母親は服が替わっていることに気づかないだろう。
貴一は逡巡の末に頷いた。
川岸から上がって畦を通り過ぎて、須藤の屋敷に向かう。意外なほど、その道のりは近かった。
森を背後にした屋敷はしんと静まりかえっており、広い石敷きの玄関は空気が冷たい。新盆の十四日だというのに、今日は誰も来ていないようだった。
「シャワー浴びるか?」
「いや、大丈夫だ」
「じゃあ、タオルと着替えだけ持ってくるから」
抑揚のない声で告げると、涼は床が濡れるのもかまわず、びしょ濡れのまま暗い廊下の奥に歩いて行く。濡れたまま上がることも憚られ、貴一が玄関にとどまっていると、すぐに涼がタオルを片手に戻ってきた。
「入りなよ。そこじゃ着替えられないだろ」
その声に促され、貴一は取り急ぎタオルで未だにしずくを滴らせている髪を拭ってから屋敷に上がった。
通されたのは、仏間に続く和室だった。着替えを置くと、涼は「俺も着替えてくる」と言い置いて、部屋を出て行く。貴一は自分よりもいくらか細身の涼の服になんとか着替えると、襖を開けて仏間に入った。
仏間は、ひたすら静かだった。盆棚の両脇の巨大な提灯に火の気配はないが、部屋には線香の残り香がある。供えられた花も瑞々しかった。障子窓は開けられ、夏の緑の庭が覗いている。蝉時雨がしきりと降り注いでいた。
「線香、上げてやってよ」
盆棚の前でぼんやりと佇んでいると、後ろからそんな声を掛けられた。服を着替えた涼だった。もとよりそのつもりだったので、頷いてから線香に火をつけて手を合わせる。涼はそんな貴一をじっと見ていた。その視線に居心地の悪さを覚え、早々に盆棚の前から退く。沈黙が重苦しく、貴一は会話を探した。
「弥彦に海の話をしたのか」
つまらなそうに襖の前に立ち腕を組んでいた涼に尋ねると、涼はわずかに眉根を寄せた。
「弥彦に聞いたのか」
「ああ」
「話したこともあったかな。あいつ、しょっちゅう碧に会いに来ていたから。それがどうかした?」
水平線に鯨がいる海を、見たことがあるのか。それはさすがに、自分が尋ねるにはあまりに子供じみていて、貴一は言葉に詰まる。
「その……、鯨が好きなのか」
言葉を探して、結局口から出てきたのはそんな問いかけだった。その問いの幼さに、涼は数秒、沈黙してから、吹き出した。その明るい笑い声に、貴一はすぐに自分の言葉を悔いた。
「鯨。鯨ねえ。まあ、嫌いじゃないけど。鯨が嫌いってやつも珍しいか」
笑いながら涼が言う。涼が声を出して笑う姿を見るのははじめてのことで、貴一はほんの一瞬、羞恥を忘れた。
「俺、海なんてほとんど見たことないんだ。ずっとこの村にいるからな」
ひとしきり笑ってから、涼がそう告げた。
「遠出しないのか」
「うん、特に用事もないし」
その返事に、貴一は驚いた。いくらこの村が山里といっても、島国にある以上、海に行こうと思えば一日と掛からずたどり着く。海に行く用事がなくても、旅行に出れば海を見る機会などいくらもあるはずだ。だが涼は、それをしないという。その理由を考えて、ふと一つの可能性に思い至った。碧だ。
碧は、この村で見るときはいつも静かで穏やかだったが、環境が変わると興奮し、奇声を上げたり暴れたりすることもあったと聞いたことがある。
だが碧を連れて遠出はできないとしても、碧の世話をできる人間はいただろうし、そもそも涼は碧とあまり関わりを持たずにいたはずだ。それならば、やはり涼が、この村の外に対する興味が薄いのだろう。
「水平線を泳ぐ鯨。遠い過去に見た夢だよ」
軽やかな声で涼が言った。どういうことだと視線で問い返すと、涼は意外なことにまっすぐ貴一を見つめ返した。
「弥彦の事情、親父さんに聞いたんだろ」
静かな問いかけだった。弥彦という少年の名を貴一が知っていたことから悟ったのだろう。特に隠す必要性も感じないので、小さく頷く。
「弥彦のことは、お前が口出しすることじゃないよ」
突き放すような言い方ではなく、諭すような口調だった。
「貴一さ、こんな村、一日もいたら飽きるだろ。もう東京に戻ったらどうだ?」
どうしてお前にそんなことを言われねばならないのかとむっとする。だが思いのほか涼の表情が真剣なものだったので、反論の言葉が喉の奥で詰まる。
「きちんと伯母さんとご先祖を送ってこいって言われてるんだ」
どうしてそのとき、そんなくだらない言葉をこぼしてしまったのだろう。すぐに後悔したが、一度口から出た言葉を消すことはできない。涼はからかうような表情を浮かべている。
「誰に言われてるんだ? 彼女?」
「違う。沙羅はそういうんじゃない」
思いのほか、焦ったような声が出てしまった。更にからかわれるだろうと思っていたが、涼は雰囲気を一変させ、こわばった顔をしている。
「彼女じゃないのか、その沙羅っていうの」
「違うって。東京で会った友達」
嘘ではなかった。沙羅は貴一が上京した十代半ばで出会い、未だにメールのやりとりを続けてはいるが、それ以上の関係ではない。
涼は数秒、押し黙っていたが、すぐにまた軽い口調に戻った。
「とにかく、弥彦のことはいいから、おまえは早くこの村を出ろ。枯れる蔦にがんじがらめにされて動けなくなる前に」
「どういうことだ」
その疑問には答えず、涼は貼り付けたような微笑みを浮かべていた。
○
茶をこぼしたのだと嘘をついて涼から借りたと川で濡らした服を洗い、自室から続くベランダに濡れた服を干すと、盛夏のきつい日差しの下、夕方前にはすっかり乾いた。
涼の服を手にして須藤の屋敷に向かう途中、小柄な影が、まるで獣の仔のような動きで茂みから飛び出てきた。弥彦だった。
「涼のところに行くの?」
「ああ」
答えると、弥彦は長い前髪の下から貴一を見上げた。黒目がちな瞳は、いかにも少年らしい。だが弥彦が身にまとう服が、川でびしょ濡れになった昼間から変わっていないことに気づいた。あの後、家に戻っていないのかもしれない。自宅に戻りたくなかったということだろうか。
真夏とは言えびしょ濡れの服のまま何時間も過ごした少年の心持ちを考えると、気持ちが暗くなった。
「あの、助けてくれてありがとう」
少しだけ戸惑いを滲ませながら、弥彦がそう言った。弥彦は暗い瞳をしているが、拗ねてばかりではない、素直な一面も持っているのだろう。
貴一はしゃがんで少年と視線を合わせると、伸び放題でぐしゃぐしゃになっている少年の髪に触れた。弥彦はわずかに体をこわばらせたが、貴一の手を振り払うことはしなかった。
「あの川には入るな。昔、俺のいとこも溺れかけた」
辰則のことだ。小学生のとき、辰則はあの川で流され、たまたま居合わせた大人数人に助けられた。
弥彦は俯いたまま、小さくうん、と応じた。それから顔を上げると、貴一の腕に触れる。
「あのさ、涼の家に行くなら、渡してほしいものがあるんだ」
「涼に?」
「うん。涼と、碧に」
弥彦はごそごそと自分の短パンのポケットを漁り、何かを貴一の手にのせてくる。それはペットボトルの蓋ほどの大きさの、平べったい二つの置物のようだった。木に彫られた花のように見えた。
貴一は己の手のひらにちょこんとのせられたその二つの小さな木の花をしげしげと見つめた。
「碧、夏椿が好きだったから」
作ったんだ、と弥彦は言った。
「作った? おまえが?」
弥彦が小さく頷く。改めて見ると、確かに多少精巧さを欠くが、控えめに花弁を広げたそれは初夏に咲く夏椿のすがすがしさを確かに表現していた。
「すごいな、きれいだ。碧、喜ぶよ」
「うん。だといいなあ」
貴一の率直な感想に、弥彦は頬をわずかにほころばせる。
「一つは碧に、もう一つは涼に。涼には助けてくれてありがと、って伝えて」
自分が行ってもまた涼に邪険に追い払われると分かっているのだろう。貴一はひとつ頷き、清々しい花を手のひらに閉じ込め、そっとポケットに入れた。
弥彦と別れ、ひとり須藤の屋敷を訪ねた貴一は、深呼吸をしてから呼び鈴を鳴らす。すぐに、涼がひとりで出てきた。乾かした服が入った紙袋を渡すと、涼は苦笑する。
「返さなくていいって言ったのにさ」
「そういうわけにもいかないだろ。それから……」
貴一はポケットにしまっていた弥彦からの預かり物を取り出す。手のひらにのせて涼に差し出すと、涼は怪訝な顔をした。
「ここに来る途中で弥彦から預かった。おまえと碧に、ひとつずつ」
無言のまま、涼はそのうちのひとつを指先でつまみあげ、しげしげと眺める。数秒黙り込んでいたが、やがて忍び笑いを漏らした。
「どうかしたか?」
「いや。……弥彦! いるんだろう!」
唐突に涼は声を張り上げ、屋敷を囲む土塀に向かって呼びかける。しばらくして、貴一が通ってきた門から痩せた小さな体が遠慮がちに覗いた。
「きちんと盆棚に手を合わせるなら、入っていいぞ」
涼が言うと、弥彦は嬉しげに顔を輝かせ、走り寄ってきた。
「ついてきていたのか……」
「あいつは飢えた子犬みたいなもんだからさ。いつの間にか勝手に懐いて勝手についてくる」
驚きに目を見張る貴一に、涼が楽しげに答えた。
仏間に招かれた弥彦は盆棚の前にぺたりと正座すると、覚束ない仕草でりんを慣らす。ひぐらしの声が控えめに聞こえる仏間に、澄んだりんの音色が響いた。
「この花は、お前が自分で供えればいい」
涼がそう言って木の花を弥彦に差し出すと、弥彦はこくりとひとつ頷き、それを盆棚にのせた。もう一度、ぱん、と音がするような勢いで手のひらを合わせ、その勢いのままに頭を下げる。
全てが幼く、慣れない仕草だったが、そこには死者を悼む切実さがあった。この少年は本当に心から碧という不遇な女を慕っていたのだ。それを感じ、貴一はもう一度、碧の遺影を見上げた。細いおとがいをした若い女は、深い沼の水面のような静かな瞳で弥彦を見下ろしていた。
ふと、頬を夏の夕のさらりと乾いた風が撫でた。見ると、涼が窓を開けている。
「涼?」
「しっ。笛が聞こえるんだ」
思いのほか幼い仕草で、涼は薬指を唇の前に立てる。確かに耳を澄ますと、ひぐらしの鳴き声に混じり、高く低く単調な旋律を綴る笛の音が流れてくる。昨夕も聞いた、お囃子の響きだった。
「スギオが吹いてるんだ」
弥彦が言った。「今年から、スギオが笛を吹くことになったから」
この村には杉尾という姓の家が何軒もある。そのうちのひとつのことだろう。
「お前の友達か?」
「クラスが一緒」
貴一の問いかけに、弥彦はつっけんどんに答える。友達、というほど親しいわけではないのだろう。だが窓辺に寄ってじっと笛の音に聞き入る弥彦の様子からして、けしてそのクラスメイトを嫌っているわけではないということが伝わってきた。
「今年から、か。いつまで経ってもへったくそだもんなあ」
「うん。でも、あいつ張り切ってたよ。兄ちゃんに笛もらったんだって喜んでたし」
皮肉の混じった涼の言葉に、弥彦が真面目な顔でそう返す。
祭りでお囃子を奏でるのは大半が大人だが、この村では必ず数人、まだ小学生のこどもを混ぜることになっている。今回は、兄から笛を引き継いだこどもが演じているということなのだろう。
聞こえてくる笛の音は、懸命に息を吹き込み過ぎているのか、ときどき音が高く外れ、掠れている。短い間隔で何度も同じ旋律を繰り返すところなど、運指が間に合わず、正しい音律を奏でられてはいなかった。
ひどいもんだな、と涼が言う。けれど涼は、窓を閉じようとはしなかった。音が聞こえなくなるまでのしばらくの間、弥彦も貴一も、夏の夕の拙い笛の音に耳を澄ましていた。
「明日が本番だってのにな」
弥彦がそう呟く。本番とは、祭りの当夜ということだろう。十五日の夜の盆祭りは、かなり多くの村民が参加するはずだ。
「弥彦。お前も行くのか?」
貴一は尋ねた。
「え?」
「明日の祭りだよ」
片田舎の盆祭りだが、夜店もいくつか出る。新盆のあった家は、酒や菓子を持っていき、盆踊りに参加した者たちに振る舞うのがしきたりのようになっている。娯楽の少ない村のことなので、こどもたちは夜更かしを許される祭りの夜を楽しみにしていた。
弥彦は笛の音の消えた夏の夕に視線を投じたまま、小さく首を横に振った。
「行かない。母さん、多分許してくれないから」
少年の頬がわずかにこわばっている。本当は行きたいのだろう。
「弥彦」
静かな声で呼びかけたのは、涼だった。暑い一日の終わりを示す夕闇の落ちる中、涼の瞳は穏やかに凪いでいる。
「行きたいのなら行けばいい」
涼の言葉に、弥彦は目を見張った。迷っているのか、沈黙してから、また弱々しく首を振る。
「駄目だよ。行けない」
「そうか」
涼はあっさり引き下がったが、まっすぐに貴一に視線を向けてくる。何も言われずとも、貴一は薄くその意図を察した。
「俺は行くから、来たくなったら一緒に行こう」
「アンタと?」
貴一の提案に、弥彦はまた驚いたような顔をしている。
「アンタじゃない。俺は橘貴一」
「きいち」
舌のうまく回らない幼子のような口調で繰り返された己の名に、貴一は苦笑した。
「明日の五時頃、神社裏の連理の木のところにいるから」
でも、と言う弥彦の髪に手を触れて、貴一はできるだけ優しい声で、「来たくなったらでいい」と告げた。
「涼は?」
迷いを含んだ瞳で、弥彦が涼を振り返る。
祭祀に一切関わりを持たなくなった須藤家は、貴一がこの村にいた頃から祭りの執行会に疎んじられていた。おそらく涼は神社に顔を出すこともできないはずだ。
「俺は行けないよ。でも弥彦、お前は行けばいい。この夏は一度しかない」
穏やかに微笑みながら、涼が告げる。しっとりと濡れたような瞳をしていた。
「涼も、行こう」
まだ村内の事情など深く知らない弥彦が、心細いのか、いとけない瞳で涼を見上げている。涼は苦笑を浮かべるばかりで、その願いに応えることはしなかった。
沈黙の落ちた仏間に、ひぐらしの後を継ぐようにじわじわ、じわじわと鳴き始めた夜の虫の声が響く。夏の夜の濃い闇が、凝りはじめていた。