クルーシブル
ブレイブアーニムル5話 「クルーシブル」
庭園。あらゆる国の、あらゆる色とりどりの花が規則正しく植えられている。お姉ちゃんと私はそこによく遊びに行っていた。お姉ちゃんは花が好き。花を見るお姉ちゃんはまるで子どもで、『ねえねえチヒロ。このお花なんていうのかな?とってもキレイね!』だなんて、まるで私の方がお姉ちゃんみたい。城の花を植えるおばあさんは、お姉ちゃんが花を見て喜ぶ姿に喜んでいた。その気持ちはすっごく分かるんだ。だってお姉ちゃん、本当に目をキラキラさせて、こっちまで嬉しくなっちゃう。だから……私は……
「そうだね、きれいだね」
だなんて。花に興味なんてさらさら無いクセに、まるで自分もその場にいて当然かのように、振舞うんだ。だって、その姿を見て、おばあさんが言うんだもん。『お二人ともお花がお好きで私めは嬉しゅうございます。乙女たるもの、花鳥風月を愛でる情緒が大切ですのでね。』って。そんなこと言われたら、私はそうじゃないだなんて言い出せないじゃない。毎日毎日、ただのお姉ちゃんに付き添ってるだけだなんて、誰にも、言えるわけないじゃない。
夢を見たの。私が庭の花を、ぜんぶぜんぶ、蹴散らす夢。なんでそんなことしてるのかなんて分かんないけど、何だかとってもむしゃくしゃして、涙が出るくらい、何かにむしゃくしゃして仕方がなかった。そんな私を、お姉ちゃんが見てるの。無表情で、無言で、ただ立ち尽くして。それにお母さまもお父さまも武術の先生もみんなみんな私が花を蹴散らすのを周りで見てるんだ。それでも、止めない。止められない。なんで?なんで私こんなことしてるの?いやだ。お姉ちゃん、お姉ちゃんだけは……どうか……私から離れないで……お願いだから……お姉ちゃん!!
「……ヒロ、チヒロ!?大丈夫!?」
ベッドから飛び起きた。まだカーテンの向こうも暗い部屋の中に、ふかふかのベッドが気持ちの悪い汗を助長する。額を拭うとさらさらの汗が腕に纏わりついた。
「お姉ちゃん……?」
声が出にくい。私、泣いているんだ。とってもつらい、イヤな夢だった。
「随分うなされていたよ。ほら、おいで」
ハルカがタオルでチヒロの背中を拭く。
「汗で気持ち悪いでしょ?こっちで一緒に寝よっか」
チヒロは鼻を啜り、こくりと頷いた。
デザトニアン公国の宮殿のベッド。広い部屋に、私たちには充分大きすぎるセミダブルのベッドに二人並んだ。
「怖い夢でもみた?」
「……うん、もうあんまり覚えてないけど、とってもヤな夢だった」
「……大丈夫よ。チヒロは強い子なんだから。お姉ちゃんなんかよりもずっとね」
そう言ってお姉ちゃんはよしよしと私の頭を撫でてくれた。女の子にしては短い髪。首が隠れないくらいの長さに、先がくせっ毛で跳ねている私の髪を、優しく撫でてくれた。
そして、お姉ちゃんは何も言わずに私の手をそっと握ってくれた。だから私は、いつの間にかスヤスヤと眠りにつけたんだ。
Aパート
灼熱の太陽の下、一行はデザトニアン公国を後にした。彼らがこの国に来た時は、エヴィタナトゥラ王国が崩壊し、藁にもすがる思いで不安だらけだったが、この国の人たちに触れあったことでたくさんの仲間がいるのだという気持ちになれた。そして、ハルカのパートナーアーニムル、アクアンが旅の仲間として増えたこともこれからの行く先での戦力の増強にもなった。しかし、本来の目的である、この世界に何が起きているかを判明させることに関して言えば、大した情報は得られなかったというのが正直なところだ。新たなビースト、スーフォックを始めとする狐のようなビースト達はなぜ公国を支配したのだろうか。なぜアクアンを味方につけようとしていたのか。まだまだ分からないことは山積しているということをケイトを筆頭に、彼らは感じざるを得なかった。
「にしても、昨日は疲れたぜ~」
「あんなに遅くまで何してたの?ケイトと三人で戻ってきたときにはもう10時過ぎだったわよ?」
「いやあ、勇者と力比べがしたいって、みんな離してくれなくってさぁ、相撲やら腕相撲やら、何人も相手にしてたんだ」
「スモウ……っていうのはあなたたちの世界のものかしら。聞いたことないわね。」
「うーん、僕たちの世界の、僕たちの国の伝統なんだけど、世界中に知られているかっていうとどうだろうね」
「カズトと違ってケイトは全然元気そうね」
「まあね。僕はお兄ちゃんを応援していただけだから。力勝負よりも将棋とかチェス、トランプなんかの方が性に合ってるかな」
「チェスとトランプは分かるわ。でもショウギってのは初めて聞いたわね。これもケイトたちの国のものかしら?」
「そうだよ。やっぱりこっちの世界と僕たちの世界には共通したものも多いけど、お互い全然知らないようなことも結構あるんだね。ただ、それがどういった基準なのかはもっと例を見つけ出す必要があるかな……」
ケイトは独り言のように考え込みだした。どんな雑談であろうとケイトにかかれば全ては研究の対象となるのだ。
「そういうあなたたちだって昨晩はちゃんと眠れたのかしら?夜中に一度起きていたみたいだったけど?」
ハルカの側で一定の距離を決して乱すことなく歩を進めるアクアンの問いに、チヒロは少しドキッとした様子だ。
「ウフフ。ちゃあんとぐっすり眠れたわよ。一度目が覚めてからの方が気持ちよく眠れたくらい。ね、チヒロ?」
そんな妹を察してか、ハルカはチヒロに優しく目配せした。
「ま、まあね」
その焦りようは照れか羞恥か、どちらにしてもその反応が何か含みのあるものを感じさせるには充分だった。
「なんだぁ?またおねしょでもしたのかぁ?」
フレイヤが何の気なしに言う。言ってしまう。それを聞いて最も速くに反応したのは他でもないカズトだった。
「バカッ!お前殺されたいのか!?」
しかし、大熊と目が合ったかのごとく命の危険を感じるカズトをよそに、チヒロは顔は赤らめたままのものの、案外にもクールな反応を示した。
「はいはい、勝手に言ってなさい。ガキの相手なんかしてらんないわ。」
「また……って、何の話?」
しかし今度はハルカが天然ボケをかましてしまった。掘り下げる必要のない話題にも反応するその観察力は見事なものだが、今回においてはやはり天然という恐ろしさを披露してしまったのだった。
「もう!そんなの拾わなくていいから!」
笑っていいのか悪いのか。カズトとケイトはそんな顔をしている。あのカズトがそんな反応なのだ。昨日の牢屋の中、暗闇の中でカズトは余程の死ぬ思いをしたのだろう……
炎天下であることには変わりがなくとも、砂漠には気持ちのいい風が吹いていた。
× × ×
徐々に砂漠を抜けたところには、ぽつぽつと草原が芽吹き出していた。後方を見れば見渡す限りの砂漠。前方には背の低い草むらが広がる平地。行く先を遮る建造物などどこにも見当たらないところで、先頭を行くハルカが足を止めた。
「さあ、着いたわ。みんないい?私とチヒロ以外のみんなはここに来るのは初めてよね。ちょっと驚くかも知れないけど、平生を装って。絶対に怪しまれちゃダメ。いいわね?」
普段とは違い、ハルカの表情は少々の険しさを孕んでいた。先ほどまでの呑気な会話もあってか、その差異に得も言えぬ緊張が走ったところにカズトがその声色を汲んで訊ねた。
「一体何が起きるっていうんだ?」
「入国審査よ。でもなんてことないわ。悪党でもない限り、一般人には寛容なはず。……そろそろかしら……」
すると、突如目の前にどこからともなく機械のようなものが現れた。まるでドローンのような飛行物体がふわふわとこちら目掛けて飛んで来たかと思えば、彼らの目の高さで静止した。
「ビビッ、顔認証開始。ビビビッ、エヴィタナトゥラ王国、ハルカ様、チヒロ様。ようこそラシガム帝国へ。お入りください」
カメラのような機械はハルカとチヒロの顔を映し出し、合成したかのような平坦な声を発したかと思うと、次にその焦点はカズトたちを捉えた。
「ビビビッ、登録無し。ラシガム帝国へは初めてですね?出生地とお名前をどうぞ」
カズトはその無機質さに思わず不気味を感じたが、先のハルカの言葉を信じるしかない。一切の焦りを殺す努力に神経を投じた。
「俺はカズト。生まれは……日本って分かるかな。東京の三鷹ってとこなんだけど……」
「ビビビッ、ミタカ。カズト。登録完了。どうぞお入りください」
物怖じするカズトに対し、存外にもすんなりと入国審査は終わったようだ。しかしそれは寛容というよりも、寧ろ無関心と称するにふさわしかった。
「なんだ?これだけかぁ?俺っちフレイヤ!目覚めたのはハルカたちの城の中だな!」
「ビビビッ、エヴィタナトゥラ王国、フレイヤ。登録完了。どうぞお入りください」
無事に全員が入国審査を終えると、その機械のようなものはまたどこかへと飛んでいってしまった。
「ねえ、さっきのあれ、一体何のためにやってるの?入国審査にしてはあまりにてきとう過ぎない?日本の三鷹だなんて、絶対知らないでしょ?」
「そう……ね」
ハルカの返事はてきとう、というよりも、寧ろ脳内での勘案の末に絞り出された意図的な曖昧という雰囲気を帯びていた。それは、その様子にチヒロも無関心を装いながらもそれが糊塗されたものだと察されるほどには不完全な出来だった。
そして、一行は歩を止めることなく続けた。
「みんなそのまま聞いて。怪しい動きは一切しないで。自然に、ね。ここはラシガム帝国。魔術発祥の地として知られるこの国は、他国との国交や貿易などは殆ど行っていない完全に独立した国でね。表向きには古代魔術の研究が進められているのだけど……」
ハルカの口からはその続きはなかった。ケイトにとってそれはやはり十分に思案された言葉選びの様相を醸し出していると感じるには凡その確信を得たに等しかった。
「そうなんだ……でも、どうしてそんな国に来たの?」
「この国はね、この世界で最も権力と名声を持った国なの。だから、この国に助けを求めることができれば、あのビーストたちをどうにかすることができると思って。それに……」
ハルカが軽く振り向いてカズトとケイトを見た。その表情は極めて真面目だった。
「あなたたちがやってきた不思議な鏡のことも何か分かるかも知れないから」
× × ×
ラシガム帝国の街並みはまるで思い描いたファンタジーの世界そのものだった。大きな黒い帽子を目深にかぶり、服装すらも黒のオーバーコート。それに加えて怪しげな杖を持った者。カズトたちの世界で言う典型的な『魔法使い』の姿が、その街を行き交っていた。
「……すごい……まるで魔法の国だね……」
ケイトが驚くのも無理はない。これまでカズトやケイトが目にしてきた『ミラクルム』とは、これらのような仰々しいものではなく、それこそハルカの攻撃や、照明を点けたり消したりする程度の魔法だったのだから。
「この国も一見ビーストの脅威にはまだ曝されていないようだけど……デザトニアン公国の件があるわ。気を抜いちゃだめよ」
チヒロの注意喚起はしかして、この風景に一切溶け込まない背中の巨大な木槍をどうにかしてから言ってほしいものだとは誰もが思った。
「なあなあ、ハルカ。杖とかってやっぱミラクルムに関係すんの?ハルカも使えたりすんの?」
カズトが目を輝かせて問うた。無理もない。魔法と杖の相互補完のイメージは少年にとっては拭いきれない好奇の対象だった。
「そうね。杖自体というよりも、杖の先のところに石がはめ込まれているでしょう?あれはマナトムストーンって言ってね。マナトムを封じ込めることができるの。だから、出先でちょっとミラクルムが必要になった時にあの石から封じ込めたマナトムを使うことができるのよ」
「なるほど。でもそれって、別に杖じゃなくてもいいよね?例えばネックレスに加工したり、あの石をポケットの中に入れておくだけでもいいんじゃないの?」
質問したカズトの代わりに返答したのはケイトだった。カズトは質問したはいいものの、ハルカの返答にイマイチピンと来なかったようで、『へー』という気の抜けた相槌に瀕していた。
「それはね、うーん、何ていうか、伝統的なものなのよ。本当はもっと複雑な理由があるんだけどね」
ハルカの返答はまるでお茶を濁したような歯切れの悪いものだった。それを発したハルカの目もまたどこか泳いでいる。ケイトはそんなハルカの様子に勿論どこか変異を感じたものの、ある種のそれと断定できる程の何かしらを感じることはできなかったため、というよりは、だからこそ、察したかのようにてきとうな相槌を打ち、それ以上の追跡を自身にさせしむることは無かった。
伝統、伝統か。確かに言われてみれば石畳の路上に石造りの家屋。どこか西洋的な街並みを感じさせるこの国は、『全てが伝統に支配された国』なのかもしれない。だからこそのさっきのハルカの反応、か……
その程度の推理はケイトにとっては最早意識下にあっての事象ではなかった。推理過程における理論の接点を言語的なシニフィアンとして神経を介在することなく視覚的、形而上的な感覚そのものが推理結果という結論へ導く、それほどの能力を彼は実際に有しているのであった。
だとすれば、彼の出した結論は、無言。この国の『異常性』、そしてこの国がこの世界の権力の象徴だという『危険性』、そして論理的にその推理から導き出される、この国で起こりうる事柄。全てを鑑みても、この場でハルカに追加の問いを投げかけるのは悪手以外の何物でもない。てきとうな相槌こそが彼のできる最大限の自然なのであった。
Bパート
この国の一番の大通りを一通り歩き回った一行は、目に入ったカフェに入り、しばしの休憩を取ることにした。至って普通のカフェ。夜は酒場になるのだろうか、多くの酒樽が配置されている。木造でできたあらゆる家具が程よい異国感を醸し出していた。
「あ、そう言えばハルカとチヒロはさ、今回は変装してないんだな。それにフレイヤとアクアンも思いっきり普通に外出歩いてるけど大丈夫なのか?」
フレイヤと二人で巨大なパフェを食べながらカズトが問う。
「まあね。さっき説明した通り、ここラシガム帝国は全てのことを自国内で賄っているの。そもそもエヴィタナトゥラ王国との国交は全くないし、それは他の国も一緒。だから私たちのことを知っている人もいないわ。それに加えて、見たでしょ?この国の人たちは基本的に他人に一切興味を示さない。目深に被ったフードで何を見ていると思う?何も見てないのよ。この国の人はね。強いて言うなら足元かしら。躓いて転ばないようにね」
チヒロはそう答えた後、ホットカフェラテをぐっと飲んだ。ようだが、無言で『あつっ!』と言わんばかりにぴくっと体を細微にのけぞらせた。が、それを悟られまいと平然と振舞う姿は背伸びしたリスのようだ。
「俺っちもカズトの服の中入らなくていいし、最高だな~」
「んなにを~~。俺だってめちゃくちゃ重かったんだぞ!?」
「え、私もハルカの服の中入ってみたいわ」
アイスコーヒーを飲むアクアンも真顔で一言。
「まあまあ落ち着いてお兄ちゃん。それはそうと、今のチヒロの説明だと、この国に来たってことは、いいことばかりではなさそうだよね」
ケイトが片手でエスニックな紅茶を蒸らしながら言った。
「その通りよ。デザトニアン王国の時とは違って、皇帝に謁見するツテがないのよね。だからそこは考えなければいけない点ね」
ハルカは手に持ったホットコーヒーを皿に置いて答えた。
と、突如カフェの扉が荒々しい音を立てて開いた。そのあまりにも大袈裟な衝撃音に、一行はついその方面を振り向いた。
「なんだっ!?」
見るとそこには、通常の10倍もあろうサイズのカラスが店の看板を破壊し、店内で暴れていた。
「ビーストか!?」
「いくぜ、カズト!」
「おう!」
カズトが叫び、フレイヤに呼応する。
「アーニムルブレイブ!フレイヤ!シンクロナイゼーション!」
カズトとフレイヤはそのカラスを見るや否や、臨戦態勢に入った。炎に包まれた勇者がそこに現れた。
「ハルカ、私たちも行くかしら?」
「ええ、お願い!」
ハルカとアクアンもそれに続く。
「アーニムルブレイブ!アクアン!シンクロナイゼーション!」
ハルカとアクアン。カズトとフレイヤは二人で一つの存在となった。カズトが剣を振り上げ、カラスに向かう。
「うおおおっ!」
カズトが剣を振り下ろすと、カラスはいとも簡単に一刀両断。しかし、それは瞬く間に光の粒子となって消えた。
「あれ?」
あっけなく戦闘終了。と思いきや、巨大カラスは一匹ではなかった。無数のカラスが壊れた扉の穴からギャアギャアと喚き立て、突っ込んでくる。
そのうちの一匹がカズトのどてっ腹に突っ込み、不意を突かれたカズトは一直線に吹っ飛ばされた。
「いってぇ……何匹いるんだよこいつら……」
油断大敵。腰を落としたカズトに更なるカラスが突っ込んでくる!
「サンクトゥス・インキーナ!」
水をまとった無数の光の矢がカラスの大群に命中した!それは一匹一匹確実に余すことなく命中した。しかし敵の数はそれに収まらない。店の外には道路を埋め尽くさんばかりの黒が広がっていた
「へっ、まだいんのかよ!いくぜっ、フレイヤ!」
「アクアン、お願い!」
ビーストの襲撃?二人は前例からの推測による衝動で店の外に駆け出した。
「ケイト、私たちも行くわよ!」
チヒロとケイトも二人に続いて店の外に出た。
その瞬間だった。
「!?」
突如として無数にいたカラスは全て光の粒子となり姿を消した。
そして、店を出た右手には、一人の人間。その後ろには数十人の同じ格好をした人間が生前と立っていた。それは、カラスのような生物とは違った慄然さを放つ黒で埋め尽くされていた。
「全員行動を止めろ。特別高等公安省長のグリグスだ。少しでも命令に背いたものは神の御加護の下に裁きを下す」
凛とした雰囲気のその見た目は剃刀のように鋭い目つきだけが理由ではない。全身を黒いタイトなチェスターコートに身を包み、黒い学生帽のようなキャップと左肩には紋章。グリグスと名乗った男の後ろに控える数十人の人間も同じ装いをしている。
その突飛な、しかし権威的な発言に一行は直観的に絶望的な感覚に襲われた。公安?裁き?言葉の端々から滲み出る敵意は明らかにこちら側に、一方的に向けられていた。
「この建物に怪しい集団が潜伏しているとの通報が入った。4人組の未成年に2匹の人外。……貴様たちのことだな」
グリグスは明らかにカズトたちを目的にここへやって来たらしい。急な威圧に接した時、人は状況を理解する前にまず委縮してしまうものである。それは4人の少年少女にとっても例外ではなかった。グリグスは目深に被った学生帽から覗かせる右目で順に4人を睨んだ。
「な、なんだよおっさん」
突如、旋風が走った。十分な間合いはあった筈だ。しかしカズトがその言葉を発した瞬間、次の瞬きの後にはそいつがカズトの喉元を掴み、カズトの身は宙にぶら下がっていた。
「あっ……カハッ……!」
その拍子にシンクロ状態が解け、カズトは生身の体を曝け出した。黒い革の手袋の上からでも分かるほどの力で呼吸腔を塞がれているのか、カズトの目には自然に涙が流れ出ている。
「カズトっ!」
再び旋風。思わず叫んだフレイヤも瞬きの間には既にグリグスの左手の中にいた。喉ではなく顔面を鷲掴みにされ、指先に位置するこめかみからはメリメリという嫌な音が響いた。
「あああああっ!」
「動くなと言ったのが聞こえなかったか、人外。口を動かすな」
静かに、冷徹な言葉でグリグスは漸く両手を離した。
二人はあっけなく地べたに倒れこんだ。カズトの必死の呼吸音は異音そのものだった。ヒューヒューという音はその苦しさを代弁しており、フレイヤは頭を押さえ、痛みに藻掻いている。
そんな状況であってもその場にいる他の者は二人に声をかけることも駆け寄ることもできなかった。これは直観的ではない。純然なる事実として、ハルカ、チヒロ、ケイトは命の危機に晒されていることに慄いていた。
「そこなる未成年。貴様も武装を解除しろ。本日明朝、帝王が何者かによって毒を仕込まれ重篤な状況が続いている。身に覚えはないか。人外。必要な分だけ口を動かすことを許可する」
グリグスはそう言うと、シンクロを解除したアクアンを睨みつけた。
「あなた、もしかしてそれわたしに言ってる?ま、別にいいけど。身に覚えなんてないわ。わたしたちがこの国に入国した時間を調べてみなさいな。お昼はとっくに過ぎていたと思うけど」
アクアンは普段通りの口調で言い放った。この状況下において最も自己を保っていられるのは彼女ならではと評さざるを得ないだろう。
「必要以上に口を動かすな、人外。貴様も裁きを欲するか」
アクアンは『やれやれ』と言わんがごとく目を細めたが、それ以上のことを敢えてすることもなかった。
「目撃情報によると人ならざる生命体が近づいた直後に皇帝は御身を崩されたそうだ。そこなる人外二匹。それに加えて人外の所有者の未成年の身柄を拘束する。所有者は両手を挙げろ」
ハルカが手を挙げた途端、その両手首を繋ぐようにして木製の手錠が出現し、ハルカとアクアンを拘禁した。
「卿に着いてこい。逃走を試みたものは両の腱を切り落とす。……いつまで寝ている。さっさと立て」
その煽りにカズトとフレイヤは両手に力を込め、よろよろと立ち上がった。まだ二人とも息が上がっているが、その眼は決して屈服した歩兵のものではなかった。
グリグスたちはハルカとアクアン、カズトとフレイヤを連れ、去っていった。去り際にちらと振り向いてケイトとチヒロに言い放った言葉は、更なる恐怖を二人に残していった。『貴様らは疾くこの国から去るがいい。反旗を翻せば正当なる法の下、裁きを下す』
残された二人はしばらくの間、何も言葉にすることができなかった。チヒロは体を震わし、ただ青ざめている。
この騒動の間、このカフェには勿論店員や他の客もいた。しかし彼らはグリグスの出現からその仕打ちに至るまで、何の反応も示すことなく席に座っていたのだ。『他人に興味が無い』と言えど、この騒動があった後にも先にも一切の関心を示さない者たち。その存在自体も二人にとっては恐怖という感情を呼び起こす要素となった。
「……はいはい、そこの少年少女」
急な言葉がけに二人はついビクっと大きく体をのけ反らせて声の主に振り向いた。
「おおよ、すまんすまん、あんなことの後じゃ。驚かせてしまってごめんのぉ」
二人は怪々としてその声の主を見た。一際大きな黒い帽子。しかしその大きさとは不釣り合いなほど小柄な好々爺。大きな眼鏡に大きな髭。もはや髭で顔が埋め尽くされんばかりの毛むくじゃらな顔からはかろうじて口と鼻と目が認識できるレベルである。
「えと……おじいさん、誰……?」
恐る恐る応えるケイト。
「わたしは……まあ、通りすがりのジジイじゃて。うむ、ここでは少し込み入った話がしにくいよよ!わたしについてきてくれんかの?なあに、心配はいらん。さっきのような出来事があって間もないが、わたしは君たちの味方なのだよて?」
独特な口調に音の幅のある発音。まるで道化師のような存在に、彼らの抱いていた絶望感は自然と身を潜め、思わず気が緩んでしまう。
「み、味方だって言われても……さっきの見てたんでしょ!?あんなののすぐ後で私たち頭が混乱してて、どうすればいいのかなんて分かんないわよ!」
チヒロはまだ声が震えていた。しかしチヒロの言う通りだ。ケイトも突然の出来事に、どうアクションしたらいいか全く思考が追い付かない。
「そうりゃそうじゃて。でもな、ずっとここで怯えとんつもりかの?も一回言うぞよ?わたしは君たちの味方よってに。連れてかれたあの子たち助けんとの協力するんじゃて」
老人はコホンと一つ咳ばらいをして続けた。
「アーニムル、じゃろ?」
そう一言、ぽつりと言い残し、老人は踵を返して歩き出した。
二人には考える時間は残されていなかった。しかしその老人の最後に残した言葉が二人にとっては光明となった。その存在を理解している。今はそれだけで充分だ。例えそれが罠だったとしても、兎にも角にも彼についていくことを決めた。後になって考えてみれば、明らかにケイトにしてみれば軽率というより外ない行動だったかもしれない。しかし、その何重もの警戒を全てクリアするほどの純然たる信頼感が実際にその老人には含蓄されていたのであった。
× × ×
老人の後ろに着いていった二人は、住宅地の一角にある一見普通の、多少ボロはあるものの周囲の建物とは特に変化のない建物に入った。
玄関先からの眺めも至って普通。恐らく老人の居住地なのだろう。しかし、『どうぞ、おあがり。靴は履いたままでよいよ。』との言葉の次には、部屋の奥にある肖像画のようなタペストリーをめくり、明らかに意図的に隠された扉を開けた。
「さあ、着いておいで」
長く、狭い階段を下っていく。老人の進む足に合わせて左右に取り付けられたランプが点灯し、通り過ぎれば消える。一体自分はいくら歩を進めたのだろうか、その考えは数百歩を過ぎたあたりから既に損なわれていた。同じ光景を何度も進むうちに辿り着いたその先には、ただひたすらに広い空間が広がっていた。
「すごい……ここは……?」
「ようこそ、わたしのミラクルム研究室へ」
そこには無数の本や実験容器のようなものが部屋を埋め尽くしていた。
「おじいさん、あなた……何者なの……?」
その老人はどてっと椅子に座り、帽子を脱いだ。髭と髪の境目が分からないほどの、毛と表す以外に相応しい言葉がない、つまるところのもじゃもじゃの毛が露わになった。
「わたしの名はホーケンス。ミラクルムの研究をしておるよ」
「ねえ、さっきのグリグスってやつなんなの!?どうしてお姉ちゃんとカズトを攫っていったの!?それにアーニムルって、おじさんアーニムルのこと知ってるの!?」
「まあ落ち着いて、初めから説明しようじゃないの。まずお二人さんはこの国は初めてかの?」
「私は来たことあるけど……ちっちゃい時に一回だけだから、ほとんど何にも覚えてないわ」
「ふむ、そちの少年の方は何か感じたかな?この国について。」
「……率直に言って、かなり怪しいっていうのが最初の印象です。ハルカ……連れ去られた女の子がこの国のことを少し教えてくれたんですけど、それもなにかざっくばらんと言うか、歯切れの悪いというか……全体的にベールに包まれた何かがあるんじゃないかって、そんなイメージです」
「ほほ、中々に鋭い子じゃて。その通り。まずこの国はの、古代ミラクルム第一主義の理念の下に成り立っておるんじゃて。皇帝のペトは古くからの世襲でな。だからこそ古代ミラクルムを第一として、全ての国民にもそれを強制しておるんじゃて」
「古代魔術って……?」
「そこからか!いいか?ミラクルムは大きく分けて二つある。古代ミラクルムと近代ミラクルム。まあ、簡単に言うと前者は伝統に則った形式ばったミラクルム。だから杖や黒の衣服などといったものの使用を徹底的に守っておるんじゃて。後者の方はそのような規則はない、自由なミラクルムじゃて」
「種類の違いじゃなくって、見た目の違いなの?」
「見た目というよりは、価値観の違いじゃて。ミラクルムとは本来大気や体の中に潜むマナトムを用いて、何かの代償に別の物に変換するという規則を持っておるのじゃが、古代ミラクルムの考え方は違う。等価の物質からは等価の物しか生み出せんという今の常識に抗い、無から何かを生み出すことが可能だと信じておるのじゃて。それを実現するにはまずは見た目から。伝統的な作法に則ってミラクルムを行使する。そしてこの国ではその古代ミラクルムを侮辱したり、伝統に則らずにミラクルムを使用する者を異端として扱うんじゃて」
「そうか……だからハルカは街中ではあんまりこの国のことは説明したがらなかったんだ……僕らの中でハルカ以外にミラクルムを使うことはないし、その注意喚起をする必要もなかった。だからこそ安全策として言葉選びさえも慎重に慎重を重ねていたんだ」
「そのハルカちゃんとやらも賢い子じゃて。この国の街中は勿論、入国した時から監視と盗聴は当然のよ。そのマナトムを感じたんじゃろうて」
「それで?それがさっきのグリグスとどう関係あるっていうのよ?こんなこと言う出すくらいだから、この場所は安全なんだろうけど?」
「ふほっほっほ!そりゃあわたしより上手のミラクルム使いはこの世にはおらぬわな!透視やらのミラクルムをごまかすことなんぞわたしにはお茶の子さいさいなのよて。そしてお嬢さん、そこが問題じゃて。皇帝のペトが体を崩してから、グリグス率いる公安省が特別高等公安省と名前を変えて過激な取り締まりを行うようになったんじゃて。やつの思想は過激じゃ。ただでさえ古代ミラクルムへの崇拝が強いこの国にあって、この国で最もその思想に厳しいのがグリグスじゃて。そやつが皇帝のいぬ間にここぞとばかりに権力を振りかざして近代ミラクルムを弾圧しておるんじゃて」
「そんなこと言ったって、私たちミラクルムなんて何にも……もしかして……」
「そう、あの二人のアーニムル。古代ミラクルムでは使い魔は使用するものの、あのような不思議な存在は見たことがない。疑わしきは罰せよ、じゃて。更に悪いことに、皇帝に毒を盛った真犯人も人の様相ではなかったそうじゃ。疑われるのも無理はないのよて」
その言葉にチヒロは愕然とした。理解はできるが納得など到底できない。明らかな理不尽に重なる冤罪。たったそれだけのことでカズトとフレイヤは一方的な暴力を振るわれ、ハルカとアクアンと共に自由を奪われたのだという現実に、ただ理解が追い付かなかった。
「そんな……みんなは無事なの!?」
「ううむ、正直な話、わたしでもそれは分からんのよて。あのグリグスのことじゃ。皇帝がおらんで彼の独断となると、ふとした小さな違反が異端認定とされるかも知れんのじゃて」
その場の空気を独占する、不安。それ故に一同は静まり返る。
チヒロは、絶望した。
「……それでも、助けなきゃ」
ケイトがぽつりと呟いた。
「ホーキンスさん、何か策があるんでしょ?じゃなきゃわざわざ僕たちをこんなところまで連れてこないハズだよね?」
ホーキンスはまじまじとケイトを見る。毛から覗く目はまるでケイトを見透かすかのように。
「……わたしがきやつらの手先でないという保証はどこから?」
「……それは正直分からない。でも、皇帝を襲撃したのはたぶん、ビースト。たとえホーケンスさんがグリグスと繋がっていたとしても、僕らが皇帝襲撃と関係のないことを証明できれば疑いは晴れるかなって」
ケイトはこの状況においてまだ持ち前の慧眼は死んではいなかった。自信に満ちた、強い目をしていた。
「ほっほっほ、賢い子じゃ!そう、何を隠そうわたしの研究室にはこいつがおる!」
ホーキンスは指を鳴らした。すると三人の目の前の何もなかった空間に、突如像が現れた。
もう、分かる。同じだ。アーニムル。
「わたしは研究を重ねた。千年前に起きたこの世界の災いを救ったとされるアーニムル伝説。それは決して伝説ではない!少年少女たちがアーニムルと力を合わせて世界を救った!それは紛れもないこの世界の史実じゃ!」
ケイトは固唾を飲んで、それを見た。
「さあ、試してみるか?」
荘厳さを放つその像は、今はまだ静かに眠っていた。
その傍らで小さな少女は、ただうずくまっていた。
END