オルレアンの乙女
ブレイブアーニムル4話 「オルレアンの乙女」
冷たい感触。さっきまであんなに火照って体中が重かったけれど。
そうね、水中ってこんな感覚だわ。でも、人間は普通水に浮くようになっているもの。魚のように自由に水中にい続けることなんてできないけれど。
肺に水が溜まっているのかしら。だとしたらもう私の命も終わり?冷静にそんなことすら感じられる、不思議な空間。
そっと目を開ける。恐らく、いや確かに私は水中にいた。でもそれは水面が遥か彼方、深い深い海のさなかにいながらも、暖かな光が射す穏やかな海。
ひとつ、声が響いた。
「お目覚めのようね。そう。そう。あなたが私の供物かしら」
誰?水色の視界にはただ、どこまでも続くような海。自由に泳ぐ魚の群れも、漂う海藻すらもそこにはない。水色だけが支配する夢幻の空間。
「大丈夫。ここではあなただってちゃんと息もできるし、声を発することだってできるわ。さあ、水を恐れないで」
厳かな、けれど優しさのある、しかしやはりどこかつんけんしたような声。
「あ、あ」
声を出す。不思議。さっきまであんなにも辛く、やっとの思いで言葉を発することができたけれど。苦しみも痛みもない。
「あなたが……アクアン……?」
気泡が一つ、深淵より生まれ出た。
「うふふ、ご明察。水の守り神、アクアンとは私のことよ。ねえ、私あのビーストに言ったのよ。もっと美しい少女を連れてきなさいって。そしたらあなたがここに連れてこられたわけ。どう?私が憎いかしら?」
変わらず高飛車な口調で問いかける。ハルカはその問いに毫も表情を曇らせることなく、ゆっくりとかぶりを振った。
「私は誰も憎みません。私にマギアをかけたのはあなたではないし、あのビーストだって私にそうしなければならない事情があったのかもしれない。それがやむを得ないことならば、私に彼女を憎む権利なんてどこにもないから」
静かな海に気泡が生じる。コポ、コポ、と、僅かに。
「そう。例えビーストがあなたの大切な人を殺したとしても、あなたはビーストを憎むことは無いのかしら」
ハルカの返答に何の熟慮もなく、淡々とした口調で続ける。平坦に繰り出されるその問いに対しては、ハルカは幾らかの逡巡を甘んじるより外なかった。
「それは……分かりません。私はそんなに強くないから。でも、人は憎しみで悲しみを癒すことはできない。だから私は、誰をも憎しみたくはない」
ゴポゴポ、と、夥しい気泡が底から湧き出す。
「うふふ、理想論ね。人間はそこまで他人を信じることはできないわ。私の経験上ね。それだけは断言できる」
あざ笑うかのように巨大な気泡がボッ、ボッ、と、リズミカルに生じた。
「……でもね、たまにいるのよ。とんでもないお人よしが。そういう人間はね、大抵は周囲の凡夫に、衆愚に貶められる。その中でも特に秀でた人間だけがこう呼ばれるの。『女神』ってね。あなたがその信念を貫くならば、あなたはその存在になる覚悟がならなければいけない。違うくて?」
女神。人智人徳万象一切の理想を具現した、救済へと縋りつく先。現人神。それは形容の域を超えた、一切の願望を背に負った業、それそのものとしての呼称。
そっと目を閉じる。脳裏に浮かぶは数多の民草、気鋭の衛士。父君、母君の笑顔。
そして共に世界を救うと誓ったカズト、ケイト、フレイヤ……チヒロ。彼らを、チヒロを置いて私だけ先に果てるわけにはいけない……!
「願わくば、私はこの世界の憎しみを全て受け止め、愛を、暖かな恒久的平定を望みます。それが女神と呼ばれる存在にしか成しえないものならば、私はどんな憎しみにも立ち向かってみせます」
気泡は、もう出てこない。静かな海に響いた澄み渡る声。
「……その言葉に嘘偽りはないわね?」
念押しとは違う、威圧するかのような言葉。しかし臆することは微塵も無い。
「はい」
堂々と、胸を張って答えた。
「……いいわ。あなたに力を貸しましょう。ただしこれは契約。もしもあなたがこの誓いに離反することがあれば、わたしも同じことをするまで。その美しい命が澱んでしまう前に喰らってあげる!」
深い海の底から『何か』が来る。実体のない、しかし水圧がその存在を確かにする。龍のような様相をした『それ』は、ハルカの胸を貫いた。
「ああああっ!」
不思議と痛みはない。寧ろ溢れんばかりの力が漲ってくる。
「ああ、ついでにこのちゃちなマギアも解いてあげるわ。……さあ、望むのなら立ち向かいなさい。憎しみではなく、愛で!悪を淘汰なさい!」
Aパート
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!!」
ハルカが生贄として水球へと投げ入れられた後、チヒロはぺたんと座り込み、泣きながら姉の名を叫び続けていた。
「ハハッ!そんなにお姉ちゃんが恋しいのならアンタも飛び込んでみたらどう?」
ネックフェックが勝ち誇った顔で高笑いする。その一方でカズトとスーフォックは拮抗した戦いを繰り広げていた。カズトの剣をスーフォックがミラクルムで受け止める。スーフォックの蒼い炎をカズトが躱し、斬撃で応対する。しかしハルカが水球の中に投げ入れられた動揺は少なからずカズトの動きを鈍らせた。
「よくやったわネックフェック!さあさあどうしたの勇者様!?何かしてみせなさいな!」
後方にジャンプしたスーフォックが右腕を高く掲げ、短い呪文のような言葉を詠唱する。その瞬間、今までとは比べ物にならないほど巨大な蒼い炎が出現した。
「受けきれるかしら?カースド・ヒュージフラウマ!」
莫大な膨張をしてみせた炎はしかして全くの放出速度の衰えを許容しなかった。大砲のように巨大な炎がカズトに向けて一直線に放たれる。
その驚異的な速度にカズトは直観的に完全にそれを避けきることはできないと判断した。そうでないにしても、避けたとして第三の何かしらの被害が状況を不利にするのではないかというリスクを無意識にも感じた末の解は自身の犠牲を顧みなかった。そのエネルギーはカズトを圧倒した。
「カズト、こりゃさすがにちょいときついぜ……!」
「無理させてすまねえフレイヤ。……うああっ!」
エネルギーに対する抑制の力が起因した結果は、大爆発だった。ボカァンという爆音とともにカズトが吹っ飛ばされる。
「アッハハ!おしまいね。……さあ、そこのメスガキ。さっきのこと忘れてないでしょうね。よくもこの私の美しい体に傷をつけてくれたわね……ああ!?」
更に長い詠唱を唱えたスーフォックの背後に、紫色の禍々しい炎が出現する。
「苦しんで死になさい。カース・オブ・ウルペス!」
爛れた狐を模った炎がチヒロに向かう。自裁にチヒロが振り向いた時にはまだ避けられる余裕は充分あった筈だ。しかし光を失ったチヒロの目にはその認識をしてもなお全身を動かすことはなかった。
「チヒロぉ!避けろぉ!」
カズトの叫びにも応じない。ダメだ……あんなのくらったら絶対まともにいられねえ……!
パァン!と、何かが弾け飛んだ音が響いた。
紫電一閃。絶体絶命のその状況下において誰もが勝負あったと思った瞬間、スーフォックの放った紫の炎が光の矢を受け、強い閃光と共に消滅した。
「まさか……!」
矢の放たれた方向。そこにはハルカがマナトムでできた弓を構え、宙に浮いていた。ゆっくりと地に降りゆく様に誰もが羽衣を探すだろう。
傍らにはフレイヤと同じ程の丈の生物が腕を組んで立っている。偉そうなその目線は厭味ったらしいことは無く、寧ろ逆に可愛げさえも感じられる。水かきのような二足歩行に尾ヒレ。耳はエラのように後ろに大きく伸びている。髪のようなものは長く、いたずらっぽい目は若干つり目で瞳は赤い。きらりと鋭く光る八重歯は自慢のチャーミングポイントだろうか。
「水のアーニムル……アクアンっ!」
スーフォックが焦燥の声を上げる。
「よもや貴様が人間の手助けをするとは……!どういうことだ!」
その問いにアクアンがスーフォックを横目でちらりと見て笑む。
「あらごきげんよう、この間のビーストさん。申し訳ないけどわたし、美しくないものが大嫌いなの。あなたみたいなのは特にね。それに比べてこの子はどう?お姫様ってのをそのまま具現化したかのような美しさ!残念だけど、あなたなんかとは比べるのもおこがましいわね」
煽りの言葉もスーフォックの耳には入っていないようだ。髪を一心不乱に掻き毟り、ぶつぶつとなにかを呟いている。
「わたくしではなくあんなガキに力を貸すなんて……。わたくしが美しくない?ありえないありえないありえない……!あんなガキのほうが美しいですって?ふざけんじゃないわよ。ははっアーニムルごときの価値観なんてわたくしに通じるもんですか。ははっ、ははは……あああああああああああああ!!!!!」
乱心のスーフォックにネックフェックさえも驚いた様子なのをよそに、アクアンははあ、とひとつ溜め息をついた。
「見なさい、わたしの言葉一つであの様子。化けの皮が剥がれたってこういうことかしらね?さあ、ハルカ、とっととやっちゃいましょう」
こくりと頷き、絶唱する。
「アーニムルブレイブ!アクアン!シンクロナイゼーション!」
勢いよく噴射された幾つもの水柱がハルカを包み込んだ。それが一つ一つ引いた時、そこには女神が立っていた。
ノースリーブの白衣。腕、頭、左太もも、腰には金のアクセサリ。白いミニスカートは膝丈よりも短めだが、健康的な美脚は総体として美しさを醸し出している。耳には水晶を模したイヤリング。きらりと輝く光の反射はまるで後光のようだ。
その姿にその場にいた誰もが感じた。美しい。それはスーフォックさえも認めざるを得ない嫉妬するかのような華麗さ。誰もが認める清麗さ。
「お姉ちゃん……綺麗……」
絶望の淵にいたチヒロも、強く、そして美しい姉の姿に知らぬ間に言葉を漏らしていた。
「覚悟しなさい、スーフォック。あなたたちの悪行の数々、反省させてみせます!」
弓を構え、スーフォックに向ける。そこに出現したのは水を纏った光の矢だった。
「サンクトゥス・インキーナ!」
水をまとった矢はハルカ単体の時とは比べようもないほどの速度で渦を巻きスーフォックに放たれた。その速さにスーフォックは一歩も動けぬまま、矢は頬を掠め、長い髪を切断した。
「あ、あ、あああああ。くそったれがああ!はああああ!」
完全に正気を失いつつあるスーフォック。ミラクルムで周囲に壁を作りつつ、長い詠唱を始めた。それと同時に宮殿全体に地響きが起きる。
「な、なんだ!?」
そこにいた誰もがそれに怯えた。しかし、意外なことにそれはスーフォックでさえも同じだった。
「チッ、時間切れね……覚えておきなさい。貴様だけは必ず私が殺してあげるわ!」
「ス、スーフォック様!」
その地響きに我を忘れかけたスーフォックは、はたと冷静な自我を取り戻した。いったい何がそうさせたのか、ハルカたちは知る由もなかったが、スーフォックとネックフェックはあっけなく煙に巻いてその姿を消した。そうかと思うと地響きは次第に止み、そこには静けさだけが残った。
「……お姉ちゃん、お姉ちゃーーん!」
戦いの終幕。脅威の排除に成功したと、チヒロがハルカに駆け出す。今にもハルカに抱き着きそうな間合いに、ひらひらと一枚の葉っぱが落ちてきた。
瞬時、そこから煙が巻き上がり、新たなビーストが出現した!青天の霹靂にチヒロは恐怖を感じる暇さえ与えられなかった。ビーストがチヒロに爪を立てて襲い掛かる!……が、ハルカは既にそのビーストの真後ろに立ち、頭部に矢を構えていた。ビーストは動きを止め、漸く理解の追いついたチヒロがぺたんと後ろに腰を着いた。
「……気づいていたのか?」
ビーストがハルカを振り向くことなく問う。
「ええ。少なくともあと一人はビーストが潜んでいる。ずっと意識の中にあったわ」
見ればその糸目のビーストはハルカをこの宮殿まで抱えてきたビーストだった。
「……お見事。さて、圧倒的に貴殿が有利な状況だが……殺すか?」
この状況において極めて冷静に問いかける。
「ケイトと大公様、それにこの宮殿に囚われている人々全員の安全を保障して」
「……交換条件としては愚策だな。私一人の命に百の命を見逃せと……?しかし安心するがいい。スーフォック姉さまの帰還は既に宮殿内の姉妹には周知の事実。それに伴い姉妹全員既に宮殿内からは脱出している」
静かに、つらつらと答える。しかしハルカの目は緊張を解くことは無い。
「……そうね。宮殿内からはビーストのマナトムを感じないわ。ならばあなたも退きなさい」
糸目のビーストの目が僅かに動く。
「……そうか。温情感謝いたす。しかしその甘さはスーフォック姉さまには命取りになるぞ。私の名はナスナ。スーフォック9姉妹の4女。次に相まみえる時は首を刎ねた後かも知れんがな」
そう言い残し、煙と共にビーストは姿を消した。
少ししてハルカはやっとシンクロを解き、自らチヒロに駆け出し、強く抱きしめた。
「チヒロ。ありがとうね、わたしを助けに来てくれて……!」
目に涙を浮かべて強く、強く抱きしめた。既に涙を浮かべていたチヒロは堰を切ったかのように涙が溢れ出した。
「お姉ちゃん、死んじゃったかと思った……!お姉ちゃんが倒れてからずっと私、怖かった……!うわああああん!」
「ごめんね、心配かけたね。もう大丈夫だよ」
鼻水交じりに号泣するチヒロはハルカの胸の中で幼い子どものようになきじゃくった。
と、そこに足音と共に現れたのはケイトと大公だった。見れば廊下には他の牢屋にも閉じ込められていたのであろう、多くの人間の姿もあった。
「お兄ちゃん!」
「ケイト!」
カズトがシンクロを解き、兄の元へ駆け出すケイトを迎える。
「お兄ちゃん、ハルカは無事なの?」
「ああ、でも今はそっとしておいておこうぜ」
二人でハルカとチヒロを見遣る。ケイトはハルカとチヒロの姿を認めるとほっと一息安堵した。
「それにしてもあいつ、なかなか強敵だったな、カズト。それにさっきの揺れ……あいつが起こしたものじゃねえのか?すっげえマナトムを感じたぜ」
フレイヤが独り言のように放った一言に、水棲生物のようなアーニムル、アクアンが近づいた。
「あなたもアーニムルかしら。わたし、アクアンと申しましてよ」
軽く首を傾け、挨拶する。
「おう、俺っちはフレイヤ。よろしくな!」
フレイヤが手を差し出し、互いに握手を交わす。
「アーニムル、アクアン……って、ええ!?いったい何があったの!?」
さすがのケイトも事態を飲み込めず、当惑しているようだ。そこに大公が後ろから割って前に出た。アクアンの姿に感極まっている様子だ。
「おお、水の守り神アクアンよ。まさか現界しておられたとは……!わたしはこの国の大公、ヤリフ・ルーシャと申します」
「存じてましてよ。毎日わたしに祈りを捧げているじゃないの」
「その通りですな。守り神アクアンよ。早速で申し訳ないのですが、どうかこの国のオアシスに再び潤いをもたらしてはくれまいか」
大公の懇願にうーん、と考え込むアクアン。
「そうね……あのビーストに無理やり起こされた時はついカッとなっちゃってオアシスへの水の供給を止めたのだけれど……残念ね、その願いは聞けないわ。だって今の私はもうハルカのパートナー。彼女以外の願いは聞き入れられないわ」
大公の懇願に悪戯っぽくはにかむアクアン。しかし、わざとハルカに聞こえる様に彼女の名を口に出したアクアンが、こちらを向いたハルカに見せた笑顔は、主の指示を待つ子犬そのものだった。
「なんと……ハルカ様が……」
「パートナー……!?」
驚くケイトと大公。
「そうよ。美しい私にぴったりなパートナーでしょう?見なさいな、あの姿を。妹を慰めるその姿はまるで聖母!その姉妹愛のなんと美しいこと!」
一人で盛り上がるアクアンに、『はあ……』という相槌しか打てない男性陣にむすっとする。
「あー、ヤダヤダ!これだから男ってヤなのよ。泥臭くって適わないわ!ハルカ!」
飽き飽きした様子でハルカを呼ぶ。目を真っ赤にしたチヒロがハルカと共に歩いてくる。
「お呼びかしら、アクアン?」
にこりとアクアンに微笑みかける。それに呼応してアクアンもにっと八重歯を覗かせた。
「聞こえていたでしょう。わたしはもうあなたの命令しか受け入れないから。そのつもりでね」
「ウフフ、結構頑固さんなのね。いいわ、アクアン。砂に覆われたこの国に潤いを戻して!」
「お安い御用よ、ハルカ!」
アクアンが笑顔で応える。むむむっと少し念じたところで、地鳴りがする。
「な、なんだ??」
「見て!」
ケイトの呼びかけで窓の外を見る一行。どうしたことか、昨日砂に覆われたオアシスのあった場所から、天にも届く勢いで怒涛の水柱が上がっている。
その光景は全ての国民の目に映っていた。
大公が監禁され、宮殿が乗っ取られ、オアシスを干からびさせたビーストを少年少女たちが退治したということを知る者はいない。しかし、オアシスに潤いが再度もたらされたことに、街中の群衆が歓喜の声を上げていた。
水柱は遥か上空にまで湧き上がり、風に乗り、恵みの雨となって街に降り注いだ。
燃え盛る太陽の下降り注ぐ雨。それは気持ちのいい雨。雨が降る。ただそれだけのことに感じる幸せに、自然と笑みが零れる。
こうして、たった二日の間に砂面下に忍んでいた脅威は、勇者様と一国のお姫様、そしてそのパートナーアーニムルによって取り除かれたのであった。
「さあ、今日は宴じゃ!準備にかかるぞ皆の者!」
大公の掛け声に、廊下に待機していた者たちが雄叫びを上げた。
戦いが、終わったのだ。
Bパート
宮殿の敷地内にある大きな庭園。三日月の光の下に集まったのは幾百の国民たち。庭園の中心ではキャンプファイヤーが行われていた。産まれた時からこの国にいる者。行商の道程で偶然立ち寄った者。つい先日赤子を授かった者。酩酊して仲間と唄い、踊るもの。様々な人々が所狭しと賑わい、楽しんでいた。この光景だけを切り取るとしたなら、きっとカズトたちの世界とは何の差異もないことなのだろう。
つい先ほど大公が国中に発した伝令で、これだけの人数が集まったことに、宮殿内のバルコニーから祭囃子を見下ろす一行は驚きを隠せなかった。
「すっげええええ。この国のやつら全員集まってんじゃねえのか!?」
「うふふ、そうかもね。何と言ってもデザトニアン公国の人々は大のお祭り好き。年中お天道様の下で生きるこの国の人たちはみんな元気なのよ」
「それにしても、大公様がこの宴の開催を全国民に伝えたのはお昼過ぎくらいだったよ?なのにみんなずっと前から準備してたみたいに出店まで構えちゃって。すごい行動力だよね……」
「ま、それもそうかもね。お祭り好きに行商人で栄えた国だもん。みんな生まれつきのデザトニアン商魂が根付いてるのよ。稼げる時に稼ぐ。それがデザトニアン商人なのよ」
バルコニーで優雅に果実のジュースを嗜むハルカとチヒロ、アクアンをよそに、カズトとケイトは共に眼下に広がる無数の人々を見下ろしていた。
「なあ、フレイヤも見てみろよ、すっげえ人の数だぜ!」
カズトが振り向けば、一心不乱に食べ物に齧り付く肉食獣がそこにいた。フレイヤは一つのテーブルをまるっきり占領し、次々と運ばれてくる料理をただひたすらに頬張っていた。
「おう、カズト!そんなことよりこの料理うんめえぞ!こっちに来て一緒に食おうぜ!」
フレイヤはカズトの方を見る余裕も持たず、わんこ肉とでもいうべきか、ざっと十人前ほどの大皿が無数に積み上げられていた。
「おお!俺も食う!ケイトも行こうぜ!」
「うん!」
ケイトはカズトの呼び声に一瞬の迷いもなく兄に続いた。
「ケイトって大人なのかガキなのか……。ほんとわかんないわよねえ」
ビーチチェアに腰掛け、優雅に夏の夜を楽しみながらその光景を見ていたチヒロがぼやいた。
「あら、そういうチヒロだってお姉ちゃんの前じゃあ甘えんぼうさんじゃない」
アクアンがにやにやとからかう様に言った。ちゅるるとジュースに口を付ける。
「なっ、別に甘えてなんかないし!姉妹仲良いのは当然でしょ!?」
おしゃれに飾った髪飾りを振り乱して動揺するチヒロ。ぷいっと横を向き、ちゅうっと一気にストローを吸う。
「え~、チヒロだってもっと私に甘えてくれてもいいのよ?うふふ」
「もう、お姉ちゃんまで~!」
いたずらっぽく妹に微笑むハルカ。チヒロのリアクションに笑いが起こる。
バタンとバルコニーへの扉が開き、大公が入ってきた。その姿は先ほどまでの簡易の服装とは異なり、厳かで格式高い、赤を基調とした煌びやかな服飾であった。
「諸君たち、宴は楽しんでおられるかな?」
「おっ、ふぁいふぉうふぁふ。(おっ、大公じゃん)」
「ふぁふぉふぃんふぇふぁーふ!(楽しんでまーす!)」
次々と運ばれる料理に手と口を休めることなくカズトとケイトが問う。
「何を言っておるかは分からんが楽しんでおるようじゃな」
こほんと一つ咳払いをした大公は、バルコニーの手すり際立ち、口元に指で作った輪っかを備えた大公の声は、まるで拡声器を通したように大きな声で民衆に語り掛けた。これもミラクルムの一種だろうか。
「皆の者、今日は突然の招集にも関わらずよくぞ集まってくれた!宴を開いたのは他でもない。皆のあずかり知らぬところで悪漢がこの国に危機をもたらしておったのじゃ。街で化け物が暴れていたのを目にした者もいるだろう。かく言うわたしも化け物に身柄を拘束されておった。しかし、その巨悪に臆することなく立ち向かった勇敢なる勇者殿。それがこの少年、カズト!そしてそのパートナー、フレイヤ!」
いつの間にかお付きの者に椅子ごと担がれ、左手に皿、右手にフォーク、口いっぱいに食べものを含んだカズトが高く掲げられていた。
「ふぉっふぉあふぇ!おひふ!おひふ!!(ちょっと待て!落ちる!落ちる!)」
持ち上げられた椅子はバルコニーの手すりの高さを優に超えている。少しでも角度がつけば真っ逆さまに地面に叩きつけられる。しかしフレイヤの方はそんなこともお構いなしにひたすらに口を動かしている。最早自分が持ち上げられていることすら気づいていないのではないだろうか。
「ちょっと、フレイヤは人前に出さない方が……!」
しかしチヒロの心配はしかし杞憂だった。盛り上がった国民たちは突然の大公の演説にも耳を傾け、カズトとフレイヤの登場に雄叫びを上げた。
「カズトぉ!やるじゃねえか!あんな化け物に立ち向かうなんてよ!」
「フレイヤって今朝街を走ってたあの恐竜みてえなやつか?すげえすげえ!」
チヒロは思わず上げた腰をゆっくりと降ろした。
「どうやらデザトニアンの人はこのくらいじゃ驚かせないみたいね」
ふふっとハルカが微笑む。チヒロもほっと胸をなでおろした。
「続いて勇者一行のブレーン。その聡明なる判断力と知識あってこその快進撃。博識少年、ケイト!」
と、次に呼ばれることを予想してか、ケイトはしっかりと口周りを拭き、自分の足でバルコニーの先に立ち、国民に手を振って応えた。
「さすがケイト。抜かりないわね……」
そして国王が少女たちに振り向いた。
「そして皆の者にとっては衝撃だろう。此度の勇者殿はあと二人残っておる。それも皆の良く知る眉目秀麗、時代の寵児。エヴィタナトゥラ王国の皇女、ハルカ様にチヒロ様!」
その名前が呼ばれ、二人がバルコニーから顔を出した時、まるで山をも動かすかのような歓声が上がった。
「ハルカ様とチヒロ様がこの国を救っただって!?」
「あんなに小さかったお二人がそんな!いったいどうやって!?」
その歓声はとどまることを知らなかった。しかし、それを止めたのは他でもない、あの水のビースト、アクアンだった。
「静かになさい、民衆たち。ハルカは私のパートナーとなって恐ろしいビーストを退治したのよ。さあ、わたしとハルカをもっと讃えなさい!私の名はアクアン。あなたたちが崇める水の守り神、アクアンよ!!」
欄干に立ち、大公の声に負けず劣らずの大声で演説するアクアンにこれまた歓声沸く。
アクアンの登場に国民たちが静まることは無かった。その歓声に酔いしれたアクアンは恍惚の表情を浮かべ、ハルカに『褒めて褒めて』といわんばかりの視線を送るのだった。
しかし更にそのポジションを取ったのは美しい女性だった。ライトブルーの透き通ったロングドレス。シルクでできた生地は気持ちの良い夜風になびき、その美しさを際立たせている。
「皆の者よ、お聞きください。ハルカ様とチヒロ様は武を以って自ら悪に対峙なされた。これはどういうことか。お二人がそうでもしなければいけない事態に世界は急変しつつあるのです。今この世界で何が起こっているのか。私たちは明日にでも国を滅ぼされてもおかしくはない状況下に立たされている。それを皆の者にも理解しておいてほしい。しかし今夜ばかりは勇気ある4人の勇者と2人のアーニムルに喝采を!喜びに満ちた宴を!」
その女性は歓声に沸く大衆を横目にハルカとチヒロにウインクした。
「ヘラ様!」
「お久しぶりね、ハルカちゃん、チヒロちゃん。それにアクアン。初めまして。デザトニアン公国大公婦人、ヘラ・シェザードと申します」
「アクアンよ。あなたも……うん、美しいわね!」
ハグを交わす女性陣。そして、
「ご挨拶遅れて申し訳ありません。この度は何とお礼を申し上げたらいいのか……本当にありがとうございました。勇者様方」
その女性はカズト、ケイト、フレイヤに深々とお辞儀した。
「いやあ、それほどでも。でもま、今回の勝利はハルカの活躍があってこそ。俺はなにもしてないよ」
カズトが照れ臭そうにしているそこに、広場から声がかかった。
「おーい、勇者様たちよ!こっちに降りて来いよ!」
民衆からの呼び声。カズトはそれにわくわくしながら応じた。
「おっしゃ、行こうぜケイト、フレイヤ!」
「うん!」
「おうよ!」
花より団子。団子も済めばお祭り騒ぎ。天真爛漫な少年たちは、まだ食事をしているフレイヤを抱きかかえ、三人は食後にもかかわらず、ダッシュで階段を駆け下りていった。
嵐のような喧しさは進路を下方へと目指していった。残った静けさにヘラが振り向き、ハルカとチヒロに顔を向けた。
「……エヴィタナトゥラ王国でいったい何があったのかしら」
傷口に触れまいか、ずばり確信を突きつつ、しかし丁寧な口調で問いかける。
「……王国はビーストに襲われ、たった半日で壊滅しました」
ゆっくりと話すハルカ。
それに目を見開く婦人と大公。
「じゃあ、国民たち、それに王様、妃さまは……?」
首を横に振るハルカ。
「分かりません。ビーストが言うには数人はもう……。でもこの世界で何が起こっているのか。それを明らかにすることが先決だと、そう思い立ってこの国にやってきました」
堂々としたその言葉に、ハルカの目から視線を逸らすことができない。
「この国でも悪事をはたらいていたビースト。この存在が人間の敵であることは間違いないと思います。信じられないけど、人の言葉を話す異形の存在。人間を怨んでいるのか、裏にビーストを纏める大ボスがいるのかは分からないけれど、他の国も心配です……」
「千年前の災厄がまた訪れようとしているのかもしれんな……」
そっと大公が呟いた。
「ま、私たちアーニムルがまた目覚めているってことはそういうことなのかも知れないわね。残念ながら千年前のことはもう覚えてないけれど、私たちが遥か昔にも人間に力を貸して戦っていたということだけははっきりと覚えているもの」
「それ、フレイヤも似たようなこと言ってたわ」
「だとしたら……鏡の向こうから来たケイト、それにチヒロだって、もしかしたらアーニムルと共に戦う日がやってくるのかもしれないわね」
姉のその言葉にチヒロは思わずアクアンを見つめた。そしてアーニムルとシンクロしたカズト、ハルカの姿を思い返した。
「私が……アーニムルと……」
そっと目を閉じ、勢いよく顔を上げた。
「私も戦いたい。今日だって、まともに戦ったらビースト相手には歯が立たないって分かった。私も世界を救いたい。ううん、救うんだ。もうこれ以上の犠牲を出さないためにも……」
ふふん、とアクアンが口を開いた。
「ま、あなたにもきっとお似合いのアーニムルが現れるわよ。美しい私に美しいハルカみたいなね。あなただってハルカの妹なだけあって、そこそこ美しくってよ?」
チヒロは目を細め、にししっと笑った。
「どうもありがと」
平和な国に忍び寄っていた影。それは他の国にだってあってもおかしくはない筈だ。行く先の見えない未来に立ち向かうことに一縷の不安を抱きつつも、怖くたって前に進むしかない。だって私たちはもう、世界を救うと決めたのだから。
眼下を見下ろすと、笑顔の民衆。その中にカズトたちの姿を見つけた。
背丈の同じ程の少年と、円状のフィールの内で押し合っている。どうやら先に倒れるか円の外に出るかした方が負けの、向こうの世界の力比べだろうか。ほんっと男子ってバカなんだから。
落ち込んでばっかりいられないもんね。いつか私もちゃんと力になるから。
「あっ、そうだ」
思い出したかのようにハルカが言う。
「どうしたの?お姉ちゃん?」
「そう言えば私たち……」
チヒロにごにょごにょと耳打ちするハルカ。
と、チヒロはみるみる内に顔を赤らめだした。
「え?あ、まあ、お、お姉ちゃんがそう言うなら、い、いいい、いいけど?」
「やった!」
無垢な少女のようにハルカはぴょんと手を合わせ、るんとした。
「お風呂、借りますね。さ、アクアンも行こ!」
「わたしは水浴びで結構よ。それに、秘密の花園を冒す趣味は無くってよ。お二人で行ってきなさいな」
「あら……。じゃあ、行こ、チヒロ!」
そう言ってハルカはチヒロの手を取って宮殿内に戻っていった。
チヒロはハルカに引かれるその手を見つめ、にこりと笑った。
「ああ、一挙手一投足もが美しいのね……でも現実は理想よりも儚いもの。知ってしまえば積み上げたロマネスクも粉々に砕けてしまう……ああ、禁じられた甘い二律背反……なんて無慈悲なのかしら!」
アクアンは一人ロマンチズムに浸っているのであった。
× × ×
デザトニアン公国の遥か遠く。砂漠に生えた一本の枯れ木の上から宮殿を見つめる者がいた。
黒いマントに身を包み、宴を見る目は何を思うのか。影は無表情に、音もなく闇夜に姿を消した。
END