軍令部の将校
「……おい。何だ、この記録は?」
威圧するかのような鋭い視線と重苦しい口調に、報告に来た男は立ったままビクリと身体を震わせる。
男の前にいる上官は重厚な造りの椅子にもたれ掛かるように座り、長い脚を誇示するかのように椅子の前の机に脚を投げ出していた。
上官が持っている資料は、帝国軍人の昇進者一覧である。
昇進に至った経緯は記載されておらず、昇進の内容だけ簡潔に書かれている資料ではあるが、帝国軍人100万人分の資料はそれなりの量があった。
その資料を時折、顔を顰めながらも手を止めずに読んでいた上官だったが……手が止まってしまった。
報告に来た男には何となく分かっていた。
言いたいのはあの男の事だろうと。
「そ、それにつきましては人事部としましても、異例な事と承知しておりますが、その……止ん事無き方の口添えもありまして……」
男は考えていた言い訳をなるべく簡潔に伝えようとしたが上官の無言の圧力のせいか、うまく言葉が出て来なかった。
「田舎の男爵風情の口添えを鵜呑みにした……と?」
「は? いえ、あの……ラインドルフ伯爵様の御子息様で……あっ!」
上官の「田舎の男爵」という言葉に、つい言葉を濁していた貴族の名前を出してしまった男は慌てて両の手で口を塞ぐ。
しかし、上官は気にした様子はなく、淡々と言葉を繋げる。
「ラインドルフ伯爵の馬鹿息子の大佐昇進の件ではない。貴族の横槍なんぞ、今に始まった事ではないからな。せいぜい、大佐として前線に送ってやる。そこで更に少将に昇進させてやれば、伯爵様も御喜びだろう。ふふふっ」
男は冷たいものが頬を走るのを感じた。
帝国の階級において大佐の次は准将である。
しかし、上官は少将と言った。
……二階級特進、それは《戦死》を意味する言葉だ。
伯爵家の御子息に対して、その様な発言をすれば不敬罪で処罰されるだろうが、目の前の上官は違った。
数々の戦場で戦功をあげ、齢24にして中将の座につき、自身も辺境伯家の出でありながら皇帝より男爵への叙爵を受けている。
加えて、その美しい容姿から貴族、平民達からも絶大な人気があり、軍内部でも密かにファンがいる程だ。
実力と人気を兼ね備えた彼女こそ、帝国軍の女神と言われるシャーロット・フォン・ジェニングス女男爵である。
「大佐。私が聞きたいのはダウスター男爵領の二等兵の事だ」
ジェニングス中将の言葉で我に帰った大佐こと、アンダーソン大佐は必死に自身の記憶を揺り起こす。
「ダウスター……あっ、五階級特進の者の事でありますか?」
焦りながらも思い出した大佐の発言にジェニングス中将はほくそ笑んだ。
この男は今回の資料の内容を全て記憶しているのだ。
そう、この100万人分の資料の全てを。
まぁ、だからこそ体格も貧弱で臆病な男ではあるが、自身の派閥に置いているのだ。
これからの自分には戦上手な者な者だけでなく、内政力、外交能力、更には汚い仕事に長けた者も必要なのだ。
だが、この男は気になる。
私の記憶では帝国において五階級特進した者はいない。
いくら田舎の領軍とはいえ、異例すぎる。
先程同様、貴族の横槍か、それともなんらかの策略があるのか。
「その者は初陣にして目覚ましい功績を挙げまして、軍令部でも高く評価され、また、新兵の意気高揚にもなると異例の特進となりました。特にその他の理由はなかったと聞いております。その者は特例でしたので戦功証明があります」
大佐は一枚の報告書を手渡してきた。
「……なるほど」
報告書にはその二等兵の戦功が書かれており、下には所属している領軍司令官であり、領主のダウスター男爵の直筆のサインとその功績を認める軍令部の印が押されていた。
しかし、内容は疑いたくなる様なものだった。
初陣にして斥候を任され、敵の斥候分隊を撃破。更に敵本陣に単独で侵入し、敵司令官と護衛数人を討ち取ったと書いてある。
軍令部の文官共は素晴らしいの一言で済ませるかもしれないが、実際に戦場を駆け巡った者なら、これがどれだけ困難な事かよくわかる。
不可能だ。
このシャーロット・フォン・ジェニングスでさえ、新兵の時、初陣では脚が震えたものだ。
それをこの二等兵は初陣にしてこの戦功だ。
「面白い」
虚偽にしろ、事実にしろ本人に逢えば全てがわかる。
使えるなら使う。
こういう《矢》もあると何かと便利だからな。
そう、行ったまま帰らない《矢》は捨て駒として大いに役立つだろう。
「大佐。これよりダウスター領へ向かう。準備せよ」
「はっ! 了解しました」
戸惑う事なく敬礼し、すぐさま部屋を飛び出す大佐。
そうだ。
それでいい。
お前も《矢》にはなりたくないだろう?
「ふふふっ」
中将一人の部屋に静かな笑いがしばらく響いていた。
拝読ありがとうございます。




