ロードロス
ブレイブアーニムル8話 「ロードロス」
Aパート
暗がりに目を覚ました。本当に目を開けられているか疑いたくもなる程の暗黒。そう、暗黒という言葉が最も相応しいその空間は、きっとどんな光さえも届かない、地の果て?海の果て?将又……この世の果て?そんな言葉さえも思い浮かぶような密室空間。密室空間?思いを巡らせば、「密室」という状態はつまり、完全に空気の流れが外部と遮断された、孤なる空間。しかし、この世界が、この宇宙が密室でないという証明は誰にもできやしまい。例え全能なる神が存在したとて、その神もまた、白痴やも知れぬ。マトリョーシカとはこの世界の驕る有知者を揶揄するに最もシニカルな玩具だろう。それがまた、オモチャだというのが何とも。極上のワインに唸るに比する悦びを感じずにはいられまい。
そう言えば世界という単語もまた興味深い。こういった概念そのものを指す単語を生み出さす必要があったというのは、これまたどの時代にも無知者はいたものだ。世界ってなんだ?どこまでを指す単語だ?全ての人間の知識の総体?いや、僕らがまだ知りえぬこともすべて含めた、完全な単語なのだとするとそれは、つまり、どれだけの創造力を持っているのだろう。人間という生き物は。
カズトは声を発してみた。「フレイヤ?」だめだ。返事が無い。思い返してみる。……そうだ、あの黒マント。何だっけ、そう、グリムって呼ばれてた。アイツのミラクルムかなんなのか、急に出てきた扉にそれぞれ吸い込まれて……そうだ、ケイト!あいつ、ずっと目を覚まさないままでいて、そうかと思ったらいきなり光り出して!ああ、もうわけわかんねえ!
カズトは走った。ただ、暗闇。何も見えない、前に、下に何があるかも分からないまま、とにかく走った。
「ケイト!ハルカ!チヒロ!」
だめだ。いくら走っても、光が無い以上、自身が今、どのくらい走ったのかさえ分からない。歩数でも数えておけばよかったかとも思わなくもなかったが、それは全く意味を為さない行為だとすぐに思い捨てた。初めは走る内に何かに頭をぶつけないか心配だった。しかし、こうも地面以外の何にも接触しないとなると、ついには逆にそれが不安になった。例えば真っ暗闇のドーム球場。その真ん中に知らぬ間に置かれたかのような。何か、何でもいい。触れられる対象がなければ、これじゃ、まるで……
自分という固体が、本当に自分であるかさえ分からなくなってくる。
得も言えぬ恐怖。何だっていい。そうだ、地面。地面に触れ……あ、感触がない。自分が立っているこの場所さえも、その触感を錯覚していただけなのだろうか。ドーム球場じゃない。何もない虚空にふわふわと浮いているかのようだった。自分は?駄目だ。確かに自身の体に触れたという実感がまるで無い。
無い。無い。無い。無い。無い。
だめだ。飲まれる。恐怖に、闇に。飲まれる。少しでも気を抜けば壊れそうだ。ああ、おかしくなる。壊れる。ああ、ああああああああ!
「カズト!」
聞こえた。
これほどまでに心地の良い音はもう一生に二度と聞けないと思った。
聞きなれた、こえ。
ハルカの顔が見えた。完全な暗闇に、何故だかハルカがそこにいる、と分かる。
「大丈夫!?顔色が悪いわ」
どうやらハルカには俺のことが見えているらしい。別の意思が存在するという幸福感。自分は自分だと相対的に認識できる安息。それは何にも代えがたいものだと知った。
涙が出た。幼い頃に悪夢を見て、かと思えば、目を覚ましたらお母さんが隣にいてくれた感覚がそっと蘇った。
目を覚ました。熱かった。それだけはしっかりと覚えている。しかし、それ以外のことは何も覚えていない。体の中にまるで熱せられた金属を入れられ、それが灼々と内臓を燻すかのような苦しみ。今はもう既にその痛みは引いているが、なぜこうして今も生きているのかが不思議なほどの痛みだった。
いや、僕は本当に今、生きているのだろうか。
目を覚ましたというのはそれ以外の適当な表現が見当たらないから選ばれた単語であることは留意しておかなければいけない。
目を閉じても瞼を屠り虹彩へと入射することを休めない真っ白な光は、どこを向いてもそれが延々と果てしなく続いていくような空間を完全に埋め尽くしていた。まるで先が見えない。闇の対義としての光という単語は。これほどにまで加減を知らないそれは、それはもう、闇と同意なのではないだろうか。
ぎゅっと目を瞑ってでも遮ることのできない光は、ケイトを苦しめた。
空間。そう言ってみたはいいものの、果てしなく続くこの場所は地面さえも真っ白で、自分が座っているこの場所が果たして水平という概念の元に敷かれたものかさえ危ういこの場所は、それ以外の空間の不在性を示唆するものとして、恐怖に支配されたケイトに演繹的に十分な確証付けがなされたものであると言わねばならない。
そう。空間。対比的な存在が『無い』のならば、その単語自体の存在も危ういものとなる。つまり、そんな考えが、ケイトにしてみれば、ここがそもそも『空間』であるかどうかということを顧慮する要因となったのであり、それが当然として生きてきたことへの懐疑こそ、今こうやってケイトの存在の確証を揺るがす精神的不安要素と成り果て、それは次第に耐え難い、拭うことのできない恐怖へと無限に増殖する闇に、いや、この環境においては、光に、変貌していったのだった。
どこへ行っても光。どれだけ彼方を見遣っても光。そんな世界は人間にとっては全くもって手に余す代物なのだと痛感した。
いやだ。なに?これ。もう光はいらない。絶えることの無い光が、こんなにも苦しみを味わされるものならば。
それなら、
もういっそ。
ケイトは泣きたかった。しかしケイトの体はそれさえも許容することを勘案する余地すら持ち合わせていなかった。涙という水分が眼球に届くころには、ケイトの与り知らぬところで既に蒸発してしまっているのだ。
ケイトは叫びたかった。しかし、カラカラに乾いたケイトの喉はその希望を棄却した。ただ、咳と嗚咽だけがあざ笑うかのように発せられるのだった。
助けて。お兄ちゃん。ハルカ、チヒロ……助けてよ……
「ケイト」
心から救いを願った時、息絶える蛆虫に成り果てかけたその時、ケイトの耳に馴染みの声が響いた。
チヒロ。
強い光はチヒロの陰影さえも視覚的刺激として認識されなかった。しかし、確かに触れたその触感。それだけは脳が許容した唯一の刺激だった。
ハルカがカズトに触れた瞬間、カズトの視界から徐々に闇が消え去った。
そこはだだっ広い空間だった。まるで何もない、ただ一つの部屋。いや、視界を遮るものはなにもない平原かもしれない。その中にハルカと自分がいる。
「よかった……だいぶうなされていたのよ」
ハルカの優しい声に、思わず涙が溢れ、止めることができなかった。
「はるかぁ……うっ……ひっく……」
「ちょ、どうしたのカズト!?怖い夢でも見たの?」
まるで赤ん坊のように泣きじゃくるカズトに思わず吃驚してしまったハルカは、顔を腕で覆い、仰向けに鼻を啜る少年に対し、どのような対応を取るのが正解なのか、全くもって判断がつかなかった。
思案の結果、ハルカはそっとカズトの側に、ただ、ぺたんと座り込んだ。
「もう、わけわかんねえくらい怖かった……ほんとに、もう、わけわかんねえよ……」
「うん」
カズトは次々と夢の中での出来事をハルカに語った。ハルカはそれに対し、『うん』という相槌を繰り返したが、彼女の最も単純なその返答にカズトは安らぎを感じるほどの効力を実際に有した。だから、少年が平静を取り戻すまでの時間は、そう長く必要とはしなかったのだ。
「ごめん。変なとこ見せちまったな。もう大丈夫。ありがとな、ハルカ」
泣き腫らした真っ赤な目を結んで微笑みかけた少年は、素直に少女へと感謝を表した。
「どういたしまして。って言っても、私は何にもしてないけどね」
「いや、それで良かったんだ。……ところで、ここって……」
二人は辺りを見渡した。何もない、空間を。
「分からないの。ただ、覚えているのはあのグリムっていう子の出した扉に吸い込まれた後、目を覚ましたらここにいたってこと。それに、ケイトとチヒロどころか、アクアンもフレイヤも見当たらないの。確かに一緒に吸い込まれた筈なんだけど……」
その時のことを思い出してみる。確かに、あいつの出した扉は4つだった。そこに4人と、3人のアーニムルは吸い込まれた。とはいっても、シンクロ状態で吸い込まれ、今はシンクロ状態が解けてしまっているので、アーニムル達がいないということに当然の疑問が浮かんでいるという塩梅だ。
「そう……か。それに、ここから出るには……」
カズトの上げた顔の先には果てしなく続く空間。の中に、ぽつんと扉がある。奥行きは無く、まるで張りぼてがそこに立っているかのような、扉の様相をした何かがそこにある。
「あれをくぐれば元の世界に戻れるのかな」
「分からない……でも、ずっとこんな不思議な空間にいるのは得策ではないかも。それなら、先に進んでみましょう」
少年と少女は決意を固め、扉に手をかけた。
「行くぞ……」
ノブを回して、二人はその先へと進んでいった。
扉の向こうは、元居た世界。ではなく、また新たな、だだっ広い空間だった。
ただ、先ほどと違うのはその空間に、既に人がいるということだ。彼はこちらに気づくと手に取っていた書物を閉じ、微笑みかけた。
「お、やっと来てくれた。まあでも、これでも早い方かな」
見えない地べたに座り込んでいた彼は、冷静に、しかしきっと彼らの訪問を長い間待ちわびていたかのような、アルカイックな笑みを彼らに向けたのだった。
「待ってた……って?」
そう。彼のその態度はまるで旧友に再会したかのようなものだった。しかし、カズトとハルカにしてみれば、不思議な空間に初対面の不思議な男。何が何だか分かったもんじゃない。
「ああ、まあ、そうなるよね。いいんだ。気にしないでおくれ。まあ、性分でね。なにせずっとこんなしみったれた場所にいるだろう?会話のできる相手なんて僕にとっては心から焦がれた待ち人なのさ。悪いけど、ちょっと僕の話に付き合ってもらっていいかな」
男は痩せ細っていた。髪は長く、無造作に伸びきっており、白のカッターシャツの背は黒い髪で埋め尽くされている。
「アンタ……一体何者なんだ……?」
カズトは訝し気に訊ねた。初対面で馴れ馴れしく対応する人間は苦手ではなく、むしろ好感触を持つカズトだったが、それは自分の一回り程年長の人間となると別だった。彼は座っているので正確には分からないが、彼の背丈はざっと見積もっても小学5年生のカズトよりも、頭一つ分は大きいのだ。
「何者……ね。一応オータ・サムって名前はあるよ。便宜上」
そう言った彼の表情はどこか物寂し気だった。しかし、明らかに奇妙な名前を告げた彼の表情は、冗談から発せられたものではないと高確率でみなが挙手するほどの微々たる笑みを浮かべた程度のものだった。それがカズトとハルカを口籠らせた。
「えと、じゃあ……一応確認だけど、太田サンってことでいい?」
これがジョークだとすると、最も退屈な返答をしてしまったのではないかという懸念を残したまま、しかしそれ以外の返答を瞬時に思いつけなかったがために、カズトはそんな問いを投げかけた。
すると彼はわざとらしいほど残念そうに、
「おいおい、やめてくれよそんな堅苦しい呼び方。サムでいいよ。カズト。ハルカ」
と、そう言うのだった。
「じゃあ、サム」
「なんだい」
ハルカが口火を切った。
「ここは、いったいどこなの?私たちの元いた世界とは別の世界なのかしら」
ハルカの問いにサムは余裕を持った微笑みを浮かべたまま、少しの間をおいて答えた。
「ハルカのことだ。自分で考えてみた推察はあるんだろう?まずはそれを聞かせておくれよ。ほら、僕ばっかり喋ったってつまらないじゃないか」
分からない。その男の目的、存在、腹の中が。まるで掴みどころのない蒸気を相手にしているようだった。確かにそこに存在はする。姿も見える。だが、その視覚的刺激をさえ疑ってしまうかのような。それでもハルカはそれを顔に出さぬよう努めてはいるのだった。
「そう、ね。あなたがどこまで私たちのことを知っているのか分からない。けど、まず私たちはあの扉に吸い込まれてこの世界に来た。あれはきっとグリムのミラクルム……だと思う。でも、そこが引っかかるの。ミラクルムで誰かを別の世界に引きずり込むなんて……あっ」
ハルカは自身の文言に何かのヒントを得た。サムはそれに嬉しそうに笑んでいる。
「カズト……そう。カズトとケイトだって、方法は違うけど、違う世界に転移することができた。でも、だからと言って、ここがカズトたちの元いた世界……ではないわよね。さすがに。……うーん、やっぱりなにかがひっかかるのよね……」
「まあ、この段階ではそこまでが限界かな」
サムはやはり少し寂しそうな笑みを浮かべ、言った。
「なあ、分かってんなら教えてくれよ。俺たち、この世界のこととかビーストのこととか、もう分かんねえことだらけでさ。頼むよサム」
カズトの懇願にもサムは、物寂しそうな笑みを浮かべ、こう言うだけだった。
「ごめんな、カズト」
悪意のないその表情は、カズトのそれ以上の追求の意思を削いだ。
「それよりも、もっと二人と話がしたいな。俺は」
「話ったって、俺たちこんなわけわかんねえとこに来ちまって、さっさとグリムを止めねえといけないってのに、そんな悠長なことやってらんねえんだよ。アンタだって分かってんだろ?」
カズトは息を荒げた。しかし、サムはやはり優しく笑むだけだった。それが一層カズトを困惑させるのだった。
「もういい!アンタと話してる時間なんて無駄だ。俺はケイトを探しに行く」
「待って、カズト」
ハルカがカズトを引き留める。
「私たちがこの世界に紛れ込んだってことは、ケイトとチヒロももしかすると、こっちの世界にいるのかもしれないわ」
カズトはハルカのその言葉にはっとした。
「だとしたら、二人だって俺みたいに悪夢にうなされているかも知れないじゃんか……。あの言葉にできねえ恐怖に、二人も晒されているかもしれないじゃんか!だったら尚更早く二人を探さねえと!」
「だから落ち着いてってば!」
カズトは聞いたことの無いような叫びを聞いた。ハルカが声を荒げたのだ。その事実に、自分がいかに彼女を困らせていたのかということを知った。
「……ごめん」
「こちらこそ……急に大声出してごめんなさい。でも、探すって言っても、この訳の分からない世界で考えなしに行動するのは危険よ。だったら、唯一の手掛かりであるサムの指示に従ってみてもいいんじゃないかしら。ほら、敵意はなさそうじゃない」
ハルカはカズトを宥める様に言い、サムに顔を向けた。
「ねえサム。あなたが読んでいる本って何について書かれているの?」
サムはそっと目を閉じ、口を固く結んだ。
「それって面白い?」
「ああ、最高に面白いよ。なんたってそれ以外何もないだろう?この世界には。これが唯一の、僕がこの世界に留まる理由だね」
サムは笑顔で応えた。
「でも、それって一冊しかないでしょ?すぐに読み終わっちゃうんじゃないかしら?」
「いいや。いい本って言うのは何度読んでも面白いものさ。読む度に新しい発見がある。まるで、知らない間に新しいページが付け加えられているみたいにね」
「そうね。私も賛同するわ。ところで……サム。アクアンはどこに行ったか知らないかしら?」
「アクアンはこの世界には来れやしないさ。勿論、フレイヤもね」
「それはどうして?アーニムルだから?」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、チヒロとケイトはこの世界のどこかにいる?」
「うーん、難しい質問だね。いると言えばいるし、いないと言えばいない。そんな感じ?」
ハルカの立て続けの質問、それにサムの煮え切らない返答に、カズトは内心困惑していた。声を荒げてまで自分を制し、結果これを行いがための手段としてそれが採用されたことに、何の価値も見いだせなかったためである。
「じゃあ、もう一度聞くわ。この世界はいったいなんなの?」
サムは静かに首を横に振るだけだった。
「……なあ、やっぱり……」
「なんとなく分かってきたかも、カズト」
カズトの諦観的意見を遮り、ハルカはぱっと顔を明らかにし、微笑んだ。
「分かったって……何が?」
「サムはきっと、この世界に関することをあまり多く語ることができない。だからこそ、たくさんの会話をしていく中で、彼の言葉の端々に散りばめられたヒントから、真実を導き出さなければならない。そうでしょ?」
サムはハルカの推察に首肯することは無かった。しかし、その代わりに、ただにっこりとほほ笑んだ。
「さて、もうじきかな……ほら、二人のお待ちかねだ!」
サムは嬉しそうにそう言うと、いつからそこにあったのか、カズトたちがこの部屋に入ってきたときのものと似た扉が目の前にあった。
そして、ゆっくりとそれは開き、ケイトとチヒロが姿を現した。
「ケイト!」
「チヒロ!」
ふたりの兄と姉は駆け出し、弟と妹を抱きしめた。
「ちょ、痛いよお兄ちゃん」
「お姉ちゃんまで、ど、どうしちゃったのよ!」
「ケイト、無事だったか?お前いきなり体が光ってさ、ぱああってさ!とにかく大変だったんだぞ!?」
「うん、何となくしか覚えてないんだけど、気が付いたらチヒロが介抱してくれてて、二人でここに辿り着いたんだけど……あの人は?」
ケイトは多少の怪訝を残して4人をにこやかに見守る少年とも青年ともとれる男を認識した。
「僕はオータ・サム。サムって呼んでくれ。ケイト。チヒロ」
先んじて自分の名を口に出されたケイトは少しぎょっとした。
「さて、と」
サムはぶっきらぼうに立ち上がった。すらりとした長身はやはり彼らの頭一つ分のたっぱがあった。しかし、妙に馴れ馴れしい口調からだろうか、敵意の類の意思は微塵も感じられないのである。
「こうやって出会えたのも何かの縁だ。さあさあ、たくさんお話しをしようじゃないか」
Bパート
ノイズキャンセリング。と言えば察しが付く人もいるだろう。音の位相の真逆の音を鳴らすことで無音を作り出す技術である。サムに課された業とも言うべき特性はこれを彼の神経回路に張り巡らせられていると思ってくれればいい。彼の耳に入る特定の語群。彼が発しようとする特定の語群は音という伝達手段を介在している以上、放棄せざるを得ない手段と化す。その事実の伝達さえも特定の事象に含まれるということも、彼自身は理解していた。だからこそ彼の意思の伝達は気づきのゲームであるということに気づくかどうかということから始まる。ルールに気づいた時点でそのゲームには勝利したかのように錯覚するかもしれないが、よしんばそれに気づいたとして、それに確証が得られる自信家は実のところそう多くは無いのだ。仮定としてゲームを進めることはできるにしても、長引けば長引くほど、自分以外の他者の存在による不安感の自傷が主体を正解から遠ざける。
しかし、彼は確信していた。ハルカとケイト。聡明なる二人の少年少女ならば、これは二人というのが非常に重要なテーゼなのではあるが、きっと正答を導きだしてくれると、分かっていた。
彼の予想はずばり的中した。ハルカの感じた正解への糸口はケイトという秀才によって完全にそれは真実へと近づいたのである。初めは他愛のない会話から。次第に彼らの真に知りたい根幹へと実にうまくこのゲームを攻略したのである。
「それじゃあ、サム。グリムって知っている?」
「勿論。君たちはあの子のことをどう思っている?」
サムからの質問。これは彼がこの話題に関する最大限のヒントを与えようとしている証拠だった。
「どうもこうもないぜ。いきなり俺たちに襲い掛かってきたんだからよ!俺たちあいつに殺される寸前だったんだ」
カズトはいきり立った。
「あっはは!そりゃそうだ!挨拶も無しにあれはさすがにね!」
『あれ』という言語に4人はヒントを得る。彼は少なくともカズトたちがグリムにどんな目に会わされたかということを知っている。と、このようにうまくゲームを進めていくのである。
「グリムは……人間じゃないの?」
ケイトはグリムの言葉を反芻し、問うた。
「人間さ。パートナーアーニムルだっているだろう」
「グリムはビーストの味方なのか?そもそもビーストって何なんだ?」
「意思を持った異形。まあ、簡単に言えばこうだね。その定義で言えばグリムもビーストではないさ。あの子は人間としての外見を持っているからね。それに、目的を同じとした生命体は時に力を合わせるだろう?ビーストと人間だって同じさ。ところで」
サムは言葉を止めた。それにみなが注目する。
「君たちはビーストを滅ぼすつもりかい?」
サムは今までの優し気な微笑みも、寂しそうな笑みもなく、ただ真剣な顔で、そう問うた。
「滅ぼす……なんて思ってないけど……」
「ビーストは私たちの故郷を滅ぼしたのよ!?それに他の国でもやつらは人間の敵だった。そうしなければいけないのなら……私はそうしなきゃいけないのも無理はないと思うわ」
ケイトがたじろぐ一方で、チヒロは多少の怒りを含み言った。
「王国を滅ぼしたのはエナーハイだ。その表現には語弊があるよ。チヒロ」
「そんなの一緒よ!ビーストに国が滅ぼされたことには変わりないわ!」
「じゃあ、例えばエナーハイが他のビーストたちと関係なく、単独に王国を攻め、その結果王国が滅ぼされたのだとしたら?それでも他のビーストたちにも同じ敵意を向けるのかい?」
チヒロは何も言えなかった。それが悔しくて、少し拗ねたように頬を膨らませた。
「ごめん、責めるつもりはなかったんだけどね。あくまで可能性の話だよ」
サムはそう言って、目を背けた。
「君たちの使命はこの世界を救うこと。それは断じて間違いではない。ただ、その方法をたった一つと決め込まない方がいいし、自分たちの行動が常に正しいだなんて思わない方がいい。いつだって人は可能性の中で生きているんだ。選び取られたもの、そうでないもの……。君たち4人は……」
サムはそこで言葉を切った。
「うん、そろそろ戻った方がいいね。君たちの世界に。アーニムル達も心配してるよ。それじゃあ、あいつのことよろしく頼むよ」
サムはそう言うと、ある方向を指さした。いつからそこにあったのだろう。観音開きの小さな扉がそこにあった。
「……なあ、サム。俺、正直アンタのことよく分かんないし、ここが何なのかも全然分かんなかったけどさ、なんか大事なこと聞いた気がする。ありがとな」
カズトはにこっとサムに微笑むと、サムも目を糸にして微笑んだ。
「おっ、やっと笑いかけてくれたな?そりゃよかった。カズトの心の隅っこにでも俺が生きてられるなら、そりゃあ嬉しいもんだ。まあ、分かんないことがあったらケイトに聞けばいいさ。いつだってカズトの支えになってくれるよ」
サムはケイトにウインクした。
「ハルカもな。あんま気張りすぎるなよ。甘えたいときは周りにみんながいるさ。それにチヒロ」
依然むすっとしているチヒロは、横目にサムを見遣った。
「ハルカをよろしくな」
「言われなくても分かってるわよ!」
「あははっ、そりゃそうだったな!」
サムの屈託のない笑みに、思わずチヒロも相好を崩した。
「いいバディが二つ。お前たちは一人じゃない。二人でもなければ四人でもない。それさえ覚えておいてくれれば、この世界に来た意味があるってもんさ」
サムの言葉に4人は頷いた。他愛のないと思われる、いや、本当にそうだったのかも知れない会話を一しきり続けたところで、一行は腰を上げた。そしてやはり張りぼてのような扉に向かい、カズトは扉に手をかけ、半身になって別れの言葉を最後にした。
「じゃあな、サム」
「バイバイ」
「また、どこかで」
「じゃあね」
思い思いの挨拶を告げ、扉は元からそこになかったかのように消えた。
そして、その空間は元の静けさを取り戻した。
何の音も聞こえない、簡素で退屈な空間。地べたに腰を落とし、本を手にして呟いた。
「愛してるよ。みんな」
「おーい、カズトォォーーー!」
「チヒローーー!どこ行っちまったんだーい?」
「ハルカぁーー!私を置いてどっか行かないでよぉーー!」
三人のアーニムルは既に暗くなってしまった砂漠の真ん中で、とぼとぼとパートナーを求め闇夜に叫んでいた。
アクアンがちびちびと歩を進め、不意に振り向くと、いつの間にやら他の二人が見えなくなっていた。
「は!?ちょっと、アンタたちまでどこ行っちゃったのよ!ちょっとーーー!」
アクアンは泣きべそ半分で代わり映えのない砂漠を引き返した。
「はぁ……俺っちたち、カズトに見捨てられちまったのかなぁ……」
「んなことないでしょ。あのグリムってやつにどっか連れてかれちまったんだって」
「でも俺っちたちがいないとカズトたち、ビーストに襲われでもしたらどうしようもないんじゃねえか?」
「そうかもね。せめてこの近くにいるかどうかさえ分かればねえ」
はぁ、と二人同時に溜め息をついたところに、アクアンが走って戻ってきた。
「はぁ、はぁ、あんたたちね!ただでさえちっちゃいんだから、そんな縮こまってたらいくらこんな広い視界でも見えなくなっちゃうじゃないのよ!」
「そうは言ってもねえ。……ん?」
ストルムは何かを感じたのか、目を見開いた。
「どうしたのよ?」
「感じる……チヒロの波長……ビビッと感じるよ!」
ストルムは立ち上がり、駆け出した。
「マジか!?俺っちも!」
「ちょっと!今……走ってきたとこなんだから……待ちなさいよぉ!!」
二人にぐんぐんと差をつけられながらも、アクアンはへとへとになり二人に追いつくと、そこには待ち焦がれた4人が。いや、アクアンの目にはもはやきょろきょろと辺りを見渡すハルカしか目に入っていなかった。どこからか湧いて出る力でハルカに駆け出した。
「ハルカぁぁぁぁぁ!!!」
「アクア……んぐっ!」
声の聞こえる方を振り向くと同時に顔面にダイブしたアクアンのせいで、ハルカは勢いよく後方へ倒れこんだ。地面が砂でよかった。
「アーニムルブレイブ!アクアン!シンクロナイゼーション!」
再会を喜んだ後、すっかり陽も暮れた砂漠の真ん中で今日の寝床を如何とするか相談した結果、ハルカがミラクルムで拵えた小さなテントに皆で寝ることにした。一晩中のマナトム消費はアクアンとシンクロすることによって賄うという考えだった……が、
「私は……この格好で寝なきゃいけないのね……」
『わたしはハルカと一緒で満足よ♪』
とほほ、と、小さなテントに7人仲良く眠りにつくのだった。
4人は個々に目を閉じながら考えた。サムの言葉の端々を記憶が鮮明なうちに、噛み砕き、解釈していった。
思案の中に微睡む幸福を感じ、いつの間にか、今はただ眠るのだった。
END