プラトニック・アイディオロギー
ブレイブアーニムル6話 「プラトニック・アイディオロギー」
『試してみるか?』
ホーキンスのその言葉は、彼がアーニムルという生命体の存在、意義、概念を理解しているということを代弁するに等しく、また、少年たちが置かれている状況に彼が手を差し伸ばしているということを裏付けるに足る発言であった。それは凡そ二人の不審という観点から言えば、その大概の部分の自然消滅という意味でもあった。しかしそれはまた、好奇心の、不完全な証明の利己的自己完結に対する優勢という幼さゆえの危うさをも孕んだ頽虧の一面でもあった。
少年の掌に丁度収まるほどの小さな像は、エヴィタナトゥラ王国に鎮座していたフレイヤの像よりも一回りも二回りも小さいものだった。
ホーキンスの言葉に真っ先に反応したのは、ケイトだった。
ゆっくりと、その像に近づく。そしてゆっくりと目を閉じた。
「先に言っておくが……」
「分かってます。アーニムルに選ばれなかった者はアーニムルの怒りを買うってことですよね?」
ケイトは先に続くホーキンスの忠告を制止した。分かっている。今までのカズト、ハルカを見てきたんだ。二人とも激しい炎や渦中に自らの身を賭してアーニムルと絆を結んだんだ。……僕だって……それくらいの覚悟はある。僕が……お兄ちゃんの力になるんだ!
ゆっくりと それに手を伸ばした。
ドクン。
突発的に、脳内に響く音があった。
何?
これは音?それとも脳がそう錯覚させているだけの、別の刺戟?
不快というわけではないが、軽い目眩に足がよろける。
「大丈夫?ケイト!?」
チヒロが今にも倒れこみそうなケイトの体を支えた。その足取りは自分でも気づかない内におぼつかないものになっていた。まるで手足の指が三本ずつになったように……
不思議な感覚だった。ずっと起きているのに、たった今眠りから覚めたかのような、そんな感覚。一瞬だけ眠って、起きて、寝ぼけていたようだ。
「ねえ、ケイト、大丈夫!?」
「どうしたんじゃ!?まさか触りもせんでアーニムルに魂でも奪われたんかの!?」
チヒロは支えるケイトの両肩を叩いた。すると生み出づる不安を薙ぎ払うかように、ケイトはすくっと立ち上がり、像を見つめ答えた。
「大丈夫。僕は平気」
「よかった……もうこれ以上心配させないでよ……」
チヒロは涙に瞳を潤した声で振り絞るように言った。
「ごめん、でも、今ので分かった」
ケイトがくるりと振り向いて続けた。
「……僕はこのアーニムルのパートナーにはなれない」
「……どういうこと……?」
「なんかね、うまく説明できないんだけど、僕はこのアーニムルのパートナーにふさわしくないっていうか、ああ、おんなじこと言っちゃってるんだけど、ほんとにそれ以外の表現がないって言うか、その……」
ケイトがよく分からないハンドジェスチャーを交えながら説明した。チヒロにとって、ケイトがこんなにも蒙昧な口調で物事を話すのを見るのは初めてだった。しかし、自信なさげなケイトはすぐにその影を潜めた。ケイトはチヒロを見つめ、続けた。
「そしてこれは第六感的な話なんだけど、このアーニムルのパートナーは……チヒロ、君だよ」
その口ぶりは、まっすぐとチヒロを見据えた、自信に満ちたものだった。
Aパート
「私が……このアーニムルのパートナー……?」
ケイトのこの突飛な発言は、普段の聡明で確証のある根拠の上に導き出されたものではなく、決して信憑性の高いものとは思われなかった。だからこそその発言はチヒロにとっては単に怒りを煽動する戯言にしか捉えることはできなかった。
「でも、なんだってそんなことケイトに分かるのよ!もう分かってるでしょ?私、お姉ちゃんがあいつに連れていかれて、もうどうしたらいいか全然分かんない!お願いだからそんなてきとうな言葉で私を困惑させないで!」
チヒロはその目を見つめるケイトの視線から目を逸らし、吐き捨てるかのように言い放ち、うずくまって囁くように呟いた。
「これ以上……もう、やだよ……」
「……ごめん、確かにそうだよね。いきなり変なこと言ってごめん。でも、このアーニムルと僕はパートナーにはなれない。これだけは分かってほしい」
そう言うとケイトはアーニムルの像をさっと手に掴んだ。
「!?」
チヒロとホーキンスはケイトのあまりの大胆な行動に驚きを隠せなかった。命を落とす危険さえ疑いのあるアーニムルの選定に対し、臆面もなく取った行動は確かに二人を震撼させた。が、しかしその場には、何の変化をも訪れる予兆さえ起こりえなかった。
そしてケイトは困ったように『ね?』と言わんばかりの笑みを見せた。
「なんと肝の座ったな子じゃ……」
「これで分かったでしょ?僕はこのアーニムルに認められることは無い。だって……、いや、とりあえずどうにかして二人を救出する策を練らなくっちゃ」
ケイトは何か言いかけて話題を逸らした。それくらい私にだって分かる。続く言葉はきっと『このアーニムルのパートナーはチヒロだから』でしょ?気を遣うならもっと上手にしてよ。
「ふむむ、こう言っちゃあまた不安にさせてしまうが、裁判が始まる前に二人を救出せにゃあ、手遅れになってしまうかも知れんて……」
「それってつまり……」
「うむ。ペトが倒れた今、グリグスの暴走を止められる者はそう多くはおるまいて。何しろ古代ミラクルム崇拝のこの国における最も敬虔な崇拝者がグリグスじゃ。他の官民できやつに異を唱えられる者など……」
ホーキンスは言い淀んだ。
「僕らに残された時間はそう多くはないってことだね。……よし、ホーキンスさん、僕らに力を貸してください」
そういうとケイトはこれから取る行動を説明し始めた。
チヒロは漠とした頭でそれを聞いていた。『ケイトってすごいな。こんな状況で作戦思いついちゃうんだもん。私なんかとは大違い。ケイトに足りないところはカズトが補って、カズトに足りないところをケイトが補ってる。そんな信頼関係ができあがってるんだ。……でも……私は……?お姉ちゃんの……ただのお荷物?』
デザトニアン公国の時も、今回も。お姉ちゃんがいないと私は……
……なんにもない。
× × ×
「暫くここで待て。貴様らの審判の準備を行う」
カズトたち4人が連れられたのは古い教会のような建物だった。その中にある狭い木製の小屋のようなものへ4人は放り込まれた。グリグスが扉を閉めると、その小屋の中は小さな光を残すのみの、ほとんどが暗闇に支配された空間となった。
足音が遠ざかるのを確認し、ハルカはカズトに小さな声で囁いた。。
「カズト大丈夫?今治療を……」
そう言うとハルカは両手をカズトの喉元に当て、短い呪文を唱えた。
暖かな光に包まれ、苦し気なカズトの表情は次第に緩んでいった。
「あ……あっ……ケホッケホッ!ああ、ありがとな、ハルカ。マジで一生息ができねえと思った。俺はもう大丈夫だから、フレイヤを治してやってくれねえか?」
ハルカはカズトの言葉に頷くと、カズトにかけたミラクルムと同じようにフレイヤのこめかみに両手を当てた。
「サンキュー、ハルカ。にしてもあんにゃろ、すっげえスピードとパワーだったぜ……。ただの人間にやられちまうなんてよ。油断しすぎちまったな」
フレイヤは悔しそうに歯を鳴らし、唸ってみせた。
「ただの人間……っていうレベルじゃなかったわ。あの人。あの尋常じゃない速さはミラクルムに違いないわ」
フレイヤの言葉にハルカが反応した。
「でも……自身の体に流れるマナトムをあそこまで一気に爆発的に消費するだなんて、そんな無茶なことをしてたら、彼の神経はとっくにズタズタな筈……」
ハルカが言い終えるや否や、小屋の中を照らしていた唯一の小さな光はみるみる肥大し、辺りを十分な光で照らしだした。
4畳半といった広さだろうか。そんな狭い部屋の四面の内一面は、格子状の木でできており、向こう側に続く部屋を見わたすことができた。
そして、格子の向こう側の扉が開き、入ってきたのは黒衣を纏った長身痩躯の男だった。
「よいしょっと。お邪魔するぜ。俺はハイラス。まあこれでも一応この国で一番偉―い神父をやってんだわ。よろしくな、罪人候補ちゃんたち」
その男は言いながら設置された椅子にドサッと腰を下ろし、真っ先に取り出した煙草に火をかけた。中央で分けた前髪から覗くたれ目と無精ひげは、ものぐさそのものだ。
「あー、まあ君たちは教皇ペト様を暗殺しようと試みたわけだが、何か言いたいことはあるかい?」
口から煙を吐き、まるでマニュアルを読むかのような口調で問いかけた。
「俺たちはそんなことしてねえ!何かの間違いだっつうの!」
カズトはすぐさまムキになって反論した。しかしカズトの威勢はハイラスの耳をそのまま通り抜けていったようだ。
「あ、そう。そりゃお宅ら全員そうってことでいいかな。……って、おー、お宅たち珍しい生き物だね!何?人間の言葉分かるの?」
フレイヤとアクアンを見ると、その男の重力に逆らうことを忘れた目が心なしかほんの少し動いた気がした。
「てめーみたいなやつと話すことなんてなんもねえやい。さっさとここから出せよ!」
「おおー!すごいすごい。いやー、世の中変なこともあるもんだねぇ。まあ、別に出してあげてもいいんだけどさぁ、俺はお宅たちから真実を聞き出さなきゃいけないわけ。めんどくせえけど。んで?じゃあ君らは何でこんなとこに連れてこられたわけ?」
ハイラスはニヤニヤと、まるで既に答えを知っているにも関わらず質問をするかのような、そんな態度で問いかけた。
「だから知らねえつってんんじゃんかよ!」
「あー、あー、お宅はうるさいからもう黙ってていいよ」
ハイラスは指を鳴らすと、突如現れた大きなバッテンの書かれたシールがカズトの口に勢いよく張りついた。
「んー!、んー!」
声にならない声が溢れ出ている。それを見たフレイヤは一生懸命それを剥がそうとするが、非情にも唇周りの皮膚が伸びるばかりで、カズトは寧ろその痛みに涙目になっている。
「私たちは本当にカフェで寛いでいただけなんです。そこへいきなり巨大なカラスがお店を襲撃したから、ビーストだと思って応戦したんです。するとあのグリグスって男がいきなり私たちに襲いかかってきたんです」
ハルカは冷静に、しかし少しの焦りを隠せずに説明した。
「ふーん……なるほどねぇ……」
ハイラスは何かを考えているのか、それとも単にハルカの話を聞き流しているのか。全く読めないその目は、次いでアクアンをひたすら見つめていた。
「……何よ?」
たまらずアクアンは腕を組んだまま、喧嘩腰に問うた。
「そっちのお宅。そして赤い方のお宅。お宅達、このちびっ子たちの使い魔か?」
アクアンはきょとんとして聞き返した。
「ハァ?使い魔?何それ。そんなんじゃなくて、私はアーニムルで、私とハルカはパートナー。お分かり?」
「アーニムル……ねぇ……。ますます分かんなくなってきたぜ?グリちゃん?」
ハイラスのその言葉に反応し、暗闇にすっと姿を現したのは、グリグスだった。
「公務中だ。その呼び名は止めろ。ハイラス卿」
腕を組み、斜にハルカたちを睨む形でグリグスがこちらを見遣る。
「ま、ここらで話を纏めようか。まずお宅らはそのアーニムルとかいう生き物を連れて街を歩き回ってた。そこに運悪くペト様が毒に倒れたんだけど、目撃情報によるとそいつはどうやら人間の形をしていなかったらしい。だからグリちゃん……いや、グリグス特別高等公安長官が試しに使い魔のカラスでお宅らを牽制した。するとお宅らは不思議なミラクルムでそれを撃破した。で、それを不審に思ったグリグス長官は、近代ミラクルムの行使という名目でお宅らを捕縛しようとしたが、素直に命令に従わなかったお宅らは実力行使でここまで連れてこられた。ってことでいいかい?」
「異論はない」
ハイラスの説明に、間髪入れずに返答するグリグス。
その一方でぽかんとしているのはハルカとアクアンだった。
「ちょっと待って。それじゃあ、私たちがここまで連れてこられたのって……」
「ただの早とちりじゃないーーー!!!」
アクアンの大声が小屋内に響き渡った。思わず耳を覆うハイラス。と、同時に指を鳴らすと、カズトのばってんシールがべりっと剥がれ消えた。残念ながらカズトの口の周りに赤い腫れを残して。
「しかしまだこいつらがペト様の暗殺を試みたという懸念は払拭されていないだろう」
「それがね、ペト様が倒れた時にはまだこの子達、入国すらしてないんだよね、グリちゃん」
気まずい無言が小屋の中に流れた。ハイラスはニヤニヤとグリグスを見ている。
「しかし……こいつらがアーニムルとやらと合体したことは近代ミラクルムの行使に当たるだろう。罪人であることに変わりはない!」
グリグスは声を荒げ、冷徹といった彼の印象を覆すかのように焦りを見せ始めていた。
「いやぁ、合体ってグリちゃん……まだそのアーニムルってのが何者か分かんない以上、それがミラクルム行使なのかどうかは断定できないよね。ビーストってのも気になるし……。それに、近代ミラクルムの行使くらいで被告人に傷害を与えるのはどうかと思うよ、ぼかあ」
「ええい!やかましい!こうしてはおれん。それならば一刻も早く真犯人を見つけ出さなければ」
そう言ってグリグスは大股で扉に近づき開くと、そこには毛むくじゃらの人間とも判別がつかぬモノがあった、もとい立っていた。
「なっ!」
グリグスは一瞬怯んだものの、すぐに冷静さを取り戻し、
「こんなところに何の用だ。ドクターホーキンス」
その毛むくじゃらは、探せばやっと見える程の目をぱちっと開き、グリグスを見つめた。
「おっほほ。アーニムルについてはわたしから説明しようて。のう?ケイト、チヒロ?」
そう言うと、ホーキンスの毛に隠れる背中から、二人の見慣れた弟と妹がひょこっと顔を出した。
「お兄ちゃん!」
「お姉ちゃん!」
兄と姉の安全を確認すると、二人は泣き出しそうな顔になっていた。
「ケイト!」
「チヒロ!」
互いの間には格子に二人の審問官がいるにもかかわらず、二人もまた同時に、顔を輝かせたのだった。そしてホーキンスを介することでグリグスは漸くカズトたちの声に耳を傾けた。そして、アーニムルとビーストの存在、エヴィタナトゥラ王国の惨劇、デザトニアン公国での出来事を3人に向けて丁寧に説明したのだった。
「ビーストにアーニムル……」
「俄には信じがたいが……」
二人の凸凹コンビも戸惑った様子だ。
「しかし、現にこうしてフレイヤにアクアンというアーニムルが人間とシンクロしているということは疑いようのない事実だ。となると、我々の敵は……」
「ビースト、ってことかな」
グリグスは相変わらず斜にハイラスを捉え、ハイラスもまた左手で頬杖を突きながら、右後ろのグリグスを見つめた。
「そうです。ビーストを野放しにしておくと、エヴィタナトゥラ王国のような犠牲が繰り返される。だから私たちもそのビースト退治に協力します」
ハルカはこの国に来た本来の目的、他国に協力を要請するという目的を打診する機会を見逃さなかった。
「その必要はない。これはラシガム帝国の問題だ。部外者を危険な目に遭わせるわけにはいかない。貴様らは疾く安全な場所へ避難するがいい」
グリグスはそう言うとホーキンスたちを視界に入れることなく横切り、小屋から出た。
はぁぁ、と長い溜息を吐いたのはハイラスだった。
「まったく強情だねぇ、グリちゃんは。キミ達には分かんないかもしれないけど、めちゃくちゃありがたく思ってるよ、彼。でもそれと同時に申しわけない気持ちが勝ってる。特にそこのボクと赤トカゲくんにはね」
「赤トカゲって俺っちのことか!?俺っちはトカゲじゃなくて竜だっ!」
フレイヤがグルルとすごんでみせるが、ハイラスはニヤニヤとしたまま怯む様子は微塵もない。
一方でカズトはグリグスに握られた自身の首元にそっと触れた。
「……そっか。」
「ま、我が強いからね、周りが見えなくなることもあるんだ。そんな彼に注意をして素直に聞き入れるのはペト様だけだったんだけどね。今回のことにしてもだいぶ落ち込んでると思うからさ、許してやってくんないかな」
今度は口元を緩めることなくカズトにそう告げた。
カズトは、ハイラスの言葉にそっと目を伏せた。その手はまだ首元から離れることは無かった。
「ぐああああああっっっ!!」
突如叫び声が小屋に響いた。外からだ。その声に小屋の中にいた全員に緊張が走る。
「グリちゃん!?」
ハイラスは扉をふっとばさんがごとき速さで小屋を飛び出した。
Bパート
ハイラスに続いてカズトたちも小屋を出た。カズトたちの目に映ったのは、俯せになり胸を押さえてもがき苦しんでいるグリグスの姿だった。そのすぐ横ではハイラスが肩をゆすっている。
「どうしたグリちゃん!何があった!?」
「ぐっ……俺にも……分からん……!いきなり足元から激痛が……!」
グリグスは何とか声を振り絞っている。それを聞いたハイラスは、瞬時に辺りの床に目を遣り、短い詠唱を唱えた。
「そこかっ!」
ハイラスが人差し指を勢いよく突き出すと、光の球が放出された。煌々と輝くエネルギー弾は床に命中し天をも穿たん柱となった。
命中した床はウネウネと動きをつけた。その『床』はみるみる大きくなり、大人の男大の大きさになると、『そいつ』は姿を現した。
「貴様……何者だ!」
ハイラスの問いに、『そいつ』は親指を顎下、人差し指を右頬、中指を下唇に当て、小指をツンと立たせ、左手を腹に組み、その先に右ひじを乗せて答えた。
「無粋なオトコは嫌いよ。人に名前を訊ねる時はまず自分が名乗らないとね。顔は好みだけどザンネンね」
色白の皮膚に大きく胸元の空いたカッターシャツ。タイトパンツにスニーカー。華奢な躰は中性的な印象を与える。厚い目元の化粧に真っ赤なリップ。一見すると人間に見えないでもないが、それがビーストと分かるに十分なのは、頭から伸びる二本の触覚だった。
「そりゃどうも。だが貴様ごときに名乗る名は持ち合わせてないんでね……。貴様、グリちゃんに何をした?」
「ナニって、ちょっと好みのタイプだったからチュってしただけよ?あまりに刺激的過ぎてアタシに痺れちゃったみたいだけど」
『そいつ』の歌舞いた言葉に、先ほどまでの雰囲気とは打って変わり、ハイラスは鋭い眼差しでビーストを睨みつけた。
「ちょっとぉ、そんな怖い顔して見つめないでよ。ホンキにしちゃうじゃない」
ビーストはそう言うと、わざとらしく大きな音を立てて舌を舐めづいた。
「ふざけるな!」
ハイラスの人差し指から閃光が放たれた。それはビーストに命中し、光の球は四散した。しかし、その爆発的なエネルギーとは裏腹にビーストはあっけらかんと微笑んでいる。
「ダメダメ。そんな力任せの責めじゃ、全然ダメ。例えばぁ、こういうのはどう?」
瞬間、ハイラスの背後から触角のようなものが床から伸び、ハイラスの口に巻き付いた!
「ぐああああああああああああ!!!」
声にならない叫びが響く。
「ああん、おいし」
またもやビーストは大きな音を立てて下舐めずりをした。その触角は十分にハイラスを堪能すると、再度床に溶けていった。
「大丈夫!?」
ハルカが倒れこんだ二人に駆け寄った。ハイラスもグリグス同様何とか呼吸をしている状態だ。『何が起きた?』理解する手立てもなく、ただ一行は八方に注意を注いだ。
「ほほ……これはひどいて……」
ホーキンスがハルカに続き、二人を診た。
「一種の毒じゃな。相手の体に流れるマナトムを毒の成分に変えたんじゃ。こりゃあマナトムが強いものほど苦しむ、ミラクルム使い殺しの劇毒……!」
ホーキンスの目は珍しくも、その毛むくじゃらからも窺える程に険しいものだった。その様子を演算したハルカは咄嗟の判断を下した。
「アクアン、お願いできる?」
「ええぇ?私こいつらあんまり好きじゃないんだけど……まあハルカのお願いならしょうがないわね」
アクアンがやれやれと首を振る。そしてハルカが叫んだ。
「アーニムルブレイブ!アクアン!シンクロナイゼーション!」
ハルカはアクアンとシンクロするや否や、両の手を二人の胸に構えた。するとその両手は水色の光に包まれ、二人の顔はみるみるうちに穏やかになっていった。
「ほほう、こりゃ見事じゃ!これが伝説のアーニムルの力か!」
「アクアンの力と私のミラクルムなら……なんとかできると思う。こっちは任せてカズトはあいつを!早くしないとまた犠牲者が出るわ!」
「あら。私のアモール・ヴェニノムを癒せるだなんて。アナタも味見してみたいわねぇ……」
このままでは全員やられる。こちら側の恐怖の緊迫に対して余裕のある全てを見透かしたかのような不気味さ。状況に対する知りえない最重要事項を秘匿され、常に先手を打たれるという事実から予測される最悪の未来に対し、少年は心を決めた。
「分かった!いくぜ、フレイヤ!」
「おう!任せな!」
カズトとフレイヤは目を合わせ、心を一つにした。
「アーニムルブレイブ!フレイヤ!シンクロナイゼーション!」
燃え滾る烈火の勇者がその姿を現した。
「あら、こんどはぼうやかしら?申し訳ないけど、アタシ子どもには興味ないのよね」
「そりゃあ好都合だぜ。俺もお前みたいなカマ野郎には興味ねえよ!」
強がりだ。手も足も出なかったグリグスが一瞬で倒された相手にカズトの不安は収まる筈もなかった。しかし、だからといって初めから威勢で押し負けるほどの脆弱性をカズトは有していなかった。そして少年のその一言にビーストは初めて余裕の表情を崩した。
「アンタ、子どもだからって手加減されるとでも思ってんの?躾のなってないぼうやには体で分からせるしかないわね!」
ビーストはゆっくりとした奇妙なモデル歩きでカズトに近づいた。歩きのような走りのようなその中間の速度で詰められる間合いは読みにくく、出どこの知れぬ不気味さがにじみ出ていた。
「お兄ちゃん気を付けて!あのビースト、自在に体の色彩を変えたり、触角を伸ばしたりできるんだと思う!」
「安心して。この子、あんまり美味しくなさそうだ・か・ら!」
言い終えるとビーストは猛ダッシュでカズトの懐に突っ込んできた。素早く繰り出される掌底を何とか躱し、後退する。
間髪入れずに追撃!軽やかに飛翔したビーストは空中に後退したカズトに右フック!
辛くも剣でガード!しかし、その拳は布石だった。まるで関節を有しないかのように、大きく垂直に振り上げた左脚をカズトの脳天に叩き落とす!
「ぐあああああっ!」
カズトは勢いよく地面に叩きつけられた。
すかさずビーストはカズトの背後に周り、目にも止まらぬ速さで両手両足の関節を締め上げた。
「がああああっ!」
「全部、折っちゃっていい?」
完全に固められた。メリメリとカズトの骨が軋む音が響き渡る。
「お兄ちゃん!!」
「ゴメンね、ぼうや。でもアナタのお兄ちゃん、悪い子だから。ちゃあんと躾けないとね」
「あああああああっ!」
これが同級生との喧嘩なら、勝負ありと誰かが止めに入るかもしれない。しかし、ここではそんなことは到底あり得ない。しかし、だからこそ少年の心は諦めるという選択を初めから度外にあった。諦めればみんなやられる。ケイトも、この世界さえも。負けるわけにはいかない。言葉以上のその重みを宿した決意はまだ少年の心にどんと構えられていた。関節を完全に極められながらも剣はまだ折られていない。握ったその剣から火柱が起こり、カズトとビーストが火炎に包まれた!
咄嗟にビーストはジャンプして火炎から逃れた。しかし服がプスプスと燻られている。
「ちょっと、これお気に入りなんだけど?サイテー」
炎が消えた後にはカズトが右腕をぷらんと垂らし、何とかそこに立っていた。ビーストは残念そうな顔で服の焦げた箇所を気にしている。
「お兄ちゃん、グリグスにやられた傷がまだ残ってるんだ。このままじゃ……」
このまま続ければカズトがやられる。すぐにでも支援が必須だと考えるケイトは無策だとは分かっていながらも現状維持としての弥縫策を荒げるしかなかった。
「まだ治療は終わらないの!?」
「だめじゃ!そもそもこの子らの魔力量じゃやつとの相性が悪すぎるて!あの少年がやられてしまっては全滅じゃて!何とか二人が回復するまで持たせんと!」
「そんなこと言ったって……このままじゃお兄ちゃんが……!」
ケイトは打ちひしがれ、ボロボロのカズトを振り向いた。近いようで遠い、勇者の背中をそこに見た。
「はっ、そういう頼みなら、もちっと踏ん張らねえとな」
『いけるか、フレイヤ?』心の中で相棒に語りかける。『あったりめえだろ?』それが強がりだということは互いに承知していた。しかし、無粋な言葉は交わすまでもない。
「うおおおおおおお!」
カズトは両手で剣を振り上げ、ビーストに向かった。
「あら、見直したわよぼうや。そういうのは嫌いじゃないわ!」
ビーストの鋭い体術がカズトを防戦一方に追いやる。全ての攻撃を禦ぎつつ、しかし十に一はクリティカルな一撃を受ける。そんな戦いがいつまで持つか、カズトの心理は既にそれを周知していたが、自身の役割をこそ、さらに理解していたのだ。
「このままじゃ……みんなやられちゃう……」
ケイトはこの最悪な状況において一筋の可能性を案じていた。チヒロを見つめる。チヒロはケイトの視線に気づいたものの、すぐに目線を下に逸らした。少女の小さな體は小刻みに震えていた。
「チヒロ……」
「いやっ!やめて!それ以上……言わないで……」
ケイトの続く言葉を、それをチヒロが遮る。
「私、怖いの……エナーハイの時だって……ネックフェックにだって……まともに相手したら適わなかった……!私があんなやつと戦うだなんて……できっこない!」
振り乱すチヒロのポケットから球体が零れ落ちた。
「結局私は何もできないんだ!お姉ちゃんの後ろで威勢を張ることしかできないんだ!こんな槍なんて、何の役にも立たない!」
チヒロはキッと背中の槍を勢いよく投げ捨て、体を丸め涙ながらに叫んだ。
かける言葉も見当たらないケイトに代わり、泣きじゃくる少女にかけられた次の言葉は、前置きの一言だけで少女の心をも揺らがす、強いものだった。
「チヒロ、よく聞きなさい。」
ハルカは手を休めることなく、背にいる妹に告げた。
「あなたは決して何もできなくなんかない。お姉ちゃんが保証する。あなたは決して役に立たなくなんかない。お姉ちゃんが保証する。あなたは私の誇り。私の誇りを……そう簡単に馬鹿にしないで!!」
「あなたがいるから王国が崩壊しても立ち上がれた。あなたがいるから私は泣き言を言わなかった。あなたがいるから私は前を向けるの。いつも言ってるじゃない。あなたは私なんかよりもずっと、ずっと強いんだって。」
振り向き、チヒロの目を見る。涙に溢れたその目は既にハルカを捉えていた。
「私にはあなたの力が必要よ。」
そう言ったハルカの表情はどんなものだっただろうか。雄々しい厳しさを含んだ険しいものだったろうか。嫋やかな優しさに溢れた、穏やかなものだったろうか。嘘偽りのないその言葉に、少女は何を思っただろうか。必要とされるならば応えたい。憧れの人と同じステージに立ちたい。いや、理由なんかどうだっていい。結果として少女は、たった一つの言葉によって、ただ怯えるばかりの薄弱な心を取り繕うことができた。一時的だっていい。ただ、今自分にしかできないのならば、お姉ちゃんに期待される私でいられるのなら!私はなんにでもなれる!
涙に塗れた顔を拭うことなく、チヒロは球体を拾い立ち上がった。正面に映る少年は絶体絶命のピンチに臆することなく、ビーストに立ち向かっている。
すーっ、ふーっと一つ、深呼吸をした。
「決めた。私はもう泣かない。私はお姉ちゃんの、みんなの力になる!」
球体を両手で持ち額に当て、願う。『お願い、私に力を貸して』
球体は次第にビリビリと電気を放ちだした。しかし不思議と痛みはない。どこからともなく確信が湧いてくる。
いける。あなたのその名は……!
「アーニムルブレイブ!ストルム!シンクロナイゼーション!」
チヒロは激しい電撃に包まれた。その光はまるでホワイトアウトのように眩しく、強く、辺りを照らし出した。迸る閃光が徐々に消えるそこには、勇者が立っていた。
短い黒のタンクトップに短いベスト。膝上の黒のスパッツに少しフリフリのついた黄色の短いスカート。肘まで伸びた手袋は黒く、投げ捨てた筈の木槍はその手に収まり、長さこそ変わらずとも、細く、しかしより強固ななものに変形していた。
「契約も無しにシンクロじゃと!?そんなことが可能じゃて!?」
『聞こえる?私はチヒロ。あなたの、パートナーよ』
『やーっと決心したかい!アタイうずうずして堪んないよ!チヒロ、アタイの力が必要なんだろ?いいよ、やったげるさ、自己紹介はまた後で。さあ、今はあいつをやっつけないとねぇ!いくよ!』
頭の中に声が響く。不思議。ずっと前から知っていたかのような感覚。まだ見ぬその姿もはっきりとイメージできる。強気な姉御肌の、キレイな羽根を持つ鳥のような子。
『お願い。ストルム!』
言うが早いか、電撃的な速さでチヒロはカズトとビーストの中に入り込んだ。それは文字通り一瞬の出来事だった。雷光。まさにそんなレベルの速度で移動をしたチヒロは、電気を帯びた槍でビーストを引っぱたいた!
「いったぁあああ!」
一歩引いたビーストは両手で頭を押さえた。
「チヒロ!?」
既に満身創痍。ボロボロになっていたカズトはぺたんと座り込んだ。
「待たせてゴメン。あとは私に任せて!」
目にも止まらぬ速さでビーストに槍を突き立てる!
「なっ!」
何とか躱すも服が破れ、肩に刃先が掠める!
「一体何なのよ……ケド!」
ビーストの触覚が伸び、チヒロの全身に絡みつく!
「これでオシマイ!」
「まずい!毒が!」
カズトが叫ぶ。しかしホーキンスが悠々と答える。
「うんにゃ、大丈夫じゃ」
勝利を確信したかのような不敵な笑みでチヒロを見つめるビースト。しかし、すぐにその表情は崩れた。
「ちょっと、何よこれ……そんなことってある!?」
「おあいにく様。私の体にマナトムなんて、これっぽっちも流れてないから!」
槍を伸びた触手に振り下ろす!
「ダイナミング・フルボルテックス!」
衝撃と共に目も眩むような電撃が走る!
「んんんんんんんんん!!」
堪らずビーストが触手を解き、退く。よろよろと揺らめき、笑んでいる。
「うふふ、痺れちゃうわね、アナタ。今日のところは一先ず退散してあげる。お化粧も落ちてきちゃったしね。アタシはマイマイ。覚えといてちょうだいね。次は容赦しないから」
そう言い残すとマイマイはまるで風景に溶けたかのように姿を眩ませた。
「やった……のかな?」
「周囲に姿を馴染ませて逃げおったか。まっこと不思議な生命体じゃて……」
ホーキンスのその言葉に安堵し、チヒロはシンクロを解いた。
すると、先ほど思い描いた通りのアーニムルの姿がそこにはあった。長く伸びた鼻先。もこもことした毛皮。短い髪にはバンダナが巻き付けてあるが、腕に付いた両翼に鉤爪は、確かにそれがアーニムルだということを認識させる。
「あなたがストロム?私チヒロ。よろしくね」
「確認するまでもないでしょ?アンタがアタシに触れた時からアタシは今か今かと待ってたんだ。でもアンタ、中々焦らしてくれたじゃないの」
ストロムは笑いながらそう言った。がさつといえばそれまでだが、ぶっきらぼうの中には、馴染みやすさも持ち備えた親しみやすさが含まれていた。
「そうね。マナトムを持たない私だけど、薄々は気づいていたのかもね。ストロムのこと。あと、アンタじゃなくてチヒロ。いい?」
人差し指を立て、まるで年下の子に注意するかのように言う。それを見てストロムはぷっと噴き出した。
「アハハ!チヒロのそういうとこに惚れたんだね、アタシは。どこまでも付いてくよ、チヒロ」
ストロムはチヒロの差し出した手に翼をもった手で応えた。華奢な、しかし剛毅な勇者の姿が、そこにはあった。
END